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目覚ましが鳴る。目をつぶったまま、ネルの手は時計を探してさまよった。ぱちん、スイッチをたたきつけてけたたましい音を止める。けだるい寝起きの身体を起こして、ネルは深いため息をついた。
嫌な夢を見てしまった。
あれから五年、16歳になったネルは、むかむかする胃を押さえて顔をしかめた。
◆
村はずれの森の、少し開けた場所の切り株に座って時間をつぶすのが、昔からネルはお気に入りだった。ここに座っていれば、いつもデクレが迎えに来てくれるから。
待ち人はまだ来ない。
だが、今日ばかりはあまり来てほしくなかった。朝から、デクレとはどうも気まずくて顔を合わせていない。朝食で彼の卵を焦がしてしまったのも一因だが、今ここに彼が現れると、今朝の夢がまざまざと思い起こされてしまいそうだった。
クレッセの夢を見るのも何年振りになるだろう。あの事件について、母は話題に出すのも嫌がった。ただ、あの日の償いのように、母はデクレを引き取った。いつか神都に出て名門の神官学校に入って、本当に限られた優秀な人しかなれない高等祭司になりたいと言っていたデクレは、それから憧れを語らなくなって、ネルと一緒に宿を継ぐために、分厚い本の代わりに宿の帳簿を眺めるようになった。
黙りこくって舞い落ちる葉を見るともなしに見ていると、不意にかさりと落ち葉を踏みしめる音がした。デクレが来たのだと思って振り返って、ネルはきょとんとした。
見たことのない少年だった。年の頃はネルと変わらないくらいだろうか。くすんだ茶髪を右半分だけ伸ばして三つ編みにしている、奇妙な髪形だった。黒い神官服を身にまとい、胸元に銀の十字架のブローチを留めた少年は、温かいハニーブラウンの目を細めてネルの顔をのぞきこんだ。
「やあ、こんにちは。誰かと待ち合わせ?」
「…こんにちは」
村の人ではなかった。彼はネルになんの了解もとらず、隣の切り株に腰かけた。浮世離れした雰囲気にぽかんとしていると、彼はゆったりと脚を組んで優しく言った。
「なんだか悩みごとがあるみたいだったから」
「え?」
旅の人だろうか。聖職者?
なるほど、そういう生業のひとなら、悩みのある人の話し相手になるのもお仕事なのだろう、ネルは首を傾げた。
「あなた、巡礼の人?」
「ん、ああ、これ?」
彼は胸元の十字架をぱちんと弾いて笑った。人懐こい笑みだ。
「僕はレフィル。ちょっと訳あって人探しをしてるんだ。君はこの村の人?」
「うん」
レフィルはネルの悩みを聞くわけでもなく、また自身が探しているという人のことをたずねるわけでもなく、ただぽつぽつと話をしてくれた。彼はとても話し上手だった。ひょっとすると聖職者ではなく吟遊詩人かなにかかもしれない。大昔、この世界中で戦争をしていた話や、この世界を作ったという神様の話など、彼の言うことは昔語りばかりだったが、まるで自分がその場にいたように細やかで、ネルは先ほどの悩みなんて吹っ飛んでレフィルの話に聞き入った。
ネルは勉強は嫌いだったが、こういう空想じみた物語は好きだった。彼は世界中を回っているらしく、やがて話は彼のさまざまな冒険譚に移っていた。
話を聞きながら、ふとネルは期待がもたげてくるのを感じた。彼なら、あの日連れ去られたクレッセたちのことを…それは高望みだとしても、麻コートの連中のことを知っているかもしれない。
「あのね、旅の途中で、ユールおじさん…えっと、占い師なんだけど、それからその息子のクレッセって男の子を知らない?わたしの幼馴染とそのお父さんでね、えーと、ずっと前にいなくなっちゃって」
こんなことだったらもっとちゃんとデクレと一緒に勉強しておくんだったな、ネルはちょっぴり後悔した。ネルはうまくなにかを説明するのが苦手だった。クレッセやユールの特徴をなんといえば伝わるんだろう、うなっていると、突然レフィルがネルの両手をつかんだ。
「えっ?」
「君、クレッセを知っているのかい?」
「え、ええ?」
レフィルは上から下までネルの姿を眺めまわして、「幼馴染か…継承はしていないみたいだけど」と何やらよくわからないことをつぶやいた。
「ど、どういうこと?クレッセのこと、知ってるの?」
レフィルはまっすぐにこちらを見た。ハニーブラウンの瞳に吸い込まれそうになり、ネルは少し頬が赤らむのを感じた。デクレ以外の男の子とこんなにそばに寄ったことがなかった。
「彼らのことは知ってるよ。ユールとクレッセは“神の子”の血縁者としてラトメディアに招かれたんだ」
「か、“神の子”?」
ネルは学がないからよく知らないが、この世界は大きなひとつの国で成り立っていて、中央の神都とその周辺の五つの都市で成り立っているのだという。ネルが住んでいるインテレディアは東にある集落がいくつか集まってできた地域で、話に出たラトメディアというのは南の広大な砂漠の中にある都市だったはずだ。確かデクレの知識によると、昔は“神の子”という指導者が治める街だったけれど、今は統治者がおらず、荒れた街になっているとかいう話だ。
ユールおじさんとクレッセが、その統治者の家族ということ?
「ユールおじさん、だって、斬られて、いっぱい血が出てた…」
「ああ、多少手荒になったって言ってたな。大丈夫、ユールは生きてるよ」
「ほんとに?クレッセは?クレッセもユールおじさんと一緒なんでしょ?」
どうしてレフィルがユールたちのことをそんなに詳しく知っているかはさておき、とにかく今は二人の無事を確認することが肝心だ。しかし、レフィルは少し困った様子で眉根を寄せた。
「クレッセもラトメで保護されているよ。僕らは彼とかかわりのある人を探してて…」
「僕ら?…ねえレフィル、どうしてレフィルがクレッセたちのこと、知ってるの?」
おっと、つぶやいてレフィルは視線をさまよわせた。何か失言をしたらしく口元を手で覆った。
「この先は今は言えないな。いわゆる企業秘密ってやつ?」
「どうして?教えてよ!わたし、クレッセの幼馴染なんだよ?」
「知りたい?」
レフィルはなぜかにやりと笑った。そのたくらむような顔にネルは一瞬たじろいだが、すぐに挑むようにうなずいた。
「教えてよ」
「そうか。いずれにしても、君もかかわる話かもしれない」
「え?」
「まずはゆっくりと話せる場所に行こう。この村の宿屋はどこかな?」
◆
幸い、今日はほかの客は誰もいないようだった。カウンタでソラがそろばんを叩いており、デクレは窓を拭いていた。ネルが帰ってくるのを見るなり、ソラが目を吊り上げた。
「ネル!ちょうどデクレに探しに行かせようと思ってたのよ。どこに行ってたの?」
「それよりお母さん、お客さんだよ!」
「こんにちは」
ソラは怪訝な顔でレフィルを見た。見慣れない神官服姿の少年に、眼鏡をはずしてそろばんとともに机の脇に押しのける。
レフィルは愛想よく声をかけた。
「はじめまして。僕はレフィル。今はラトメ神護隊の元で…まあ、下請けのようなことをやってる」
「…!」
ソラがさっと顔色を変えた。デクレも聞きなれない言葉に眉をひそめて雑巾を下ろしてこちらを見る。母はネルとデクレをぎろりとにらんだ。
「二人とも、部屋に戻っていなさい!」
「いや、実はそこの二人に話があってね。ネルにはもう約束をしてしまったしね?」
レフィルはネルに向けてぱちりと片目をつぶってみせた。彼はソラよりもずっと年下のはずなのに、すっかり自分のペースで窓際のテーブルに向かっていった。唖然としているソラをちらちら見ながら、デクレがこっそりネルの耳元で「誰?」と聞いてきた。
「レフィルって言うの。あのね、ユールおじさんとクレッセのことを知ってるって」
デクレがはっと息をのんだ。その間にレフィルは椅子に軽やかに腰かけてひらひらと手を振った。
「よろしく。君がデクレだよね。本当にクレッセによく似てる」
たじろぐデクレの手を引いてネルとデクレも着席すると、レフィルはテーブルの上の花瓶に生けられた萌黄色の花びらを指先でつつきながら言った。
「僕はラトメディアの治安を正すための仕事をしていてね。クレッセ達とはその縁で会ったんだ」
「クレッセ達はラトメにいるってこと?」
デクレが身を乗り出すと、まあまあ、と両手を広げて、レフィルは語りだした。
「順を追って話そう。今のラトメはスラムが広がる危険な街になり果てている。もう二十年以上経つのか、統治者である“神の子”を失って、一時は内乱寸前まで陥ったけど、今はとりあえず落ち着いて、ギリギリ一都市としての体裁を残してる状態だ」
「それがクレッセ達となんの関係があるっていうんだ?」
「まあまあ、その辺が実はポイントでさ。本来であれば、前の“神の子”に子供がいれば後を継いで都市を治めてもらえれば万事丸く収まるんだけど。なんとその子供たちは、ずっと前にラトメを出奔してしまっていたんだよね。だから方々に手をまわして、その行方知れずだった跡継ぎを捜索していたんだ」
「それが、まさか」
ネルは先ほどのレフィルの話を思い出してぞっとした。「それが、ユールおじさんだってこと?」
「そう、ユール・E・ラトメ。デクレ、君の父親は、行方知れずだった“神の子”の息子なんだ」
そこで、テーブルがバンと叩かれて花瓶がぐらぐら揺れた。見上げると、ソラが憤怒の表情でレフィルを見下ろしていた。
「これ以上、この子たちに余計な話をしないでちょうだい!ラトメの危険な権力争いなんかに巻き込まないで!」
「じゃ、じゃあ、お母さんは、知ってたの?ユールおじさんが、ラトメの偉い人の子供だって?」
ソラはギリギリと歯をかみしめて、憎しみもあらわにレフィルをにらみつけていた。わざわざ聞かなくても、母がユールの正体を知っていたのは明らかだった。
「知っていたかって?もちろん、知っていたわ!ユールも、デクレ、あんたのおばさんのマユキも、ずっとラトメから身を隠していたんだもの。かわいそうな子たち。ユールも、せっかくこの村で平和に暮らしていたのに、あんたたちラトメの無神経な人たちがそれを壊したのよ!」
母がずっとそんな風に思っていたなんて、ネルは予想だにしていなかった。だって彼女はユールとクレッセの話題はタブーとばかりに、二人の行く手を追おうとするのを禁じていたから、なんて薄情なんだろうと思っていた。
血を吐くような叫びに、それでもレフィルは一切動じた様子もなく、降参するように両手を挙げてへらりと笑った。
「そりゃ悪いことをしたね。でも、彼が正当なラトメの血を受け継ぐ者である以上、さだめからは逃げられない。マユキにもすでに協力を仰いでいる。彼らにはラトメを守る役目を果たしてもらわなくてはね」
「役目?それで今度はデクレを連れて行こうっていうの?駄目よ、保護者として許しません。この子はもううちの子よ。ネルと二人でこの宿を継いでもらうの。どこにもやりはしないわ!」
ソラはそう言ってネルとデクレをぎゅっと抱きしめた。母がこんなに小さく縮こまるのを見るのは、それこそあの雨の日以来だった。
しかし、レフィルはソラの拒絶なんてちっとも堪えた様子もなく、さらに母を絶望される言葉を紡いだ。
「確かに、ラトメの繁栄のためにデクレの存在は必要不可欠だ。けれど、それだけではない。僕はそこのネルも、ラトメに来てもらいたいと思っている」
「は…?」
ついに二の句も継げなくなったソラから目をそらして、レフィルはふわりとネルに向かってほほ笑んだ。
「ネル。君、クレッセを助けるために、僕と一緒に来ない?」