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少女ネルと夕暮れの聖女  作者: 佐倉アヤキ
1章 インテレディアの宿屋の娘
6/37

 最初、彼がクレッセだと、ネルには分からなかった。


 なにせその少年はほんの10歳かそこらに見えるくらい幼くて、別れたときからほんのひとかけらも成長していないかのようだった。それなのに、薄闇の中でギラギラと輝く琥珀色の瞳は、泥だまりを溜め込んだみたいに陰鬱だ。おまけに、異様な姿はそれだけではなかった。彼の白い寝巻きの袖から伸びた小さな右のほうの手だけ、絵の具かなにかを塗りたくったのか真紅に染まっていた。


 レフィルの称した「病気」という言葉も、ラファが形容した「呪い」という言葉も偽りではなくて、しかしそんな言葉では言い表せない重苦しい異質さがその部屋にはあった。


 脚がすくんでしまいそうだったけれど、それでもそこにいたのはクレッセだと思ったから、ネルはようやく口を開くことができた。

「く…クレッセ、なの…?」

少年はまじまじとネルとデクレを見て、それから目を輝かせる、そぶりをした。無邪気に、()()()と笑みを浮かべて、頬を薔薇色に染めた。

「ネル、デクレ、来てくれたんだ!」

声変わり前の高くて、でも優しげな声は、記憶にあるクレッセと寸分変わらないのに、まるでぜんぜん違う誰かが話してるみたいだとネルは思った。

 クレッセはネルとデクレに駆け寄って、ふたりの手を取った。彼の真っ赤な右手がネルの指に触れた瞬間、気味の悪いぞわりとした感触が駆け抜けた。

「会いたかった、会いたかったんだあ、元気だった?ネルもデクレも、二人だとよく喧嘩をしていたから、僕がいなくてだいじょうぶかなって心配してたんだよ」

「クレッセ…クレッセなんだろ、どうしてこんな…」

デクレが双子の片割れの手を握り返すと、クレッセはにこにこ笑った。にこにこ、笑って、次の瞬間、ギョロリと目を見開いてデクレを見上げる。

「どうしてこんな、幼い姿のままなのかって?」

デクレもネルも息を呑んだ。クレッセはどこにそんな力があるのか、ギリギリと痛いくらい二人の手を握りしめた。

「い…いたいっ、痛いよ、クレッセ!」

「ああ…いいなあ、デクレはそんなに背が伸びて、ネルも大人っぽくなったね…僕はずっと小さいまま、みにくいままで…嫌になるなあ…」

「クレッセが醜いわけないだろ!どうしちゃったんだよ、おまえ!」

「どうしたもこうしたもないよ。僕が辛い思いをしているときに、君たちは幸せに暮らしてたんだろ。あのとき、ネルが助けたのはデクレだけだったもんね、デクレはエルミさんから隠して、僕を助けるのは諦めちゃったんだ」

「ち…違う、違うよ、クレッセ…」


 違わなかった。ネルはあのとき神護隊に石を投げたけれど、エルミに見下ろされただけで怖くて心が折れてしまった。それ以上立ち向かう勇気が足りなかったのだ。

 クレッセはいつだって優しくて、デクレとネルが喧嘩になると困ったように間に入ってくれた。怒ってるところなんて見たことがなかった。ユールおじさんを尊敬していて、将来はいっぱい勉強しておじさんを助けるのだと笑っていた。

 わたしがあのとき、クレッセを助けられなかったせいで、クレッセはこうなってしまったのだろうか。インテレディアでのうのうと暮らしている間に、彼はどれだけ苦しい思いをしたんだろうか…クレッセの真っ黒な空気に飲み込まれそうになったその時、我に返らせるように背後からネルとデクレの肩が叩かれた。


 見上げると、ラファがこの雰囲気には似つかわしくないくらい柔らかいな表情でクレッセを見下ろしていた。彼はさりげなくネルとデクレを後ろに押しやってクレッセの手を外すと、クレッセと視線を合わせるように膝をついた。

「君、だれ?」

「こんにちは、俺はラファ。お前と話をしに来たんだよ」

「君と話すことなんてなにもないよ」

クレッセの興味がラファに移ったところで、ネルとデクレはそっと部屋から連れ出された。二人を廊下に出すと、ラファとクレッセを残してエルミが静かに扉を閉める。


 窓のからさんさんと光が差し込んで、どこからか鳥の鳴き声が聞こえてくる。穏やかな朝の世界に戻ってきて、ネルはいつの間にか止めていた息を吐いた。無意識にデクレの手を取ると、クレッセの柔らかい子供の手とはちがう、少し荒れた堅い男の子の手だ。いつもの慣れ親しんだ感触に触れて、ネルの目からぼたぼた涙がこぼれ出た。

 デクレも空いた片手でネルの髪を撫でながら、やがてポツリと呟いた。

「あれは、なんなんだ。クレッセはどうなってるんだ」

ただの病気ではなかった。ラファは世界のすべてに絶望する呪いだと言っていた。けれど、どんな昔話に出てくる呪いより、クレッセのそれは恐ろしかった。


 廊下の壁に背中を預けていたレフィルは佇まいを直して、ようやく、真実を語りはじめた。

「クレッセは選ばれたんだよ。9番、世界を滅ぼす意思の手を取ったんだ」

「きゅうばん」

おうむ返しにネルが繰り返すと、エルミがうなずいた。

「赤の巫子の物語を知っていますか?世界を救う九人の選ばれし者が、世界を滅ぼす者を倒す話です」

「正確には、巫子は全部で十人いるんだ。まず世界を滅ぼすひとりが選ばれる。そして、それを止めるための残り九人が集まったとき、そのひとりを滅ぼすことで世界が存続していく。

 最初に選ばれる破滅の巫子が9番。つまり、クレッセなんだよ」


 ネルはクレッセの右手が、血のように赤く染まっているのを思い出した。最初は絵の具がついているのだと思ったけれど、触れられてもそこにあるのはただの肌で、それなのに背筋が凍るほどの嫌な感じがした。

「でも、巫子の話はただのおとぎ話だろ。あんな荒唐無稽な話、本当のわけない」

「残念だけど、巫子は実在する。これまでに何人もの9番が現れて、そのたびに世界は存亡の危機にさらされてきた。人々が知らないだけで、おとぎ話は現実に在るんだ」

「9番は、ほかの九人の巫子が殺すほかに滅ぼす手段がありません。老衰も怪我も病も、9番はなにひとつ受け付けない、そういう存在なのです。クレッセは選ばれたその日から、ずっとあの姿から成長しないのですよ」


 殺すという言葉が簡単にエルミの口から飛び出して、ネルは支えがほしくて思わずデクレにしがみついた。

「…クレッセは、悪いひとになっちゃったの?」

彼のよどんだ目は悪意の塊だった。思い出すだけで震えが止まらなくなる。

「悪いことをするから、みんなに倒されちゃうの?あ、あの時、わたしが助けてあげられなかったから?」

「…そんなわけないだろ!」

デクレは憤慨した様子で怒鳴った。

「クレッセが本当にそういう存在になったんだとしたら、それはおまえらが無理矢理クレッセをここに連れてきたからじゃないのか!あいつになにをしたんだ、あんなこと言うやつじゃなかったのに!」


 エルミとレフィルは、デクレの怒りなんてちっとも堪えた様子はなかった。そればかりか、デクレの追求なんて子供の癇癪だとでも言いたげに、なだめるようにほほえみなんて浮かべている。

「確かに、クレッセの絶望は私たちが作ったものかもしれませんね」

それでも、と続けて、エルミは冷徹に言い放った。

「私たちは誰が絶望しようと任務を果たす役目があります。そして、クレッセが9番に選ばれた以上、世界を守る必要も。そのために私はラファを呼び、レフィルはあなたがたを招いたのです」

「…ネルがクレッセを救うって言ったな、おまえ。あれはどういうことだよ」

 レフィルは大仰に腕を広げて見せた。今のネルには、クレッセなんかよりもずっと、レフィルやエルミのほうがネルたちの世界を滅ぼす悪党に見えた。

「9番と関わりの深い者は、残りの巫子に選ばれやすい。ネル、それにデクレ。君たちは巫子の最有力候補なんだ。クレッセを止める資格を持つ者は、君たちを置いてほかにいないのさ」


 その時、閉ざされた扉が開いて、ラファが出てきた。何があったのか、いくつか顔に切り傷ができて、あちこち服に穴が開いていた。エルミが即座に尋ねた。

「どうでしたか?」

「とりあえず一旦の症状は抑えた。けど、俺の魔法でもいつまで保つかは約束できない。とにかくコイツは連れ帰らせてくれ」

「それは無理だよ、彼は“神の子”の血を受け継ぐ者だ。神都には行かせられない」

ラファは舌打ちした。それから、部屋の中を振り返って、縮こまっていたクレッセの背中を押して呼び寄せる。


「今は記憶が混濁してるけど、たぶんお前らの知ってるクレッセに戻ったと思う。…クレッセ、デクレとネルだよ。お前の弟と友達なんだろ?」

クレッセの瞳は、先ほどの暗さはなりをひそめて、廊下のまぶしさにぱちぱちしながらもキラキラしていた。赤い右手はラファの服の裾をつかんで、キョトンとしながらネルたちを見上げてくる。

「ネルとデクレ?そんなわけないよ、だってネルもデクレもこんなに大人じゃないもの」


 それは、かつてのクレッセと同じ柔らかくて優しい、思いやりに満ちた声音だった。さっきからとめどなく涙が流れているネルに、クレッセは心配そうに言った。

「お姉さん、だいじょうぶ?どこか痛いの?僕の幼なじみのネルもね、よく転んで泣いちゃうんだよ。デクレは僕の弟でね、ネルにいじわるばっかり言うけどすなおじゃないんだ。

 ここはどこなのかなあ、ネルとデクレも一緒なの?あのふたり、すぐにケンカするから、僕がちゃんと見ててあげないといけないのに」

 ネルはわんわん泣きながら、クレッセに抱きついた。頭の中がいろんな情報でぐるぐる回って、もうなにも考えられなくなってしまった。



 神護隊本部にあてがわれた客室で、泣き疲れて眠ってしまったネルの髪を手で梳きながら、デクレは物思いにふけっていた。あれからネルは手のつけられないくらいひどく取り乱してしまって、正真正銘子供に戻ってしまったクレッセとゆっくり話すこともできなかった。


 ネルがいなかったら、デクレだって到底冷静ではいられなかっただろうと思う。考えてもみたら、村にレフィルがやってきてから、ずっと気を張り詰めていた。父と兄を誘拐した連中の正体が分かって、その仲間に連れられてここまで旅してきたら、兄は世界を滅ぼす人で、自分はそれを倒す役目があるだって?下らない三文芝居みたいで笑いすらこみあげてくる。

 ネルはきっと察していたと思うけど、デクレはもう、父と兄のことはとっくの昔に諦めていた。義母が秘密にするまでもなく、自分のような無力な子供が父と兄を助け出せるとは思えなかった。それならもう、自分は彼らを忘れて、ネルを幸せにできればそれでいいんだと思っていた。

 クレッセのあの姿を見て、ネルは自分を責めていたけれど、本当はデクレのほうが罪深いのだ。あの雨の日にネルを迎えに行ったのがデクレじゃなくてクレッセだったら、あの時ネルが庇ったのがデクレじゃなかったら、今日、恐ろしい姿でネルの前に現れたのは、もしかしたら自分の方だったんじゃないか。

 泣きながらすがりついてきたネルに、途方もなく安心してしまったのだ。彼女に選ばれたのが自分でよかっただなんて、そんな最低なことを思った。


 ネルの髪に結ばれた黄色いリボンを指先でもてあそんでいると、扉がノックされた。すぐに少し扉が開いて、ひょっこりとラファが顔を出す。

「ネルのやつ、落ち着いた?」

「泣き疲れて寝ました。疲れてたし」

「そりゃ、ただでさえ慣れない旅してきたんだもんなあ」

 ラファは向かいのベッドに腰掛けた。いつの間にか傷だらけだったはずの彼の顔はまっさらに戻っていた。門番とのやり取りといい、今日一緒に行動してみて、彼が見た目どおりのただの少年ではないことは十分理解していた。

「デクレ、長居するとレフィルが寄ってくるから手短に言う。俺は今夜クレッセを連れてここを出る」


 ネルの寝顔を眺めていたデクレは顔を上げた。ラファは決然と頷いた。「あいつは俺が神都に連れて行く」

「ラファさんの行動は警戒されてるんじゃないの?」

 レフィルとラファは気楽に話をしていたけれど、思えばレフィルはずっとラファの動きを注視していたように思う。ほとんど彼の動きに物申したりはしないけれど、決して余計なことはさせないように。さっきも、クレッセを連れていくとラファが言い出したときに、レフィルは即座に反対していた。


 ラファ本人ももちろん分かっているらしく肩をすくめてみせる。

「だろうな。だから、悪いけどお前らを一緒に連れて行く余裕はないんだ。脱出に乗じて俺が騒ぎを起こすから、お前らもここから逃げ出せ。神都まで来られれば俺が繋ぎを取ってやれるし、レクセならマユキが…お前のおばさんがいる。とにかく今のラトメは危険だ。ユールの無事も確認できないし、早く出たほうがいい」

早口にまくし立てると、ラファはすぐに立ち上がった。デクレの頭に手を置いて、励ますように言った。

「デクレ。クレッセのことは、お前のせいでもネルのせいでもない。そんなこと考えなくていいんだ。…ネルにもそう言ってやれよ」


 ラファが出て行ったあと、彼の予想どおり、すぐにレフィルがやってきた。彼は訝しむようにデクレを見ながら尋ねてきた。

「今、ラファが来てた?」

「ああ」

「彼、何か言っていたかい?」

デクレはゆっくりとレフィルを見た。今のデクレには、少し笑みを浮かべる余裕すらあった。

「いや、なんにも」


 この不条理な世界の理不尽な連中なんかに、僕もネルも、決しておびやかされたりなんてするものか。

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