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クレッセを救うとは、どういうことだろう?いろんな情報が詰め込まれて、すでにネルの頭はパンク寸前だった。助けを求めて隣のデクレの腕を引くと、心得たようにデクレが尋ねた。
「クレッセを救うって?クレッセはどうしてるんだ、無事なのか?」
「そうだねえ…」
意味深な言い回しに、ネルはぎゅっとデクレの袖を握りしめた。
「クレッセはいま、病気なんだ」
レフィルはさらりと言った。デクレもソラも疑わしそうに目を細めていたが、ネルは気づく余裕もなく慌てて立ち上がった。がたんと音を立てて椅子が倒れた。
「クレッセは、クレッセは大丈夫なの!?」
「まあ、病気といっても、ちょっとした気鬱みたいなものでさ。ずっと閉じこもりだったから気が滅入っちゃったみたいで。だから、故郷の知り合いがいれば良くなるんじゃないかと思って、僕がこの村にやってきたってわけ」
当たり前だ!お父さんが傷つけられて、無理やり知らない場所に連れて行かれて、しかもそこは危ないところで。病気になったってなんにもおかしくはない。
使命感に駆られてネルは意気込んだ…
「わたし、行くっ…むぐ」
…ところで、両隣から母とデクレに同時に口を押さえつけられた。
レフィルはほほえんだままソラとデクレに視線を向けた。
「なにかな?」
「これはネルや僕の一存では決められない。家族で相談させてほしい」
「席を外してもらえるかしら」
母もデクレも、警戒心もあらわにレフィルを睨んでいた。なぜそんな喧嘩腰なのか分からなくてネルはもがいたが、ソラに首を絞められんばかりに腕を回されて押し黙るしかなかった。
レフィルはしばらく考えを巡らせている様子だったが、やがて諦めたらしく立ち上がった。
「…ま、どっちにしろ日暮れが近いしね。今日の出立はできないわけだし、家族団欒のお邪魔はしないさ」
なんにも気にしていない風を装って、ひらひら手を振りながらレフィルは宿を出ていった。去り際、ひょっこり入り口から首を突き出して「あ、一泊するから、部屋の準備よろしく」と言い残して。
扉が閉まるなり、ネルは気色ばんで二人を見た。
「なんで止めるの!」
「逆にあいつを信頼する要素がどこにあるっていうんだ?怪しいにも程があるだろ」
デクレは倒れた椅子を起こすとネルを座らせて、しかめっ面のネルを覗き込んだ。
「まず第一に」
人差し指を立てて言い聞かせるようにデクレは言った。
「あんな僕たちとそう変わらない子供がラトメのお家騒動に関わってるって時点で怪しい。第二に、あいつが父さんとクレッセについて本当のことを言っているかまったく確証がない、第三に、よしんばあいつがすべて真実を語っていたとして、父さんたちを連れ去った奴らの仲間と同行するメリットがどこにもない」
「あんたがいてくれて本当によかったわ、デクレ」
疲れきった表情でソラが向かいの席に腰掛けた。
「私一人じゃネルと冷静に話なんてできやしなかった」
「…お母さんはなんで言ってくれなかったの、ユールおじさんのこと」
恨みがましく母を見ると、彼女は髪留めを外しながらため息をついた。
「言ったってどうしようもないわ。あんたたちみたいな子供が飛び出していけるようなところじゃないのよ。それならなにも知らないまま、この村で平和に暮らしていた方がずっといい。…だけど、もう隠してはおけないわね」
ソラは両手の指を組んで目を伏せた。そうしていると、エルフ特有の怜悧な顔立ちが際立った。ネルは色彩こそ母から受け継いだが、あとはすっかり父親似らしく、よく近所の悪ガキから弱々しい顔だと言われてきた。だから、小さい頃は母の長い耳も切れ長の目に憧れたものだった。
「デクレ、あんたのお父さんとお兄さんを連れて行ったのは、確かに南のラトメディアの兵士よ。あの麻のコートはラトメ神護隊といって、本当は“神の子”を守る特別な兵だったはず」
それからチラリとレフィルの出ていった扉を見て、険しい顔をする。
「あの人の言っていることが本当だとすれば、デクレの言う通り、あれはあんたの家族を連れ去った連中の仲間よ。なぜ“神の子”を守るはずの組織がユールを傷つけたのかは分からないけれど、あなたが行けば、きっとラトメの権力争いに巻き込まれることになる。そればかりか、命の保証もないかもしれない」
「デクレ、危ないの?」
ネルは思わずデクレの腕にしがみついた。「クレッセは病気なんでしょ?でも、デクレは行っちゃいけないの?家族なのに」
「クレッセが病気だっていうのが嘘かもしれないんだよ」
デクレは空いた片手でネルの髪を撫でながら言った。「僕はともかく、ネルまで巻き込む意図が分からない。なんの関係もないのに」
「関係なくないよ、幼馴染だもん!」
ネルが胸を張ると、デクレはふと苦く笑って「そうだね」と呟いた。
「おばさん、僕は行くよ。ここで断ったら、また奴らが襲ってきて、おばさんもネルも危ないかもしれないから」
「わたしも!わたしも行く!」
「ネルはダメだ」
「どうして!?」
愕然と叫ぶも、デクレはそっけなく「危ないから」と言って自分の腕からネルを引き剥がした。
「ちゃんと帰ってくるから、ネルはここで待ってて」
頭の足りないネルも、デクレには約束を守る気なんてないのだとすぐに分かった。帰れないかもしれないくらい危ないところに、ネルを置いてひとり行こうとしているのだと。
デクレはポケットをごそごそ探って小さな袋を引っ張り出した。「本当は誕生日にあげようと思ってたけど」と言って、中から黄色いリボンを二本取り出すと、ネルの栗色の髪に結びつける。
「帰ってこられたら僕と結婚して」
「……やだ!」
再び椅子を蹴倒して、ネルは立ち上がった。歯を食いしばって、拳を握りしめていないと溜め込んだ涙があふれてしまいそうだった。
「やだ、やだ、そんな約束やだ!」
駄々をこねるみたいに叫ぶが早いか、ネルは自室に向かって駆け出していった。残されたデクレは、がっくりと肩を落としてそのままテーブルに突っ伏した。
「母親の前で見せつけてくれるじゃない」
「…だって今しかないと思ったから」
そうねえ、少し冷静さを取り戻したらしいソラは娘の消えていった方を見ながら頬杖をついた。
「あの子が大人しく待てるわけないでしょう。宿の手伝いもサボるほど堪え性がないのに」
「知ってる、だから神都にいくのやめてこの宿を継ごうと思った」
「あらそうだったの?うちの子も女冥利に尽きるわねえ」
それから二人は少し黙った。上階でネルがなにやら暴れているらしいドタバタした音を聞きながら、ソラは諦め顔でちょっと笑った。
「本当はね、あんたは神都の学校に行って立派な祭司様を目指して、それでうちの娘はそれを追いかけて行っちゃうんだろうなって思ってたのよ」
「…ネルが都会で生きていけるわけないだろ、あんなぼーっとした騙されやすいヤツ」
「そうね、ラトメなんて治安の悪い場所に行ったらもっと危なっかしいわね」
デクレはそこで弾かれたように上体を起こした。ソラは肩をすくめてみせた。
「あの子、絶対一緒に行くって言って聞かないだろうから、ちゃんと見張っておいてね」
「でも、おばさん、僕は」
「上の娘はしっかり者だったんだけど、ネルの方はどうも人を疑うのが苦手な子だから。おまけに父親そっくりの頑固者に育っちゃって。きっと苦労すると思うけど、あのくらい能天気な子がそばにいたら、あんたもそうそう無茶はしないでしょう?」
ソラは放りっぱなしのデクレの手を握った。娘と同じ若草色の瞳が、どこか潤んだように見えた。
「デクレ、あんたもうちの息子なんだから、ネルと一緒に、元気に生きていくのよ」
デクレは言葉も継げなくて、ぱくぱくと口を開け閉めしていたが、やがてソラの手を握り返して、ひとつ決然とうなずいた。
「はい。…はい、義母さん」
◆
肩下げのボタンを留める。左右の髪に黄色いリボンを結んで、スカートをはたくと、ネルは16年間慣れ親しんだ自室を見回した。
もう帰ってこられないかもしれないから、昨夜は念入りに掃除をして、母にばれたら怒られそうな、昔壊した宿の備品はこっそり捨ててきた。台所から日持ちする乾パンと干し肉をくすねてきたし、もしデクレと二人でどこかに逃げ出す時があっても、近くの宿に行き着くまでの備蓄にはなるはずだ。
最後に、机の上に畳んで置いてあった白いハンカチを取り上げた。
結局あのお客さんが再びこの宿に現れることはなくて、この高価そうな絹のハンカチはずっと返せずじまいになっていた。もうあの美しい青年の顔もぼんやりとしか思い出せない。
ネルはしばらくそれを眺めてから、肩下げの中に突っ込んだ。あのお客さんが何者であれ、あの日あのお客さんがいなければきっと、デクレとネルもクレッセのいるあの青い屋根の家に行っていた。そう思うと、このハンカチもお守り代わりにはなるかもしれない。
ネルは階段を駆け下りて玄関口に飛び出した。そこにはすでに旅支度を済ませたデクレとレフィルがいて、ソラはカウンタの傍でこちらを振り返るなり呆れたような顔をした。
「やっぱりあんたのことだから、一緒に行くって言い出すと思ってたわ」
母にはすっかりお見通しだったらしい。ネルは開き直ってにっこり笑ってみせた。
「だってね、デクレが危ないところに行くなら、わたしが守ってあげなくちゃ。クレッセの病気を治して、ユールおじさんにも会って、それでね」
デクレの左手をぎゅっと握って、意を決して告白した。
「ぜんぶ終わったら、一緒にこの村で結婚しようね!」
瞬く間にデクレの顔が茹で上がった。その後ろでレフィルが口笛を吹く。ソラはやっぱり呆れた様子でため息をついた。
デクレはネルの頬っぺたをつまんで、照れくさそうに「ばかネル」とつぶやいた。