耳をつんざく悲鳴が響く
恐怖はいつも音もなく忍び寄り、漂う瘴気のみでその気配を察するものだ。
例えば、今日この日に、傘を借りた男の背中に、言いようのない不快感を覚えたのである。それは向かいの男も同様で、俺達は顔を見合わせて、その不快なアクセサリーを見送ったのであった。
大きな市場が始まるときというのは、俺達にとっても稼ぎ時だ。普段の自堕落な傘貸し業務などやってはいられない。時折通り過ぎる人に対して、はいどうぞ、などとのんきに手渡しする暇もない。
肝心なのは、金をどれだけ受け取って、傘をどれだけ市場側の向かいの男が持って戻ってこられるか、だ。
教会と肩を並べた鐘の音が響くころ、あの不快な男が現れたのと同じ橋の前には、既に大量の通行人が往来していた。
市場へ向かう上質なシルクのハンカチーフを持つ人か、馬車はないが馬鹿にされたくはない狼の毛皮を着た男かが、傘を借りては返し、返した傘は数瞬の隙を縫って向かいの男に届けられる。そこに人さじの遊びなどなく、俺達の本気が初めて垣間見れるだろう。
暫くして、狭い青空の下を城壁の隅まで反響する熱狂が巻き起こる。仰々しい馬車が訪れると、馬車の中から次々と、踊り子、喇叭吹き、それに身形のいい男が現れる。その男の手には不気味な歯のアクセサリーがある。
「来たぞ、あいつだ」
喇叭吹きが息を吸い込む。城壁の端から端まで反響するファンファーレが、俺達の耳をつんざいた。
「私はさる高貴なる身分の者、しかれどこの抜歯の妙技を以て、君たちを救済しに参った!」
「出たな大道医者!俺の歯を返しやがれ!」
向かいの男が悲痛な声を上げる。勿論その声は喇叭の轟音に阻まれる。見る見るうちに人が集り、金持ち、黄色い歯の中年、沈痛な面持ちで頬を抑える女などが、行列をなし始めた。そうすると、町の住宅から顔を覗かせる若者や、橋の上に立って傘を借りた淑女などが足を止める。ど、ど、ど、と地鳴りの音が響き、踊り子が患者の前で踊りを始める。
滑らかな腰の動きが今は忌まわしい。何故なら稼ぎ時をつぶされるからだ。観覧者達が橋の上で足を止めたら、傘の数も足りなくなる。困ったことに歯痛の患者は、都市にも大層な数がいる。
「あああああああああああああ!」
耳をつんざく悲鳴が響く。抜歯屋がやっとこを取り出したのだ。患者の男を押さえつける妻の表情は暗い。抜歯屋はやっとこを高く掲げると、野次馬たちに向けて高らかに叫んだ。
「これより、施術を開始する。心してみるように!」
体格も一層巨大な抜歯屋が、黒い歯をやっとこで挟む。先ほどよりも大きな悲鳴で町が彩られる。
「嫌だ嫌だ嫌だ……!」
向かいの男がパニックになり、頭を抱える。このままでは傘の供給も滞ってしまうだろう。悲惨なことに、今も客たちは野次馬根性で群がってくる。
「気を確かにもて、あとでエールを奢ってやるから!」
俺は向かいの男の持つ傘入れを強引に取り上げ、急いで定位置に戻った。
軽快な喇叭の轟音で、患者の悲鳴が掻き消える。抜歯屋はやっとこで挟んだ歯を、力任せに強引に引っこ抜いた。
耳をつんざく悲鳴と共に、歯と歯の隙間から血の濁流が流れ出る。抜歯屋は踊り子から蒸留酒を受け取ると、これを抜いた歯の隙間に強引に流し込んだ。
患者は放心状態になり、とぼとぼと帰路につく。抜歯屋は銀貨を数えながら、自慢げにやっとこを掲げて見せる。
「これが、救済の妙技である!次なる患者はこちらに来るように!」
抜歯屋が橋の前に来る日は決まって、俺たちの周りに阿鼻叫喚が巻き起こるのだ。