9:薬剤師
狭い病室で妹はやせ細った腕を伸ばし
僕から一切れのりんごを受け取る
思ったよりも元気そうに食べると
今度はヨナから一切れ受け取る
「ありがとう」と言って
少しだけ微笑むように目を細める妹
「元気になったら
一緒にお出かけしましょう」
ヨナはたぶん
本気だ
僕らには目に見えない可能性が示されていて
その幸運を
ヨナは最後まで信じているだろう
だから
妹も笑う
「今日は賑やかだね」と声がして
薬剤師が入ってくる
いつもにやにやしている気味の悪い薬剤師
彼は悪意のような善意で僕と妹を見下ろしてくる
彼は
八月の淋しさのなかでも存在感を失わない
「僕にもりんごをくれないか」
「これは妹さんにあげるんです」
「タダでとは言わないよ
いくつか薬を持ってるんだ
欲しいものがあればそれと交換だ」
白衣のポケットから
じゃらじゃらと薬が出てくる
「薬はもういらない」と
妹がつぶやく
薬剤師は動きを止めて
少しだけ
寂しそうに表情が緩む
今が何月なのか
分からなくなりそうな表情
薬は全てポケットにしまわれ
「正しい選択だよ
どんな薬よりも
そのりんごの方が君には大切なものだからね」
「意地悪なことをしないで」
「意地悪じゃない
優しさだよ」
彼はきっと
頭がおかしい
妹はいつも彼に振り回されている
それでも時々
彼の言っていることは
正しいことのように聞こえる
「あの——」と
ヨナが声を出し
病室の空気が光を放つように動き
彼の目が大きく開かれる
「友達がお世話になってた看護師さんがいて
お元気でしょうか」
考えこむ薬剤師
そして
「僕はね——」と
手を伸ばして
ヨナの頭に触れようとしてくる
遮るように手を伸ばすと
「君たちみたいな人間が嫌いなんだ
妹くんは健気で素敵なのに
どうしてお兄さんとそのお友達は
痛みも知らない健康優良児なんだろうか」
「そんなこと言わないで」と声を荒げ
妹が咳き込む
ヨナが彼を睨みつけ
「妹さんに悲しい思いをさせないで」と言う
彼は溜め息をついて背中を向け
部屋のドアを開けながら
「あの女は先日死んだよ
過労でね
よくあることさ」
そう言った
強調される蝉の声——
遠くに
行ってしまう
窓の外の景色の全てが
光が
温度が
風の流れが
全て
全て、遠い青空の彼方へと上昇していく
きっと戻ってはこない
行ったきり
それらは死人のように
二度と僕らの前に現れないだろう
僕はヨナの手を握る
あらゆるものが奪われる僕らの八月
いいや
奪われるのではない
きっとあの空はそう言うだろう
そして確かにそうだと僕も思い直す
そうだ
奪われるわけじゃない
僕らが
捨て置かれるだけなのだ
だけど——いや
だからこそ
僕はヨナの手を離さない
僕らだけが捨てられたこの狭い世界こそ
僕らの存在そのものなのだ
また
涙
「ひどいよ」と
声がして
それが妹だと気付く
ヨナはきっと何も言わない
八月が
ヨナの言葉を捨てていく