35
ロビとナエは菜食家らしく、肉のたぐいは一切食卓にのぼっていなかった。家の裏に畑があり、そこでとれる野菜や豆類、それから森に成った果物やキノコ類などを食べていて、神都には日用品の購入のためにたまに足を運ぶ程度だそうだ。
「このザディスティの森は不浄を嫌います。動物の血を流せば豊かな実りが損なわれると信じられているのですよ」
だから、串刺しになったレフィルを見てあんなにナエが怒っていたのだ。ネルは合点がいって頷いた。ロビはトマトとレンズ豆を煮込んだスープをぐるぐるかき混ぜながらチラリと客間を見た。
「で、ローシスのヤツの具合はどうなの?ウチに連れてきた以上はくたばってもらっちゃ困るんだけど」
「やめてくださいよ、縁起でもない」
ナエは顔をしかめて、行儀の悪いロビの手を軽く叩いた。
「命に別状はありません。とはいえ、ナイフに塗られていたのは非常に強力な痺れ薬だったようです。ネル様の解毒がなかったら、どうなっていたかわかりませんでした」
「どうなっていたか、って」
ネルは思わず自分のシャツの胸のあたりをつかんだ。鳩尾のあたりに冷たいものが落ちてくるような心地だった。
「でも…わたし、ちゃんとできたんだよね?ローシス、ちゃんと元気になる?」
「ええ。丈夫な方ですから、明日にでも目が覚めるでしょう。しばらくは養生したほうがよいと思いますが」
「そう…」
ネルはほっと胸をなでおろした。ネルを守ったばかりに、ローシスに万一のことがあっては、クレイスフィーで彼の帰りを待つ家族に申し訳が立たない。
しかし、ローシスがしばらく動けないとなると、ネルはこれからどうしたらよいのだろう。ファナティライスト神殿の場所もわからないし、ネルひとりで潜りこめたとして、ルナセオの居場所も見当がつかない。せめて、あの巫子狩りの二人組の居所がつかめればよいのだが。
「ねえ、巫子狩りっていうのは、ファナティライスト神殿にいるの?」
「まあ神殿にもいるよ。巫子狩りっていうのは俗称でさ。正式にはファナティライストの特務部隊って言ってね。ま、要するに表沙汰にはしたくない裏の仕事をあれこれこなす連中だよ。
まさかとは思うけど、君、巫子狩りを追う気?やめときなよ。君までとっ捕まるのがオチでしょ」
「うーん、でも、わたしも巫子狩りに捕まれば、セオと同じ場所に連れて行ってくれるかもしれないでしょ?」
不老不死の巫子なら死ぬことはないし、せめてルナセオと再会できれば、ふたり揃って逃げ出す算段も立てられるかもしれない。ネルは本気だったが、ロビは鼻で笑って一蹴した。
「君、神殿をナメすぎ。腐ってもここは世界の中心で、あそこにいる連中はエリート中のエリート。巫子をふたり捕虜にして、同じ場所に閉じこめるわけないでしょ」
「そっかあ」
ネルはガックリ肩を落とした。ナエが気遣うように言った。
「ロビ様、やっぱり少しくらい助けになって差し上げたら?せめて神殿の抜け道のひとつやふたつ、ロビ様ならご存知でしょう?」
「うーん」
ロビはスプーンをくわえたまま、思案するように天井を仰いだ。
「まあ、抜け道を教えるくらいならいっか。君が捕まるのも寝覚め悪いし」
「ほんとう!?」
◆
しかし、ロビの抜け道指導は混迷を極めた。なにせ、ネルは地図もろくに読めないので。
「だからさあ、上下左右じゃなくて、東西南北で位置を測るんだよ。ホラ、ここの街道の手前から三本目を西側に曲がる。西、分かる?日が沈むほう」
「う、うーん?」
夕食後、ロビは神殿内の見取り図と神都内の地図を広げて、王族に伝わるという秘密の抜け道を教えてくれようとしたが、ネルの物覚えが悪すぎた。ただ、神都も、その中にあるファナティライスト神殿もあまりに広大で、ネルに人並みの方向感覚があったとしても覚えていられるかは怪しいところだ。最初はナエも一緒に地図を覗きこんでいたが、これは長くなると踏んだのか、「ローシス様の包帯を替えてきます」と言ってさっさと離脱していった。
神都は貧民街、平民街、貴族街のみっつの区画があるらしい。この家から最も近い南門は貧民街に面したところで、ロビが最初に教えてくれようとしたのはその街の奥から下水道を通って神殿に入る道順だった。しかし、まず貧民街の広さときたら、それだけであの大都市のクレイスフィーを超えるほどで、道もひどく入り組んでいた。
しかたがないので、次に平民街からのルートを示してくれようとしたロビだったが、そちらもまた難航した。平民街は貧民街よりは道が整備されていたが、逆に碁盤の目のように整然としすぎていて、土地勘のないネルにはなにを目印にしていいのかわからない。しかも、話を聞くに平民街の建物は景観の問題だかなんだかで、屋根の色などはみんな似たり寄ったりにしているらしい。
ロビは諦めた様子でメモに使っていたペンを投げ出した。
「あー、やめやめ。君、絶望的に潜入向いてないね。やっぱりローシスが回復するまで大人しくしてなよ」
「そ、そんな!だけど、セオがどんな目に遭ってるかわからないし」
「巫子なんだから死にやしないって。巫子を取り込めれば政治的にも優位に立てるし、案外大事にされてるかもよ?」
「そうなの?でも、シェイルに来てた巫子狩りは、わたしたちのこと『悪しき巫子』って言ってた。それに、死んじゃった仲間の仇を討つんだって」
「仇なんて討ちようがないじゃん。不老不死なんだから」
ロビはそう言うが、あの巫子狩り二人組、特にローアと呼ばれていた女の子のほうは、悪い巫子を捕まえてやると息巻いているように見えた。ルナセオが彼らに囚われているのだとしたら、やはりひどい目に遭っているのではないかと心配にもなる。
「特務部隊の教育は確かにちょっと特殊だけどね。あいつらにとって、巫子は世界を混乱に陥れる危ない連中だからさ。でも、だからといって彼らに巫子をどうこうできる権限はないはずだよ。リズ兄さんだってそれを見越して、そのルチャポコくんを神都に寄越したんだろうし」
「…ルナセオです」
本当だろうか。ルナセオは巫子狩りに襲われて同級生が殺されたらしいし、メルセナだって巫子狩りに追われたことがあると言っていた。ネルの中で彼らは、問答無用で襲いかかってくる恐ろしい者たちのように思えてならない。
やはり、ルナセオ救出は急いだほうがいいのではないか…ネルが口を開きかけたところで、客間から慌てた様子でナエが出てきた。
「ろ、ロビ様、ネル様!ちょっと来てください!」
まさか、ローシスの身になにかあったのか。ネルは勢いよく立ち上がったが、ロビは悠長に頬杖をついたままだ。
「なにかあった?」
「そ、それが…とにかく、見てもらったほうが早いです!」
ローシスは眠ったままだった。包帯を替えるためだろう、ベッドのヘッドボードに背をもたれている。包帯は外されて、ローシスの鍛え抜かれた大胸筋があらわになっていた。
ナエはネルたちに見やすいように、ローシスの肩を掴んで背中を向けるように回した。なかなか無茶な角度だが、ローシスの腰は大丈夫だろうか。
「って…え?」
「へえ」
ネルとロビは思わず声を上げた。ローシスの背中には、あるべきものがなくなっていたのだ。
ローシスの背中には、レフィルが投げたナイフが深々と刺さっていた。もちろんそのナイフは、ナエの手によって適切に抜かれていたが、痛々しい傷が残ったはずだ。…それなのに、ローシスの背中には、古傷と思われる跡はいくつか見えたが、少なくともナイフが刺さっていたであろう場所は、傷跡ひとつなくまっさらだった。
「ローシス、治ったの?」
「驚くべきことに、そのようです」
ナエは神妙に頷いた。
「僕の記憶が正しければ、コイツはただの人間だったはずだけど。とうとう訓練のしすぎで人類を超越しちゃったかな?」
「まさか。人間が一朝一夕で治せる怪我ではありませんでした。回復魔法は使いましたが、ここまでのことは…やはり、巫子の偉業としか」
そこでナエとロビは揃ってネルを見てきたので、ネルは勢いよく首を横に振った。
「だってわたし、歌ってないよ!?」
「うーん、解毒のときの歌が時間差で効いたのか…でも、5番の力ってそもそも回復特化じゃないはずだし」
ロビはローシスの背中を撫でさすりながらブツブツつぶやいた。それからぱっと顔を明るくした。
「ひょっとして、君、印をふたつ持ってない?ちょっと肩を見てごらんよ」
「…持ってない」
シャツの中をのぞいてみても、髪の色以外に赤色に染まっているところはない。ロビはあてが外れた様子で「そうかあ」と腕を組んだ。
「昔、マユキが5番だった頃は、せいぜいちょっとその辺の魔物を混乱させたり、眠らせたりする程度だった。痺れ薬の効果を完璧に解毒したことといい、君の持ってる力は特別製なのかもしれないな。…音痴だけど」
「れ、レインさんは、5番の力に歌唱力は関係ないって言ってたもん」
ネルは果敢に言い返したが、ロビは聞いちゃいない様子で、ブツブツつぶやきながら客間を出て行った。ナエがローシスの身体をぐいぐい引っ張って寝かせながらため息をついた。
「申し訳ありません、ネル様。ロビ様って学者肌なところがあるんです。あれは多分朝まであの調子ですね」
「へ、へえ」
ナエに手を貸しながら、ネルは相槌を打った。ナエはロビのマイペースさには慣れっこのようだ。さすが夫婦である。
それにしても、ローシスの怪我が治ったのは、本当にネルの力なのだろうか。これまでのことを反芻しながら、ネルはふとローシスの大きな手を取った。
「…はやくよくなってね」
「え?」
「はやくよくなってね、って、言ったけど…でも、わたしあの時、歌なんてうたってなかったし」
レインは、5番が持つのは歌を媒介に願いを叶える力だと言っていた。だからネルは毎日、下手な歌を披露しながらレインに手紙を送っていたわけだし。
まさか歌わずして力が発動するわけもないし。ネルはローシスの手を握ったまま、うーんと首を傾げた。
◆
ローシスが目覚めたのは、次の日の朝だった。ロビは部屋にこもったままブツブツやっているらしく出てこないので、代わりにネルが薪を割り、畑の世話をして、近くの小川から水を汲み、朝食のパンの生地を捏ねていた。くるくるとよく働くネルにナエは大喜びだった。
最近のモヤモヤを叩きつけるように生地を殴っていると、客間からドスンと何かが転げ落ちる音がした。そのすぐあとで、けたたましく扉が開いて、ひどく焦った様子のローシスが飛び込んできた。
「ローシス!」
ローシスはぽかんとした様子で、パン作りに精を出しているネルを見て立ち尽くした。そこへ、奥から野菜を抱えたナエが顔を出した。
「ネル様、そろそろ生地を休ませましょう…あら、起きましたか、ローシス様」
「な、ナエ殿?これは一体」
「覚えておられませんか?昨日、ロビ様が助けに入られたところであなた、倒れられたのですよ」
「ナエさんが手当てしてくれたんだよ。元気になってよかった」
「え…いや…」
ローシスはどこか呆然としたまま、ナイフがささったあたりをさすっていた。
「…夢じゃない?いや、しかし」
「ちょっと。考えごともいいですが、せめて服くらい着てください。替えはありますか?我が家にはあなたが着られるサイズの服の用意はないのですが」
ナエの言葉に、ようやくローシスは自分が半裸であることを自覚したようだ。彼は「おっと、これは失礼」と言いながら、まだ夢見心地な様子で客間に引っこんでいった。
まだ起きぬけでぼーっとした様子だったが、無事なようで何よりだ。ネルは安堵の息を吐いた。ナエがにっこり笑って、「よかったですね、ネル様」と声をかけてくれた。
◆
「すまない、ネル嬢!護衛中の身でありながら半日も寝こけてたなんて末代までの恥だ!」
替えのシャツを着こんだローシスは、ネルの向かいの席で勢いよく頭を下げた。彼の若干生え際が後退しつつある額がゴンと食卓にぶつかった。
「あの、そんなことないよ。わたしもごめんなさい、なんにもできなくて」
「いや、相手が負傷したと思って油断した俺のミスだ。殿下のお話から、奴を只人の基準で測るべきじゃなかった。心配かけてすまない…ひとりで不安だっただろ?」
ローシスの気遣うような瞳に見つめられて、ネルは不覚にも胸がつまりそうになった。振り払うように首を横に振ると、ネルはこっそり自分の太ももをつねった。
「ううん。ロビ様もナエさんも一緒だったから。それにね、わたしも謝ろうと思ってたの。わたしがセオを助けたいって言い出したのに、ぜんぶローシスに任せきりになってたでしょ?だからね、ごめんなさい。これからはわたしも、できること、ちゃんとやるから」
ローシスは目を見開いてネルを凝視した。はくはくと何事か言わんとして口を開け閉めしてから、なにやらガシガシと頭を掻いて、彼は深々とため息をついた。
「いや…そうだな。嬢ちゃんは、俺が思っていたよりも、頼もしかったってことか」
「ローシス?」
「俺はネル嬢の護衛だ。それをどっかで、引率だと履き違えていたみたいだな。…嬢ちゃんの好きにやりゃあいい。俺はそれについて行くぜ」
彼も彼で、なにか思うところがあったらしい。改めて差し伸べられた手を、ネルはそっと握った。…ようやく、彼と本当の意味で仲間になれた気がした。
そこへ、水を差すようにバタンと大きな音を立てて、奥の部屋の扉が開いた。
「やっぱり思うんだけどさ!」
「!?」
「あら、ロビ様。おはようございます」
何冊もの本を抱えて現れたロビに、ナエだけが平然として、颯爽とジュースが入ったグラスを差し出した。
「ありがと。あれ、起きたの寝坊助。いや、そんなことより、いくつか仮説を立ててみたんだ」
ローシスの目覚めは「そんなこと」扱いらしい。ロビはジュースを一気に飲み干すと、興奮した様子で本をパラパラめくった。どうやら徹夜でハイになっているようだ。
「過去の巫子の文献を漁ってみたけど、やっぱり君の持つ力は従来のものとは別物だと思うんだよ。僕の記憶にある5番の能力は、『歌を媒介にして願いを叶える』っていう大それた能力のわりに、できることはショボかった。でも、君はコイツを完璧に解毒して癒してみせた。明らかに5番の範疇を超えてるんだよね」
ロビは怒涛の勢いで語った。
「君が解いたっていう聖女の封印が鍵になってるのは間違いない。とはいえ、その封印のことはさすがに本じゃ残ってなくてね…というわけで」
パタンと本を閉じると、ロビは輝くような笑みを浮かべた。
「行くから、僕も。ファナティライスト神殿」
「え?」
「は?」
「はい!?」