10
赤の巫子というのはこんなに続々と集まるものなのだろうか。クレッセも含めて世界に十人しかいないはずの巫子のうち、この場に三人も揃っている現実にネルはくらくらした。ラトメにやってきてからいろいろな情報が詰め込まれっぱなしで、そろそろ頭が痛くなってきた。
「君も巫子なの?世間って狭いんだなあ。この分だと九人揃うのなんてあっという間なんじゃない?」
「あら、じゃあアンタも巫子だったの。奇遇ね」
ルナセオは髪をかきわけて左耳を、メルセナは袖をめくって左手首を見せると、どちらも真っ赤に染まった肌がのぞいた。ネルの脳裏に、あの夢の中で聖女が狂気に駆られて叫んだ言葉がよみがえった。
――4番はわたしの話を聞かないから耳を削いでやった。
――6番は仲間の流す血が怖いというから手首を切ってやった。
そして、髪の毛を切られたのが5番だ。赤く染まった髪を撫でて、ネルはうつむいた。巫子の印は、まるで聖女が誰かを傷つけた証のようで、胸の奥がざわざわした。
「私はね、北のシェイルディアから来たの。パパといっしょに」
メルセナが、ひととおりの燭台に火を灯して、今は何やら床の紋様を注意深く眺めている美青年を指さした。
「巫子になっちゃって、追っ手から逃げてたんだけど、ギルビス…パパの上司なんだけど、その人から連絡が来て。ラトメに助けてほしい人がいるっていうからここまで来たのよ。私、ギルビスの頼みは断れないのよねー」
それからメルセナはネルの顔を覗き込んだ。
「アンタのことよ。インテレディアからラトメに連れて行かれた、ネルとデクレって子たちを助けて連れ出してくれって」
「わたし?」
ネルにはメルセナの言う「ギルビスさん」とやらにまったく心当たりがなかった。どうして誰も彼も、自分の預かり知らぬところでネルのことが知られているのだろう。
「でも、わたし、そのギルビスさんって人、知らない」
「そのギルビスさんってシェイルの騎士団長じゃないの?俺もシェイルに行ったときに会ったけど、なんでそんな人がネルを助けようとすんの?」
ネルって実は有名人?ルナセオは期待するように目を輝かせたが、ネルは首を振った。これまで自分の村を出たこともない田舎者が、どこかの団長さんに気遣われているだなんて不可思議な話だった。
メルセナはまったく思い当たるところのなさそうなネルに、探偵よろしく口元に手を当てて唸った。
「謎ねえ…まあ、とにかく私たちそうしてラトメに来たわけよ。そしたらいきなりあの暴動が起きたじゃない?何コレーって思ってたら、神護隊の人にボコボコにされてるあの男の人を見つけたの。それで助けて話を聞いてみたら、ネルって子は神宿塔に行ったっていうからここにたどりついたのよ」
「わたしを探しに来てくれたの?」
矢継ぎ早に説明するメルセナの言葉をゆっくり咀嚼しながら、ネルがとにかく理解できたのはそこまでだった。メルセナは「ギルビスの頼みだからね」と頷く。
「でも私、アンタのことは知らないわ」
「俺?俺はルナセオ。レクセディアの学生」
ルナセオは愛想よく言って、ネルに「インテレディアとはお隣だね」とほほえんだ。
「俺も突然巫子になっちゃってさ。運よくトレイズに拾われて一緒に旅に出たんだ。トレイズの上司がラトメにいて、巫子を保護してるっていうから、俺を連れて行くって言われて」
「アンタさっきシェイルに行ったって言ってなかった?ラトメとは逆方向じゃない」
確かに、レクセディアはインテレディアの南東にある都市で、ラトメディアに行くならそのまま南に下って砂漠を越えればいいはずだった。シェイルディアは北にある雪で囲まれた都市だから、まったくの反対方向だ。
ネルもラトメに来るまでにレフィルに見せられた地図を思い返した。ネルはちっとも理解できなかったけれど、デクレが迷子になったら思い出せと何度も何度も説明して頭に叩き込まれたのだ。
ルナセオは声を落とした。
「それがさー、トレイズのやつ、近年稀に見る方向音痴でさ。あんま突っ込まないでやって、あいつ傷ついちゃうから」
「聞こえてんだよ!」
メルセナの父と一緒になって床を検分していたトレイズが怒声を発したが、ルナセオは完全に無視して続けた。
「それで、俺もどうにかラトメに辿り着いたと思ったら暴動に巻き込まれたんだ。たまたま会った男の子にやっぱりネルとデクレを助けてくれって言われて、今ここ。いろんな人に大切にされてんだね、ネルは」
「クレッセ、わたしのこと、なんて言ってた?」
なにせ、神護隊本部では最後に会った時はラファの「処置」でネルたちのことが分かっていなかったのだ。それがどうしてネルたちを助けるように言うのだろう。
ルナセオは腕を組んで渋い顔をした。
「あの時はあんまりゆっくり話す時間もなかったからなー、ただ、俺が巫子だって言ったら、ネルとデクレもきっと巫子に選ばれるはずだから、守ってくれって、そのくらい?」
「そのクレッセって誰?」
メルセナはクレッセと面識はないようだった。巫子というのは9番に近しい人から選ばれるんじゃなかったのだろうか。
ネルが口ごもっていると、トレイズが話に加わってきた。どうやら床の検分が終わったらしい。
「そう、俺も聞きたかったんだ。お前は9番の関係者なのか?」
「9番!」
メルセナは素っ頓狂な声を上げた。「それ、私たちが倒す相手でしょ?アンタの友達だったの!」
すかさず父親がやってきて「セーナ、デリカシー」と低い声で言った。ネルにはでりかしーとやらの意味が分からなかったが、どうやら人を黙らせる呪文だったようで、メルセナはぱちんと両手で口を塞いだ。
ネルは絹のハンカチを握ってその手触りを確かめながら頷いた。
「わたし、クレッセの幼なじみで…5年前にラトメのひとたちに無理矢理連れて行かれちゃったの。クレッセのお父さんが、ラトメの偉いひとの子供だったからって。わたし、ずっとクレッセがどこに行っちゃったのか知らなかった。でも、この間、村にレフィルがやってきて…クレッセが病気だって言われて、デクレと一緒にここまで来たの」
整然と話をするのが苦手なネルの話はきっと要領を得ていない。その証拠にメルセナが何度も口を挟みそうになっていた。ルナセオが手を挙げた。
「デクレってのも友達?」
「デクレはクレッセの弟なの。クレッセたちがいなくなった日、デクレはたまたまうちに来てて、ラトメに連れて行かれずに済んだんだけど…」
「なるほど、じゃあレフィルが迎えに行ったっていう巫子候補がお前とそのデクレって奴だったわけか。あいつもなんで病気だとかなんだとか回りくどいこと言ったんだ?どうせラトメに来れば知らされることだろ?」
トレイズはレフィルの部下のようだが、上司に対して不信感が首をもたげているらしい。レインの話がよほど効いたのか、気遣うようなまなざしでネルを見下ろしていた。
「わかんない。だけど、わたしがラトメで会ってすぐのクレッセは、ほんとに心の病気になっちゃったみたいですごく怖かった。ラファさんが…神都の高等祭司の人がクレッセを治してくれて、クレッセのこと落ち着かせてくれたの」
「あのさあ、ちょっと気になるんだけど」
ルナセオは疑わしげにトレイズを見上げた。
「俺は神都の奴らは巫子を襲ったりラトメに暴動けしかけたりする悪いやつで、ラトメに来れば巫子のこと保護してくれるもんだって思ってたんだけど。ネルの話を聞いてると、まるでラトメのほうが悪者じゃない?」
「神都は巫子を捕らえようと巫子狩りを放って来るんだぞ?あいつらがいい奴らな訳がないだろ。ラトメは巫子が神都に害されないように保護してるんだ」
「嘘!レフィルもレインさんもそんなこと言ってなかった」
ネルは懸命にトレイズに立ち向かった。
「ラトメは悪い人たちばっかりだよ。エルミさんはクレッセたちを連れて行くときにユールおじさんの背中を斬ったし、レフィルは…たぶんあの人は、わたしを巫子にしようとしてたし。暴動が起こって、みんな怖い顔してケンカするし。ラファさんはラトメは魔窟だって言ってた。誰も信用しちゃいけないって」
そのラファだって、クレッセを連れ出すためにあの暴動を起こしたのだ。ネルからしてみれば、ラトメも神都もどちらも怖い存在に違いない。
「結局、わたしたちを助けてくれたのは、レインさんだけだったもの」
彼が何者かは結局教えてもらってないけれど、レインだって本当の性格を隠してここで神護隊長をやっているのだから、たぶん悪いこともしているのだろう。それでも、このラトメの悪党たちの中でネルが力を貸してもらえると思えたのはレインだけだった。
「いや、でも…」
「トレイズさん、今のラトメが悪意と陰謀にまみれているのは事実でしょう。あなたがこの都市の第一線で活躍されていた頃とは違いますよ」
トレイズはなお言いつのろうとしていたが、銀髪の青年が間に入って止めた。塔の中が明るくなって、ようやくネルは彼の美しいかんばせをまともに見てはっとした。
「あなたって、エルミさんそっくり」
「よく言われる、親戚みたいなものだから」
青年がネルの前に膝をつくと、本当に絵画か何かから飛び出してきたようだった。色彩も顔立ちもあのエルミにそっくりだったが、鼻筋や肩幅といったパーツは男性的だ。
「自己紹介が遅れたな、私はエルディ。そこのメルセナの父で、レインとは昔からの知り合いだ」
「うちのパパ、かっこいいでしょ」
メルセナが自慢げに胸を張った。
「とにかく、ここはゆっくり話をするには向かないだろう。この塔の転移陣が使えるようだから、今は一旦別の都市に移ろう。君も少し休んだほうがいい、ずいぶん疲れているみたいだから」
「ほら、こういうとこだよトレイズ。こういうのが大人の対応だって」
ルナセオの軽口に「うるせえ」と返して、トレイズは転移陣というらしい床の文様の近くまで進み出た。
「ひとまずレクセに俺の知り合いがいるから、そこに行こう。エルディ、レクセディアに繋がる出口はあるか?」
「レクセの学生街前には行けそうです。さあ、皆、陣の上に乗りなさい」
皆が文様の上に乗る背中を見て、ネルは不安に駆られて神宿塔の扉を振り返った。
デクレは無事だろうか。また会えるのだろうか。一緒に帰って、そしたら結婚しようと言ったのに。
「ネル」
ちょうどルナセオとメルセナに同時に名前を呼ばれて振り向くと、ふたりは気まずそうにお互いを見ていた。気を取り直してふたりが気遣わしげに言った。
「行きましょ。ここにいたって何もできないわ」
「レクセでゆっくり朗報を待とうぜ」
ネルはもう一度物言わぬ扉を見てから、ふたりの元へ歩み寄った。エルディがなにやら呪文を紡いで、文様が虹色に光るのを眺めながら、ネルは祈った。
もしもこの世界に神さまがいるのなら。どうかどうか、世界中の悪い人たちからデクレを守ってください。もう一度、デクレが「ばかネル」って言って困ったように笑うところを、見られますように。