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デクレと夫婦になったらどんな風になるんだろう。想像してみてもあまりピンとこないのは、長く一緒に住んでいたせいですっかり家族気分になっていたせいだろうか。特に甘い空気も何もなく、これまで通りの関係が続いていくような気がする。
とにかく、目の前でニコニコと見つめあうルナセオの両親みたいにはならないんだろうなあ、ネルはうらやましいような恥ずかしいような、目のやり場に困る思いで視線をさまよわせた。
「あのねあなた、私、パンケーキが焼けるようになったのよ。今日はちょっと失敗しちゃってセオに助けてもらったんだけど」
「そうかい、セオの料理はいつもおいしいけど、君の手料理も食べたいなあ。僕にも作ってくれるかい?」
「そうじゃなくてぇ!」
耐えきれなくなった息子が、軽く片付けたリビングのテーブルに拳を叩きつけると、ルナとチルタは揃っておやと目を丸くした。
「だめよセオ、テーブルを叩いちゃ」
「そうだよセオ、手を痛めてしまうよ」
ルナセオはがっくりと肩を落とした。先ほどまで散々家を荒らされ、緊迫した空気だったことなど嘘のように、ルナとチルタ夫婦はほのぼのとお茶を飲んでいる。
マユキの口角がピクピク震えた。
「あんたたち、呑気なこと言ってないで、もう少し息子の役目に親身になったらどうなの。あの女が襲ってきたことに心当たりとかないの?」
「あるわけないよ。僕だってレナは死んでると思ってたし」
チルタはきっぱり答えた。
「でも、あれは普通の生者じゃないねえ。神都は彼女を高等祭司に登用してなにを考えているんだろう」
高等祭司。そういえば、レナが身にまとっていたのはラファと同じ、黒くて分厚い重たそうな衣装だった。ということは、ラファともつながりがあるのだろうか。
ラトメで暴動を引き起こしたのはやっぱりラファだったのだろうか、だとすれば神都には悪い人たちがいっぱいいる?もやもやしながら考えこんでいると、ルナセオも同じことを考えていたのか、宙をあおぎながら言った。
「トレイズは神都は敵だって思ってるみたいだけど」
「そりゃあいつはそう言うさ、ラトメ至上主義の反神都の筆頭みたいな奴だし。でも、僕の知る限り、世界王陛下がむやみに巫子を害すようなことを指示するはずないし、公平で冷静なお方だよ」
「世界王!?すげえ、おじさん、世界のトップに会ったことあんの?」グレーシャが身を乗り出した。
「まあね、セオたちも会うことになると思うよ。世界王陛下は巫子の10番だから」
ルナセオもメルセナもびっくり顔だが、どこに驚く要素があったのかよく分からなくてネルは首をかしげた。
「そのセカイオー・ヘーカさんってえらい人なの?」
不思議な名前だが、有名人かなにかだろうか。きょとんとしていると、信じられないとばかりにメルセナに肩を揺さぶられた。ぐらぐら脳が揺さぶられて目が回る。
「世界王を知らないとかある!?いや、私も名前とか知らないけど!要するにこの世界の王様よ!誰よりもえらいの!」
えらい人なんて、ネルの住んでいた村の村長さんくらいしか知らない。御年85歳のお爺さんで、小さい頃はイタズラを叱られて杖で叩かれたものだ。えらい人というのがあんな感じなら、世界でいちばんえらい王様はよっぽど怖い人物なのだろう。
頰に手をあてて、ルナはのんびりと言った。
「そうねえ、陛下にお会いすれば、なにかいいお知恵をお借りできるんじゃないかしら?9番を倒すにしろ救うにしろ、きっとお考えをお持ちだと思うわ」
「あのさあ母さん、世界王だよ?近所の友達に会いに行くんじゃないんだよ。お城の正面から入っていけるの?巫子だから入れてくれって?俺たち捕まって牢屋に連れて行かれちゃうよ」
ただ会いにいっただけで牢屋に入れられてしまうのか!王様というのはなんて恐ろしいひとなんだろう、ネルはブルブル震えた。
大人たちは顔を見合わせて相談をはじめた。
「誰かに繋ぎをとってもらうとか?」
「ラファ君に頼めばいいじゃないか、高等祭司なんだし」
「うちの旦那は9番を連れてるのよ?さすがに他の巫子の手助けはしないわよ」
「じゃあ…ロビ殿下は?確かトレイズ・グランセルドと旧知だったはずよね」
「ああ…」
ルナの提案に、マユキもチルタも暗い顔になった。
「ロビ殿下は昔の巫子の仲間で、世界王陛下の一人息子なんだけど、なんて言ったらいいのかしら…癖が強い」
「なにかを頼もうものなら見返りになにを求められるかわかったものじゃない」
しかし大人たちにはそれ以上の妙案は思いつかないらしい。一体全体どんな人物なのか想像がつかないが、うんざりした様子でマユキはため息をついた。
「でも確かに、そうね。ラトメが当てにならない以上、巫子は自力で集めなきゃならないわ。神都でなにが起こってるのか確かめるためにも、ロビ殿下に会うのがいちばん手っ取り早いのかも」
ネルはそわそわした。マユキのその言い方は、なんだか9番を倒すことを前提にしているみたいだ。9番の資格を失わせることを目標にするなら、巫子を全員集めても、クレッセを救うことにはならないんじゃないか…
目の前にいる「救われた9番」をチラチラ盗み見ているのに気づいたのか、ルナセオが首を傾げた。
「ネル、父さんになにか言いたいことがあるの?」
「なんだい?」
チルタは優しいほほえみを浮かべて少しだけネルのほうに身を乗り出してくれた。緊張して汗ばんだ拳を握りながら、ネルはごくりとつばを飲みこんだ。
「あの…チルタさんは、9番だけど、生き残ったんだよね?9番の資格を失ったから。それなら、クレッセを助けられるなら、巫子を全員集める必要なんかないんだよね?」
「確かに!」
メルセナがぽんと両手を叩いた。
「ネルったら冴えてるわ。それだったら9番のほうだけ追っかけてればいいんだもの」
チルタはすぐに返事をしなかった。じっとネルを見て、神妙に言葉を選んでいる様子だった。
「ネル。君のような優しい子が巫子になって、今代の9番は幸福だと思うよ」
まずそう言って、ネルが何も言わないのを見てから、彼は穏やかに続けた。
「だけど、おじさんと約束してくれるかい?9番を助けようとするのは、今代の9番が誰かを傷つけるその時までだって。何かが起こったときのために、残りの巫子を探すことを諦めないって」
ああ、この人もだ。ネルは落胆した。マユキも、トレイズも、大人たちはみんな、9番は絶対にひとを傷つけるものだと思っている。クレッセはまだ何もしていないのに、彼が悪人になるものだと決めつけているかのようだ。
「…クレッセが、誰かを傷つけるなんて…」
それでも、「ない」と言い切れるほど、ネルは今のクレッセを知らない。少なくとも、ラファが処置をする前のクレッセは、ドロドロと淀んだ目でネルたちを見ていたのだ。
あのクレッセなら、もしかしたら…そう思いかけて、ネルはかぶりを振った。クレッセは優しいひとだった。彼が恐ろしいことをしでかすなんて考えたくはない。
しかし、ネルの期待を裏切って、チルタは非情にも続けて言った。
「9番は誰かを傷つけずにはいられないし、世界を滅ぼさずにはいられないんだ。今はラファ君の魔法で抑えられているのだとしても、巫子の力をいつまでも制してはおけない。いずれそのクレッセ君は、必ず誰かを傷つけるし、そのとき、君は自分の選択を深く後悔することになるかもしれない」
かつて9番であったチルタ本人が言うほど、9番は怖いものなのだろうか。ネルにはピンとこなかった。チルタは自身の手を見下ろした。
「僕は9番だった頃、多くの人々を手にかけた。彼ら自身も、僕を恨む人たちも、ひとり残らず覚えてる。それが9番の意思によるものだったとしても、報いは受けなきゃならない。こうして今の僕が幸せでいられるのは、たくさんの人たちの犠牲と、努力と、諦めの上に成っているのだと、僕は一秒たりとも忘れてはいけないんだ」
むくい。難しい言葉だ。クレッセも、チルタの言うとおりに誰かを傷つけるのだろうか。誰かに恨まれたり、憎まれたりする日が来る?あの、優しいクレッセが?
頭の中がぐちゃぐちゃになって、ネルはうつむいた。
「だけど、わたしは、クレッセを殺したくない…」
そう、それが素直な気持ちだった。仮にクレッセがいつか恐ろしいことに手を染めたとしても、ネルが彼を手にかけるなど、やりたくない。
しばらく誰もなにも言わずに黙りこんでいたが、不意にチルタが声を上げた。
「ルナ、鍵はもう渡したのかい?」
「ええ。セオに持たせたわ」
ルナセオがポケットから小さな鍵を取り出した。先ほどルナからもらったものだ。
「ちょっと恥ずかしいけど、あの日記には当時の僕の思いをすべて込めた。あれを読めば、君たちは9番というものを正しく理解できるだろう」
それからチルタは立ち上がって部屋を出て行くと、片手になにやら布の包みを持って戻ってきた。彼は少し迷った様子でネルたちを見たが、最終的に包みをメルセナに手渡した。
メルセナが布をめくると、中にあったのはL字型の黒い筒のような武器だった。先ほどルナとレナの攻防で使われていたものだ。
「これは魔弾銃という、“不死”をも殺すと言われる特別な武器だ。もちろんこれで9番を倒せるわけではないけれど、何かあったときの身を守るすべになるはずだよ」
「不死をも殺す…」
メルセナは少し青い顔で繰り返した。死なないものをどうやって殺すのだろうか、ネルは首をかしげたが、メルセナにはなにか通じるものがあったようだ。
最後にもう一度念押しするように、チルタはネルの前にひざまづいて視線を合わせた。
「いいね?ネル。この先、君がどんな道を選ぶとしても、巫子たちを、君の仲間を探す努力を怠ってはいけないよ。それがきっと、君の力になるはずだから」
仲間。その言葉に、ぱっと光明が見えた気がした。村を出て、デクレとも離ればなれになって、ひとりではなにも決められないと思っていたけれど、今のネルにはルナセオもメルセナもそばにいる。あの青年も助けになってくれる。
クレッセを救うのも、わたしひとりでやらなきゃいけないことじゃない。そう思えてはじめて、ネルは素直に頷くことができた。
◆
「今朝、レインさんからね、連絡が来たんだ」
ルナセオの家をあとにして、マユキの家への帰路を辿りながら、ネルはぽつりと隣のルナセオに教えた。あの青年がこの街まで来たことは、たぶん、伏せておいたほうがいいんだろう。正体を隠していると言っていたし、きっと彼は内緒のお仕事をしているのだろうから。
「デクレは舞宿塔のえらい人に保護されたみたいだって。レクセまで連れて来れそうもないけど、怪我もしないで無事だって」
「そっか…」
ルナセオはよかったね、とは言わなかった。その気まずげな様子からして、もしかしたら舞宿街が危険な街だということを、彼は知っていたのかもしれない。
それでも昨夜はネルを励ましてくれたのだから、やっぱりルナセオは優しいひとだとネルは思った。
「わたし、デクレを守ってあげたくてラトメに一緒に行ったのに、なんにもできなかったな。クレッセに会ったときも泣いちゃったし、その後で街が大騒ぎになったときははぐれちゃうし。こんなわたしが巫子になっちゃって、大丈夫なのかなあ」
ましてやネルはクレッセを倒すつもりがなくて、むしろ救いたいと思っているくらいだ。ネルは試すつもりでルナセオを伺った。ネルがいくらクレッセを助けたいからといっても、ほかのみんなが9番を倒そうとすれば自分ひとりには止めることもできない。
「お、俺がいるよ!」
ずいぶん意気込んで言うので、ネルは思わず顔を上げてルナセオを見上げた。彼は頬を赤らめてあちこち視線をさまよわせた。
「いや、俺とセーナが、かな?父さんも言ってたでしょ、仲間を集めろって。巫子はひとりじゃないんだから、困ったらみんなで話しあって決めればいいよ。ネルひとりで頑張んなくったっていいんだ」
わたわたと腕を振る姿がなんだかおもしろくて、ネルはちょっとだけ笑った。昨日も今日も、ルナセオの励ましはなんだか心地よかった。
「そっかあ」
「う、うん」
「そうだよね。セオもセーナもいるんだもん、ひとりで全部決めなくていいんだよね」
「そうだよ」
ルナセオはなにやらしきりにうんうん頷いている。ネルは目を伏せた。
だいじょうぶ、クレッセもデクレも、今度こそちゃんと助けてあげられる。そのために聖女さまの封印を解いて巫子になったのだから。
「がんばろうね」
はるか遠くの南の空を、きっとデクレが見上げてくれていると信じて、ネルはつぶやいた。
待ってて、デクレ。クレッセを救って、必ずデクレを迎えに行くから。