ログアウト逃亡
「西野航、二十五歳です。よろしく」
そう頬笑む彼に、女性陣の間に戦慄が走った。
自然にセットされた艶やかな黒髪、色気を含んだ切れ長の目。整った顔立ちに浮かぶ、柔和で優しい笑み。細身のスーツは嫌みにならない程度なランクのブランドもので、彼の魅力を際立たせている。騒々しい居酒屋で少し浮いた存在に思えた。
よろしく~、なんて女性陣が愛想よく盛り上げるが、その愛想レベルは他の男性に対してのものとは明らかに格差があった。他の人のときはもう少し他人行儀感があったじゃないか。声の高さ変わってないか君たち。
隅に座る私は、なるべく気配を薄くしながら、女性陣の無言の牽制に巻き込まれまいと身を縮めた。
そもそも来る気なんてなかったのに。終業後、職場で隣のデスクの合コン大好きマイちゃん先輩に捕まらなければ、今頃は家でテレビを見ながら週末のご褒美としてお酒でも飲んでいたはずなのに。
マイちゃん先輩を見ると、向かいの席の西野航に見とれていたので文句を言う気も失せた。まあ普段からお世話になっている先輩ではあるし、彼女の出会いのためということでもう少しだけ付き合おう。というより、私はここまで来たのにわざわざ楽しげな空気を壊してまでご飯とお酒を放棄できるような性格はしていない。
「次、のどかちゃんだよ」
「え? あ、」
いつの間にか女性陣の自己紹介が始まっていたらしい。マイちゃん先輩に肩を指先でつつかれてハッとする。しまった、女性陣の自己紹介、全く聞いていなかった。マイちゃん先輩以外の名前はわからないままのようだ。
「あー、っと、豊口のどかです。二十五です。よろしくお願いします」
ぼけっとしている間に集まっていた視線に少々焦りつつ、へらり、笑って済ませる。仕事とか趣味について触れるべきなのか悩んだけれど、他の人のを聞いていなかったのもあり結局シンプルな自己紹介になってしまった。まあ、もし興味を持ってくれるような人がいるなら会話を交わして情報交換すればいいだけの話だろう。
不意に斜め前の西野航と目が合い、にっこりと笑いかけられたのでさりげなく目を逸らした。
隅に座っていた私で、自己紹介の流れは終わりだ。飲み物も揃い、幹事の音頭でグラスを合わせて乾杯した。さて、食べて飲んで、満足したら帰ろう。
「ノドカちゃんって、珍しい名前だよね」
「そうですか?」
「俺は初めて会った! どんな漢字書くの?」
「なぁんの面白味もない平仮名ですよ」
途中、お手洗いに抜けた人の席が替わるなどして、自然と席替えが行われ、各々は話したい人に近づこうと動いている。私はまだ一度も席を立っていないので隅のままだ。しかし、隣のマイちゃん先輩はテーブルの向こう側に移り、名前のわからない美人なお姉さんと西野航を挟んで座っている。うむ、肉食である。
私の隣には橋本さんという長身の男性が座っている。清潔そうな見た目で話しやすい雰囲気なので、他の機会の合コンであったら隅の女の横に自分から移動せずとも女性に隣を陣取られてもおかしくないような人だろう。
今回はあまりにも西野航の一人勝ち過ぎるのだ。彼の両隣を逃した他の女性も、近くの男性と談笑しつつも諦められないようにちらちらとその席を見ている。マイちゃん先輩たちがお手洗いなどで席を外すのを待っているのかもしれない。
両手に花で平然と頬笑む斜め前の彼の様子を、唐揚げを齧りながら眺める。あ、レモンかかってる。誰だろう。私は別に構わないけれど、これが地雷って人もいるらしいよね。
「のどかちゃんも西野が気になる?」
「? いえ別に」
隣の橋本さんから問われ、口の中の唐揚げを飲み込んでから答える。三人で楽しそうに話しているからこちらの会話は特に聞いていないはずだが、西野航が視界の中でぴくりと反応したように見えた。
「へえ、皆あいつにばっか興味向けるのに。のどかちゃんって珍しい子だね」
「……」
「のどかちゃん?」
「あ、いえ何でもないです」
顔の前でひらひらと手を振って、不自然だった間を誤魔化すようにグラスを傾けた。少し気になることはあるけれど、とりあえず飲もう、食べよう。次、何飲もうかな。
騒がしい団体さんが近くの席にやってきたせいで、店内は途端にワイワイガヤガヤと喧しくなった。大学生だろうか。楽しそうなのは大変結構なのだが、音量が少々迷惑かもしれない。
同じテーブル内でも声が通りづらく、会話が困難なのだ。元々早い段階で隣同士の会話ばかりになっていたが、それぞれの隔たりがますます大きくなった気がする。時折離れた席の人たちにも親しげに声をかけていた気遣い屋さんの幹事の男性も、ついには追加注文などに関して以外は隣のマイちゃん先輩と仲良さそうに会話を交わすのみになっていた。
そう、マイちゃん先輩は西野航の隣から消えた。それは誰かの陰謀でも策略でも何でもなくて、ただ途中で先輩がお手洗いに行っただけなのだが。
何を考えているのか、そのタイミングで西野航は何気なく私の正面、つまり隅に移動し、残された彼の隣というただ一つの称号は移動する彼にくっつき離れなかった美人のお姉さんのものになったのである。あのお姉さん、お手洗いに一度も行っていない気がする。飲んでいるアルコールはどこに消えているのだろう……。まあ、私も人のことは言えないけれど。
お手洗いから帰ってくれば西野航の隣に戻る居場所はなく……、ということでマイちゃん先輩は落ち込むか怒るか何かするのかと思えば、平然と幹事の男性の横に座り、今は楽しそうだ。ああいうあっさりしている潔いところが私は好きで、ついついランチでもショッピングでも合コンでも、誘われると付き合ってしまうのかもしれない。
ところで、声が届けづらくなった店内において会話をする方法は、声を大きくするか、もしくは相手との距離を詰めるか、である。
美人のお姉さんが内緒話をするように西野航の耳元で何か囁き、軽く声をあげて笑った彼がまた彼女に囁き返す。ラブラブなのは結構なのだが、その行為の合間に彼が正面に座る私に対して挑戦的というか、勝ち誇るというか、何か不愉快な目を向けてくるのが納得いかない。なんだあいつは。
意味がわからず彼を視界から追い出すと、「あ、ちょっと、」と焦ったような声が聞こえた気がしたが、この騒がしい店内だ。気のせいだろう。
マイちゃん先輩が序盤に取り分けてくれたサラダを完食したあたりで、横から肩を叩かれた。隣は橋本さんのままだ。一度お手洗いに立った橋本さんは、何を気に入ってくれたのか、また私の隣に戻ってきたのだ。まあ、固定のペアやグループが出来上がっている状況で他のメンバーに入りづらかっただけか、隅で一人になる私に気を遣ってくれたのかもしれない。
「なんですか?」
首を傾げると、耳に顔を寄せられる。彼もこの方式を使うのか。よく通りそうな声をしているのだから、少し大きめに喋ってくれればいいのに。
「俺、日本酒頼もうと思って。のどかちゃんもグラス空きそうだけど、何か頼む?」
確かに、グラスの梅酒は残り僅かだ。うーん、でも十分飲んだし、そろそろ帰ろうかなあ。アルコールは特別強くも弱くもないが、少し眠たくなってきた。自分の足で安全に帰るならここで無理をする必要はないだろう。
考える私にどうする? と目で催促する橋本さんの耳に、私も内緒話をするように手と口を寄せた。橋本さんと私では大分身長差があるので、彼は自然と少し体を傾けてくれた。ぐ、ちびで申し訳ない。
「あの、私もうそろそろかえ」
「のんちゃん、駄目!」
「……」
言葉は途中で途切れた。なんなら、このテーブルの他の会話も途切れた。大学生たちの元気な声は未だに聞こえるはずなのに、この瞬間、確かにこの場に静寂が訪れた。
全員の視線は必死な声を上げた西野航に集まる。
「えっと、西野……? お前どうした……?」
幹事の男性がおそるおそる声をかけるが、そちらには見向きもしない彼は情けない顔で私を見ていた。シュッと凛々しい表情を作り上げていた眉はしょんぼりと下がり、どことなく冷たい印象を持たせやすい切れ長の目は悲しそうに潤んでいる。
捨て犬にすがられているような気分になりつつ、ああ、そういえば彼はこういう顔ばっかしてるやつだった、と思い出す。
「……初対面の方が、都合がいいのかと思ったんだけど、間違った?」
この空気のお陰で、先程一瞬だけ近づいていた橋本さんとの距離はすっかり元通りだ。そのことにややほっとしたような西野航は、私の質問にコクコクと頷いた。最初の自己紹介の後で「クールで色気があって格好いい人ね!」とこっそり喜んでいたマイちゃん先輩たちの中のイメージを大切にしてあげてほしい。
「……えー、と、幼馴染、なんですよ。高校卒業してから会ってないんですけど」
なんとなく目が合ったマイちゃん先輩に向かって説明すると、先輩たちが何か言う前に西野航がテーブルに手をついて勢いよく立ち上がった。乱暴な動作はわかりやすく怒りを表していて、正面から私を見下ろす彼を見上げる。
「それは! のんちゃんが進学先も一人暮らしする場所も教えてくれないでいなくなっちゃうから!」
怒っていながら苦しそうな彼を見て、内心で結論を出す。
私たち、この合コンにおいて、めっちゃ邪魔だ。
興味津々に見られている気もするが、これ以上ここで変なドラマを繰り広げる必要もないだろう。これ以上広がるドラマもないけど。
お金は既にマイちゃん先輩に前払いしてあるし、さっさと帰ろう。
決めてからはすぐに行動した。鞄を持って、上着を持って、戸惑う彼らをよそにテーブルから離れる。通路のところで途中ですみませんが今日は帰らせていただきます楽しかったです云々を早口で告げ、軽く頭を下げた。
下げた頭をパッと上げたらまだ立ったままだった西野航がふにゃ、と寂しそうな顔で見つめてきたので、昔からその顔に弱い私は少し怯む。まさか、この歳になって泣き出さないだろうな。
「のんちゃん……」
その呼び方も、とっくに卒業したかと思っていたのに。中学校に入った時点で多くの同級生は異性を苗字で呼ぶようになったが、彼は高校でも私をのんちゃんと呼んでいた。頑固なのだ。
大きく溜め息をついていると、通路を店員さんが忙しそうに通っていったので慌てて道を譲る。ここにいたままでは邪魔になる、という考えが、またしても結論と行動を急がせた。
「──ああもう。航、帰るよ」
「ん、帰る」
ああ、西野さん、西野くん、とか呼べばよかった。仲良し幼馴染みをお持ち帰りとか、週明けにマイちゃん先輩に絡まれること請け合いじゃないか。今もにんまりしている彼女に恐ろしさを感じる。
「あ、ま、待って西野さん! 連絡先交換しないっ?」
せっかく隣を死守したにも関わらず彼があっさり帰ろうとするものだから、慌てた美人のお姉さんがスマホを鞄から取り出していた。
連絡先の交換くらいならすぐに終わるだろうと思い、「私先行くね」と航に声をかけたのだが、私が逃げるとでも思ったのか、彼は私を優先しやがったのだ。
「すみません、多分俺、貴女に連絡しないので交換はいいです!」
なんて失礼な奴だ。
「……西野さん」
「……」
「西野くん」
「……」
店を出て大通りに出た途端、彼は不機嫌そうに私の手首を掴んで前を歩いている。ぐいぐいと引っ張られるものだから、コンパスの違いにより私の足が頑張る羽目になっているのだが、気づいてはくれないようだ。
「返事くらいしてよ西野ー」
「さっきは航って呼んでくれたじゃん!」
「ふゅっぐ」
突然立ち止まりさらにぐわっと勢いよく振り返られ、急には止まれない選手権県代表の私は思いきり航の胸に突っ込んだ。転びたくはなかったから受け止めてくれてありがとうでも抱き締めるな背中を優しく撫でるな嬉しそうに笑うな。
「航、離して」
「嫌だ。……のんちゃん、合コンなんて参加して、異性とあんな近くで話すなんて、酷いよ……」
「最高にブーメランなんだけど、それを理由にどうやって私を責めるの?」
航の胸に手をつき距離をとろうとするも、腰に回った腕が外れない。勘弁してくれ。こんな駅に近い場所で節度のない距離を続けようとするのはやめてくれ。
ぎゅう、と隙間なく抱き締められ、すぐ上から降ってくるのは色々な感情を押し殺したような声で、身動きのとれない腕の中で顔を顰めた。
「のんちゃんが橋本に笑いかける度にあいつ殺そうかと思った」
「物騒……重たい……彼氏かよ……」
「え、彼氏になっていいの?」
「言ってない」
とにかく離れろ、と強引に彼の腕から抜け出ると、不満丸出しに私を睨みだす。あらあらそんな顔も久々に見たわ。
そもそも、第三者からしたら確実に誤解を招きそうな彼の態度ではあるが、別に私と彼は恋愛的な関係ではなかったはずだ。幼稚園から一緒ではあるものの、大きくなったら結婚云々のようなありがちな話をしたこともなければ、思春期を迎えてずっと一緒にいた異性に対して態度が変わってしまう、みたいな少女漫画みたいな経験をしたこともない。
ただただ、昔から気が合うからよく一緒にいて、なんとなくその関係が続いていて、進学を期に疎遠になった。それだけのはずだ。航と仲がよかった間にどちらかに、もしくは互いに恋人がいたこともある。航に関しては整った容姿のこともあり、高校時代には恋人が途切れたこともないのではないだろうか。
「俺はずっとのんちゃんが好きだよ」
彼の途切れたことのない恋人について思いを馳せていたら彼から告白された件について。
「……ずっとって何」
「最初から。幼稚園の園庭のブランコの前で初めて話した瞬間から、のんちゃんが好き。大好き。どうしたら結婚してもらえるかなあって沢山考えてた」
淡々と話すあたりになんだか不気味なものを感じてしまうのだが、これは本当に愛の告白だろうか。一度とった筈の距離がじりじりと詰められて、危機感を覚える。初めて会ったのってブランコの前だったんだ、全然覚えてない。
「でも俺ばっかのんちゃんが好きでも駄目でしょ? ちゃんと好き同士じゃないと」
「当たり前に当然の正論だね」
「俺はのんちゃんが誰かにとられそうになると、ああ、早く俺のものにしないと、俺だけのものにしないと、ってなって、同時にのんちゃんが好きだなあって凄く思うんだ」
だから同じように自分のことを好きになってもらうために他の異性と仲がいいところを私に見せつけていたと。昔から彼のデート中に出くわす機会がやけに多かったのは気のせいじゃなかったのか。ならば、今日の居酒屋での美人のお姉さんとのやりとりを見せつけていたのも同じ理由だということだろうか。
最高に意味がわからない。馬鹿なのかな。
「でものんちゃんは高校卒業した途端にいなくなっちゃうし、のんちゃんのお母さんたちも教えてくれないし、せっかく再会したのに知らないふりするし、橋本の奴と仲良くするし、俺のこと好きになってくれないし!」
「いや、私が謝る理由、知らないふりをしたあたりくらいしかないよね」
すれ違う通行人がちらり、視線を向けてしまうくらいには航は荒ぶっているし、それでなくとも目立ちやすい容姿だ。逃げてしまおうか、一瞬考えるけれど、先程歩く彼についていくのに精一杯だった私では逃げ切れないだろう。せめてパンプスでなければチャンスがあったかもしれないのだけれど。
「だから決めたんだ!」
「あれ、聞いてる?」
「あとはもう既成事実を作るしかないって!」
「航、酔ってるの? 酔ってるだけだよね?」
グッと拳を握る航に嫌な予感を感じとり後ずさるが、素早く手をとられ、指を絡めるように繋がれた。クールと評判の顔つきがだらしなく緩んでいる。きっと相対する私の顔は引きつっていることだろう。
「ね、だから俺んちに行こうねえ」
あくまで優しく甘い声。囁きながら頭や額、こめかみ、頬、というように、あちこちに唇を落とされ、流石に平然とはしていられず繋がった手を離そうと振り回す。
なんだこれなんだこれ、甘ったるい。こんな往来でなんてことをしてくれるんだ。
「あは、のんちゃん、顔赤いね。可愛い。暴れちゃ駄目だよ。家着いたら続きしたげる」
「いやいやいやいやふざけんな。赤いのはアルコールのせいだし。私は自分の家に帰るから!」
「のんちゃんの家に連れていってくれるの? 俺はそれでもいいけど」
「あなたはあなたのおうち! 私は私のおうち! それぞれ自分のおうちと仲良くしようね!」
「無理」
パパッとつかまえたタクシーに押し込まれ、あれよあれよという間に彼の家に連れていかれ(嫌がったのだが運転手が痴話喧嘩と勘違いして私の言い分を無視したため恙無く運ばれた)、手軽に持ち運ばれ、解放されたのは彼のベッドの上。まあなんて立派なマンション、と感心する暇もなかった。
スーツのジャケットだけ脱ぎ捨ててから私の上にのし掛かり、どこか恍惚としたような表情で見下ろしてくる航は、何をしてもやめてくれる気配がない。頑固な性格は幼いときから変わらないのかもしれない。
「のんちゃ……可愛い。あー、どうしよ、……はぁ、のんちゃんが、俺のベッドにいる……」
首元に顔を埋められ、擽ったさに身を捩った。首に彼の熱い息がかかる度に背中から腰のあたりをぞわりとした感覚が襲う。
「ん、ちょ……っと待ってってば、……んう! な、な、なに、」
柔らかく熱いものが首筋に押し当てられ、体が跳び跳ねた。何かと思えば、航の舌が這うように首を舐めている。
少しの間舌を這わせたかと思うと、ちゅ、と軽い音をたてて口づけられ、ようやく航は私の首から離れた。欲情をたたえた視線に射抜かれると身動きがとれなくなる。ゆっくりと目を伏せながら近づいてくる彼から逃げる方法。……あるのか? 逃がしてくれる気がしないのだが。
軽く合わさった唇は、ゆっくりと時間をかけて深まっていく。閉じた唇を舌先で撫ぜられ、促されるように口を開くと口内を舐められた。唾液を掬うように口の中を貪られ、お返しとばかりに彼の唾液を流し込まれる。彼の手がそぅっと私の頬に添えられて、あまりにぎこちなく触れるか触れないか、といった具合で触れるものだから、またしてもぞくっとした感覚を味わうことになった。
「ん、……んぅ、ん、ん、……っは、ぁ」
「はぁ、のんちゃん……可愛い……」
航は口を離すと、お互いの唾液で濡れた唇をぺろりと赤い舌で舐め、色気たっぷりに私を至近距離から見下ろした。口の端から零れた唾液を手の甲で拭いながら睨むように見返すと、うっとりとした彼に再び、繰り返し口づけられる。それぞれの唾液から酒の味と匂いがして、そういえばお互い酔ってたなあと思い出す。
酔いを思い出した途端、それはきた。
「……わたる」
「ん、うん?」
止めどないキスの合間に名前を呼び、行為を止める。
よいせっ、と彼の胸ぐらを掴んで引っ張ると、油断していたのだろう、あっさりと私の横に転がったから満足する。二人が横になっても余裕のある大きなベッドに何か思わないこともないけど、今はどうでもいい。
「え、あ、な、なに」
「んー……さむ……」
少しの肌寒さを感じたので身近な温もりにすり寄った。うん、あたたかい。ぐぐっと重くなる目蓋は抗うことなくストーンと落ちた。
「えっのんちゃん? ど、どうしたの?」
「……わたし、お酒、飲む、ねむくな、る……ごめ、おやすぃ……」
「…………えっ生殺し……」
無意識に彼の胸元にすり、頬を寄せると、一瞬びくりと震えたが、やがて優しく包むように抱き締められ、私はゆっくりと寝落ちた。お酒を飲むと眠くなる。ありきたりな体質だ。私は悪くない。良い子は寝る時間だもの。
ああ、相変わらず、航の側は安心して眠くなる。久しぶりに会ったらなんだか面倒なことになっていないこともないけど、私にとって大事な幼馴染みなのには変わりない。起きたら、ちょっとだけ優しくしてやろう。
「のんちゃんは相変わらず酷い……あーくっそ、でも可愛い……」
もう離さないからね、なんて恐ろしい言葉は、夢の中の私には届かなかった。
お読みいただきありがとうございます。のんちゃんが寝落ちてごめん航くんって気持ちで書きました。嫌われてはいないのでたぶん近いうちに報われるはず。