20
まだほんの小さい頃、ネルは父の肩車が好きだった。父の頭上から見る世界はすごく広くて、遠くの畑までよく見えた。
「おとうさん、わたしもおとうさんくらいおっきくなれるかな?」
興奮してたずねるネルに、今や顔も声もわからないそのひとはくすぐったそうに答えた。
「そうだね。たくさん食べて、大きくなりなさい」
「そしたら、わたしがおとうさんをかたぐるましてあげるね!」
父は声を上げて笑った。本気も本気だったネルは、どうしてそんなに父が笑っているのか、よく分からなかった。
◆
ネルは便箋を鳥の形に折っていた。ただでさえ不器用な上、できるだけ平らな場所を選んだとはいえ、ごつごつした岩の上で作った鳥はひどくいびつなできあがりだ。ため息をつくネルに、メルセナは「送れりゃいーんじゃない」と軽い調子で言った。
「それにしても、レインの奴、直通の魔法便箋なんて高級なモンをポンと渡すなんて…しかもこれ、相当上等なやつじゃねえか」
ぺろりと便箋を持ち上げて、トレイズが渋い顔になった。
「俺の時より、神護隊長の年収が上がってんのか…?」
「神護隊って月給低そうよね。賄賂とかもらってんじゃないの」
「いや、レインに限って…いや、あいつ意外と腹黒い所あるしな…」
青年から受け取った便箋のことは、仲間たちにすぐにばれた。ネルは隠しごとが苦手だったし、そもそもこんな共同生活では、みんなからコソコソ隠れてラトメに手紙を送るのは…少なくともネルには…不可能だった。
ネルは立ち上がって、鼻歌をうたいながら勢いよく折り紙を飛ばした。紙の鳥はよろめきながらもパタパタ羽を動かして、空のかなたへと消えていった。
「力を使うのに慣れろっていうから、はやく飛んでけって歌ったけど…効果あるのかなあ」
「ネルはいいじゃない、練習しやすい力で。私なんていっこ幻獣を召喚しただけで大騒ぎだもの」
そう言うメルセナの手にあるのは、分厚い幻獣図鑑だ。レクセでグレーシャから譲り受けたものだ。
6番の巫子の力は、発動すると幻獣を召喚することができるようだ。北へ向かう洞窟の中で、メルセナは練習のつもりで適当な幻獣を召喚したが、狭くて薄暗い洞窟は幻獣には窮屈だったらしい。不満げに暴れたあげくに、洞窟の天井を突き破って大穴が開いた。以来、メルセナには無期限の召喚禁止令が下されている。当然、発令したのは彼女の父親だ。
その父親は今、ルナセオの特訓中だった。美貌の青年は手先まで器用らしく、太い枝を拾うなり木刀を作ってルナセオに与えていた。その技術のひとかけらでもネルに分け与えてもらえたら、あの青年からの手紙に「お前、鳥折るの初めてか?」などと辛口の批評を言われることもなかっただろうに…ネルは深くため息をついた。
そんなわけで、レクセディア学生街を旅立って十数日、ネルたちはゆっくりながらも北上を続け、シェイル領に入っていた。ネルには細かい地理はわからないが、エルディの話では、あとさらに十日あまりで、目的地であるシェイルディア首都・クレイスフィーに辿りつけそうとのことだ。本来は半月の旅路だったはずだが、各々の特訓をしている都合上、当初の予定よりものんびりしたペースらしい。
その間、ネルは3回ほどレインと手紙をやりとりしたが、まだデクレとは接触できていないらしい。律儀にも毎回「すまない、まだ君の幼なじみとは会えていない」と報告してくれるところは、やっぱりネルにとっては優しい青年だが、回を重ねるごとに彼のほうは遠慮がなくなってきたのか、「レクセで高等祭司を眠らせようとして失敗した?やっぱり音痴なのが影響しているのか」などと忌憚ない意見を送りつけてきた。歌唱力なんて関係ないって言ったのはそっちなのに、ひどい。
「あーッ、もうダメ、無理、降参!」
木刀を放り投げて、ルナセオが叫んだ。「シェイル騎士団ってみんなこんな体力おばけばっかなの?俺もう疲れた!」
「馬鹿を言うな、こんなものは序の口だ」
土の上に大の字に伸びたルナセオを、エルディは冷たい目で見下ろした。
「騎士団の新人用訓練であれば、あと千回の素振りと筋トレメニュー、訓練場の走り込み30周を終えるまで休憩なしだぞ」
「それホントに訓練?拷問かなにかじゃなくて?」
よろよろとこちらにやってきたルナセオに水筒を渡してやると、彼は豪快に飲み干した。文句たらたらの様子だが、特訓の効果は早くも出始めているようで、なんだか少したくましくなった気がする。鬼教官(と、ルナセオが影で呼んでいた)エルディの指導のもと、あちこち傷だらけになったせいでそう見えるだけかもしれないが。
「そろそろ村が見えるはずなんだよな。今日はそこで一泊しようぜ」
トレイズが傘のように額に手を当てて遠くの景色を眺めつつ言うと、ルナセオは喜色満面でぱちんと指を鳴らした。
「やった!シャワーが浴びられる!」
「賛成、私もいい加減ベッドで寝たいと思ってたところ!」
メルセナも諸手を挙げた。ここ数日は野宿が続いていたので、ネルも屋根のあるところに泊まれるなら大歓迎だ。
喜ぶ面々を眺めていたエルディが、少しだけ気まずそうに声をかけた。
「トレイズさん、村の方角はあっちです」
エルディが指さしたのは、トレイズが見ている方向とは真逆だった。
◆
ネイーダの村は、旅の中継点として作られたような小さな村だった。ネルの故郷よりも小規模ではなかろうか、小さな宿に酒場、いくつかの店と数えるほどの民家しかない。緑豊かなインテレディアとは異なり、黒っぽい枝にくすんだ色合いの鋭い葉っぱがついた木々ばかりの地域はどこか人々もそっけない。宿の店主も、およそ共通点のなさそうな5人の旅人にちらりとうろんげな視線をよこしたものの、何も言わずに部屋の鍵を放るようにしてよこした。
「世間話のひとつくらい振るのが宿屋の礼儀じゃないのかなあ」
部屋に荷物を置きながらネルは文句を言ったが、メルセナはケラケラ笑った。
「ま、シェイルの気風はいい意味で無関心ってことよ。私やパパみたいなのがのほほんと暮らせる都市だしね」
確かに、ネルの村にメルセナとエルディ父娘が暮らしていれば目立ってしょうがないだろう。一方はエルフでもう一方は神様みたいに崇められそうな美形だから。
部屋割りは男女に分かれてふた部屋だ。ルームメイトのメルセナは荷物をベッドに投げて我慢しきれない様子で言った。
「私、シャワー浴びたい!先に入っていい?」
「うん」
ネルは頷いて窓の外を見た。どうやら宿の裏手には小さな湖があるらしく、薄く霧がかった景色もあいまってなんだか幻想的だ。
「わたし、ちょっとお散歩してこようかな。湖を近くで見てみたいから」
「あんまり遠くに行くとトレイズがうるさいから、はやく帰ってきなさいよ」
ひらひら手を振ってシャワールームに駆け込むメルセナを見送って、ネルはマユキからもらった魔法のスカーフを巻いて部屋を出た。スカーフの効果か、それとも単純に興味がないのかは分からないが、カウンタで葉巻をくわえる店主は前を通るネルを一瞥もしなかった。
もうすぐ季節は夏に移り変わろうというのに、北国の風は冷たかった。薄手のマントを身体に巻きつけて霧がかった曇り空を見上げる。ラトメは晴れているだろうか。
レインが尽力してくれているとはいえ、あの街でひとり舞宿塔に売られてしまったデクレが無事でいるのか、ネルはいつも気がかりでならなかった。手紙に書かれていた限りでは、暴動は無事収まって、あの日暴走した神護隊の何人かは罰を受けたというが、そのあたりの細かい話はネルには難しくてよく分からなかった。
とにかく、あの日生首をかかげていた恐ろしい神護隊員はもういなくて、彼に協力していたラトメの貴族も何かおとがめを受けたとかで、周りまわって今デクレのいる舞宿塔は、ラトメの中でもすごく力を持っているらしい。事情は理解できないので置いておいて、ネルは「下手な輩に手出しされることはないだろうから安心しろ」という青年の言葉を信じることにした。
朝起きて部屋を出たとき。旅の途中で見たこともない景色を見たとき。楽しいとき、悲しいとき。ふとしたときにデクレを呼びそうになって、ネルはそのたび口をつぐんで空を見上げた。デクレもきっと同じようにしているはずだ。
それでも時折たまらなくなって、ネルはこうしてふらりとひとりで出歩きたくなる。巫子狩りに遭ったらどうすると、トレイズはいつも顔をしかめるけれど、ほかのみんなは何も言わなかった。
優しいひとばかりだ。旅人さんも、マユキおばさんも、チルタさんにルナさん、セオにセーナ、エルディさんにトレイズさん。ネルひとり鈍くさくて気を遣ってもらってばかりで、何もできなくて嫌になる。
宿の裏手に回って、悠然と広がる湖のほとりにネルは腰かけた。膝を抱えてひとつため息を吐くと、不意に頭上から陽気な声が落ちてきた。
「いや、いつ来てもこの湖はいい眺めだね。クライディアのシャーナ湖もあれはあれで趣があっていいが、やっぱり自然というのはある程度の厳かさが必要だ。そうは思わないかい?」
「!?」
びっくりして見上げると、ネルのすぐ後ろに、小柄な少年が立っていた。足音もなにもしなかったが、いつからそこにいたのだろう。
旅人にしては風変わりな服装だった。黒い厚手のケープの下に、汚れひとつ見当たらない深緑色の三つ揃え、中に着込んだブラウスは派手なフリルつきだ。しかも頭にはトップハットが乗っていた。どこか良いところのお坊ちゃんにも見えるが、足もとを見ると履いているのは長歩きにも適したショートブーツだ。しかもだいぶ使い込まれている。
少年は帽子のつばをくいと上げてネルを見下ろした。黒い双眸を細めて、口端をにやりと上げる。
「そんな浮かない顔で景色を眺めるものではないよ、レディ。観光とは心晴れやかに楽しまないとね」
「えっと…えっと、あれ?」
ネルは思わず頭に手をやった。魔法のスカーフを巻いていると存在感が薄れるという話だったはずだ。ましてこの霧の中で、彼ははっきりとネルの姿を認知しているようだ。
少年は遠慮なしにネルの隣に腰を下ろすと、なんてことはなさそうに言った。
「ああ、そのスカーフ、いい出来だ。でも僕は職業柄幻術の類は効きづらくてね」
それから自分の栗色の髪を指先でくるくるもてあそびながら、彼はぱちんと片目を閉じた。
「いい髪色だね。リボンがよくお似合いだ。…おっと、今のは聞かなかったことにしてくれ。別の女性を褒めたと聞いたら、僕の可愛い最愛の君が嘆いてしまうかもしれない」
「ええと…あなたは?」
放っておくとずっとひとりで喋り続けそうな勢いにたじろぎながら問うと、少年はわざとらしく驚くような顔で両手を挙げた。
「おっとこれは失礼。僕はリズセム。まあしがない経営者みたいなものでね。ちょっと生意気なガキンチョの気配がしてこの村に立ち寄ってみたんだ。
まさかこんなところで赤の巫子に目通りできるとは僥倖だ。どうぞよろしく頼むよ、聖女くん?」
ネルが目を丸くするのに、してやったりといった表情で、その少年は笑った。