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章ごとに書き溜めて連載していきます。1章全10話、毎日0時更新です。
長い旅が終わった時、天高くに溶けていく光の粒を見上げながら、少女は目を閉じて思いを馳せた。
青空の下で、ただ楽しげに駆け回っていた子供の頃の、無邪気な声も、胸いっぱいに吸い込んだ草のにおいも。
大丈夫。ぜんぶぜんぶ、忘れない。
まぶしいばかりの赤い花の咲く箱庭で、少女はいつまでも、そうして立ち尽くしていた。
◆
その日は朝からあいにくの曇天で、冷たい風で少し肌寒かった。本当はご近所の幼馴染の家に飛び出していこうと思っていたのに、母から花瓶の水を換えるように命じられて、ネルはしぶしぶ窓際の重い花瓶を運んでいた。
最初はふくれっ面だったネルも、思いのほかきれいに花が生けられたころには気分が上向きになって、ふんふんと調子っぱずれな鼻歌をうたっていた。すると、そばのテーブルで荷支度をしていた客に声をかけられる。
「それは、この村に伝わる歌か何かか?」
数日前からこの宿屋に泊まっていたその客は、こんな田舎の村ではちょっとびっくりするくらいの美男子で、ネルは彼にくっついて何度も旅の話をねだった。その甲斐あってか、最初はそっけない態度だった彼もこうして声をかけてくれるまでになった。ネルはうれしくなってみかん色の瞳の青年に機嫌よく答えた。
「ううん!わたしがいま考えたの。あのね、これはお花に元気になあれっておまじないする歌でね、ほかにもいろいろあるんだよ。たとえばおそうじが上手になる歌とかね、毛虫をお部屋から追いだす歌とか」
一生懸命話しながら、ここ最近思いついた歌を再現してみせると、青年はくすくす笑った。
「なるほど、君は歌に愛されているんだな」
「歌に?」
そうだよ、青年は頷く。その拍子に彼の金色の髪がさらりと揺れた。
「世界を救う巫子のおとぎ話を知っているか?そのうちの一人は、歌を奏でればその言葉の通りに他者を癒したり、魔物を退けたりできたという話だ」
赤の巫子のおとぎ話なら、子供たちはみんな知っている。世界を滅ぼす悪いひとがあらわれて、九人の巫子がそれを倒すのだ。悪いことをしたら巫子に倒されてしまうわよ、いたずらした子供は何度となくその言葉を聞かされる。ネルの母はあまりその言い回しが好きではないようだったが、近所の酒屋のおばさんはしょっちゅうそう言って息子の尻を叩いていた。
「じゃあわたしも大きくなったら、巫子みたいなすごい魔法使いになれるかなあ?」
「おまえみたいな音痴が歌で世界を救えるわけないだろ、ばかネル」
分厚い本で背中を小突かれて振り返ると、小麦色の髪と瞳の少年が不機嫌そうに立っていた。ネルは目を輝かせて彼の腕にとびついた。
「デクレ!むかえにきてくれたの?」
「おまえが言ったんだろ、今日は朝から裏の森で探検だって。いつまでも来ないから、クレッセも待ちくたびれてるよ」
デクレとクレッセはこのインテレディアの名もなき村に住む双子の少年で、ネルは彼の幼馴染だった。互いに物心ついたときから片親で、だからだろうか、ほかにいる同世代の子供より仲良しで、三人はいつも一緒だった。
「今日は探検は無理そうだな」
うつくしいお客さんはちらりと窓の外の曇り空を見てそう言った。
「雨になりそうだし、今日は大人しく家の中で遊んだほうがいい」
「お客さん、お天気わるいのに、今日出ていっちゃうの?」
ネルは彼の小脇に抱えたマントを見てさびしくなった。彼は世界中を旅しているようで、ネルの知らないたくさんのお話をしてくれた。せめて雨が降るのならそれがやむまで滞在してほしいのに。
ネルの気持ちを知ってか知らずか、青年はネルの栗色の髪を撫でて首を横に振った。
「仕事があるから、もう出なきゃいけない。雨が止むまでは待てないんだ」
「でも…でも…」
「こら、ネル。お客さんを困らせちゃだめだろ。すいません、お客さん」
ネルの代わりにデクレが頭を下げた。青年はついとデクレを見下ろした。
「君はあの占い師のところの子だな。小さいのにしっかりしている」
「そばにしっかりしていないやつがいるので」
「むっ」
ネルはむくれたが、デクレがネルよりもずっとしっかりしているのは周知の事実だった。デクレとクレッセの家は、この宿屋から数軒先にある青い屋根の小さな家で、毎日大勢の人が押しかけていた。デクレとクレッセの父ユールは有名な占い師らしく、よその町からも客がやってくる。目の前の青年も確か彼に会いにはるばる旅をしてきたと言っていた。
青年はマントを羽織ると、懐から白いハンカチを取り出した。彼はネルの前にひざまずいて、そのハンカチをネルに差し出した。
「じゃあ、これを君に預けておこう。いつかまた近くに立ち寄ったら返してくれ」
「ほんと?また来てくれる?」
「ああ、きっと」
手元の白いハンカチはすべすべした手触りで、白い糸で百合の花の刺繍が入っていた。まじまじ見つめていると、ハンカチの折り目に何やら小さいメモのようなものが挟まっている。取り出そうとすると、その手を押しとどめるように青年に手を重ねられた。
思わず青年を見ると、彼はみかん色の目を細めて立ち上がり、荷物を抱えてマントのフードを深くかぶった。
「君たちの平穏を祈ろう、ネル」
◆
青年が旅立って少ししてから、ぱたぱたと窓に水滴が落ちてきた。あっという間に大粒の雨が降り始める。
彼は大丈夫だろうか。ネルはいつまでもハンカチを見つめていた。挟まっていた不可解なメモは今はネルのポケットの中にある。そこには走り書きで「その少年を家に帰してはいけない」とあった。
少年って、デクレのこと?どうしてデクレがおうちに帰っちゃいけないの?青年を追いかけて問い詰めたかったが、彼はすでに旅立った後だ。デクレは今はぼーっとしているネルの代わりに床の水拭きをしている。いつも一緒だから、彼も宿の手伝いはお手の物なのだ。
「ばかネル、ちゃんとおまえも手伝えよ。おまえの家なんだから」
「うーん…」
上の空でハンカチを見ているネルに何を思ったのか、デクレはため息をついてネルの頭をぽんぽん叩いた。
「大丈夫だって、それ、すごい高そうなハンカチだし、ちゃんとそのうち会いに来てくれるよ」
どうやらデクレは、あのお客さんが行ってしまったことでネルが落ち込んだのだと思ったようだ。確かにさびしかったけれど、宿に来たお客さんがいつか出て行ってしまうことはネルだってわかっている。
そんなことより、なぜあの青年はネルにあんなメモを残したのか、それが気がかりだった。窓の外を見ると、土砂降りの向こうで、デクレたちの家にはまだ人だかりができているようだ。この雨の中でまだお客さんが絶えないなんて、よっぽどユールおじさんの占いは人気なんだなあ。頬杖をついて考えていると、突然宿屋の扉が開け放たれた。
「ネル!ネル、いる!?」
ネルと同じ栗色の髪に若草色の瞳の女性は、ぴんととがったエルフの耳を真っ赤にして、髪についた水滴を振り払いながら飛び込んでくるなり叫んだ。ネルの母のソラだ。鬼気迫る様子の彼女に、ネルもデクレもぎょっとした。
「ど、どうしたの、お母さん?」
「ああ、ネル、いるわね。デクレも…よかった」
駆け寄った二人の子供をソラは安堵した様子で抱きしめた。それからあたりを見回して問うてくる。
「クレッセは?一緒じゃないの?」
「クレッセは家にいるよ。ネルをむかえにきたのに、こいつ、全然手伝いしないから」
「花瓶のお水は換えたもん!」
「…そう、クレッセが…」
ソラはつぶやきながら表情を曇らせた。なんだか胸の奥がざわざわして、ネルはデクレと顔を見合わせた。不安げにデクレがソラを見上げた。
「おばさん、何かあったの?」
ソラは何度か外と子供たちを見比べていたが、やがて意を決したようにデクレの両肩に触れた。
「落ち着いて聞いて、デクレ。あなたのお父さんのところに、怪しい人たちが押しかけてきて…とにかく、あなたは危ないからここにいなさい」
「怪しい人たちって、なに?父さんは?クレッセは、無事なの?」
「わからない、わからないけど」
ソラも混乱しているようだった。ネルは思わず開けっ放しの扉から飛び出した。雨粒の向こうにいるユールの客だと思っていた人だかりは、皆揃いのマントを羽織っているように見えた。
ここからではそれ以上はよく見えなくて、ネルは駆け出した。背後でソラが「待って!待ちなさい、止まって、ネル!」と叫ぶ声が追いかけてきたがかまわなかった。
デクレの家のそばに積みあがっていた木箱の影に隠れて様子をうかがうと、ネルの背後に誰かが立った…デクレだ。彼もソラの静止を振り切ってきたらしい。
「あいつら、何者?」
家の前には十数人の大人が詰め掛けていた。麻のコート、白い詰襟に、黒いズボン。揃いの衣服を身にまとっている。デクレが息をのんだ。
「あいつら、武器を持ってる…」
デクレの言う通りだった。彼らは腰に長剣を携えており、いつでも抜刀できるように柄に手をかけていた。明らかに、普通の客ではない。ネルは雨のせいだけでなく、頭から冷たくなっていくのを感じた。
その時、人だかりの中央から、ゆったりとした声が響いた。
「お引き取り願いたい。残念ながら、私はあなた方と行くつもりはありません」
デクレたちの父、ユールの声だ。いつもは、優しいユールおじさんは、今まで見たことがないような厳しい表情で、招かれざる訪問者たちを見据えていた。その陰で、クレッセが縮こまっている。デクレとクレッセは見分けがつかないほどそっくりな顔立ちをしているが、村の皆はだれでも二人の区別がつけられる。二人は少しだけ目の色の濃さが違っていて、クレッセの瞳は小麦色ではなく琥珀なのだ。今はその瞳も恐怖に潤んでいた。
ユールと対峙しているのは、長い銀髪に瑠璃色の髪の女性だ。彼女は雨に濡れた髪の毛を耳にかけながら、この緊迫した空気なんてものともしない様子で穏やかに言い放った。
「残念ながら、今のところ一介の村人であるあなたに拒否権はございません、ユール様。わが都市の上層があなたをお呼びなのです。どうしてもというのであれば…腕ずくでも連れて来るよう、とのお達しです」
女性は言うなり腰の長剣をすらりと引き抜いた。震え上がるクレッセを腕で庇いながら、ユールはじりじりと後ずさった。
「その命令は貴宿塔のエッフェルリス公のものですか、それとも舞宿塔のファルシャナか…いずれにしても、武力行使とはラトメも堕ちたものですね」
「ご安心を、ユール様。死ぬことはございません」
雨の奥で、その女性はクレッセを見た、ように感じた。咄嗟にクレッセに覆いかぶさるように抱きしめたユールの右肩から左腰までを、その女性は迷うことなく、斬った。
声を上げる間もなかった。
「父さん!!!」
クレッセが絶叫した。女性は冷静に周囲の麻コートたちを振り返った。
「お連れしなさい」
「はっ!」
「父さん!父さん!!いやだ、いやだああああ!!」
人の身体からこんなに血が零れ落ちるのを、ネルは初めて見た。無意識に、飛び出そうとするデクレに抱き着いて押しとどめていた。本能で、彼を行かせてはならないのだとわかっていた。水たまりが赤く染まっていくのを見ながら、ネルはただ地面に根が生えたように立ち尽くしていた。
そうしている間に、ユールは引きずられるようにクレッセから引きはがされて、クレッセにもその手が伸びた。
「クレッセ!」
「だめ、だめ、デクレ!」
幸い、ふたりの声はカラカラにかすれていて、その怪しい集団の元へは届かないようだった。しかし、クレッセははじかれたように顔を上げてこちらを見た。
女性がこちらを振り返る直前、咄嗟にネルは力いっぱい木箱の奥にデクレを突き飛ばした。
道のど真ん中に現れた少女ひとりに、彼らは怪訝な顔をした。
「なんだ?」
「この村の子供か?」
ネルは小石を拾って、クレッセを抱えている男に投げつけた。
「うわっ」
「くっ、クレッセを、おじさんを離して!」
「この…!」
石を投げつけられた男は鬼のような形相で剣を抜いた。ネルは縮み上がってその場にしりもちをついたが、女性が凛とした声で言う。
「まだ子供です。捨て置きなさい」
「しかし、エルミさん!」
エルミ、と呼ばれた女性はぞっとするような冷たい目でネルを見下ろした。恐ろしくてあえぐように短い息を吐いていると、彼女はネルに興味を失ったように顔をそむけた。
「撤退しましょう」
「やだ…やだっ、離せ、離せよ!ネル、デクレ!!」
「クレッセ…クレッセ!」
「駄目よ!」
クレッセに手を伸ばそうとすると、後ろから誰かにきつく抱きしめられた。ソラだ!
「お母さん!」
「だめよ、危ないわ、かかわっちゃダメ!」
「やだ、やめてよお母さん!クレッセ!クレッセ!!」
「ネル、デクレ、助けて!やだ!!」
ソラはネルを押さえつけて動かない。一団の影はみるみるうちに小さくなっていく。血濡れのユールと、クレッセを連れ去って。
彼らの足音が消えて、その場には雨音だけが残った。ネルは力の抜けた母の腕を抜け出して、木箱の裏にいたデクレのもとに駆け寄った。ネルが力いっぱい突き飛ばして怪我をしたのか、デクレは足首に触れながら、クレッセたちの消えていったその向こうを見て放心していた。
ネルがデクレの正面にうずくまると、デクレはゆっくりとこちらを見た。
「ネル…クレッセが……父さんが」
ネルは何も言えなかった。ポケットに手を突っ込んで、青年の残したメモを握りつぶす。
どうしてかはわからないけれど、あの青年はこのことを知っていた。知っていて、デクレを家に帰すなと言ったのだ。
彼はどこまで分かっていたのだろう。クレッセが連れていかれることも、ユールが大けがを負うことも、彼らが何者なのかも、全部知っていたのだろうか。彼らの味方なのか、それとも敵なんだろうか。頭の奥がぐちゃぐちゃになっていた。
デクレの小麦色の瞳からぽろりと涙が一粒落ちた。
「ふたりが…連れていかれちゃった…なんでだよ、なんで…」
ネルは嗚咽をこらえることができなかった。たまらなくなってデクレに抱き着いて、茫然とするデクレに代わって大声で泣いた。ごめんねと、何度言っても足りなかった。