「虚像」
風が吹き、青年の髪も揺れた。
銀色の髪は、陽の光を浴びて、透けきらきらと光る。
青年はサングラスを外すと、キャンパスを見た。
「ここが、オリビアが通う学校か。」
彼は口元を綻ばせ、キャンパスをまっすぐと見つめた。
相変わらず教授の声は単調で、上昇することも無ければ下降することもない。
全く面白みに欠けているとベンは思った。
だが、少ししてから、
静かに鼻を鳴らして、口元を緩めた。
自分も他人のことを言えないと思ったからだ。
ベンは頬杖を付いたまま、視線を軽く周りに向けた。
やはり、興味を持っている者など見当たらない。
大概の学生は、この長い机にうつぶせて、興味の微塵すら見せないか、他の事に夢中になっているかだろう。
教授がページをめくっても、
それと同じ音が、この広い教室に響かないことが何よりの裏付けだ。
皮肉なものだとベンは思った。
教授が講義をすることによって、
学生達が他のことに熱心になるとは、全く皮肉なことだ。
そして、教授も、自身の講義に学生たちが興味を示していないことを目に入れないように、気づいていないふりをして目を瞑る。
それでは、黙認していることと同じだ。
教授も自身の講義に、面白みが欠けていると感じているのかもしれない。ベンは思った。
お陰様で、各々の学生が自分の興味の対象に視線を向けていた。
もちろん、その対象が、ベンの隣に座るオリビアである者も多い。
階段スタイルに座席があるこの教室では、尚のことだろう。
教授の声など、学生たちにとっては、良いBGMと化して引き立て役程度しか成していない。
それはベンにとっても、似たようなものだ。
全くの皮肉だ。
ベンはそっと静かに視線を真横にずらした。
白く細い指が、左から右へと流れるように、美しく動く。
そっとベンは視界を上に広げっていた。
耳に掛けられた髪は、彼女の華奢な肩に沿って後ろまで流れる。
まるで彼女の背を包み込むかのようだ。
耳の後ろから顎まで伸びるラインは、綺麗な曲線を描き、その線は、彼女の細い首へと続く。
長いまつ毛の下にある瞳は、教授と同じページとノートを行ったり来たりしている。
オリビアはベンの視線には、気づいていない様子だ。
眉間から伸びる鼻筋は綺麗な谷を描き、完璧に整った山を描いている。
頬は程良く丘を描き、鼻のライン以上に主張しない。
きめ細かく滑らかで、どこまでも白く続く。
その雪原に、唯一の色を置くかのように、唇が、丁度良い場所に、控えめに咲く。
彼女の横顔を見れば、なお、彼女の美しく整った凹凸の比が、見て取れる。
何も欠点などない。
当然のことだ。
彼女はヴァンパイアなのだから。
ベンはずっと視界に入れていたかった。
しかし、それは同時に彼自身がずっと目を向けて来なかったモノを
自らの手で引き出してくることだ。
そして、それは彼の心の中をじわじわと染め、彼を苦しめる。
その事実をベン自身も分かっている。だが、それすらも見たくないのだ。
そして、彼は視線を元に戻した。
つくづく人間は嫌だと彼は思った。
人間は、思い道理にならないことや嫌なことからは、目を背ける癖がある。
その場しのぎに見繕う。
しかし、それによって、事実が変わることはない。単なる気休めだ。
何度逃げても、遠ざけても、また目の前に現れる。
それを繰り返せば、繰り返すほど、自らの中に積もっていく。
そして、それすらからも、目を向けることを避ける。
「ベン?」
オリビアの瞳はベンを映した。
「うん?」
ベンは真っ直ぐと教授を見たまま、応えた。
「どうかしたの…?」
オリビアは、心配げにベンを見た。
表情を見なくても、彼女の声を聞いていれば、ベンにも、彼女の表情は想像できた。
だが、ベンは彼女の目を見ず、
教授の方を見たまま、少し口元を緩めて、お決まりの台詞を返した。
「いつもと変わらないよ。」
オリビアの瞳に、ベンの横顔が映る。
真っ直ぐ、前を見たまま、オリビアの方を見ない。オリビアは、もう何度も彼のそんな姿を見た。その度に、彼女は、目の前の彼と自分の記憶の中の幼い男の子と照らし合わせていた。
男の子は、いつも笑っていた。いつでもオリビアに優しく笑いかけ、彼女もその笑顔につられて満面の笑みを返していた。だが、目の前の彼には、その面影はない。
オリビアは、そんなベンの姿に、彼女は切なかった。
「そう…。」
オリビアは、静かに視線を戻した。
ベンにとって、それは予想外な事ではない。
ベンは、この言葉をオリビアに返すと、
それ以上、彼女が何も言わないことは、経験済みだ。
勿論、彼にとって、この言葉は、その場をしのぐための嘘の言葉ではない。
だが彼にとって、都合のいい言葉でもあった。
何もないわけではない。
だが、それはあ、今では日常的なこととなり、口にする程の特別なことではなくなった。
そして、日が過ぎるうちに、
そのことそのものが、ベンが口にしたくないことになっただけなのだ。
その後も、教授の声は、相変わらずだった。
いつまでも平行線で、
未だなお、終わりが見えてこないのだから…。
この状況が、一番の悩みだと、ベンは分かっていた。
しかし、それによって、救われているものも沢山ある。
本当に皮肉だと彼は思った。
時間の終わりを知らすチャイムが鳴り、
教室にいる学生たちが次々に出ていく中、
ベンとオリビアは、机の上の物を自分のカバンにしまっていた。
ベンは、手元の本を見つめ呟いた。
「ほんとつまらないよね…。」
「え…?」オリビアは手を止めて、彼の顔を見た。
彼は本を入れる手を止めず続けた。
「誰も興味なんて示してない。」
オリビアは、彼の言葉に視線を下に向け、黙った。
「…」
「全く価値なんてないよ…。」
「そんなことないわ。」
その一言を返すオリビアの声は、いつも話す時の彼女の声とは少し違った。
ベンにとって、彼女のその反応が意外なものであった。
驚き、彼はオリビアの方を見た。
オリビアは、手を止め、ベンを真っ直ぐと見ていた。
「私はそうは思わないわ。」
まっすぐベンの目を見ている。
その瞳は、まるでビー玉のように透き通り
ベンは彼女の瞳に自分の姿が映るの見た。
ベンは、彼女の瞳に吸い込まれるかのように、ぼーっとしてしまった。
そのとき、風は、彼らの間を通り抜けた。
ベンは、オリビアの瞳から視線をそらした。
自分の心の中にあるものを見抜かれる気がしたからだ。
もちろん、彼が、そらした後、
彼には、オリビアがどんな表情をしていたかは見えていなかった。
「行きましょ。」
オリビアは、カバンを肩にかけると扉の方へと向かった。
彼女がどうして此処まで熱心になるのか、ベンはずっと疑問だった。
彼女には必要の無いものなのだから。
なぜなら彼女は完璧な存在で、何も求める必要などない。
人間のように誰かから何かを得る必要はない。
彼が確信していることは、オリビアにとっては、単なる時間つぶしであるということだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
今も昔も変わらず、自分がオリビアにとってあくまで遊び相手で、彼女にとって、それ以上の存在になれなかったことも、彼女に拒否されたことも。
ベンは、いつもオリビアの後ろを歩いている。
下をむいたまま、足を進める。
ほんの少し、視線を上げると
美しいオリビアの姿に、自分の胸が、高鳴ることを感じた。
「見ろよ。クラークだ。」
「いつも、二人して座って何をしてんだか。」
午後に入ると、空いた時間に木陰で過ごす。
ベンは芝の上で足を三角にして座っていた。東を背にして、木にもたれていた。
オリビアは南を背にして、足を横に崩して、芝の上で開いた本に視線を落としていた。
「ねぇ、ベン…。」
「ん?」
ベンは視線を上に向いたままこたえた。
緑の間から光が漏れる。
それは、まるで、ガラスに光を通したかのように光が広がり、美しく、見惚れていた。
そして、彼はまたオリビアに対する自分の気持ちを感じ、その感情に思考が呑まれないように抵抗した。
「昨日ね…。」
「うん…。」
「セバスチャンがね、温室で転んでね。」
「あー。」
「転んだ先にねぇ、この前、ベンと一緒に行った、お花屋さんで、買ったサボテンが置いてあってね。」
「うん。」
「転んだ拍子にサボテンの棘が、セバスチャンのお顔に刺さちゃって。」
「うん。」
「私、不覚にも笑ちゃって、そしたらね、セバスチャンてばっ、お顔を林檎みたいに真っ赤にして怒るの。」
「あー。」
オリビアは、とても楽しそうに話した。
「私ってば、また笑っちゃって、セバスチャンにお説教されちゃったの。」
「…。」
「ねぇ、ベンも面白いと…。」
オリビアは、嬉しそうに、ベンの方に振り返った。
だがすぐに、その笑みも消え、代わりに虚しさだけが残った。
オリビアの目には、ベンが、木の葉を見上げている姿が映った。
「ベン…?」
「…。ん?あ、ごめん。考えことしてたよ。なんの話してたかな?」
「ううん…。いいの…。…大した話じゃなかったから…。」
「…ごめん…。」
「ベン、変わったわ…。」
「そんなことないよ。」
「前は、もっと笑ってくれたわ…。」
「変わらないよ。何も…。幾つになっても…。」
「でも…。」
「子供の頃から何も変わってはいないよ…。」
芝は何とも心地が良さそうに揺れている。オリビアの美しい髪も芝と共に揺れた。
ベンの心中は、この風のように爽やかなものではなかった。
彼は、この風に全てを持って行ってもらうことを望んだ。
だが、オリビアは、風が運んでくることを知っていた。
遠くの山の向こうからに黒い大きな雲が見える。
次期に天気が荒れることを予想した。
彼女の胸の中には不安が広がった。
同じ空間にいて、同じものを見ても、
時として、不思議なことに、互いに見え方が違うことがある。
世の中では、それを「価値観の違い」「感性の相違」と表現するのだろうか。
きっと、それは、
それぞれの重きを置く点が違うからだろう…。
要は、物事を見る角度が違うと、それは、互いに全く違うものに見えてしまうものだ。
そして、それは、本来の形とは、全く違う形に見えるときもあるだろう…。
どちらか一方が、本来の形を見えていることもあれば、
双方ともに、違うこともあるだろう。
その角度から見えたモノをどんなに見ても、それ以上の見え方はない。何度見ても同じことだ。
果たして、どの角度から見れば、本来の姿をみることが出来るのだろうか…。