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ルナセオを追って神都へ行くことになったとのこと、仔細承知した。こちらも近々神都へは出向く予定がある。君とも会う機会があるだろう。
俺も、リズセム殿下が命じてルナセオを神都へ寄越したという騎士の言葉に賛成だ。あの人は画策が趣味みたいなものだ。おそらく今の巫子たちの動向やらなにやら、秘密裏に世界王とやりとりがしたくて、君の仲間を使ったというところだろう。きっと誰かしらがルナセオを助けに行くと言い出すところまでが狙いのはずだ。そのあたりは随行者の騎士がよく分かっているだろうから、君は気にせずついていけばいい。
神都へ行った後だが、あてがなければ、世界王子の元を訪ねなさい。あいつは今、ファナティライスト南門の先にある森に住んでいる。奴へは俺から連絡しておく。
それから、レフィルのことだが、
「ネル嬢、準備できたか?」
不意にドアをノックされて、ネルは反射的にレインからの手紙を鞄の中に突っ込んだ。慌ててドアを開くと、その勢いにややのけぞったローシスと目が合った。
「お、おはよう」
ごまかすように、ネルはかぶり損ねていた帽子を深くかぶった。ローシスは苦笑した。
「そんなに急がないでも港町は逃げやしない。でも、そろそろ出発していいか?」
「うん、もちろん」
そうは言いつつ、ネルの頭は今しがた読んでいたレインからの手紙のことでいっぱいだった。
今朝、ネルは鳥に──正確には鳥の形に折られたあの手紙に──つつかれて目を覚ました。
ネルは自分の中にくすぶっていた気持ちを昨晩の手紙に綴った。ルナセオが巫子狩りに捕まったこと、それが心配で神都に向かっていること、でも実は、ルナセオが捕まったこと自体がリズセムの計画かもしれなくて、ネルのわがままでローシスに迷惑をかけているのかもしれないこと…
レインの文面は相変わらずどこかそっけないが、彼の書く「気にせずに」のひとことの威力は大きかった。彼が言うなら、ネルのやったことは間違いではなかったのだろう。
それにしても。かばんの中の手紙の続きを考えながらネルは首を傾げた。
(レフィルが、どうしたんだろう)
その名前を聞くと、胸の奥がぞわぞわする。ネルの中にいるという聖女様が嫌がっているみたいだ。無意識のうちに、ネルは自分のコートを握りしめていた。
朝の風は冷たかったが、黒いコートはぬくぬくとネルの身を守ってくれていた。ローシスとネルが村の入り口に向かうと、そこにはひとりの少年が仁王立ちして待ち構えていた。
「やあ!待ってたよ!」
朝から元気そうなディセインだ。隣には例の幌馬車が道をふさいでいる。明るい日のもとで見ると、ブリキの馬がよりいっそう珍妙だった。
ディセインはずんずんこちらに向かってくるなりまくしたてた。
「昨日は挨拶もなしに行っちゃうんだもの。おれ、まだきみたちにお礼ができてないよ」
どうやら彼は、ネルたちのために朝っぱらから待ち構えていたらしい。案外、義理堅い性格のようだ。
「いいよ、お礼なんて。ね、ローシス?」
「そうだな。元はと言えば、この村の人たちに頼まれたことだ。礼ならここの村人にしてやんな」
「いーや!それじゃおれの気が収まらないよ。それに受けた恩はさっさと返せってのがね、我が家の家訓なんだ。きみたち、この先の港町に行くんだよね?おれのヘルシュタインに乗せてってあげるよお」
ヘルシュタイン、と指し示されたのはもちろん、傍らにいるブリキの馬だった。よく見ると、道中で雨風にさらされたのか、ところどころが錆びたり、塗装がはげたりしている。
「アー…『彼』に?」
ローシスは慎重に言葉を選ぼうとしているらしかったが、ディセインは気づいた様子もなく自信満々に胸を張った。
「そうさ!ヘルシュタインはすごいよ。エサいらず、疲れ知らず。おまけに普通の馬より早いからね!ここから港町までなら一刻かからず着けちゃうよ!」
「この、ブリキの馬が…動くの?」
にわかには信じがたい話だった。なにせブリキの馬は、子供がおもちゃにする木馬のような簡素な形をしていた。車輪はついているが、人の手でこの幌馬車を引いていくのは無茶だし、まして馬より早いとは到底思えない。
ローシスも疑わしげにヘルシュタインを見ながら頬をかいた。
「それが本当ならすげえ話だけどよ…」
「じゃあきまりね!」
まだ乗るとは一言も言っていないのに、ディセインは話はまとまったとばかりにネルたちをぐいぐい馬車の中へと追い立てた。ローシスを見上げると、彼は諦めた様子で肩をすくめてみせた。
幌馬車の中は、雑然と荷物が置いてあった。おそらくディセインの売り物なのだろう、何に使うのかよくわからない品々が山となっている。その中に、肘掛けのついた椅子が二脚置いてあった。なぜだか、椅子の脚は床に固定されており、椅子の背もたれからはベルトが伸びている。
「ふたりとも椅子に座ったらベルトを巻いてね。ちょっとだけ揺れるからさ」
言われるがままベルトを腹に巻くのを見届けると、ディセインはうきうきとヘルシュタインの背中に乗った。彼は馬の首のあたりから突き出たハンドルを握ると、意気揚々と言った。
「しっかり捕まっててね。よーし、ヘルシュタイン、出発進行!」
ぎゅいん、聞き慣れない音とともにネルの身体が少し浮いたと思ったら、直後にはその背は椅子にしたたかに押し付けられた。前に置いてあった箱型の商品が、ネルの膝まで飛んできた。
「は、は、は…」ネルはなんとか身体をひねって椅子の背もたれにしがみつきながら叫んだ。舌を噛みそうだ。「はやい!」
速いなんてものではなかった。幌馬車の布の隙間から見える景色はあっという間に飛んでいく。馬車は跳ねるようにガタゴト浮いたり沈んだりし、そのたびにネルの尻も上下に揺れ動いた。
「えへへへへ、すごいでしょー!」
ネルとしてはまったく褒めたつもりはないのに、ディセインの声音は誇らしげだった。
ふと隣を見ると、ガタイのいいローシスもあちらこちらに身体を揺らしていた。なにやら両手を組みながら青い顔でうつむいている。
けたたましい走行音にまぎれて、ローシスの祈りの文句が聞こえてきた。
「マーナ、ロット、先立つ不幸をお許しください、俺はここまでのようです、財産分与はクレイスフィー城のギルビス様に…うっぷ」
「…ディセイン!ディセイン!止めて!ローシスが吐いちゃう!止めてー!」
慌てて張り上げた声は車輪の跳ねる音にかき消されて、幌の外からは「えー、なにか言ったあ?」という能天気な返事だけが戻ってきた。
◆
結果として、ディセインは馬車を止めなかった。
半刻近くも吐き気と闘い続けたローシスは、鋼の精神でどうにかそれを飲みこんだ。騎士ってすごい。ネルは感動した。
とはいえ、ようやく馬車が止まったとき、ローシスはすっかり燃え尽きてしまって、椅子に座ったままピクリとも動かなかった。じっくり見ると胸は上下しているので、生きてはいるらしい。
そう言うネルもすっかり平衡感覚がおかしなことになってしまったのか、立ち上がろうとしてぺたんと膝をついてしまった。
疲労困憊のネルとローシスとは打って変わって、なにやらニコニコツヤツヤしているディセインが元気に幌馬車の中に顔を突っ込んできた。
「着いたよ!どうだった?速かったでしょ!」
「…お願いだから、次に人を乗せるときはもっとスピードを落としてね」
それだけがネルにできる忠告だった。
しばらく馬車の中で休ませてもらい、ようやく復活したローシスとともに馬車を降りると、見たこともない世界が広がっていた。
白い柵の向こうに見えるそれが、海というものらしい。
ネイーダの村の湖より、もっとずっとずっと大きい。どこまで続いているのか、この広大な水たまりの向こうにあるはずの神都の姿は影も見えない。ざぁ、ざぁんと、ゆったりとした音が聞こえくる。なんだろうと柵ごしに見下ろすと、石造りの波止場にぶつかる波の音のようだ。
「おいおい、危ないぜ嬢ちゃん」
身を乗り出したネルの肩を、やさしくローシスが引き止めた。
「海ははじめてか?」
「うん。すごいね、これが海なの?」
日の光を浴びてゆらゆら光る水面は、なんだか吸い込まれてしまいそうで怖いくらいだ。デクレだったらもっと詩的な表現が浮かぶのだろうが、ネルはただただ圧倒されて「すごい」としか言いようがなかった。
ローシスはにっこり笑った。
「内海は陸地に囲まれてて外海には繋がってないから、厳密には海じゃなくて湖なんだが…ま、野暮なことは言いっこなしだな。神都行きの船は昼過ぎに出る便があったはずだ。まずは港に切符を買いに行かなきゃな」
「あ、もう行くの?」
きっぷってなんだろう、ネルは思ったが、たずねる前にひょっこりとディセインが顔を出した。道中でひっくり返った商品の点検をしていた彼は、整理が終わったのか大きく伸びをしている。
「おう、ありがとうな」
むしろ被害を受けただろうに、ローシスは朗らかに礼を言った。「でも、あの速さは改善したほうがいいぞ」
「えー、あれが楽しいのにぃ」
「ディセインはこれからどうするの?」
ネルが問うと、ディセインはかたわらのヘルシュタインの頭部を撫でながら言った。
「あの落石も解決したから、ここで商品を仕入れて南に向かおうかなあ。ここの織物は高く売れるんだ。
また会えたら、こんどはもっとすごいやつに乗せてあげるね!今、開発中のやつ!」
「あ、う、ウーン」
できれば二度と乗りたくないな、そう思ったが、口にはできずにネルはあいまいにほほえんだ。
大きく手を振りながら去っていくディセインと別れて、ネルたちは波止場の近くにある石づくりの小屋にやってきた。入り口に大きな看板がかけられている…「切符売り場」。ここでローシスの言っていた切符とやらを買うらしい。
待合所のような役割も兼ねているのだろう、中にはテーブルと椅子が何脚か並んでおり、旅人らしき風体の男たちが雑談していた。その奥にあるカウンタでは、難しい顔でそろばんをはじいているおばさんが帳簿とにらめっこしている。彼女は入ってきたネルたちを見て片眉を上げた。
「おや、騎士さんかい?」
シェイルの住人たちは、騎士の服は一目見て分かるらしい。
「クレイスフィーのほうへの道は落石でふさがれてるって聞いてたけどね」
「落石は撤去されましたよ、ご婦人」
ローシスはネルを振り返ると、待合所の空いたテーブルを指さした。どうやら切符を買う間、待っていろということらしい。
大人しく手近な椅子に座って待っていると、近くのテーブルで話しこんでいた旅人ふたりの声が聞こえてきた。
「落石が撤去されたなら、南に向かおうかな」
「南かあ。そういや、聞いたか?ラトメの噂」
「ああ、アレだろ?“神の子”が…」
彼らが神妙な顔で声をひそめてしまったので、その先は聞き取れなかった。だが、ラトメと聞いてはっとしたネルは、鞄につっこんだままになっていた手紙を取り出した。慌てていたせいで、手触りのいい紙がくしゃくしゃになっている。
…それから、レフィルのことだが、あいつの姿が最近見えない。それと同じ時期から、ラトメ内外で“神の子”が死んだという噂が囁かれはじめた。
杞憂だといいが、君も用心したほうがいい。あいつが何かをたくらむとしたら、それは君と…君の中に宿る、聖女に絡んでいる可能性が高いのだから。
(“神の子”って、ユールおじさんの、おかあさん?)
レインの言いたいことがよくわからなくて、ネルは手紙を丁寧にたたみ直しながら眉をひそめた。そのひとが亡くなったとして、それがネルにどんな関わりがあるんだろう。
それでも、遠く離れた場所のだれかの死の気配に、ネルの心は落ち着きなくそわそわ揺れた。