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派遣シリーズ(短編)

狭小恐怖症(ナロウ・フォビア)

作者: 大原英一

 広井あき男はごく普通のサラリーマン……と一昔前の小説なら紹介されただろうが、いまはサラリーマンの定義もあいまいになっている。

 会社員かと聞かれればイエスだし、正社員かと聞かれればノーである。彼は派遣社員だった。

 そう、情報流出で巷を騒がしているあの派遣だ。いまは派遣社員でも社内の重要なデータにアクセスできる。

 広井もまた似たような立場にあった。その気になれば「流出くん」とおなじ犯罪に手を染めることも可能だった。

 が、彼はそこまでバカではなかった。派遣社員の誰もが「流出くん」とおなじではないのだ。


 広井あき男は、また、小説家でもあった。もとい自称小説家だ。小説家の定義もまた、あいまいになっている。

 書くことで生計を立てている者を小説家と呼ぶなら、彼は当てはまらない。が、作品をひろく世のなかに発信しているという意味においては、彼は紛れもなく小説家だった。もとい自称小説家だった。

 彼はネット上で作品を公開していた。いわゆるネット小説というやつだ。昨今ではネット小説も侮れない存在となっている。そこで人気を博し、作家デビューを飾る者も少なくない。

 では、我らが広井あき男がそういった人気作家のひとりかといえば、それもまた違った。あえて言おう、カスであると。

 彼はネット小説家としてはカスにも等しい存在だった。彼の作品がカスという意味ではない。彼の素晴らしい作品がただ世に認められなかっただけだ。『フランダースの犬』のネロも、最期まで報われなかった。


 だが当の広井は、とくにそれを気にしている様子はなかった。

 それはそうだろう、べつに作品が認められないからといって餓死や凍死するわけではない。もとより彼は派遣社員だ。

 では彼の創作に対するモチベーションとは、いったい何なのだろう。ただの趣味? たしかに、趣味っちゃ趣味かもしれない。だが世のなかには、悪趣味といわれるものもある。

 彼が小説もどきをこしらえた、そもそものきっかけは、彼がよく見る夢を文章に残しておきたいと考えたからだ。

 はっきりいって、動機としては全然めずらしくない。世に数多あまたあるファンタジーとかいうジャンルも、けっきょくは夢物語の延長だろう。

 だが彼の夢はあまり楽しいものではなかった。っていうか悪夢だった。何故そんなものをわざわざ文章にするのか?

 だから悪趣味だというのだ。



 人間には適度なスペースというものがある、と広井はつくづく思った。広すぎてもダメだし、狭すぎるのはもっとダメだ。

 彼はいま広大な地下施設にいる。どうしてかって? 敵に追われて逃げ込んだのだ。敵は誰かって? 猿の惑星でいえば猿だ。むろんここは猿の惑星ではない。

 彼を追う者がいる以上、それは敵と見なして間違いないだろう。ただし、敵すなわち悪とはかぎらない。警察当局が広井を追っている場合もある。

 その嫌疑が情報流出だったとすれば……。


 なにもないスペースというのは、かえって落ち着かないものだ。それにここは広すぎる。周囲をきょろきょろと見まわす広井は挙動不審な様子だった。

 ここは、どこだろう。追われるまま、わけもわからず逃げ込んでしまった。よくないクセだ。こういう場合、たいてい狭い場所へ追い込まれることになる。いつもの夢だと、そうなる。

 なんにもない、だだっ広い空間だった。広井はその隅っこのほうに身を寄せていた。狭い場所が苦手なくせに、広いところでは端へ端へと行きたがる。これは人間の習性だろうか? それとも自分だけか。

 しかし広い。地下にこんな空間を設けるなんて、あきらかに異常だ。地下鉄のあたらしい施工計画でも持ち上がっているのだろうか。あるいは核シェルター?


 ぼわん、と一瞬にして照明が落ち真っ暗になった。きたきたきた、と広井は内心ほくそ笑む。敵が攻めてきたのだ。

 敵を暗中に置くのは戦法の定石だ。闇は物理的、心理的の両面で相手にダメージをあたえる。やられた側は物理的には視覚を奪われるので行動が極度に制限されるし、心理的には恐怖と圧迫感をおぼえる。ハリウッド映画でも、FBIが突入するときは必ず照明を落とす。暗視ゴーグルなんかを着けて……。

 敵はもう間近かもしれない。広井はポケットからライターを取り出すと、しぼっとそれを点けた。

 暗中で光を発するなど、わざわざ敵に居場所を教えているようなものだ。が、敵が暗視ゴーグルを着けていたら、いずれは見つかる。その前に行動に移らないといけない。

 そうか、と広井は妙に納得した。自分がだだっ広い空間の真ん中ではなく隅っこのほうに寄っていたのは、まさにこういう事態に備えてだったのだ。もし何もない空間のど真ん中で明かりを消されてみろ、めっちゃ怖いぞ?

 広井は手探りで壁伝いに進んだ。そのとき手が壁の一部を押して、かちりと音が鳴った。壁がくりんと回転し彼は暗闇の空間から解放された。なんてベタな隠し扉なんだ……。


 隠し扉のむこうは、ひと言でいえば地獄だった。狭い。めっちゃ狭い。そして広井は極度の狭所恐怖症なのだ。

 そこは幅、奥行きともに一メートル弱の空間で、一見すると物置きのようだが、高さが半端なかった。はるか頭上までハシゴが続いている。

 できればこのハシゴを昇らずに済ませたい。だが、こちら側からいくら壁を押しても、もう回転してくれることはなかった。それにあちら側にはもう敵が詰めているかもしれない。いつこの隠し扉が発見されるとも知れない。昇るしかなかった。


 広井はまた高所恐怖症でもあったが、この際背に腹は代えられなかった。一秒でも早くこの狭い空間から脱出しないと気がおかしくなりそうだ。

 だから無心にハシゴを昇った。もし途中でハシゴの一部が腐食くさっていたら真っ逆さまだ、とかそういうことは考えなかった。本当はちょびっと考えた。

 それにしても、このハシゴと息苦しい空間はどこまで続いているのだろう。どこへ通じているのだろう。わざわざこんな、人ひとりがようやく通れるくらいの幅にこしらえる必要があるのか。これを設計した人物はドSではないのか。

 ぶつぶつと文句を垂れながらも広井は昇って行った。声に出していないと怖くて仕方なかった。

 唯一の救いは、この狭いダクトのような場所が真っ暗ではなかったことだ。壁に等間隔で蛍光灯が設置されている。光の列はハシゴ同様にはるか頭上まで続き、終わりが見えなかった。



 すでに、のっぴきならない状況に追い込まれていた。悲しいかな人間の体力には限界がある。広井はもうハシゴを昇る手足に力が入らなくなっていた。

 どうしよう……昇るよりも降りるほうが体力的にはラクだが、すでに相当な距離を昇ってきており、スタート地点まで無事引き返せるか自信がない。

 いやいやいや、スタート地点に戻ってもなんの解決にもなりはしない。まあ、ここで力尽きて転落死するよりかは敵に捕まったほうがマシだとも考えられる。でももし、あの隠し扉すらも敵に発見されなかったら、自分はハシゴの麓で餓死するのを待つだけだ。

 疲労と恐怖と絶望感で広井はおかしくなりそうだった。いっそ、ここで身を投げてしまえば、すべてがラクに……。


 と、そのとき広井の目になにかが留まった。それはハシゴを正面に左手の壁にあった。彼の鼻先から数十センチしか離れていない。

 金属製の扉だった。よくマンションの廊下でガスメーターなんかを隠している四、五〇センチ四方くらいのあれに似ている。

 かるくノックしてみると、かしんかしーんとその内側が虚ろであるかのような音がする。

 広井は思わず息をのんだ。この扉が開けば、ここから這い出せるかもしれない。最悪、身体を休ませることのできる横穴でもあればラッキーだ。

 よく見ると、その扉に丸いぽっちが付いていることに気づいた。どう見ても取っ手でしょうこれ! 問題はこの扉が開いてくれるかだが……。

 悩んでいる暇はなかった。ハシゴにつかまり続けた広井の手足は、疲労で小刻みに震えつつあった。

 広井は扉の丸ぽっちを摘むと、ゆっくりとそれを引っ張った。……ダメだ動かない。だがもうワンチャンスある。手前に引くのではなく、障子のように横にスライドさせてみる。

 ききっと耳障りな音とともに、扉が動いた。


 さらさらさら……と、なにかが扉の隙間からこぼれ落ちた。砂のようだった。砂糖や砂金ではないだろう、たぶん。粉末ほど粒が細かくないようで、扉にも壁にも付着した跡はない。

 さらさらさら……と、まただ。

 扉のむこうはいったい、どうなっているのだろう。この砂はどこから、そしてどんな間隔で降ってきているのか。あるいは扉のむこうに堆積しているのか。

 広井は扉を全開にしたい衝動に駆られる、だが怖い。もし堆積している砂がこちらへ押し寄せてきたら……。



 さらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらごばあっ。

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[一言] はじめまして。拝読させていただきました。 文章は読みやすく、淡々とした書き方が作品内容にあっていると思います。 ストーリーは、主人公が敵から逃げているという緊張感は伝わるものの、読者に意味…
[良い点] 文章にユーモアがあって、読みがいがありました。 センスのある文章だなぁ……と。 [気になる点] 内容に関しては、“こわくはなかった”というか……。 正直、よくわからなかったです。 [一…
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