22
はやく帰ってこいと言われていたのにすっかり遅くなってしまった。宿に戻ったネルは、怒られやしないかとびくびくしながら男性陣の部屋をノックした。リズセムは自分の部屋の鍵をくるくるもてあそびながら廊下の壁にかけられた絵を眺めている。
「あっ、ネル!」
内側から扉を開けたのは、なぜかメルセナだった。「どこ行ってたの?湖に行ったきりなかなか帰ってこないんだもの。心配したわ」
「あっ、セーナ、ごめんね」
肩越しに部屋の中をうかがうと、ルナセオとトレイズは不在のようだった。椅子にかけたエルディがしかめっつらでお茶を飲んでいて、なぜかテーブルの上にメルセナとネルの荷物が載っていた。その中にチルタから預かった魔弾銃と日記があるのを見つけたところで、メルセナがパチンと両手を合わせた。
「いや、こっちこそ、ごめん!あのね、パパにバレちゃったの。レクセでセオのパパとママに会ったこと!」
「そうなの?」
ネルは小首を傾げた。もとより隠しておきたかったのはエルディよりもトレイズに対してだったから、彼にばれてしまったところで謝るほどのことでもない気がする。
しかし、ネルの予想は甘かった。エルディは明らかに怒っていた。魔弾銃を片手に持って軽く振ってみせる。
「トレイズさんに隠しておきたい気持ちはわかる。でも、こんな危険なものを鞄に入れっぱなしにして、なにかあったらどうする?それに9番の日記を読みたいからといって子供たちだけで夜に抜け出すなんて。巫子の力も使いこなせないのに早計だとは思わなかったのか?」
「ご、ごめんなさい…」
ネルはしゅんとしぼんだ。エルディは怒り冷めやらぬ様子でイライラとカップを持ち上げた。
「気づかなかった私にも責任があるが…なんならレクセにもう少し滞在したってよかった。私も一緒についていく方法なんていくらでも…」
首を横に振って、口元でカップを傾けたところで、ネルの背後からリズセムがひょいと顔を出した。
「へー、9番の日記?そいつは興味深い。僕も読んでいいかい?」
エルディが勢いよく紅茶を噴き出した。メルセナが慌てて魔弾銃と日記を回収した。どうやら荷物にはかからなかったみたいだ。
音を立ててカップを置いて、咳き込みながらエルディは立ち上がった。ただでさえ白い彼の肌が今や真っ青になっている。
「で、で、で…」
「あーコレコレ。この子のこういう反応が見たかったんだよね。いやあ、これだけでここに来る価値があったというものだ。ねえ?」
リズセムがエルディを指差して笑いながらネルに同意を求めたが、何か言えようはずもなかった。いつも冷静なエルディは恐慌したようすで、震える指先をリズセムに向けた。
「な、なぜここに」
「うーん、なんとも捻りのない質問、零点だ。なぜって、ピアからもギルビスからも、巫子がシェイルに来るから城に帰れとうるさいくらいに手紙を寄越すもんでね。まあ待ちぼうけを食らわすのも一興だが、我が最愛の君が帰りを待っていてくれると言うじゃないか。たまには付き合ってやるかと思ったら、君の匂いがしたから是非遊んで行こうと思ってここに参上したというわけさ!嬉しいだろう?」
「そうですか…叶うならば今すぐに逃げ出したいほど光栄です…」
頭を抱えるエルディのことはまったく気にもしないで、リズセムは部屋の中に入りこむと、メルセナの手に抱えられた魔弾銃を取り上げた。手の中で一回くるりと回すと、慣れたようすでひとつ振って、外れた部品の中身を見た。
「うん、弾は抜いてあるね。どっちにしろ君に打ち明けない限り使えない状態だったというわけだ。そうカリカリするもんじゃないよ。余裕のない男はモテないといつも言っているだろう?」
リズセムがもう一度銃身を横に振ると、ガチンと音を立てて部品がはまった。鮮やかな動きだ。
メルセナは呆然としたままリズセムを見上げた。
「アンタ、誰?」
「セーナ!」
父が厳しい声で制止したが、発した言葉は戻らない。リズセムは気にした風もなくケラケラ笑うと、銃の取っ手をメルセナに向けて返した。
「これは失礼。僕はリズセム。そこにいる見た目だけ一級品のポンコツ…おっと、君の父だったか。彼の後見人であり上司にあたる。お会いできて光栄だ、お嬢さん」
「セーナ、このひと、シェイルの王様みたい」
ぽかんとしているメルセナに補足を入れると、彼女はどしゃりと荷物を取り落とした。
「王殿下!」
そのままメルセナ自身もべしゃりと座りこむと、父親に負けず劣らず青ざめて平伏した。
「たっ、大変申し訳ありません!王殿下とは知らず無礼な口を!」
「ハハッ、いいねえ無礼!どんどん無礼な口を聞いてくれたまえ。そのたびに慌てふためくガキンチョを見たいものだ」
リズセムはエルディの座っていた椅子を奪うと、優雅に脚を組んで腰掛けた。
「君たち僕に会いにシェイルに来たんだろう?せっかくなら一緒にクレイスフィーまで行こうじゃないか」
「殿下…我々は徒歩で首都まで行く予定でした。御身のためにもご一緒いただくわけには…」
「僕がここまで護衛を引き連れて旅してきたように見えるかい?自分の身くらい自分で守れるさ」
そういえば、リズセムはネルに話しかけてきたときからひとりだった。王様もひとりで旅なんてするんだなあ、押し問答するエルディとリズセムを呑気に眺めていると、隣に避難してきたメルセナがため息をついた。
「パパがあんなに嫌そうな顔するなんて珍しいわ」
「エルディさん、いつもクールだもんね」
どうやらエルディはリズセムのことをずいぶん苦手にしているらしい。ネルたちを怒っていたことなどすっかり頭から飛んでしまった様子で、リズセムにからかわれて嫌そうな顔をしている。
「なんで王様と一緒だったの?」
「あのね、湖で声をかけられたの。わたしたちのこと、いろんな人から聞いてたみたい。それで、そんな暗い顔するもんじゃないって言われて、村の中を一緒にお散歩してたの」
「う、うーん、なんでそこでお散歩することになったのか分かんないわね。でも気晴らしにはなったのかしら」
ネルのへたくそな説明ではメルセナは理解できなかったらしいが、彼女はネルをまじまじ見てほほえんだ。
「ネル、ちょっと明るい顔になってるもの」
「そう、かな」
自分ではよく分からなくて、ネルはモニョモニョと自分の頬をこねた。
「うん…でも、そうかも。楽しかったから」
考えてもみれば、ラトメを出てからこっち、こんなにのびのびと過ごすことなんてなかった。村に立ち寄ったところで、ただ宿泊するだけか、せいぜい不足した食料を買い足すくらいの用事しかない。次の日には出発していたし、まさか村人と和やかに話したり遊んだりなど、考えたこともなかった。
するとメルセナは、なんだか感極まった様子でネルの腰に抱きついた。
「クレイスフィーに着けば、もっと楽しいわよ!私が街を案内してあげる。デクレが羨ましがるくらいお土産話を作るといいわ!」
「う、うん…あれ、セーナ、なんで泣いてるの?」
なぜだかワンワン泣き出してしまったメルセナの背中を撫でていると、ふと口論していた男たちが黙ってこちらを見ていることに気づいた。エルディはネルと目が合うとばつが悪そうに顔を背けた。
「…今回だけですよ」
「うんうん、お嬢さんひとり笑わせてやれない自分の不甲斐なさをぜひとも後悔するがいいよ」
なんだか分からないが、とにかくクレイスフィーまではリズセムも同行することになったらしい。リズセムは満足そうにニコニコ笑って、勝手にチルタの日記を読み始めた。そのマイペースな主人の姿を見ながら、エルディは遠い目を窓の外に向けた。
「…トレイズさんが卒倒しなければいいが」
◆
宿の部屋に戻ってきたトレイズは、あたかも最初からいたかのように自然に居座るリズセムを見て、驚きのあまり後ずさって廊下の壁に背中を打ちつけた。
「シェイル王殿下!?」
酒を入れてきたのか、やや赤らんでいたトレイズの顔が黒っぽくなった。チルタの日記に飽きたリズセムは、メルセナから借りた幻獣図鑑に視線を落としたまま片手を挙げた。
「やあ紅雨の、久しぶり!今いいところだから礼を失しているのは勘弁しておくれ」
「な、なぜここに」
奇しくもトレイズの放った台詞はエルディとまったく同じだった。メルセナがお茶菓子をつまみながら「匂いがしたらしいわよ」と解説した。
「王様?シェイルの王様が来てるの?」
トレイズの脇から顔を出したルナセオは、熱心に図鑑を眺める少年の姿に目を丸くした。彼はキラキラ目を輝かせながら図鑑の裏表紙を閉じた。
「いやはや、素晴らしい図鑑だった。幻獣の類は伝承が多岐にわたっていて、編纂の難しい題材だと思っていたが、なかなかどうして世の中には才ある編者がいたものだ」
それからリズセムは図鑑をメルセナに返しながらひとつ頷いた。
「6番の印で召喚できる幻獣には限りがあるだろうが、まあ片っ端から試してみるといい。確か昔の6番が召喚した幻獣のメモが城に残っていたはずだから帰ったら貸してあげよう」
「ホント!?」
飛び跳ねて喜ぶメルセナを横目に、ルナセオはネルの隣にやってきて耳打ちしてきた。
「本当にシェイルの王様?芸人とかじゃなくて?」
リズセムの風変わりな格好に不審そうな視線を向けるルナセオだったが、彼の小声はばっちり本人の耳に届いているらしかった。
「そうだねえ、僕も王様なんかより芸人になりたかったなあ。あいにく妻子を食わせるほどの才能がなくってねえ」
立ち上がったトレイズが青ざめたままルナセオの肩を引っつかんだ。
「お前…お前!マジでその方にだけは失礼な口を聞くな、ケツの毛まで尊厳のすべてをむしり取られるぞ!」
「そういうトレイズがいちばん失礼なんじゃないの?」
「やだなあ、君なんかのケツに興味ないよ」
リズセムはあっけらかんと笑いながら脚を組み替えた。
「で、なんだっけ?ロビ坊やに会いたいんだっけ?」
ネルたちは何ひとつ事情を話していないのに、この王様はすべてを把握していた。突然まじめな話に移って、みんなして背筋を伸ばした。
リズセムがカップを持ち上げると、甲斐甲斐しく背後に直立するエルディがお茶のおかわりを注いだ。澄んだ赤茶色の水面を見下ろしながら、殿下は思案するように少し黙った。
「…世界王陛下に謁見の申し入れをするなら、僕から直接お伺いを立ててもいいんだけど…確かに最近の神都はキナ臭い。いったん内部の者を挟んだほうが賢明か」
これまでのひょうきんな明るい雰囲気はなりをひそめて、ピリリと張り詰めた空気に、ネルは息を詰めた。
「ここのところ、まことしやかに世界王陛下の不調説が囁かれている。当然、陛下は赤の巫子であられるから、ご病気であるはずがないのだが…怪しい高等祭司が台頭していること然り、陛下のご威光が薄れているのはまず間違いない。周到な準備の上で向かったほうがいいだろうね」
怪しい高等祭司というのは、レクセで出会ったレナのことだろう。ルナセオが切りつけたところから、泥のような液体を撒き散らしていた少女。ラファに連れられたクレッセも彼女に近いところにいるのだと思うと、なんだか背筋が冷たくなってくる。
リズセムは優雅に紅茶をひと口飲むと、黒い瞳を細めてにやりとした。
「幸か不幸か、今年の夏は四年に一度の世界大会議の年だ。各都市のめぼしい首長が額を突き合わせてくだらない利権を言い争う、なんの実にもならないままごとだが、合法的にうちの騎士を調査に駆り出せる機会だ。よろしければ君たちも神都行きの船に同乗させて差し上げよう」
「殿下…あまり彼らを国の陰謀に巻き込むのは…」
エルディが苦い声で割り込んだが、リズセムは彼を一瞥もせずに言った。
「我がシェイルの保護を求める以上、タダ飯喰らいに用はないよ、エルディ。せいぜい僕が君たちを守る価値を見出せるよう努力することだ」
この王様は、誰もが笑顔で過ごせる街を作ると言って、ネルを連れ回したけれど…たぶん、それだけの人ではない。きっとエルディやトレイズが怯えるに足る怖い一面があるし、今日ネルたちを気遣うその口で、明日は何食わぬ顔で突き放してきそうな不穏さがあった。
それでも、なぜか、ネルはこの王様の言葉に、胸の奥が浮き立つような、不思議な感覚を覚えた。
「僕の理想郷へようこそ、巫子諸君。ぜひとも誉れある働きに期待しているよ」