行列のできる橋
「三人分貸してくださいな!」
「はいはい!只今!」
次々と雪崩れ込む人の波から、チャリン、チャリンと小銭の打つ音がする。今日の橋は大賑わいで、向かいの男の方にはどんどん傘が積み重なっていく。両手で抱えて持ってくるとすぐに消化される悲しみに、向かいの男は汗ばみながら恨めしそうに俺の方を睨む。
まだ朝だというのに、女ばかりがめかしこんで流れてくるので、たまったものではない。超眼福物だ。
たまにやってくる妙齢の淑女には手短に、若い女衆には丁寧に傘を渡していると、興奮気味の彼女たちは必ずと言って良いほど乱暴に傘を奪い、ほとんど傘の中に風を溜めるように颯爽と、橋を渡り歩く。彼女たちの行きつく先が何処とは皆目見当もつかないが、同じほど、興味をそそられるのは事実だった。
一つの波が途切れ、一気に静まり返る橋の上に、真っ青な空と共に太陽が顔を覗かせる。眩い白色の光が、女たちの手の余韻を僅かにくすませた。
「今日はなんかある日だったか?」
俺は右手に纏わりつく化粧の匂いを軽く嗅ぎながら、何気なく訊ねる。
「あぁ、去勢歌手が来るんだよ」
「カストラート、つうとあれかい?少年声の……」
自らのごつごつした肌の感触を何度も確かめながら、適当に話を繋ぐ。向かいの男は傘を届けに来るついでに俺の手に触れて、お零れを預かっていった。
「そうそう、女房が興奮してたからさぁ、間違いないね」
「ふぅん。まぁ。おめでたい事で」
そうこうしているうちに、長身の男性が一つ傘を借りていった。彼は美しく高い声で、礼を述べてカストラートのいるであろう方向へと消えて行った。
そよ風に川の水面がゆらゆらと揺れると、先程の男性の澄んだ声が妙に気になり始め、彼の消えた方を向く。それとほぼ同時に、向かいの男もその方向を向いた。
「……まさかな」
「まさか、まさか」
そう言い聞かせ、再び化粧の残り香に手を滑らせる。それが酷く背徳的な匂いに思えて、再びカストラートのいるであろう方向に目を向けると、家の外壁と外壁との間の薄暗い穴を塞ぐように、新たな巨大な影が近づいてきた。
殆ど真四角のそれが近づくにつれて、景気の良い高いかけ声が響く。
「おぉ?カストラートか?」
「いやぁ、いつもの先供だろう」
聞き覚えのある高めの男性声が近づいてくると、馬車を先導する先供が、声を張り上げながら駆け足で橋の上を通り抜ける。俺達は道を開けつつ、一つ声をかけた。
「おう、今日もよく使われてんなぁ」
「全く嫌になるぜぇ」
そう言いながら汗を拭う男の歯は白く、脚に付いた筋肉の筋がズボン越しにも明らかに見えた。彼は足を止めずに、俺に手を挙げて続ける。
「先供は馬車馬の如く、ってな」
甲高い声と馬車の車輪が軋む音が通り過ぎると、静まり返った橋の上には薄っすらと轍の跡だけが残っていた。
暫く意味もなく轍の跡を追いかけながら、数人に傘を貸すと、向かいの男が閑居を見つけてふと、俺の方を見た。
「おうおう、なんだ?今度はこっちにカストラートの気配がするのか?」
「いやいや。先供の声って高いよなって」
確かに、よく通る張りのある声だ。若い頃の自分達に近い声だったと思う。ぼんやりと薄暗い路地の方を見る男は、その声を如何にも恋しそうな目で見ている。
「え、おい。まさか……」
脳裏にあらぬ想像がよぎり、向かいの男に疑いの目線を送る。
「まさか、な……」
かすれた男の声は奇妙なほど名残惜しそうだった。カストラートの手に触れた背徳感よりも奇妙な感触が、俺の手元に現れてくる。
「それじゃあ何かい?先供はオペラで歌えっていうのかい?」
名残惜しそうな目線に向けて、俺はひきつった笑みを送った。
「そりゃあ大層騒がしそうだなぁ」
男は屈託なく笑った。
俺はその日、久々に告解に向かったのだった。