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「ねえセオ、この日記、しばらく借りててもいい?」
「え?まあ、鍵は俺たちが持ってるわけだし、構わないと思うけど」
9番の日記は、たぶんクレッセの行く先を表している。チルタもそう思って、この日記を残しておいたのだろう。次の巫子たちの指針になるように。
ネルはマユキの家に帰ってからも、何度も繰り返し日記を読みふけった。ちょっとした記述にも、なにかヒントがあるかもしれない。長い文章を読むのは苦手だけれど、クレッセを助けるためなら、ほんのささいなきっかけでも逃したくなかった。
ふと、ある一文に、ネルはページをめくる手を止めた。聖女を探しはじめてからの話だ。
『知恵を借りたくてインテレディアの名前もない小さな村に住む医者一族を訪ねたが、うるさいことを言うから親のほうを殺してやった。僕より年下の兄妹がいたが、エルフの娘に連れ出されて逃げられた』
人里に暮らすエルフというのは数少ない。メルセナだって、シェイルを出るまで同族に会ったことがないと言っていた。まして、ふつう大きな森の奥深くに暮らしているエルフが、平原の広がるインテレディアに住んでいるとは考えにくい。ネルのよく知るエルフを除いては。
ここに書かれているのが母のソラだとすると、あらゆることに納得がいく気がした。かつて巫子だったマユキやその弟と仲の良かった母。確か、ユール一家は、ネルの父に誘われてあの村に住むようになったのだと聞いたことがある。
ベッドの枕元でじっとその記述を眺めていると、布団に入っていたメルセナに袖を引かれた。
「明日はもう旅に出るんだから、早く寝なさいよお」
「うん…でも、もうちょっとだけ」
自分の父親が何者なのか、なんの仕事をしていてどんな人なのか、母も姉も教えてはくれなかった。覚えているのは父が出かけていった日、大きな手で幼いネルの頭を撫でてくれたことくらいで、顔も覚えていない。たまに手紙が来ていたようだが、母は娘たちの目に入る前に暖炉で燃やしていた。
ここに書かれている医者一族の兄妹というのが、ネルの父に関係があるような気がしてならなかった。だとすれば、その人物はかつての巫子に関わりのある人物だったのではないか。彼はいま、どこにいるのだろうか…思いあたる節があるような気がして記憶を探るが、もやもやとしてはっきりしない。唸りながら頭を抱えたところで、メルセナがふたたび声をかけてきた。
「ねえ、クレッセってどんなやつ?」
「え?」
ネルは日記から顔を上げてメルセナを見た。彼女は枕から顔を上げずに、ネルのことを見つめていた。
「そんなに必死になって助けようとするんだから、よっぽどいいやつだったのよね。アンタ、そいつを助けたくて、わざわざインテレディアからラトメくんだりまで旅したんでしょ」
果たしてメルセナが思っているほどの使命感がネルにあるのか、自分でもよくわからなかった。もちろんレフィルの甘い言葉につられて、クレッセを救いたいと思ったのは間違いない。けれど、母やデクレの反対を押し切ってまで旅に出たのは、デクレひとりで行かせてしまっては、もう二度と彼と会えなくなるような気がしたからだ。
ネルは日記を閉じると、メルセナの隣に潜った。この部屋のベッドは大きめで、ネルとメルセナが並んで寝てもまだ横幅に余裕があった。
「あのね、お兄ちゃんみたいなものだったの。デクレとわたしは喧嘩してばっかりだったから、間に入ってくれるのはいつもクレッセだった。うちのお姉ちゃんはそういうの、いつも知らんぷりだったし」
小さい頃は、くだらないことでよくデクレと喧嘩になった。おやつの取り合いや、互いの約束を守った守らないという言い争いは日常茶飯事で、だいたいは口が達者なデクレに言い負かされてネルが泣きわめいた。懐かしさに、ネルはそっと目を閉じてその情景を思い描いた。
「デクレたちの家は小さい頃にお母さんが病気で死んじゃって、うちもお父さんがお仕事でずっといなかったから、わたしたち、家族みたいなものだった」
「ネルのパパ、何してるひとなの?」
「うーん、知らない。他の都市で働いてて、すっごく忙しくて帰ってこられないんだって。わたしが小さい時からだから、あんまり覚えてないんだ。ユールおじさん…デクレたちのお父さんがわたしのお父さんみたいなものだったかも」
ユールおじさんも占いの仕事が大変そうだったが、彼は息子たちに何かがあるとすぐに店を閉めてそちらを優先するような人だった。だからなおさら羨ましかったのかもしれない。自分の父親は遠くに行ってしまって、母親だっていつも宿の仕事にかかりきりで子供たちは二の次だった。幼心に、ユールが本当のお父さんだったらよかったのにと何度も思ったものだった。
「デクレとは恋人なんでしょ?」
「こいびと?」
メルセナの問いに、ネルは目を瞬いた。
「違うの?大切なひとっていうからてっきり」
「よく分かんない。でもね、クレッセとユールおじさんがラトメに連れて行かれちゃって、デクレはうちの家族になったの。デクレはうちの宿屋を継ぐつもりだったし、クレッセを助けて村に帰ったら結婚しようねって約束してた」
結婚の約束をしていたのだから世間的には恋人かもしれないし、ネルはデクレが大好きだったが、じゃあふたりの間になにか甘い関係があったかというと、そんな気配は微塵もなかった。ただ、そばにいるのが当たり前だっただけだ。
そこまで考えて、ネルはなんだか不安になってきた。
「でも、もう無理なのかなあ」
「なんで?」
メルセナが尋ねたところで、さっと青ざめた。そういえば彼女はまだ、デクレが舞宿塔に保護されたことを知らないのだ。ネルは慌てた。
「あ、あのね、違うの。デクレはちゃんと舞宿塔の偉いひとに保護されて無事だって、レインさんから連絡がきたの。だから心配しなくても…いいん、だけど…」
布団を口元まで引き上げて、ネルは引き結んだ唇を隠した。メルセナが怪訝そうに眉をひそめた。
「なによ」
「舞宿塔って…きれいな女のひととか、いるかなあ」
「はあ?」
メルセナのすっとんきょうな声に、ネルは気恥ずかしくなってうつぶせに転がって枕に顔をうずめた。
「デクレは、本当は神都の学校にだって行けるくらい頭がいいし、働き者だし…わたしなんかと結婚しなくても、他にもいっぱい素敵な人がいたら、そのひとを選んじゃうよね」
9番を救うための旅をはじめようという時に何をと言われてしまいそうだが、ネルはこれまでずっとデクレと一緒で、一日だって会わなかった日はなかったのだ。いつかデクレと再会したとき、彼の隣に別の女の人がいたら、ネルは泣いてしまうかもしれない。
「アンタ、心配するのはそこなの」
案の定、メルセナは呆れた様子で言った。
「も、もちろんクレッセを助けたいのは本当だよ!巫子のことだってまだ全然わかんないし、たくさんやらなきゃいけないことはあるし…だけど、わたし、きれいじゃないし、頭もよくないし、宿の手伝いだってへたくそだし。次にラトメに行ったときに、デクレが別のひとと結婚してたらどうしよう」
インテレディアの小さな村の中ではネルひとりしか選択肢がなかったとしても、広い世界にはたくさんの器量よしで、デクレとも話の合う賢い女性がたくさんいるはずだ。そのうち、デクレだってそのことに気づくだろう。そうしたら、ネルにリボンを贈ってプロポーズしてくれたことだって、デクレは忘れてしまうかもしれない。想像だけでべそをかきそうになっていると、メルセナはケラケラ笑いはじめた。
「笑いごとじゃないよお」
「ごめんごめん、確かに世界を救ったところで、婚約者と結婚できなきゃ報われないわ。ま、そのときはもっといい男を探したら?うちのパパとかお買い得よ」
「やだ!デクレじゃなくちゃ」
拗ねてメルセナに背を向けたのを他愛無い話題でなだめられているうちに、ネルはうとうとして眠りの世界に落ちていった。
◆
嫌な夢を見た。デクレが綺麗で胸の大きな色っぽい女の人を侍らせて、「僕、この人と結婚するから」と振られる夢だ。起きて早々、ネルは自分の胸囲を見下ろしてため息をついた。小さいと思ったことはないが、色気という面で言えばネルに軍配が上がる日は一生来ないだろう。
しかもただでさえ夢見が悪いうえに、メルセナの寝起きもまた最悪だった。なかなか起きないメルセナに業を煮やして布団を叩いたところ、反撃にパンチを入れられた頬をさすりながら階下に降りると、すでにトレイズとエルディがやって来ていた。ルナセオも一緒だ。
「おあよお」
まだ寝ぼけまなこのメルセナはテーブルにつくなり突っ伏した。
「さて、揃ったな。今日はたくさん歩くから覚悟しとけよ」
朝から体力を使い果たしたネルに対して、トレイズは無情だった。
「ルナセオとは一度一緒に行ったが、シェイルディア首都クレイスフィーは、地図の上へ上へと進んだ先にある」
「北ね、北」ルナセオが補足した。
「途中休みながら進んで、クレイスフィーに着くまでに半月ってとこか。野宿も多くなるが、慣れろよ」
「まだシェイルは冷えこむ日が多い。防寒はしっかりしておいたほうがいい」
エルディの言葉にネルはマントを巻きつけたが、ルシファの村で買ってもらったのは砂漠向けの日差しを遮るためのものだ。トレイズはネルの薄手のマントを見て頭を掻きながら「道中で調達するか」とぼやいた。
◆
朝食を食べ終えれば旅立ちだ。青年から預かったハンカチと便箋、それからチルタの日記が鞄に入っていることを確認すると、ネルは振り返ってマユキの家を見上げた。たった2泊しかしていないのに、ずいぶんといろいろなことがあった気がする。
「気をつけてね。ネル。あなたのお母様へは手紙を送っておくわ」
マユキがそう言って、ネルを抱きしめた。
「クレッセのことをよろしくね」
「うん」
彼女の目尻が少し光っていたのを、ネルは見なかったことにした。ネルは借りっぱなしだったスカーフをマユキに返そうと差し出したが、彼女は首を横に振ってその手を押し返した。
「持っていなさい。街では必ずつけておくこと。あなたのその髪は目立つわ」
「うん、ありがとう」
ネルは少し考えてから、意を決してたずねた。
「ねえ、マユキおばさん。わたしのお父さんってどこにいるのか、知ってる?」
マユキは目を丸くしてネルを見たが、すぐに合点がいった様子で苦く笑った。
「ええ、知ってるわ」
しかし、追及しようとするネルの視線を、マユキは一歩下がってかわした。
「きっと、すぐに会うことになるわ。彼もあなたのことを心配しているでしょうから」
ということは、ネルの現況を知っている人ということだ。しかし、マユキは答えを言うつもりはないようで、ただあいまいにほほえむだけだった。
「セオー!!!」
二階の窓から大声が聞こえて、ネルたちは一斉に顔を上げた。起き抜けらしく、髪の毛の跳ねたグレーシャが身を乗り出すようにこちらを見下ろしていた。
マユキが顔をしかめた。
「ちょっと、朝っぱらから大声出さないで!」
「あのさあセオ、お前がこれからどんな旅に出るかわかんねえけど!」
母親の言葉を無視してグレーシャは続けた。
「お前が何やったって、俺はずっと友達だからな!だからちゃんと帰ってこいよ!」
昨晩のように、勢いよく拳を突き上げたグレーシャに、ルナセオも笑ってそれを真似した。ネルはその様子を見ながら、拳を握りこんだ。
「マユキおばさん」
「なに?」
「デクレは…わたしのこと待っていてくれるよね?ちゃんと帰ってこられたら、喜んでくれるよね?」
マユキはなにかを言いかかって、しかしすぐに口を閉じた。彼女は柔らかく笑みを浮かべて、もう一昨晩のような厳しいことは言わなかった。
「そう…そうね、きっとそう。私も、あの子のことを、信じているわ」
ネルは南の空を見上げた。不安は尽きないけれど、やっぱりデクレが同じ空を見上げていると思えば、少しだけ勇気が湧いてくるような、そんな気がした。