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※戦闘描写あり
「南門行きか。ファナティライスト神殿に行くには遠回りだが、まあ背に腹は変えられないな」
手のひら大の切符に刻印された行き先を見て、ローシスは少し渋い顔をした。切符には、「サウザル海流経由・神都南門行き」と大きく書かれる、その下に日時がふたつ並んでいた。ローシスによると船の発着時間らしく、神都へは船で5日ほどかかる目算らしい。
「南門だと遠回りなの?」
切符から顔を上げてたずねると、ローシスはウーンと唸った。
「神都には東門、西門、南門があるんだが、ルナセオ坊っちゃんのいるであろうファナティライスト神殿は神都の北側にあるんだ。要するに、南門は神殿からいちばん遠いってことだな」
東西南北をよく理解していないネルは、地図を思い浮かべながら宙を仰いだ。確か北は地図の上側、南は下側だったはず。なるほど、神都に入ってからもまだ道のりは長いらしい。
無事に切符を購入したネルたちは、船上の人となっていた。三角布のマストが三本並んだ船は、きらきら光る波飛沫を上げて海上を突き進んでいる。ゆらゆらと慣れない揺れはあるけれど、あのヘルシュタインの馬車を経験したネルたちには軽いものだった。
「通ったところがキラキラ光るのはどうして?」
船尾から、船の通った海面にピンク色の綺麗な光がはじけるのを眺めながらたずねると、ローシスもネルの後ろから首を伸ばした。
「ああ、そりゃ船を動かすのに魔法を使ってるからだ。この船は特急便だからな。普通の船はもっと動きが鈍いんだよ」
どうやら、早く神都にたどり着けるように、ローシスが気を遣ってくれたらしい。ネルはなんだかばつが悪くなってしまって、もじもじと身体を揺らした。
「あのね、ローシス…ごめんなさい」
「なにが?」
ローシスにはなんのことだか本気でわからなかったらしい。ネルはうつむいた。
「わたしのわがままで、家族と離れて来ちゃったし、大変でしょ?」
ローシスもレインも、ネルの思いを否定しないけれど、ルナセオが神都に行ったのがリズセムの思惑だったのなら、やっぱりネルは余計なことをしているのかもしれない。ルナセオを助けたい一心で、いてもたってもいられなくて飛び出してきてしまったけれど、ローシスからしてみれば、ディセインの言うとおりギルビスのコネで勝手を言うわがまま娘の付き添いを押し付けられてしまったのだ。内心では辟易しているかもしれない。
しゅんとうなだれていると、不意にローシスの大きな手が、ネルの頭をぽんぽん叩いた。恐る恐る見上げると、ローシスは柔和な顔でほほえんでいた。
「ネル嬢は控えめだなあ」
ローシスはほがらかに言った。
「気にするこたあない。どうせネル嬢がルナセオ坊っちゃんを助けに行きたがるところまで、殿下は織り込み済みだっただろうしな。殿下のために働くことは俺たち騎士の誉れだ。サボってちゃあ嫁さんに引っ叩かれちまうや」
でも、きっとローシスが進んでやりたい仕事ではなかったはずだ、ネルが思っていると、ローシスが膝を折ってネルと目線の高さを合わせた。
「どっちにしろ世界大会議の警護で神都には来ることになってたんだ。それなら城でエルディ殿の書類をさばくより、ネル嬢の護衛のほうがずっと楽しいぜ」
でも、と続けると、彼はお茶目に片目をつぶった。
「もしネル嬢の気が済まないっていうなら、息子への土産を一緒に選んでくれると嬉しい。俺はギルビス様と同じで贈り物のセンスがないからな」
おどけた様子で言うものだから、ネルは小さく吹き出した。
◆
神都ファナティライストとはいうが、ネルはそこがどんな場所なのかよく知らない。デクレがここにある神官学校に憧れていたので、なにやら大きな神殿があるらしいというのは知っていたが、インテレディアの辺鄙な村では、こんな大きな都市のことはまったく関わりもなかった。
メルセナたちの話ではここにはセカイオーとかいうこの世界で誰よりもえらい王様がいるということだが、シェイルの王様であるリズセムと何が違うのか、ネルには理解できていなかった。
船が停まったのは、こじんまりとした掘立て小屋がひとつあるだけの静かな船着き場だった。左手には広大な森が広がっており、右手には──こちらが神都へ続く道なのだろうか──草木が刈られ、綺麗にならされたレンガ道が伸びている。
「あの道の向こうに南門があるの?」
「そうだ。もうあと一息だな」
神都へ向かう乗客はほとんどいなかったようで、ネルたちが降りると、船は颯爽と岸から離れていった。ローシスは自身の大斧を担ぎ直してあたりを見回すと、ある一点で目を留めて片眉を上げた。
「托鉢か。こんなところにいるのは珍しいな」
道の脇に立っている神官服をまとったそのひとに、ネルは最初気がつかなかった。それよりもどこかで嗅いだことのある香りがして、どこだったっけ、と考えていたので、ローシスがその少年に歩み寄るのを止めることができなかった。
彼の足元に、見覚えのある魔物避けの香炉があった。そこから視線を上げるごと、ネルの心の中がざわめいた。まるでネルの中にいる聖女様が警鐘を鳴らすみたいに。
「こんなトコじゃ、人も少ないだろ」
何も知らないローシスは、ポケットから菓子包みを取り出して、少年の手にした茶碗に落とした。そのひとはそらんじていた祈りの文句を止めてにこりと笑う。
「神都の門前だと追い払われちゃうんだ。僕の経文はラトメ式に近いからさ」
「ラトメの神官にしちゃ、神都っぽい身なりだな。わざわざ対立した派閥のお膝元まで来るこたないだろうに」
「うん、でも」
彼は穏やかな微笑みを浮かべたまま、ついとこちらを見て言った。
「僕は運がいい。神都に来るとは思ったけど、どの門から来るかは賭けだった」
茶碗が地面に落ちていくのを、ローシスの目線が追った。その隙に少年の手が神官服の懐に入っていくのが見えて、ネルは反射的に口を開いた。
「だめっ…」
飛び出したのは、情けなくかすれた声で、ローシスに届いたかは分からなかった。しかし、少年の懐から飛んできたナイフを、彼は首をひねってギリギリのところで避けた。ふたりの足元で茶碗が割れる音がした。
「なんだ!?」
少年から距離を取り、ローシスは担いでいた斧を構えた。少年は、なにやらナイフを投げた手をぐーぱー握ったり広げたりしながら首をかしげていた。
「うーん、腕がなまったかな?」
自分よりずっと大柄な男に殺気を向けられているというのに、彼の声音はひどくのんきだった。
ローシスは身体は少年のほうを向いたまま、ネルの前にかばいたった。
「ネル嬢、あれが?」
胸の奥がざわざわして仕方なかった。ハニーブラウンの瞳は以前と同様に優しげなのに、神宿塔で見た聖女の記憶がよみがえると、その柔和な表情もひどく不気味に思えた。
「レフィル…」
息苦しくて、あえぐようにその名を呼ぶと、レフィルはうれしそうに口角を上げた。
「心配してたんだよ。あの暴動の日から行方がわからないから。君に万一のことがあったら、ラトメに連れていった僕の責任だからね。
でもよかった。やっぱり君が継承者だったんだ」
ぞっとして頭に手を置いた。帽子はしっかり被ったままで、赤い髪も隠されているはずだ。それなのになんで、
「わかるさ。僕は『仲間』の気配を間違えない。しかもそれが愛しい僕の聖女のものなら尚更ね」
一歩一歩、レフィルがこちらに歩いてくるたび、ネルは後ずさった。彼の笑顔が、ひどくどろどろしたものに見えてしかたない。
「君こそがふさわしいと思ってたんだ。クレッセの幼馴染で、巫子の資格を持っていて、あの子と同じ色彩で。新たな聖女の『器』として申し分ない」
「おっと、それ以上近づかないでくれるか?ウチの大事なお嬢さんなんでね」
近寄ってくるレフィルの鼻先に、ローシスが斧を突きつけた。足を止めたレフィルは、ちらりとローシスを一瞥すると、やれやれとばかりに首を振った。
「でも、わからないんだよね。一体誰が君をそそのかしたんだい?どういう経緯でシェイル騎士とつるむようになった?やっぱりラファが余計なことを吹き込んだのかな」
あの日、デクレとはぐれたあの時、レインがネルを神宿塔に連れていったことを、レフィルは知らないんだ。ネルはできるだけ余計な反応をしないように努めた。あのとき、屈強な男たちがレフィルを囲んでいたから、彼からはネルが走り去る姿がよく見えなかったのかもしれない。
「あなたには、なにも教えない」
肩下げの紐を握りしめて、ネルは言った。すると、おもしろくなさそうにレフィルは神官服のポケットに手を突っこんだ。
「ふうん。まあいいや。別に君の意思なんてどうだっていい。欲しいのは」
レフィルの瞳がぎらりと光った。ポケットから取り出した二本めの折りたたみナイフを開いて、彼は不敵に笑ってみせた。
「君の中にいるあの子の意思だ」
「ネル嬢、つかまってろ!」
ローシスの叫びにはっとして、ネルは彼の背中にしがみついた。
「そっちから刃物出してくれて助かるぜ!さすがに丸腰相手には気が引けるんでね!」
ローシスが振り下ろした大斧が地面に当たると、ミシ、と不吉な音が響いた。瞬く間にビキビキと前方の地面に割れ目が走る。レフィルが「げえ」と声を上げた。
「いやいや、無理無理無理、殺す気?」
「殺しても死なねェ奴に加減はしねえ!」
轟、と音が鳴り、地面が割れた。レフィルが引き下がるが、彼の足元が崩れる方が先だった。それよりさらに向こうにある岩は粉々だ。ネルは、落石地帯でローシスの言っていた「俺の大斧がありゃ、こんな岩は叩き割れる」という言葉が冗談でもなんでもないことを理解した。
「これだからリズセムの部下は!」
レフィルは毒づきながら起き上がったが、ローシスの追撃のほうが速かった。
「そりゃ褒め言葉、だッ」
ローシスは斧の柄を、思い切りレフィルの首に叩き込んだ。ゴキリ、不吉な音がして、思わずネルは目をつぶった。
レフィルは吹っ飛ばされた地面に倒れ伏したまま、ピクリとも動かなかった。ネルはローシスのコートをつかんだまま、震え声でつぶやいた。
「…し、死んじゃった、の?」
「ヤツが人間だったらな。さあ、今のうちに…」
ヒュン、風を切る音がしたと思ったら、ローシスに身体を抱き込まれていた。ネルの眼前、ローシスの左肩のあたりに、深々とナイフが突き刺さっている。
「あーあ、やだやだ、リズセムってば臣下にどんな教育してんの」
遠くで、むくりと起き上がる影。明らかに変な方向に首が曲がっているのに、レフィルはなんでもない風にそれを縦に戻して、ぱんぱん服を叩いた。まるで、今しがた自分が負った怪我よりも、神官服についた土埃のほうが気になるとでも言いたげだ。
「この化け物……ッ!?」
ローシスは振り返って立ち向かおうとしたが、がくりと膝をついた。レフィルが再三取り出したナイフをパチンと広げながら、気味がわるそうに顔をしかめた。
「えええ…それ、熊も一瞬で昏倒する毒を塗ったはずなんだけど。なんで喋れるの?君って本当に人間?」
「…あいにく…そん、ぐらいの、力じゃなきゃ、騎士なんて、やって、いけないんでね…!」
震えながらもなお立ち上がろうとするローシスに、レフィルは興味なさげにふうんと相槌を打った。
「まあいいよ。君、邪魔だから黙っててくれる?」
「や…」
そのとき、ネルは無我夢中だった。とにかくローシスを助けなきゃとそればかりで、ネルはローシスの前に出て、振り下ろされる凶刃から庇うことしか思いつけなかった。
レフィルもさすがにネルが飛び出してくるとは思わなかったようで、見開かれていく目が妙にスローモーションで見えた。
「【やめてよ】ッ!!」
ビタッと、何かに阻まれるように、一瞬、レフィルの腕が止まった…気がしたが、はっきりとは分からなかった。その直後、ネルたちの後方から飛んできた人物にレフィルは胸を差し貫かれて、そのまま押し倒されてしまったから。
「やれやれ。むかし言ったでしょ、人外に手加減はするなって」
その男は、大の字に倒れたレフィルの腹を地面と縫いとめるように、もう一度槍を突き刺した。レフィルのうめくような悲鳴が上がり、思わずネルの喉からか細い息が漏れた。
見たこともないモスグリーンの髪と瞳の、針金みたいにひょろりと細い男だ。どこにでもいそうな身なりに、目鼻立ちは整っているが、印象に残らなさそうな平凡な顔立ち。ただ、酷薄なまなざしでレフィルを見下ろす横顔には、圧倒されるほどの存在感があった。
ごふ、レフィルが何事かつぶやこうとしたが、口からは真っ赤な血を吐き出しただけで、あとはヒューヒューと甲高い呼吸音しか聞こえない。男は小首をかしげてうっすらと微笑んだ。
「あ、ごめん。肺を傷つけたみたい。しばらく喋んないほうがいいよ。まあ、いま魔弾銃持ってないから、死にやしないよ。よかったね」
ちっともよかったとは思っていなさそうな口調だ。
ネルは呆然と男を見つめたが、不意に背後でべしゃりとローシスが倒れこむ音がして振り返った。彼はナイフが突き刺さったまま、頭を地面につけて息も絶え絶えになっている。
「そんな、やだ、ローシス!」
「ネル嬢…」
ローシスの額からは脂汗がにじんでいる。ネルは咄嗟にナイフを抜こうとしたが、その手をそっと止められた。
「下手に抜かない方がいい。それより、毒とやらをなんとかすべきだよ。5番なんだろ?」
モスグリーンの髪の男は、なんてことないように軽い口調でそう言った。ネルは彼の淡々とした口調に、あのうつくしい旅人さんの面影を見た。
歌唱力なんておまけだ。魔法の根幹は信仰力だからな。要はいかに願いが叶うと強く信じられるかだ。
ネルは小声で歌いはじめた。たどたどしくて、ところどころしゃくりあげて、男には「音痴」と失笑されたけれど、とにかくローシスを助けたい一心で。
ローシスの荒い呼吸が穏やかになるまで、ネルは歌いつづけた。