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大越 悟と名乗った男は俺を洋室に通すと、電気ではなく蝋燭で灯りをつけた。
窓には一面、何重にも新聞紙が貼り付けられており、更にその上からラップ、ガムテープの順で、強固に固められている。話によると、このラップは蝋燭から新聞紙への引火を防ぐためのものだそうだ。
目貼りされているため、かなり室内は息苦しい環境となっている。
部屋の角に置かれたデスクにはポツンと電源の入ったパソコンが置かれている。
表示されている画面を見ようとしたが、水の入ったコップと開封前の菓子を持った彼が戻ってきたので、叶わなかった。唯一わかったのは、恐らくサイトは掲示板の様な所だろうということだ。
「……ほら、水と食い物っス」
「あぁ、ありがとう」
渡されたコップには結露した水がびっしりと覆い、俺の掌を濡らす。
「……あんた、本当に何も感じなかったんスか?違和感とか……それこそ、俊佐のおっさんに貰った名刺とか」
「おい、何でお前がその事を知っているんだ」
「外から聞きなれない声がしたから、扉を開けて見てたんスよ。あんたと、俊佐のおっさんが話しているのを」
橙の灯りにぼんやりと写し出されるその表情には、おおよそ感情と言うものが現れておらず、機械的に自分が持ってきた水をチビチビと飲んでいる。
俊佐さんから名刺を貰ったあの時、まさか誰かに覗き見されているだなんで夢にも思っていなった。どうやらこの悟という男は、俊佐さんの影に隠れて見ていたそうだ。
言われてみれば確かに、あの人から貰った名刺は不自然なほどに名字の部分が塗りつぶされていた。思い返せばそれは黒のボールペン一色だけでなく、赤や青、緑等様々な種類のそれで塗りつぶされていたと思う。
名刺は自分の身分を相手に伝える為の手段のはず。
なら、どうしてそこを、よりにもよって一番大切な名前の一部を消してしまったのか……。
「あのおっさんは極端な例っス。ここの住人は、僕を含めてほとんどが札付きっスよ」
「ふ……札付き?」
「そうっス。例えば、名刺を塗りつぶす俊佐のおっさん。あいつこ正体は元大物政治家の大伴 俊佐。名前だけなら政治に詳しく無い人間でも知ってるっスよね」
大伴 俊佐
幅広い年齢層から絶対的な支持率を獲得し、華々しい結果を迎えた当時での若手政治家。掲げたマニュフェストの殆どを実現し、国民の多くから信頼を得ていた。
しかし、大物の所以はそこだけではない。
「二年前の汚職事件の首謀者……」
「そう、名前を出してしまえば相当政治に疎いか、産まれたての赤子でもない限りそっちの事を思い浮かべると思うっス」
「あの政治家、確か部下や秘書に責任を全て押し付けて謝罪会見も無しに辞職。そのまま雲隠れしたはずじゃ……」
雲隠れした犯人が、此所に絶対にいないなんて保証は無い。消えた人間はその場からいなくなっただけで、必ず何処かにはいる。
それが彼の場合、政界から消えてこの裏野ハイツに来ただけの事だ。
逃亡最中の犯罪者は、なかなか見つからない。指名手配の張り紙に写っている写真を見たからといって、その顔を完璧に覚えている人はそうそういないし、運良く見つけたとしても『似ているだけの人かもしれない』と自己完結し、スルーしてしまう。そう、今の俺はまさしくその状況だ。
幾度となくテレビで顔を見ていたにも関わらず、言われるまで解らなかったし思い付きもしなかった。
「ここの利点は誰もが表札を出していない事っス。『名は体を表す』って言うっスけど、それなら逆もまた然りっス。体を表さない様にするために、名前を隠すんスよ」
俺が違和感を覚えなかったのは、他の住人の家に表札が掛かっていなかったから。
郷に入っては郷に従えとはよく言った物で、こちらが従おうとしなくても体が反射的に判断してしまう。
ここの『表札を出さない』と言う独自の常識を、まんまと埋め込まれたということだ。
因みに、夢見お婆ちゃんは不法侵入と窃盗の常習犯で未だ逃亡中の犯罪者。
103号室にはお子さんが一人いる三人家族が住んでいるそうだが、ご両親が育児放棄をしており自動相談所から夜逃げ(?)してきた一家。
202号室の住人に付いては誰も知らず、姿さえ確認されていないので生死さえはっきりしてないらしい。
「……因みに、あんたは何やらかしたんだよ」
「僕は……犯罪は犯していないっス。けど、家族から逃げてきたんスよ」
「家族から?」
「っス……。僕、働きたくなくて、でもママやパパが早く働いてこいって……。だから、ちゃんと就職したんスよ!必死に勉強して、試験も全部一発で通ったっス!受験や検定の類いなんて、合格通知しか貰ったこと無い!それくらい努力して、やっと某大手ゲーム会社に就職したっス!僕のネトゲ趣味を除いたら、収入も私生活も文句の言い様の無いくらいしっかりしてたっス!なのにっ!!!」
「なのに?」
とたん、ボロボロと涙を流し始める大越。
つい数秒前までの無表情は何処に行ったのか、堰を切ったように大声を上げて鳴き始めた。もはやそれは悲鳴に近い物になり、聞こえてくる嗚咽さえも苦しそうだった。
「お、落ち着けよ。そうだ、俺ん家に買ったばかりの麦茶が有るんだ。箱買いしちゃってさ、今からダッシュで持ってくるから、待ってろよ」
このまま放って置いたら、部屋の環境も手助けして過呼吸を起こす。
そう思ったと同時位に大越の部屋を飛び出し、一目散に自宅へと駆け込む。
あの蝋燭の灯りだけで成り立っていた部屋のお陰で時間感覚が可笑しくなっていたらしく、外は既に真っ暗だった。
月明かりとお情け程度に付けられた電球に照らされた道を走り抜け、家の前まで着く。
一刻を争う事に成りかねないので土足のまま部屋に上がる。
そう、電気もつけず。
「とにかく、お茶を…………ッ!ーーーーー」
段ボールに入ったペットボトルを掴み上げ、同時に顔を前に向けると。
人がいた。
正しくは人型なのだが、明らかに何かがいたのだ。
月明かりに照らされ、シルエットだけはハッキリしているものの、顔は影になり見ることが出来ない。窓や扉にはしっかりと鍵をかけていたので、侵入することは不可能。現に今、俺は鍵を開けてからこの部屋に入った。
俺が驚いて尻餅も付くと、古びた床は軋むような音がする。
それに反応した影は一度俺の方を向くが、ゆったりと、足音一つ布擦れの音一つさせずに、洋室の、物入れの方へ歩いていく。ススス……と襖が開くような音に、やっと金縛りのようなものは解け、スマホの明かりを片手に部屋の奥に突撃する。
威嚇するように足音を立て、臆する事の無いように、一気に物入れの襖を開けた。
パンッ という鋭い音。
直ぐ様カメラのフラッシュを常に点灯するようにし、中を照らし出す。
「えっ…………いない……だと?」
照らし出されたのは備え付けの丈の低い簡易クローゼットのみ。それも、人が一人入れるようなものではない。念のために開けてはみたものの、そこには人っ子一人どころか生き物すらいない。
直後、背中に氷水でも垂らされたような感覚を覚え直ぐに閉めてしまった。
どうやらこのクローゼットの密封度は高いらしく、閉める瞬間に空気が押し出されるような感覚があった。
これ以上この部屋に居続けるのも恐ろしい。
這いずるように玄関まで行き、扉から出ると直ぐに立ち上がり大越の部屋に飛び込んだ。
否、飛び込もうとしたが、出来なかった。
「貴方、これ以上近づくと危ない……」
そんな
まさか
目を疑いたくなるような光景だった。
知らない女性に肩を掴まれ進むことが出来ない。
当たり前だ。俺の目の前には大越 悟の部屋。
ただし、炎と熱風に包まれ、火の粉が飛び交っていた。