13
つんつんと、頬をつつかれる感触で目が覚めた。見慣れない天井と、隣ですやすや寝息を立てるメルセナを見て、ようやくラトメを出てマユキの家に泊まったことを思い出す。
まだ朝早いのか、カーテンの隙間からは薄ぼんやりとした光が差し込むくらいだった。なかなか眠れずに深夜までベッドの上で考えごとをしていたので、目がしょぼしょぼして再び眠りに落ちそうになったところで、顔の上に何かが乗っかってぴょんぴょん暴れだした。
「むっ、なに?」
まどろみを邪魔する不届きものをつまみ上げると、それは布を折ってできた小鳥だった。胴体は羽も足もなくつるんとしていて、くちばしを離せと命令するように居丈高にパクパクしていた。素直に手を離すと、小鳥はベッドから転がり落ちて、ぴょんこぴょんことドアの方へ跳ねていく。扉のノブが自分では開けられないと見るやくるりとこちらを振り返った。
しばらくネルはぽかんとして小鳥を見守っていたが、不意にその布の正体が、レインから預かったハンカチだと気付いた。
「ま、待って!すぐに出るから」
慌ててネルもベッドから飛び起きて、素早く身支度を整えだすと、小鳥は「はやくしろ」と言わんばかりに不服そうにひとつ飛び跳ねた。
◆
取るものもとりあえず、マントだけひっかぶって小鳥のあとをついてマユキの家を出ると、朝方の少し冷えた風が裾を揺らした。まだ街も起き出していないのか、人気もなくしんとしている。
小鳥の先導で路地裏に入ると、黒いフードをかぶった人物がネルを待っていた。背の高い細身の青年が小鳥を拾い上げると、ころんと手の中で倒れて、たちまち元のハンカチにほどけてしまった。
青年はうつくしいかんばせをネルに向けた。
「事後処理に手間取っていたら朝方になっていた。本当なら夜のうちに連絡を取りたかったんだが」
「旅人さん」
そこにいたのは、まさにあの運命の日、宿から出て行ったあの旅人と寸分変わらぬ姿だった。青年はネルの言葉を聞いてはじめて自分の姿を認識したらしい。金髪の前髪をわずらわしそうに払って顔をしかめた。
「ああ、変身術をかけるのを忘れてた」
「おじさんの見た目はニセモノってこと?」
若々しい見た目はネルとひとまわりも歳が離れていないように見える。あの作りものめいた顔立ちのエルディと並んで遜色ない美男子は、ハンカチを畳むと再びネルの手に落とした。長くて節ばった男らしい指だ。
「ラトメの連中に正体を悟られると面倒だからな、あそこではあの姿で通しているんだ。…あまり時間もないから手短にいこう、君の幼なじみだが、居所がわかった」
ネルは思わず青年の腕をつかんで揺さぶった。「デクレは無事なの!?」
「命の保証は約束されている場所だ。とりあえず傷ひとつないことは確認が取れている」
そう言う青年は、意図的になにか隠しているように見えた。ネルはうたぐるように青年のみかん色の瞳を見上げた。
「…マユキおばさんが、子供ひとりで舞宿街に入って、無事のはずがないって言ってたの。悪いひとに捕まって売られちゃうって」
「なんだ、知ってたのか」
青年は皮肉っぽくニヤリと口端を上げてみせた。
「結論から言えば、そうだよ。俺がデクレを見つけたとき、彼はすでに奴隷商人の手の内だった。俺の資産で買い上げてもよかったが、それだとレフィルの目に留まる可能性が高いからな。次善の策として舞宿塔のファルシャナ塔長に売るよう誘導しておいた。あの女狐は年下趣味の強欲な色情魔だが、気に入った奴は大事にするはずだ。君の賢い幼なじみならうまく取り入るだろう」
そのファルシャナとかいう人物の枕詞はまったく理解できなかったが、とにかく怪我もなく、危ない場所に買われたわけでもないらしい。ネルが深く息を吐くと、青年はその頭をぽんぽん叩いた。
「君の幼なじみを連れてくることは難しいが、デクレが舞宿塔での生活に慣れれば、監視の目も緩むだろう。そうしたら接触して君の無事を伝えておくよ。君はひとまずレフィルから身を隠すんだ」
「うん…」
ネルが素直に頷いたのが意外だったのか、青年は片眉を器用に上げた。
「なんだ、ずいぶん素直だな。またデクレを迎えに行くとごねるかと思ったが」
「…旅人さん、いじわる」
恨めしげに青年を見上げても、彼はひとつ肩をすくめただけだった。
「わたし、村を出てからずっと、誰かに助けられてばっかりで、自分じゃなにもできばかったから。今あなたについて行ったって、きっと足手まといだもん」
今すぐにデクレを追いかけてラトメに戻りたいが、巫子の印を持っているだけで使ったこともないし、デクレを取り戻せる算段もない。5年前、クレッセたちを連れて行かれたときとなにも変わっていない。
「ねえ、わたしは何をすればいい?」
今のネルにできるのは、わずかでも信用できるこの青年の指示に従うことだけだった。少なくとも、彼は約束どおりデクレを探してくれたし、誓いどおりに幼なじみを守ろうとしてくれている。
青年はしばし考えるように空を仰いでから言った。
「まずは、君の得た巫子の力を使ってみることだ」
「巫子の力って、どうやったら使えるの?」
「試してないのか?君には話したはずだ。巫子のひとりは、歌を奏でれば、他者を癒したり、魔物を退けたりできたって」
ネルは目を丸くした。確かに5年前に彼から聞いた話だ。
「5番の印は歌を媒介に願いを叶える力だ。豊穣の歌をうたえば植物が成長し、雨乞いの歌をうたえば嵐を呼ぶといった塩梅に。まあ、どこまでの願いが呼び起こせるかは術者の技量次第だが。戦闘よりは補助的な役回りだな」
そこまで言って、青年はチラリとネルを見下ろした。歌うのは好きだが、技量というならネルの歌唱力は人並み以下だ。さんざんデクレには「へたくそ」と言い続けられてきたし、クレッセですらネルの音痴には閉口していた。
これまでそれを恥ずかしいと思ったことはないが、さすがにみんなの前で下手な歌を披露するのは気が引ける…縮こまって青年を見上げると、彼は大した問題はないとばかりに肩をすくめた。
「歌唱力なんておまけだ。魔法の根幹は信仰力だからな。要はいかに願いが叶うと強く信じられるかだ」
「う…うーん…」
よくわからないが、歌が下手でもいいらしい。ネルはほっとして胸をなでおろした。
「そろそろ行かないと」
青年は懐を探りながら言った。数枚の便箋を取り出すとネルに押しつけた。村では見たことがないくらいの手触りのよい上等な紙だ。
「次の行き先が決まったらそれに書いて、鳥の形に折って飛ばしてくれ。こちらはまた何か進展があれば連絡する」
「ねえ、なんでそんなに親切にしてくれるの?」
フードを深く被りなおした青年は、目を瞬いてネルを見た。うつくしいみかん色の瞳がきらりと光ると、彼は噴き出した。
「長く生きてるけど、親切なんて言われたのは生まれて初めてだな」
何かツボにはまってしまったらしく、彼はクツクツ笑いが止まらない様子で、ネルの頭をポンポン叩いた。あどけないその顔はやはりネルといくらも変わらないくらいに若々しい。彼は一体何歳なのだろう。
「悪いが、俺は善意で君たちを助けるわけじゃない。ただレフィルに好き勝手させないために利用してるだけなんでね。俺なんかよりもトレイズさんやエルディのほうがよっぽど善人だ」
そうして青年は「じゃーな」と言ってひらりと手を振った。ネルが瞬きするうちに、目の前にいたはずの彼は幻だったみたいにその場から消え失せていた。
◆
彼自身がなんと言おうと、ネルにとっては助けてくれる優しい人なんだけどな、不服に思いながら路地を出ると、ちょうど目の前を歩いてきた人物とぶつかった。わあ、と声を上げながら倒れそうになると、相手がぱっと腕をつかんできた。
「うわっ、すみません…あれ?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、そこにいたのはなんとルナセオだった。なぜか不思議な色のスカーフをほっかむりのように巻いている。右手はすっかりよくなったのか、あのぐるぐる巻きにされていた包帯は外されていた。隣にはマユキもいて、彼らはびっくりした様子でネルを見た。
「ネル、いつの間に外に出てたの?」
「あ、あの…ちょっとおさんぽ…」
こっそり青年から預かった便箋とハンカチをポケットに突っ込みながら目をさまよわせると、案の定マユキの目が吊り上がった。
「まあ!信じらんない!あのねえネル、あなたが一番赤い印をさらしやすいんだから、そんなお粗末な隠し方で外に出ちゃダメよ。落ち着かないのはわかるけど」
「う、ご、ごめんなさい」
反論もできずにしおしお縮こまる。すると、ルナセオがほっかむりを取ってネルの頭に三角巾のように巻いた。彼はからっと笑って、
「それ、マユキさんの魔法道具。巻いてると人から認識されづらくなるんだってさ」
と言った。スカーフを失ったルナセオはマントのフードを被りながら、「ほんとだ、なんかもやがかって見える」とネルをじろじろ眺めては感心したように頷いている。
「セオとマユキおばさんはどこにおでかけなの?」
「俺んちに帰るんだ。母さんに顔出しにさ。ネルも来る?」
反射的に頷いたが、マユキはあまりいい顔をしなかった。そういえばトレイズはルナセオに家には帰れないと言っていたのに、こっそり彼の居ぬ間に言いつけを破るつもりなのだろうか。
「セーナは?」
「さあ、まだ寝てるんじゃないの?昨日ぐっすりだったし」
ということは、本当ならネルにもメルセナにも黙って親に会いに行こうとしていたらしい。せっかく帰ってきたのだから、家族に会いにいくくらい、こんなにこそこそしなくてもいいんじゃないかなあ…妙に釈然としない。
マユキは時間を気にしているようで、追い立てるようにふたりを急かした。大人しくついていくと、見えてきた家を指して「あれだよ」とルナセオが言った。
小さなレンガ造りの家だ。お人形でも住んでいそうなかわいらしい見た目で、赤茶の扉の両脇にちょこんと置かれた鉢植えには小さな白い花が咲いていた。庭も畑もないけれど、ルナセオのような中性的な少年にはぴったりの趣だ。
ルナセオは緊張しているのか、たどたどしい手つきでノッカーを叩いた。何か中でガタンと音がして、ルナセオが呆れたみたい目を細めた。
扉を開いて現れたのはそれこそお人形みたいな女性だった。ルナセオのお姉さんだろうか。見たこともないつやつやした長い黒髪に真っ白な肌。急いで玄関口に出てきたのか、少し前髪が乱れていた。彼女は目をまんまるにしてルナセオを見つめた。
「あの…母さん、ただいま」
お母さん!?びっくりして声を上げそうになったが、そのあとの女性が強烈すぎてネルは口をつぐんだ。彼女は力いっぱいルナセオを睨みつけると、渾身の勢いで息子の頬をビンタした!
「どれだけ心配したと思ってるの!手紙くらいよこしなさい、バカ!」
女性は怒鳴ると、そのままルナセオの首にぎゅっと抱きついた。
「無事でよかった…」
「ごめん、母さん」
きゅうと胸が締め付けられるようだった。女性は息子の無事に心底安心した様子で、すすり泣きながらルナセオの肩に顔をうずめた。
しばらくして、彼女は息子から身を離すと、目尻の涙を指先でぬぐいながら「ごめんなさい」とつぶやいた。
「お客様もいらしてるのに、ずっと立たせてはおけないわね…どうぞ入って。ちょうど朝食の準備をしていたの」
「朝食!?母さんが!」
母親の言にざっと青ざめたルナセオはバタバタと家の中に入っていった。女性はのほほんとその背中を見送りながら首をかしげた。
「あらもう、あの子ったらお客様を放って。お客様はリビングへどうぞ」
先程までの取り乱しっぷりはどこへやら、穏やかなルナセオの母に招かれると、足元に観葉植物が倒れていた。どうやら扉が開く前に倒れたのはこれらしい。しかも、なにやら焦げくさい匂いが漂っている。
「母さん!」廊下の奥から煙を上げるフライパンを持ったルナセオが顔を出した。「いつも言ってんだろ、料理中に台所を離れるときには火を止めろって!」
「あらあら。でもねセオ、母さん、セオがいなくなってから練習して、パンケーキは焼けるようになったのよ」
ルナセオの母はニコニコしているが、フライパンの上に乗っている代物はどう見ても炭にしか見えなかった。
「母さん、俺のいないときにオーブン以外の火を使うなって言ったよね?」
「だってマフィンとパウンドケーキだけのごはんは飽きちゃったんだもの。ああ、お客様はゆっくりしていらしてね。今お茶をいれますからね」
「俺がやる!俺がやるから母さんは座ってて!」
台所に引っこんだルナセオはあっという間に人数分のパンケーキと紅茶を用意して戻ってきた。ほかほかと湯気を立てて、四角いバターがとろりと溶ける。おいしそうな朝食にごくりと唾を飲み込むと、ルナセオの母は嬉しそうに言った。
「わあ、セオのパンケーキ、久しぶりだわ。ねえ聞いて、この子ったら小さいころからお料理が大好きでね、大きな料理本を抱えてずーっと台所にこもってね…」
「そりゃ父さんも兄さんも家にいない以上俺がやるしかないからだよ」
「ルナ、息子自慢はいいから本題に入りましょう。チルタから連絡はあったの?」
マユキが切り込むように話を変えた。チルタ?パンケーキを一口大に切り分けながらルナセオの母を見ると、彼女はうっとりとパンケーキを頬張りながら言った。
「ええ、すぐに帰るって言っていたから、そろそろ戻ってくるんじゃないかしら」
「戻ってくるの!?」
ぎょっとした様子でマユキはソファから立ち上がった。彼女はルナセオの母に身を乗り出して、両腕をしきりに振りながら強い調子でがなった。
「あのねえ、今、街にはトレイズが来てるのよ?あの人たちが遭遇したらどんなことになるか想像つかないわけじゃないでしょ?」
「父さんとトレイズがなんだって?」
ネルはおいしいパンケーキをもぐもぐ咀嚼しながら、早速人物関係がごちゃごちゃしてきた。ひとまず、この女性はルナという名前で、ルナセオの父がチルタでよいのだろうか。
ルナは「困ったわねえ」とまったく困った様子もない調子で言いながら、紅茶にミルクをたっぷり注いでなどいる。
「あのね、うちの父さんとトレイズ・グランセルドって因縁の関係なの。会ったら殺しあいになっちゃうと思うのよねえ」
「殺しあい!?」
ルナセオがぎょっと目を剥いた。不穏な単語とは裏腹にルナは至って平然としていた。ネルはもう一切れパンケーキを口に含んで話を聞いていたが、続く話にうっかり喉に詰まらせそうになった。
「あの人、昔、巫子だったって聞いた?」
「うん、それは聞いたけど」
「父さんだったのよ」
「…なにが?」
「そのときの9番。トレイズ・グランセルドが倒すはずだった当時の9番は、あなたの父さんだったの」