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書類を片付けていたラファは、ひと段落したのか大きく伸びをした。
「シェイルから騎士たちが来てるって聞いて、ルナセオ目当てだと思ったんだ。それにしても、なんだよ指名手配犯って。コイツを前科者にするつもりか?」
「ほら、だから言ったじゃん。浅知恵だって」
「あなただって結局それに乗ったじゃないですか!」
ネルはペタペタとルナセオの肩やら腕やらを確かめた。特に大きな怪我はなさそうだ。
「セオ、だいじょうぶ?ひどい目に遭ってない?」
「う、うん、大丈夫…ごめん、あんま触んないで…」
「あっ、ごめんね」
ぱっと離れると、なぜだかルナセオは耳を赤くしてうつむいた。ルナセオって意外と恥ずかしがり屋なんだなあ、ネルは今後のスキンシップは控えようと決めた。
ラファは書類を机の脇に追いやった。
「さて、お前ら、この世界大会議前で忙しい時に余計な仕事を持ち込んでくれたな」
「ご、ごめんなさい、ラファさん」
ネルがぺこりと頭を下げると、ローシスが小声で「ネル嬢の知り合い?」と聞いてきた。ネルはこっそりと頷く。
「だいいち、なんでロビ殿下まで一緖なんだよ。アンタ、こういう厄介ごとは嫌いだろ?」
「なんだ、気づいてたの?」
ロビがつまらなさそうに髪をかきあげて変身を解いた。みるみるうちに髪の色と長さが元の通りに戻る。ルナセオがぎょっとした様子で身を引いた。
「別に手助けしてやる義理はないんだけどさ、この子の巫子の力がなかなか興味深かったもんだから。聖女の封印についてクソ親父にご教示願おうと思ったのさ」
「ああ、ラトメにある封印を解いたんだったか。話は聞いてる」
ラファは舌打ちしながらチラリと窓と扉に目を走らせた。
「アー…俺、外しましょうか」
気を遣ったローシスが申し出たが、ラファは「いや」と言って、背後の壁をコツコツノックした。
「アンタみたいなガタイのやつが部屋の前にいられると目立つ。ちょっと神殿のやつには聞かせたくない話がしたかったんだ。なんならアンタんとこの王様には伝えてくれても構わない…これでいい」
なにかの魔法をかけたのか、ラファは満足げに部屋を見回すと話に戻った。
「結論から言うと、今、シェーロラスディ陛下は誰にもお会いにならない」
「なんでさ。いくら世界大会議前だからって、巫子が会いにきたなら時間を取るくらいはするでしょ」
ロビが不満げに反論したが、ラファは静かに首を横に振った。
「時間が取れる取れないの問題じゃない。シェーロラスディ陛下に謁見すれば、そのことは必ずファナティライスト上層部に知れ渡ることになる。いま何人の巫子が結集していて、どこに肩入れしているのか、どういう素性なのか。そういう情報を渡したくない」
「…リズセム殿下は、世界王陛下の安否を気にしておられました。何か神都で不穏なことが起きているらしいと」
ローシスが口を挟んだ。そういえばリズセムが言っていた。ここのところ、世界王が不調だという噂が立っていると。
「陛下が無事か否かで言えば、もちろんご無事だ。だけど問題その下。聖女の封印が解かれて、陛下が身動き取れずにいる間に、勝手にあれこれ画策してる奴がいる…ロビ殿下、アンタもしばらく身を隠したほうがいい。厄介ごとに巻き込まれたくないならな」
「…要するに、この世界統一のご時世に国家転覆を企む輩がいるってワケか。人間風情が大きく出たね」
こっかてんぷく。ネルにはピンとこない単語だが、ラファの説明でロビやローシスはすべてを理解できたようだ。首を傾げているネルに、ルナセオが「国のお偉いさんの中で、王様を差し置いて偉くなりたい人がいるんだってさ」と解説してくれた。
「えっ、でも、だって…セカイオーさんはいちばんえらいんでしょ?」
セーナは確かにそう言っていた。
「そりゃそうだ。でも、陛下だって強い権力があれば無視はできない。で、そのために巫子の力を狙ってる。巫子の持つ魔力は使いようによっちゃ兵器になりうるからな」
「兵器…」
なんだか遠い世界の話みたいだ。ただクレッセを助けるだけのはずが、この世界でえらくなりたいひとたちに力を狙われてしまうなんて。ネルたちはもともとなんの変哲もない、ひとりの人間にすぎないっていうのに。
ネルは肩提げのベルトを指先でいじりながら、おずおずとラファを見た。
「…ラファさんも、そうなの?」
「ん?」
「ラファさんは、クレッセをラトメから連れ出したんでしょ?ラファさんも、クレッセを兵器にするつもりなの?」
たずねると、ラファは虚をつかれた様子で目を丸くした。
あのラトメでの惨劇を思い出す。あれを引き起こしたのが本当に目の前のこのひとなのだとしたら、やっぱり彼は怖い人なのかもしれない。旅に出てから出会う大人たちは、いつもなにか難しいことをたくらんでいるから。
ラファはしばらく無言だったが、やがて立ち上がると、ネルの正面に立った。それからネルと視線を合わせるように少しだけ屈む。彼はそこまで背が高くはないのだな、ネルはぼんやり思った。
「確かに、俺がクレッセを神都に連れてきたことで、そういう見方をするやつもいる。あいつは9番で、世界を滅ぼすだけの強い力を持ってるからな」
「じゃあ…」
「でもな、ネル。ルシファの村でお前とデクレに言ったことは、嘘じゃないよ。俺にとってクレッセは大事な甥っ子で、俺はあいつの呪いを止めたいんだ。この世には絶望ばっかじゃないんだぜって、ちゃんと教えてやりたいから、ここに連れてきたんだ」
ラファの瑠璃色の瞳は、真剣にこちらを見据えていて、ネルは目を離すことができなかった。
「本当はクレッセに会わせてやりたいけど、ごめんな。今はあいつ眠ってる。それに…“聖女”には、あまり近づけたくないんだよ」
ネルは自分のカバンを見下ろした。そこに入っている、ほとんど文面も覚えてしまったチルタの日記。聖女、聖女と、狂ったように書き殴られた見開きを思い返して、ネルはぐっとくちびるを噛み締めた。
「クレッセ、元気にしてる?」
「ああ。毎日夢中になって図書館の本を読み漁ってる」
「そう」
やっぱりわたしじゃだめなんだ。この旅路で何度も思ったことがまためぐりだす。このままじゃ、誰も救えないし、自分ひとりではなにもできない。頼ってもらえない。
非情な現実に打ちのめされそうになるけれど、ネルには立ち止まっている暇もない。クレッセに残された時間が、あとどれだけあるかも分からないのだから。
「…あのね、ラファさん。クレッセに伝えてくれる?」
デクレと離ればなれになってから、ネルは多くを学んだ。世界はとても広いということ。幸福は簡単なことでは得られないということ。世の中には理不尽なことがたくさんあるということ。
それでも、いつかはあの穏やかで優しいインテレディアの小さな村に、ネルは帰りたいと思った。デクレもクレッセも一緒に、またしあわせな日常に戻るために。
「わたしはもう、クレッセを助けるのを、絶対に諦めないって」
◆
「あーあ。結局聞きたいことはなーんにも収穫がなかったな。ルタポッポくんを連れ出しただけか」
「…ひょっとしてそのルタポッポくんって俺のこと?あのー、俺ルナセオっていうんですが」
シェイルに追われている大悪党ことルナセオを連れて、また門を通るわけにもいかないので、帰り道はロビの知る抜け道を使うことになった。ロビの先導でやってきた下水道は、肌寒くて鼻につくにおいがする。だが、この道をまっすぐに降っていけば、神都の貧民街まで出られるらしい。
ロビは世界王に会えなかったことにブーブー文句を垂れていたが、家の客人がひとり増えることに否やはないらしく、ルナセオに「君、野菜食える?うち肉は出ないからよろしく」と軽く声をかけていた。
「なんかまだピンとこないんだけど…ホントにこのひと、世界王子なの?そのへんの平民じゃなくて?」
ルナセオは街中にいれば一瞬で溶けこんでしまいそうなロビの背中を見ながらネルに耳打ちで尋ねてきた。
「うーん、そうみたい」
「俺、シェーロラスディ陛下に会ったけど。やっぱすごいオーラあるっていうか、目の前にしただけでひれ伏したくなる感じだったんだけど。それと比べると、なんていうか…」
地味?と小声でささやくルナセオに、ネルは苦笑した。ネルからしてみれば出会いが出会いだったので、どうしても彼をそんな平凡な人間とは思えないのだが、さすがにレフィルを串刺しにしていたくだりはあまり説明したくなかった。
ぴちゃん、どこかから水の滴る音がした。ロビとローシスが軽口を叩きながら先を行く姿を眺めて、ネルはぽつりとつぶやいた。
「セーナも、トレイズさんも、みんな心配してたよ」
隣のルナセオがはっと息をのんだ。
「もちろんわたしも。リズセムさまに言われて、セオも仕方なく神都に行っちゃったのかもしれないけど。わたし、なんにもできないけど、やっぱり話してほしかったよ」
「…ごめん」
ルナセオの足下で、こつんと小石が当たって跳ねていた。なんとなくそれを見下ろしていると、なにかをこらえるような、ルナセオの声が落ちてきた。
「神都に来たのは…リズセム殿下に言われたのもあるけど、俺があの巫子狩りに、復讐したかったのもあって…俺、いてもたってもいられなかったんだ」
ルナセオは言葉を選んでしゃべっているようだった。きっとなにか隠していることがあるんだろうな、ネルは思った。なんだか彼は、ちょっとだけ影が落ちたように、雰囲気が変わった気がする。
「でも、結局うまくいかなかったんだ。あいつらにはあいつらの事情があって、それで、俺…クレッセやラファさんたちに迷惑かけたりもして。いろんな人の助けがなかったら、たぶん俺、今ここにいられなかったと思う」
「そっか…セオも、いろいろあったんだね」
ネルとしては、ルナセオが復讐を果たさなくてほっとしていた。彼にはずっと優しいルナセオのままでいてほしかった。シェイルで垣間見た、復讐に燃える彼の姿は怖かったから。
「ネルはさ」
ルナセオはそこで、少しだけ言葉を切った。
「例えばの話だけど、もし…もし、クレッセを助けるために、逆にネルのほうが、犠牲にならなきゃいけないとしたら、どうする?」
「なあに?それ。犠牲になるって、どんな?」
「えっ?えーと…ずっと不老不死のままになるとか?」
「ふうん?」
突拍子もない質問に、ネルは少し考えた。
「それくらいなら別にいいけど」
「それくらいって、不老不死だよ?ずっと年取らないし死なないんだよ?」
「うーん、でも、年取らないひとは結構いっぱいいるし。そのうち寂しくなっちゃうかもしれないけど。すっごく痛い思いしたり、まわりの人たちが傷ついたりするんじゃないなら、わたしは気にしないかも」
何十年も先のことはネルにはよくわからないし、今だって、特に不老不死だという実感も湧かない。特別長生きをしたいとも思わないが、「クレッセを救ったら代わりに明日死ぬ」と言われるよりは、迷うことはないように思われた。
そこまで考えて、ネルはあっと声を上げた。
「でも、不老不死ってことはいつまでもおばあちゃんにならないってことだよね。デクレは、結婚相手がずっと若いままだったら嫌がるかなあ。自分はおじいちゃんになっちゃうんだもんね。どう思う?」
ネルは本気で尋ねたというのに、ルナセオは面食らったような顔をして、それから、なんだかほっとしたように破顔した。
「そこなの?ネルってなんていうか…気にするトコがずれてるなあ」
「えええ、ひどい。聞いたのはセオなのに!」
憤慨してみせると、ルナセオは声を上げて笑った。前方でロビとローシスがなんだなんだと振り返る。
やがて、ネルはこの時のルナセオの質問を思い出す。そのときに彼の問いにどんな意図が、懸念が含まれていたのか、
今のネルにはちっとも想像できなかった。
ただ、再会してからどこか暗い顔をしていたルナセオがてらいもなく笑うのを見て、安心するだけだった。