28
「ほら、これが君の旅券だ」
ギルビスは自分の机から取り出した、手のひらサイズの木の板をネルに差し出した。端の方に穴が空いていて、青い紐がくくりつけられている。名前、性別、出身に誕生日と、ネルの簡単なプロフィールが彫られている。
「ファナティライストに入るにはこれが必要になる。なくさないように気をつけるんだよ」
「へえ。ギルビス、私のぶんは?」
横からネルの旅券を覗きこんでいたメルセナが尋ねると、ギルビスはほほえんだ。
「セーナが神都に向かうときに渡すよ」
いちばん下に、旅券の発行年月が書かれていて、ネルはメルセナに見えないようにそっと指を添えて隠した。この旅券が発行されたのは5年以上前のようだ…なんとなく、メルセナには知られないほうがいい気がした。
「じゃあ俺も支度をしてきますよ。ネル嬢、一刻後に城の入り口で落ち合いましょう」
ローシスは手持ちの書類を捌ききったのか、朗らかにそう言って詰め所を出て行った。あの人とふたりで旅するのか、ネルは今さらながら緊張してきた。
「ローシスは頼りになるから、安心して行くといい」
ネルの不安を察知したらしく、ギルビスは穏やかに言った。
「君も旅支度をしておいで。すぐにでもルナセオを助けに行きたいんだろう?」
ネルははっとした。そうだ、ルナセオを助けに行くのだから、緊張だのなんだのと言ってられない。ネルは大きく頷くと、あてがわれた部屋に向けて駆け出そうとして…すぐに足を止めた。
「えーと、わたしのお部屋、どこだったっけ?」
◆
リズセムに「騎士団の一員として」と説明された通り、ネルにはギルビスたちが身にまとっているものとよく似た黒いコートが与えられた。しっかりした分厚い生地だが、着てみるとそんなに重くない。かっちりとした軍服のようなデザインは、着ているだけでぱりっと身が引き締まる気がした。
幸い、今回は時間がなかったのであの垢擦り地獄は省略してもらえた。メイドたちが着替えを手伝ってくれようとするのを固辞したところ、彼女らは代わりにネルの髪をきれいに整えてくれた。赤く染まった部分は高めの位置に編みこまれて、帽子をかぶれば見えなくなるように。せっかく可愛らしくまとめてくれたのに、帽子をかぶるのがもったいない。
デクレにも見せたかったなあ、鏡を見ながらちょっぴり残念に思っていると、部屋の扉が軽快にノックされた。返事をする前にひょっこりと小柄な人物が顔をのぞかせた。メルセナだ。
「いいじゃない!」
メルセナはネルの服装を見るなり、開口一番そう言った。それから廊下を振り返って声を張り上げる。
「ちょっと、いつまでいじけてんのよ。ネルに挨拶しなさいよ」
メルセナの頭ごしに廊下をのぞくと、相変わらずコケでも生えてきそうな風体のトレイズが立ち尽くしていた。
「トレイズさん、元気ないね」
「アー…悪い、ゼルシャに行くのは、少し、気が重くてな」
トレイズはガシガシ頭を掻いた。
「いや、俺の話はいいんだ。悪いな、俺たちが一緒に行ってやれなくて」
「リズセム様のお願いだもん、しょうがないよ」
これまで一緒に旅をしてきたのだ。メルセナやトレイズと離れるのは不安だが、リズセムには考えがあるのだろう。ネルにはまったく察せないけれど。
「セオはわたしがちゃんと助けるからね」
口にしてから、気がついた。そう言って旅立った結果、クレッセは助けられず、デクレとも離ればなれになってしまったのだ。
ぞっと背筋が粟立ったが、ネルはどうにかそれを押し隠して笑みを作った。リズセム様の言うような、辛いときこそ笑える人に、わたしもなりたいから。
だけどネルはまだまだへたくそらしい。トレイズはなんだかばつの悪そうな顔になって、ネルから視線をそらしたから。
「ルナセオな。アイツ、大概いつも明るいだろ。きっと巫子になるまで、辛いとか苦しいとか、あんまり思わなかったんだろうな」
突然トレイズが語り出したので、ネルとメルセナは顔を見合わせた。
「旅に出てすぐの頃、俺、アイツに『大丈夫か』って聞いたんだ。アイツ、なんのことかわかってないような顔してさ。たぶんこれまで、そんなしんどい思いをしたことなかったんだろう」
だからさ、トレイズは続けた。
「あの巫子狩りへの憎しみも、ラゼを死なせた苦しさも、ぜんぶ吐き出しちまって楽になったっていいんだって、アイツに言ってやってくれ」
「アンタ、ちょっとは気を遣えるようになったじゃない」
メルセナは目を丸くしてそう言ったが、ネルはあまり驚かなかった。厳しいこともたくさん言うけれど、トレイズはいつだってネルたちに親切だった。ラトメの人なのに、ここまで一緒についてきてくれたし、クレッセのことだって、否定はすれども、ネルたちの好きにさせてくれている。
「うん」
ネルは素直にうなずいた。
「トレイズさんが心配してたよって、セオに伝えておくね」
「いや待て、そういうのは言わないんでいいんだ。恥ずかしいだろ」
「めいっぱい脚色して言ってやりなさい、ネル!トレイズのやつ、セオがいなくて寂しくてじめじめしてたって!」
「やめろ!」
メルセナとトレイズがぎゃいぎゃいいつもの調子で喧嘩を始めるのを見て、ネルは今度こそにっこり笑った。ぜったい、ルナセオをこのあたたかい空気の中に連れて帰ろう。そう固く決意して。
◆
すっかりメルセナたちと話しこんでしまったネルが慌ててマントを羽織って城のロビーに駆け込むと、すでにローシスは準備万端の様子でギルビスと話していた。
「ごめんなさい!」
勢いよく頭を下げたが、ローシスはまったく気にしていない様子だ。
「お嬢さんの支度には時間がかかるもんですからね。じゃ、ギルビス様。行ってまいります」
「ああ、よろしく頼む」
ネルはギルビスになんと言うべきか、すこし悩んだ。
「ギルビス、あのね…」
すると、彼はネルの前に片膝をついて、懐からなにやら小箱を取り出した。彼の瞳とおなじ、濃紺のリボンがかかった、手のひら大のベルベットの箱は、なぜだか少しだけ色褪せて見えた。
「君の15歳の誕生日プレゼント」
「…ギルビス、わたし、もう16歳なんだけど」
「知ってる」
ギルビスはくすりと笑った。
「世界大会議がはじまる頃には、私たちも追いかけるよ。それまで気をつけて行っておいで」
やさしく頭をなでられて、ネルはギルビスを見上げた。
「うん、行ってきます」
やっと素直に口にできて、ネルはほっとした。ギルビスは純白のマントをひるがえすと、「じゃあ、私は仕事に戻るから」と言い残して颯爽と立ち去っていった。
「あーあ、ネル嬢も罪な人だなあ」
「どういうこと?」
ローシスは声を上げて笑った。
「ま、いずれネル嬢にも分かる日がきますよ。あ、ところで俺も家族に旅立ちの挨拶に行ってもいいですかね?伝令は寄越したんですが、一言くらいは声をかけなきゃね」
「えーと、ローシスさんは、いいの?突然神都に行くことになっちゃって」
家族がいると聞いて、ネルは申し訳なく思った。突然遠くに行くことになったと知ったら、きっと家族は悲しむだろう。
だが、ローシスはひとつ肩をすくめた。
「うちの嫁さんときたら、大手を振るって送り出してくれますよ。度量が広いんでね」
ローシスの家は城からほど近いところにあるらしい。メルセナの家と同じだ。きっと騎士たちはみんな城の近くに家を持ってるんだろう…ネルは短絡的に考えた。坂を下りながら、ネルはローシスとはぐれないように背後にぴったりくっついていった。彼は大柄で、人波を切るように迷いなく歩いていく。よくこんな人混みで立ち止まらずに進んでいけるものだ。
そのガタイの良さとは裏腹に、彼の住まいはこじんまりとかわいらしい一軒家だった。ちょうど家の前に巻き毛の女性が花壇の世話をしていて、こちらに気づくと軽く手を振ってきた。
「アンタ、すぐに発つって言ってたじゃないか。こんなトコほっつき歩いて何してんだい」
ローシスの奥さんは豊満で華やかな見た目だが、旦那さんには辛辣なようだ。しかし、当の夫は妻のつれない態度も慣れっこの様子だ。
「護衛するお嬢さんに許可をとったのさ。発つ前にうちのチビの顔を見ておこうと思って」
「あらまあ、ウチのが迷惑をかけてごめんなさいね」
ジョウロ片手にペコペコと頭を下げてくるローシスの奥さんに、慌ててネルもお辞儀をした。
「あ、あの、こちらこそごめんなさい。突然…」
「ロット!パパが来たわよ。ロットー!」
ローシスの奥さんは最後まで聞いちゃいなかった。玄関口から叫ぶ姿を眺めながら、ローシスは小声で言った。
「妻が申し訳ない。あの通りせっかちなもんでね」
「ううん、そんな…」
「パパー!」
そのとき、玄関から、小さな男の子が飛び出してきた。まだ6つか7つくらいだろうか。奥さんそっくりのくるくるの巻き毛に、目の色はローシスと同じだった。ローシスは息子を受け止めると、そのまま高く持ち上げてみせた。
「よお、我が家のおチビさん。元気だったか?」
「うん!パパ、またぼうけんに行くんでしょ?いつ帰ってくる?」
「そうだなあ、ロットがいい子になったら帰ってこようかな」
「なんだい、適当なこと言って」
ローシス一家はいっせいに声を上げて笑った。しあわせそうな姿だ。
不意に、ネルはこういう家族の姿にあこがれた日もあったことを思い出した。父は小さい頃に村を出て、姉もレクセの学校に入ってしまったから、ありふれた家族団欒というものを経験した記憶があまりなかった。この5年は母とデクレと3人の生活にすっかり慣れていたけれど、小さい頃は…そう、ほんのすこし、寂しかったような覚えがある。
ネルはなんとなく手持ち無沙汰になって、ギルビスからの贈り物をそっと開けてみた。買ったままどれだけ放置されていたのか、箱を開くときに、継ぎ目の部分がぱりりとかすかな音を立てた。
入っていたのは、エナメルの黒い靴…をかたどった、ピンブローチだった。ギルビスのセンスに、ネルは小さく吹き出した。
ネルの住んでいた村では、15歳の誕生日が節目のようなもので、村の中で一人前と認められる。だから男親は、子供にどこへ向かってもいいと許すため、新しい靴を贈るのが慣例になっている。ネルとデクレには、父親の代わりに村長が新しい靴を用意してくれた。
きっとギルビスは、ネルの15歳の誕生日に、靴を贈ろうとしたに違いない。けれどネルの足のサイズなんてわからないから、靴をかたどったブローチで代用しようとしたのだ。
ルナセオを助けて、クレイスフィーに帰ってきたら、まずはギルビスの机の中を調べよう。ネルはこっそり決めた。たぶんあの人はまだ、ネルや、姉や、それから母に、渡せずにいるなにかを隠し持っているはずだから。