12
「アイツ、まさかそのラゼとかいう子をやっちゃってるってことはないわよね?」
ルナセオたちの背中が見えなくなったところで、メルセナが不穏なことを言った。エルディが顔をしかめて娘の名前を呼んだが、彼女のほうは素知らぬ顔だ。
「だって気にならない?セオって笑顔の裏側に狂気を隠し持ってるタイプだと思うのよね」
「それは小説の読みすぎだ」
ルナセオとは先ほど出会ったばかりだが、彼はずっとネルに対して親切だった。仮にあの少年に恐ろしい側面があっても、きっと何らかの事情があるに違いない。
ネルの予想を裏づけるように、トレイズがため息をついて説明した。
「ラゼはルナセオが印を受け継ぐ前の巫子だ。あいつが印を継承したときに、ラゼは巫子狩りに殺された」
思わずはっと息を呑む。そういえば先ほども、神都が巫子狩りという追っ手を放っているのだと言っていた。まさか、その人たちもあのエルミたちのように恐ろしい人物なのだろうか。
悲しげに首を振って、マユキが階段を見た。
「じゃあ、4番の印はセオ君が受け継いだのね。まさかあの子が巫子になるなんて」
「俺はルナセオを連れてラトメまで行ったんだが、暴動に遭ってな。たまたま会ったこいつらと一緒にレクセまで逃げてきたんだ」
「途中、逆方向に向かってシェイルに行っちゃった話が抜けてるわ」
「うるせーな!」
沈みかけた空気がメルセナの一言でぱっと霧散した。
「しょうがねえだろ、この辺の地理には疎いんだよ」
「あなた、レクセには何度も来てるじゃない」
そう言うマユキの表情は、ネルがものを知らないときに見せるデクレにそっくりだった。トレイズはお手上げだとばかりに右手を挙げた。
「シェイルでもえらい目に遭ったぜ。巫子狩りはいるし、ギルビスは相変わらずだし。しかも王妃様が転移魔法を使ってくださるときたもんだ。命がいくつあっても足りやしねえ」
「は!?」
なんで王妃様が魔法を使っちゃいけないんだろう、たくさんの単語が出てきてパンクしそうになっていると、黙って話を聞いていたエルディがすっとんきょうな声を上げて、カップをソーサーに叩きつけた。
「王妃殿下が自ら転移を使われたのですか!?」
「そうそう。なかなか強烈な方だよな、お前んとこの王妃様。俺みたいな小市民に断れるわけないだろ?」
たちまちエルディの絵画じみた顔が青ざめて、頭を抱えてうめきだした。
「王殿下に殺される…」
どうやらその人が魔法を使うのはたいへんおぞましいことのようだ。なんならエルディは9番よりもよほど恐れていたことが起きたと言わんばかりだ。
マユキは頬に手を当ててほうと息をついた。
「エルディがシェイルの王妃様のご落胤だって聞いたときはびっくりしたけど…今じゃ立派に騎士様やってるのねえ。うちの旦那とかレインと喧嘩ばっかりしてた頃が懐かしいわ」
「パパが喧嘩っ?」
メルセナの目がきらりと輝いた。当のエルディは耳を赤くしてうつむいている。5年前に宿屋にやってきたあの青年もエルディに匹敵する美形だったが、ついぞこんな表情豊かな姿は見せてくれなかった。ネルは紅茶を口に含みながらしみじみ思い出した。
「そうよお。トレイズの後ろを雛みたいにくっついて回ってたんだから。うちの旦那が『モールガモの親子』ってからかって殴り合いになったわよね」
「あの…マユキ様、そのあたりで勘弁していただきたく…」
恥じ入るばかりのエルディの頭がどんどん下がっていく。トレイズにエルディにレイン、マユキとその旦那さんは知り合いがずいぶん多いらしい。そういえばレフィルやエルミとも以前からの知り合いのようだった。そこまで思い出して、ネルは顔を上げた。
「ラファさん、会ったよ。途中から一緒にラトメに行ったの」
「あら、うちの旦那に会ったの?」
「うん。クレッセを連れて行ったってデクレが言ってたよ」
ネルの言葉に、マユキはほっとした様子でほほえんだ。
「そう、ラファはクレッセを無事連れ出したのね。よかった」
「マユキ、お前知ってたのか?ラファが9番を連れ出すって」
「うちの甥っ子をそんな無粋な呼び方しないでちょうだい」
トレイズの厳しい目つきにもまったく動じることなく、マユキはぴしゃりと言った。
「ラファはエルミの依頼でラトメに行くことになったって言っていたわ。あの人の思惑に乗るのは癪だけど、いつまでもレフィルのところにクレッセを置いておきたくないからって… あら、ごめんなさい。あなたの上司だったわね、そういえば」
なんだか剣呑な雰囲気になってきて、ネルは縮こまった。確かに、ラファ本人はエルミのことを「エル」と愛称で呼んでいて、エルミのほうも怪我をしているラファを心配するそぶりだったが、仲がいいのかと言われればよく分からなかった。ラファは誰に対しても、見かけこそ愛想は良かったが、レフィルにもエルミにもどこか気を許していないような変な感じがしていた。
トレイズは気まずそうに口ごもった。
「レフィルのことは…いや、俺も調べておく。ネルはレインから預かったんだ。レフィルから逃がしてやってくれと言われてな。行き先がここしか思いつかなかった。9番がラトメからいなくなった今、巫子狩りからもラトメからも身を隠せる場所といえばお前のところくらいしか」
「もちろん、ネルたちのことは私が預かります。でも全員の寝床はないわよ。セオくんはグレーシャの部屋に寝てもらうとして…」
「マユキ様、私とトレイズさんは宿を取ります。ただ、うちの娘のメルセナは置いていただけないでしょうか?この子も巫子なんです」
エルディの言葉とともにメルセナが袖をめくって印を見せると、マユキは目を丸くした。
「私たちも成り行きでネルたちと一緒にラトメから逃げてきたの。すごい偶然だけど」
「確かに運命的ね。分かったわ、メルセナ。あなたも今日はうちに泊まりなさい。暴動に巻き込まれたなら疲れているでしょう、細かい話は明日にして今日は…」
その時、上階からバタンと扉の開くけたたましい音が響いた。グレーシャが足を踏み鳴らして階段を降りてくる。憤懣やるかたない様子の少年は「お袋!救急箱!」と叫びながら、戸棚をガタンと開けた。
マユキは息子の粗野な態度に顔をしかめた。
「ちょっと、ドタバタ音を立てないで」
「うるせーな!俺は今腹が立ってんだ!」
グレーシャはぐるりとこちらを振り返ると、敵意丸出しに睨みつけてきた。
「お前らが何者か知らねえけど!人の家で勝手なことすんじゃねーぞ!」
「グレーシャ!失礼でしょ!」
母の叱る声にも聞く耳持たずに、今度はドンドン音を鳴らしながら階段を駆け上がっていった。グレーシャ自身に怪我はないように見えたが、ひょっとしてルナセオになにかあったのだろうか。
「セオ、喧嘩でもしたのかなあ」
「うーん」
メルセナの返事はあいまいだった。ネルはなんだか心配になって、そっと二階への階段を上がった。廊下に立ち並ぶ扉のひとつが開けっぱなしになっていて、そこから少年たちの声が漏れている。どうやらあそこがグレーシャの部屋らしい。
「セオ、だいじょうぶ?」
ドアから首を覗かせて尋ねると、ルナセオがぱっと顔を上げた。やはり怪我をしたのか、右手が包帯でぐるぐる巻きになっている。決してこの手を動かしてはならないと躍起になって巻いたような感じだ。
「うん、グレーシャが大げさなだけ。話は終わったの?」
こんなにきつく包帯を巻いては血が止まってしまうんじゃないかと心配しながらネルは頷いた。すると、背後からトレイズが顔を出して、やはりルナセオの包帯で団子のようになった右手を見て眉をひそめた。
「ルナセオ、俺とエルディは今日は宿を取るから、お前はネルとメルセナと一緒にここに泊めてもらえ。明日また話し合おうぜ」
「わかった。トレイズ、ついでにそのマント買い換えたら?やっぱ臭いよ、それ」
「うるせーな」
そう言って、ルナセオの頭を片方しかない手で小突くトレイズの挙動には愛情が感じられた。ラトメの人たちはみんな信用ならない。ラファの言うことは間違いなかったけれど、このトレイズに限っては悪い人ではないのかもしれないと感じた。
トレイズが手を振ってさっさと部屋を出ていくのを横目に、ネルはルナセオの顔を覗きこんだ。きょとんとしている表情からは、先ほどのような恐ろしげな気配はなにも感じない。それでも、ネルは言わずにはいられなかった。
「セオ、泣きたくなったらわたしに言ってね」
「…えっ?」
「神宿塔でわたしが泣いちゃったとき、セオ、拭いてくれたでしょ?だから、セオが悲しいときはわたしに言ってね。わたし、飛んでくるから」
クレッセにはあんなに助けてもらったのに、ついぞ彼のいちばん辛いときに、ネルはなにひとつ手を差し伸べることができなかった。ルナセオの優しいところも危うげなところも、どちらもクレッセに似ているから、なんとなく不安に感じてしまうのかもしれなかった。
「約束!」と言い残してネルは部屋を飛び出した。もうひとり、ネルがきちんと話をしなければならない相手に、まだ声をかけられていなかった。
◆
「…そう」
ネルが村を出てから今に至るまでのできごとを語ると、その女性は静かに目を伏せた。手だけは絶え間なく皆の使ったカップを洗っていたが、ずっと同じ飲み口ばかり磨いていて、キュ、キュ、と高い音だけが響いていた。
マユキはきっと、デクレをこそ助けたかったはずだ。それなのに、ネルたちが現れたとき、彼女は一言もデクレの安否を尋ねたりはしなかった。デクレは無事なのか、どうしているのか、いちばん心配していたのはそのことのはずなのに。
「じゃあ、デクレは…舞宿街に逃げたのね」
「だ、大丈夫だよ!レインさんが守ってくれるって言ってくれたもの。この槍に誓うって」
「そうね…」
なんの根拠もないままに力説すると、マユキはちょっぴり口端を上げたが、すぐにカップを流し台に置いて、ネルの方を向いた。その表情はぎくりとするほど真剣だった。
「いいえ、いいえ。ネル、あなたもちゃんと覚悟しておいて。デクレに何があっても、受け止める準備をしておくのよ」
どうしてマユキがそんなことを言うのか、ネルはわからなかった。困惑して彼女を見上げると、小麦色の瞳がうるんでいた。目の前が真っ暗になるようだった。ああ、きっとマユキおばさんは「準備」ができているんだ。
「舞宿街は…あそこは、ラトメの中で最も危ない街で…土地勘のない子供がひとりで入りこんで、無事でいられるような甘い場所じゃないの。レインもトレイズもエルディも誰も言わなかったかもしれないけれど、暴動にかこつけて、きっと人買いだってたむろしていたはず。レインには保護できないわ。私たちにできるのは、ただデクレの売り先が、少しでもましな相手になるよう祈ることだけ」
平穏なインテレディアに生きてきたネルには、人を買ったり売ったりする感覚がよくわからなかった。デクレは頭がいいからきっと逃げきれるよ、そう言いたかったけれど、マユキの視線が否定を許さなかった。
ごにょごにょと言葉にならない声を上げながら、ネルはうつむいた。
「…デクレは売られたらどうなっちゃうの?」
「さあ」
まるで答えは分かっているのに、言わずにおいたみたいだ。マユキは濡れた手を拭いて、ネルの両肩に手を置いた。
「あなたひとりでも無事でよかったわ。デクレのことは私のほうでも調べてみる。今日はゆっくり休みなさい」
よくないよ。ぜんぜんよくない。ネルはくちびるを噛みしめた。デクレを守りたくて一緒にラトメについてきたのに、どうして自分ばかりが無事で、デクレが危険な目に遭わなくちゃいけないの。
◆
順番にシャワーを浴びてすっきりしたルナセオとメルセナに合流して、鞄に入れっぱなしだった干し肉をかじりながらも、ネルは鬱屈した気持ちを抱えていた。メルセナは疲れているのかうとうとしていて、ルナセオの方はぼーっと月を見上げて何事か考えているみたいだった。
ルナセオの真似をしてぽっかり浮かぶ満月を見上げていると、ネルは泣きだしたいような笑いだしたいような、奇妙な感覚にとらわれた。
「不思議だね」
悲しくて、心許なくてしかたないのに、体はちっとも堪えた様子もなく元気だ。ネルは心のなかのどこかが切れてしまったみたいにほほえんだ。
「今日、あんなにこわいことがあって…明日どうなるかもわかんないのに、なんかね、ラトメで見たお月さまもおんなじまんまるだったな、デクレも同じお月さまを見てるのかなって思ったら、ちょっとだけ力がわいてくるの」
能天気なことに、ラトメがどんなに非情な街か、身を持って実感したはずなのに、それでも、デクレはどこかで無事でいるのだと信じていた。クレッセもデクレも、村を出るときに守ろうと思ったものはここにはないのに。
「たぶん見てるよ」
ルナセオの言葉にぱっと顔を上げると、彼は慌てた様子で手を振った。
「いや、なんかそんな気持ちでいればいいんじゃないかなってさ!果報は寝て待てっていうし、心配するよりは無事だって信じてどーんと構えてりゃいいっていうか!なっ、セーナ!」
しかし、肝心のメルセナは眠気に耐え切れなかったのかすでに夢の中だった。がっくり肩を落とすルナセオにくすりとして、ネルは立ち上がった。
「わたしたちももう休もっか」
「う、うん…」
それから、ルナセオを振り返った。彼のなんの根拠もないあたたかい励ましが、せつなくて、苦しくて、耐えられそうもなかった。それでも、ひとりでも大丈夫だと言ってくれる人がいることに、ネルは感謝した。
「セオ、ありがとう」
そのままあてがわれた部屋に駆けこむと、戸棚の隣に大きな姿見が置いてあった。ネルは自分の赤くなった髪に触れた。待っていろと言われたのに、自ら旅に出て、レフィルの狙っていた聖女の封印を解いたのは、他ならぬ自分だ。
無事だろうとそうでなかろうと、デクレは今もあの魔窟の中で、必死に生きているはずだ。ほかでもないネルが、それを信じないでどうするというのだ。目元をごしごしとぬぐって、ネルはまっすぐに鏡の中の自分をにらみつけた。