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ギルビスに連れられて入ったクレイスフィー城の中は、なるほどルナセオやメルセナの言うとおり、息を呑むほどの美しさだった。柱ひとつ、窓ひとつ、扉ひとつとっても一片の隙も見せない上品で凝った装飾で、こんな長旅でくたびれたネルたちが足を踏み入れていいのか悩むほどだ。しかし、みずから先導する騎士団長はまったく気にしていない様子で、スタスタと廊下の先へ進んでいく。
「王殿下ご家族が是非巫子たちと夕食をともにしたいとのご意向だ。侍女たちにしたくを手伝うように指示しておいたから、旅の汚れを落としておいで」
「王様たちと食事!?」
メルセナが悲鳴を上げた。
「ギルビス、私たち王族と会食できるようなマナーなんてないわ」
「まあ、あの方々の無茶はいつものことだから」
そう言うと、ギルビスはやれやれと首を振った。
「下々の生活まで熟知されている皆様だ、なんとかなるよ。一応給仕や料理人には、巫子たちが困らないように配慮してくれと頼んでおいた」
このギルビスという人は、ネルたちのためにあれこれ奔走してくれたらしい。騎士様ってそんなこともするんだなあと感心していると、最後尾からトレイズが控えめに口を挟んだ。
「…もちろん、俺は参加しなくていいよな?」
「なに言ってんだよ。子供たちだけ王族の前にほっぽりだして逃げる気かい?」
ギルビスは振り返ると、数歩後ずさったトレイズに向けてにこやかに笑った。
「いい機会だから殿下がたの前に出る前に髪を切って髭を剃れ。付き添いで来た隻腕の男はことさら磨いておいてくれと言ってある」
「お前…まさかそれが目的で自ら指示出したな!?」
「会食には私も警護で立ち会うから。君がどれだけ変身を遂げるか楽しみにしてるよ」
トレイズはがっくりとうなだれた。ふたりの様子を交互に見て、ネルは首をかしげた。
「トレイズさんとギルビスって仲良しなんだね」
「そう見えるか?」
肩を落としたまま言うトレイズの声には覇気がなかった。
◆
そのあと、客室に通されたネルたちは、せっかくの素晴らしい部屋を堪能する間もなく、いく人もの女性たちに引き渡された。あれよあれよという間にネルの服は引っぺがされ、大きな湯殿でガリガリと削られるように汚れを落とされ、今まで着たこともないような触り心地のいいワンピースを着せられて軽くお化粧などされた頃には、ネルは疲れ果てて崩れ落ちそうになっていた。
「わかるわ」
別室に連れて行かれたメルセナもルナセオも同じ目に遭ったらしく、合流した三人は深く頷き合った。
「上流階級って優雅なもんだと思ってたけどとんでもない。私、今日ほど庶民でよかったとパパに感謝したことはないわ」
「風呂入って着替えるだけで人って消耗するんだな」
遠い目をしながらルナセオは首元のループタイを指先でいじった。メルセナはネルと同じようなワンピース姿だったが、ルナセオはパリッとしたシャツにベストを重ねていて、ぱっと見た限りではどこかのお坊ちゃんのようにも見えた。
「でも、たぶん俺たちだいぶ手加減してもらってるよ。本当なら王様との食事なんて、こんなカジュアルな格好じゃできないはずだし」
「これでカジュアルなの!?」
ネルはびっくりして自分の身体を見下ろした。こんな上質なワンピース、村にいれば一生袖を通すことがないほど贅沢な品なのに!?
メルセナはひらひら手を振って「無理無理」と笑った。
「お貴族さまはコルセットを締めて重たいドレスを着るんでしょ?それも憧れるけど、私には一生縁がなくていいわ。肩が凝っちゃうもの」
絵本の中では庶民が王子様に見初められるような話もあるが、その女の子だって、召使に寄ってたかって磨き上げられて飾り立てられることを知っていたら王子様の手なんか取らなかったかもしれない。そう思ったところで、ネルは思い出した。そういえばデクレだって、ラトメの“神の子”とかいう偉い人の子孫だった!
さっと青ざめたネルに、ルナセオが首をかしげた。
「ネル?」
「…なんでもない!」
ぷるぷる首を振って嫌な想像を振り払ったところで、ネルたちのいる待合室の外から、扉越しにくぐもった声が聞こえてきた。
「トレイズ、そんなとこで何してるんだ。通行の邪魔だから部屋に入れよ」
「…帰る!俺はもう帰る!」
「そんな面白い格好しておいて今更だね。腹を括れよ」
なんだなんだと顔を見合わせていると、扉が開かれてギルビスが現れた。後ろに、赤錆色の混じったブラウンの髪を後ろになでつけた、背の高い紳士を引き連れて。
「…トレイズ、さん?」
ポカンとしてつぶやくと、背後でルナセオとメルセナが同時に噴き出した。紳士を指差してゲラゲラ笑うふたりに、トレイズは頭を抱え…ようとして、セットした髪に触れるのをためらった。
「ほら!ほらな、こうなるって思ってたんだ!俺には礼装なんて似合わねえって!」
「いや…いやいや、似合ってるって、ふふ、ははは」
腹を抱えてルナセオは爆笑しているが、ネルはそんなにおかしな格好かなあ、と目を瞬いた。
「ことさら磨け」というギルビスの指示が忠実に守られたのか、髪を揃えて髭を剃ったトレイズは、ひとまわりは若返ったように見えた。かっちりした燕尾服に、隻腕を隠すように左肩に薄手のペリースを引っかけている。もともと男らしく引き締まった体型だからか、正装姿だとずいぶん男前に見えた。
「かっこいいよ、トレイズさん」
ネルは素直な感想を口にしたつもりだが、当の本人は実の嫌そうに首元のタイを少しだけ緩めながらげんなりした。
「いいんだぞ、お前もあいつらみたいに笑って」
「人の厚意が素直に受け取れない奴だな」
ギルビスがさっくりと毒を吐いた。
「さて、王家の方々の準備も整ったようだから、食堂に案内しよう。申し訳ないが、王族の方が着席するまでは起立して待っていてくれるかい?あとは特にマナーも気にしないでいいから」
それくらいならネルにもできそうだ。ふたたびギルビスについて案内された食堂は、これまた贅を尽くした一室だった。深い緑色の絨毯はふかふかだ。長いテーブルにはシワひとつないクロスがかけられて、色とりどりの花が生けられた花瓶や、ナプキンが添えられたお皿がシャンデリアの明かりに照らされてキラキラ光っている。
奥の壁際に、鞘に入れられたままの剣を床に突き立てるように握る、三人の男たちが立っていた。皆、ギルビスと同じような黒い騎士服を身にまとっている。
「細かい紹介は今度にするが、我がシェイルディア騎士団の一等騎士たちだ。今後も君たちも会う機会があるだろうから、護衛がてら同席させていただくよ」
ギルビスがネルたちを順番に席に案内しながら言った。メルセナが三人の顔を順番に見て、ギルビスを振り返った。
「パパは?」
「君のパパなら今、山積みの書類とオトモダチしてるよ」
三人の騎士のうち、いちばん年若い蜂蜜色の瞳の青年がパチリとウインクした。「あの調子じゃ、今夜は紙の束と一夜を共にすることになりそうだね」
「ヒーラ、余計な口を叩くな」
いちばん右端にいた、プラチナブロンドの髪を撫であげた神経質そうな男が睨みをきかせた。
「浮かれて職務を果たせなくなったら、お前を一等騎士から解任するからな」
「そりゃないぜ、ダラー殿!」
真ん中の大柄な騎士が豪快に笑った。
「セーナ嬢のいなかった時のヒーラ坊ときたら、かわいそうに砂糖をむさぼるだけのしかばねみたいになっちまって。少しぐらい浮かれたって許してもらわなきゃ。なあ?」
「さっすがローシス殿、話がわかる!」
三人の名前が出揃ったところで、ギルビスはこちらを振り返って「今ので紹介も不要かな?」と肩をすくめた。彼はダラーの隣に立つと、他の騎士同様腰に差した剣を鞘ごと抜いた。
「王殿下より、君たちを保護する許可をいただいた折、彼らには私の知る限りの事情は話してある。何かあれば彼らを頼るといい。我がシェイルディア騎士団の中でも腕利きの者たちだ」
「なに、我らが騎士団の姫が赤の巫子の大役を仰せつかったとなれば、この城の者は誰でも助けになりますよ」
ローシスが鷹揚に手を広げると、その横でヒーラもうんうん頷いた。
「この許可ひとつもぎ取るのに王殿下の行方をひと月追い続けたギルビス様の苦労も報われますね!」
「うん、ヒーラ。やっぱり君は黙るといい」
和やかな騎士たちの中で、唯一顔をしかめたダラーが深いため息をついた。
「この中の誰も言わないから私が言うが、巫子よ。貴殿らを迎え入れた王族の皆様に感謝するがいい。本来ならば、いち平民が王殿下と食事を共にするなど許されない話だ」
「こーいうヤツなのよ、ダラーって」
メルセナがネルにしか聞こえない小声で解説した。
「王族第一。第二、第三はなくて、第四がギルビスってかんじ。私、ギルビスにお茶入れてもらった時散々嫌味を言われたもの」
それは、この人に王様と焚き火を囲んで、あまつさえ鳥一匹捌かせたと知られたら怒られてしまいそうだ。彼には決して悟られるまいとネルはダラーから視線をそらした。
その時、突然ギルビスが両脚を揃えて姿勢を正し、右腕は下ろしていた剣を立て、左手は背中に回した。それにならうように、他の騎士たちも口を閉じて同じポーズをとって整列する。何事かと目をパチクリしていると、食堂の扉が開いた。
「やあ諸君!待たせたね。うちの宰相がグチグチ口うるさいものだから時間がかかってしまったよ」
「殿下!私は殿下の身を思えばこそで…!」
先頭切ってにこやかに入ってきたのはリズセムだった。旅装というには風変わりなあの服装から着替えたらしく、ふんわりとしたブラウスの上にに金糸の刺繍が入ったサーコートを纏っていた。その後ろから、長いローブ姿の老人が続く。さらにあとに続いて、少女と青年が入ってきた。
ネルは、にこにことリズセムと老人のやりとりを見てほほえむ少女に目が釘づけになった。はっと目が覚めるような美少女で、星を集めたようなきらきらした銀髪と、宝石みたいな瑠璃色の瞳はエルディにうりふたつだ。しかし、なんだか彼女を見ていると胸の奥がざわざわして、ネルは落ち着かなくなった。
老人はリズセムの椅子の傍らに立ち、残りの三人が着席したところで、リズセムがハタハタと手を振った。
「さあ、遠慮せずかけたまえ。騎士諸君も楽にして構わないよ」
リズセムが卓上のベルをチリンと鳴らすと、食事の皿を持った給仕たちがしずしずと並んで現れた。目の前に美しく盛られた野菜とフォークが置かれて、ネルは緊張で手に汗がにじんだ。こんなにお上品なサラダは生まれて初めて見た。
ワインの入ったグラス(実年齢は知らないが、彼の見た目で飲酒してもよいのだろうか)を掲げて、リズセムは少し頭をひねった。
「さて、何に乾杯しようか。ここは手っ取り早く世界平和でも祈っておくかい?」
「父上らしからぬ高尚さですね」リズセムの右手側に座った細身の青年が穏やかに言った。
「じゃあ無難に、今後の我がシェイルの繁栄と巫子との友愛に乾杯!」
王族の真似をしてグラスをおっかなびっくりかかげると、中身のジュースが明かりを反射してきらりと輝いて見えた。
「殿下、わたくしどもを是非巫子様に紹介してくださいな。わたくし、お会いするのをとても楽しみにしておりましたの」
鈴の鳴るような声で銀髪の美少女が言うと、リズセムは葉野菜を刺したフォークを揺らした。
「それもそうだ。君たち、彼女は僕の最愛の妃でナシャ。おっと、男性諸君は名前を覚えずとも構わないよ。我が妻の造形美は芸術を超えた完成度だが、だからといって他の男に色目を使われては嫉妬で狂ってしまいそうだからね」
「ふふ、リズったら」
王妃様がくすくす笑うと、ネルの胸がまたざわめいた。なんなんだろう?彼女はフォークを置いて、両手を胸に当てた。
「ご紹介にあずかりまして、ナシャでございます。ルナセオ様とトレイズ様は一度お会いしましたね。巫子様がたにお目通りが叶い光栄です」
「あ、どうも…」
「それでこっちが息子のラディ」
リズセムはナシャとは逆どなりにフォークの先を向けた。リズセムと同じ茶髪に黒い瞳の青年は、母と同じように胸に手を当てて一礼した。見た目はどう見積もっても両親より年上だ。
「ラディと申します。道中、父と遭遇したとのことでさぞ迷惑をおかけしたでしょう。父に代わってお詫び申し上げます」
「いっ、いえ、そんな!」
ネルは焦って首を横に振った。
「あの、すごく楽しかった、です」
息子の謝罪に対して、当の父親は意に介した様子もなくケタケタ笑った。
「どうせウチの城に来るんだから一緒に行動したっていいじゃないか。迷惑ったってせいぜい視察に付き合ってもらったくらいだよ」
「父上は歩く災害ですから。もう少しあなたが周囲に与える影響を自覚なさるとよいでしょう。エルディの苦労が目に浮かぶようです」
「ところでガキンチョは?」
リズセムが壁際にいた騎士たちを振り返ると、ギルビスが代表して「ためこんだ書類仕事と格闘中です」と答えた。
「なんだい。じゃあこの機会に娘にあることないこと吹き込んでやろうか」
「父上、本題を」
さらりとラディが軌道修正すると、つまらなさそうにリズセムが頬杖をついた。
「まったくこっちの息子はからかい甲斐がなくてつまんないなあ。まあいいさ。君たちの事情は道中でだいたい聞いたし、こちらの情報網である程度のことは知っている。9番を助けたいというのが君たちの意思ならおおいにやりたまえ。この都市で保護するのもやぶさかではないし、世界王陛下やロビ坊やに会いたいと言うなら力も貸そう。
…ただし、タダではない」
リズセムの声が低くなって、ネルたちは思わず背筋を伸ばした。彼は例によって底知れない笑みを浮かべている。
「我がシェイルに恭順を誓い、僕の手足として何くれと働いてくれるなら、その見返りに僕は君たちの安全を保証しよう。君たちだって、僕が無償で君たちを守る気だとは思ってないだろう?」
事実、初めて会った日に「タダ飯喰らいに用はない」と言い放ったことは記憶に新しい。わざわざ念押ししてくるほど、ネルたちは信用がないのだろうか。あいまいに頷いたネルたちに、リズセムは嬉しそうにぽんと両手を叩いた。
「ならばいい!是非とも君たちの働きを期待しているよ。じゃあ手始めにひとつ教えてくれたまえ」
ネルはドキリとした。リズセムの黒曜の瞳がまっすぐにこちらを射抜いていた。
「聖女くん。恭順の証にこの場で話してくれるかい?君がいつ、どうやってその印を手に入れ、なぜレフィルに狙われているのかを」