振り込め詐欺対策サービス
「五百万……ですか」
「ええ。でも安いものでしょう? 息子さんの将来を考えれば」
「は……払います。あの、弁護士さん。ど、どちらに振り込めば……」
「いえ、振り込みだと間に合わないので、今からうちの事務所の者が伺います。今日中に手続きをしなければなりませんから」
「わ……わかりました」
「……息子さんに変わります。……たけし君」
「か、母ちゃん。ごめんなさい。ごめんなさい」
「たけし……。お金は母さんが何とかしたげるから」
「母ちゃん、ありがとう」
ガチャリ。
「……先輩、引っかかりました」
僕が電話を切ってから、親指を立ててみせると、後ろに立っていた桂木美枝先輩が肩をポンと叩いた。
「オーケー、啓介さん、いい仕事でした。恭平さんもご苦労さま」
隣の席で「弁護士役」の恭平が延びをした。
「信号無視で妊婦をはねた。今お金を用意すれば示談にできる。五百万必要……。古典的な設定な気がするけど、よくまあ引っかかるよなあ。ニュースとか見ないのかね」
僕は肩をすくめた。
「見てるだろうよ。自分には関係ない、「社会」のニュースとしてね。いざかかってくると疑わないのさ」
今回のターゲットは、今川清美五十五歳。その息子の今川たけし二十六歳は、今年四月に下宿を始めて半年経ったが、その間実家には帰ってない。バイクの免許は取得したばかりで、事故の場所は彼の下宿先の近くだ。話に説得力はある。父親は定年間近だが今は会社で、母親である清美が今一人で家にいることもリサーチしてある。
「にしたって、たけし君とやらと、啓介じゃ声が違うだろうに」
「あんだけ泣きじゃくってやれば区別もつかんさ」
「二人とも十五分、休憩に入ってください」
桂木先輩は僕たち二人にそう言うと、携帯電話を取り出した。現場チームに連絡するのだ。
「粕崎さん? 出動要請です。ターゲット番号2983、今川清美です。今から銀行へ行って、お金を用意すると言っています。……ええ、そうです。受け渡しは一時間後に自宅で」
電話口で頷くたびに栗色のポニーテールが揺れる。それを見ていたら、電話を切った先輩と目が合った。先輩は、心配そうに言う。
「啓介さん、大丈夫ですか? 元気ありませんけど」
僕は、首を横に振った。
「人を騙して元気になる人間なんていませんよ」
「……無理しないでくださいね」
僕は自嘲気味に笑って、目を伏せた。
「してません。性にはあってるんでしょうよ」
恭平が茶化した。
「啓介はほんっと、天性の詐欺師だぜ」
*
その日の夜。
僕らが出入りしているビル一階の大部屋。遅れて入っていくと、雑多に椅子を並べたその部屋では今日の「反省会」が既に始まっていた。部屋には四十人くらいの「仲間」が集まっている。今日は僕らは最前列だ。
「遅いよ、啓介。もう電話パート聞き終わっちゃったぜ」
恭平が口をとがらせる。電話パート……つまり、僕と恭平が今川清美と交わした会話だ。
「あ、じゃあ現場パートはこれからなんだ。良かった間に合った」
僕は恭平の隣に腰を下ろす。
「啓介さん、流石でした。見ず知らずの他人に息子だと信じさせるあの話術……恐ろしいです」
そう言ったのはみっちゃん……今日の「現場」の担当だった、まだ若い女の子だ。
「やめてよ、僕より恭平のほうが大変だよ。プロの弁護士演じないといけないんだから」
「よっ滝本弁護士!」
部屋の後方からヤジがとんだ。
「よしてください……お、映った映った」
皆で囲んだテレビに、今川清美の家が映し出される。
今度は現場パートの「反省会」の始まりだ。
「お、みっちゃんとたーぼうだ」
画面には黒い背広姿の男女が映った。
女のほう……みっちゃんこと井上光子は、最近僕らと同じく粕崎班長の下についた新人だ。余談だが、桂木先輩も「美枝」なので、みっちゃんと呼ばれると時々二人とも反応する。
男のほう……たーぼうと呼ばれたのは、小林泰三という名の大男だ。昔ラグビー部だったらしい。
「みっちゃん、堂々としてるね。さすが元演劇部」
画面の中で、みっちゃんがこちら側……カメラに向かって手を伸ばした。
「このカメラあれでしょ? 例の、カメラ付きサングラス。この後、ずっとかけてたんだよね。重くなかった?」
「そうでもないですよ。ただちょっと縁が太くてダサイのが難点ですけどね」
みっちゃんが髪をかき上げながら言った。
「サングラスかけちゃせっかくの美人がもったいない。たーぼうがかけりゃいいのに」
誰かがそう言うと、みっちゃんは苦笑した。
「自分で言うのもあれですけど、真面目な話、素顔だと華やかすぎて逆に詐欺に向いてないんですよ。胡散臭くなるっていうか。逆に、泰三さんみたいな強面の人がサングラスかけるとそれはそれで怖すぎますし」
「まんまヤクザやもんな」
皆、笑った。泰三も実は二十四歳と若く、親思いのやさしい男だが、顔にはそれが表れていなかった。
「あ、ほら、出てきた」
画面……みっちゃんの視点で映る映像に、今川清美が現れた。玄関のドアを細くあけて、不安げにこちらを見つめている。
「はじめまして。藤堂弁護士事務所の金子です」
泰三が低い声で挨拶した。金子はもちろん偽名だ。
「吉田です。息子さんの件で……」
「き、聞いています。滝本さんっていう弁護士の方から……あの、息子は」
みっちゃんが話しだそうとすると、遮るように今川夫人はまくしたてた。
「息子は無事なんですか? どうして事故なんか……。バイクですか? 相手の方は妊婦だって言ってましたけど本当なんですか?」
「本当です。お腹の赤ちゃんも無事に産まれるかわかりません。聞いていると思いますが、先方はすぐにお金が必要な事情があるらしく、今日示談金を払えば示談にしてもいいと言っています。すぐに払えないなら……裁判になるでしょう。確実に」
みっちゃんは普段の愛想良さとは打って変わって、冷たい声で話す。
「訴えられれば、敗訴は確実です。たけしさんは赤信号を無視していました。保険にも入っていなかったそうで、賠償金の支払いも二桁くらい大きいものになるのは確実です」
「二桁って……億ですか」
もりすぎやろ、と粕崎さんがツッコミを入れた。皆、どっと笑う。
だが画面の中の今川夫人は完全に信じた様子で、真っ青な顔をしている。
「当然息子さんは、会社も首になるでしょう。前科を持ってしまえば再就職も難しい。場合によってはご主人の会社にも類が及ぶかと……」
「メチャクチャやな、みっちゃん」
また一笑い。みっちゃんは済ました顔で言った。
「こういうのは冷静に判断させる余裕を与えず、大げさな話を一気にしたほうが確実なんです」
確かに内容はともかく話し方はうまい。
「ひゅーう。怖い怖い」
画面の中では、今川夫人が今にも泣きそうな顔になっている。
そこで泰三が安心させるように言う。
「ですが奥さん、今なら示談にしてもいいと言ってるんです。これは言い方が悪いがかなりラッキーだ。しかもたった五百万でいいそうです。それで綺麗に縁が切れて、息子さんの人生にも全く傷がつきません」
脅すのはみっちゃんで、ほだすのが泰三。今回はそういう役割分担か。
「せかすようで恐縮ですが、向こうの気が変わらないうちに……」
今川夫人は、目を潤ませながら首を縦に激しく振った。
「払います! 払います。ここに五百万、さっき銀行でおろしてきました。これで、これでお願いします!」
そうして、分厚い封筒が突き出された。三袋にわけてあり、何センチあるのかわからないが1万円札が五百枚……入っているのだろう。
それを画面下からみっちゃんの腕が伸びて、受け取る。
ゲームセット。
「いえーい!」
ここでビデオが一時停止される。
「だーいせーいこーう!!」
みっちゃんの声とともに、一斉に、プシュという音が部屋中から上がる。
みんなでビールをあけて、乾杯。うまくいった時の、これがいつもの僕らのルールだ。
「いやー、完璧だったねえ」
「ほんと綺麗に決まるねえ、粕崎さんとこは」
「なあ。たまには失敗するの見てみたいな」
粕崎班……つまり今回の案件を担当した、僕ら六人。電話係の僕と恭平、訪問役の泰三とみっちゃん、そしてリサーチとシナリオを担当する、桂木先輩と粕崎班長。札束の映ったテレビの横で一列に並んで、皆の前で礼をした。
「いよっ。エースチーム!」
部屋中から割れんばかりの拍手。
「スゴいよね、啓介と恭平のコンビも、泰三とみっちゃんのコンビも。アカデミー賞もんだ」
「桂木さんと粕崎さんのリサーチも綿密だ。たけしがお母さんをどう呼んでいるかまで調べとくあたりは流石だよ」
ほうぼうから賛辞の声が飛ぶ。こういうのは苦手だ。
「さあさあ、皆さん。褒め殺すんはあとにしてくれ。まずは飲みながら、エピローグといこうじゃないか」
粕崎さんが六人を座らせる。
そして、ビデオの再生が再開された。
「五百万……確かに受け取りました」
みっちゃんの声。
「……はい、ああこれで、これでたけしは助かるんですね」
ほっとする今川夫人。
「……」
そこで泰三が、胸ポケットから名刺を取り出した。
「実はね、奥さん。我々は、弁護士事務所の者ではないんです」
みっちゃんも、同じように名刺を出す。
「え……」
今川夫人は名刺を手に取り、読み上げた。
「詐欺対策訓練サービス……?」
「はい。市からの外部委託を請けてやっているサービスでね。ひらたく言うと、昨今急増してきた振り込め詐欺の被害を減らすためにね、こうやって偽の詐欺をしかけて、体験してもらう訓練なんですわ。それで詐欺の手口を知ってもらう。いかに騙されやすいかを自覚してもらう。そうすることで、詐欺の被害に今後あわないようになっていってもらう、そういう目的のサービスですね」
「は……」
「奥さん」
泰三が、ぐいと身を近づけて言った。
「わかりました? 奥さん今、詐欺に引っかかったんですよ? 今、奥さんはこの五百万円、騙し取られるところだったんです」
「え……?」
「息子さんに、電話してみてください。交通事故なんて起こしていませんから。妊婦さんをひいてなんかいません」
「でも息子から電話が……」
「だから、その電話が詐欺なんですよ。電話口で泣きじゃくっていたのも、弁護士も、偽者です。うちのスタッフなんです」
「え、じゃあまさか……」
「そう、これが今よくニュースになっている、振り込め詐欺です」
今川夫人は、脱力したように座り込んだ。
「だって……たけしは、……名乗ったし、お父さんの名前も知ってたし……」
「今時の詐欺グループは、ある程度はターゲットの調査をしてからしかけてきますよ。適当に電話かけてオレオレ詐欺をしかけてた頃とは違うんです。詐欺の手口はどんどん進歩してますから」
「……え、これ……詐欺なんですか?」
今更確認するように夫人は言う。
「詐欺を模した訓練ですね。このお金はお返ししますよ、ご安心を。ちなみにね、これ、息子さんは知っています。この訓練の依頼は息子さんからですからね。一件三千円。安い授業料でしょう?」
画面の向きが変わり泰三のほうを向く。泰三が頷くと同時にカメラも上下に揺れた。そして、泰三が背後を振り返り、丸印を作った。
「さあ、ご本人登場やで」
粕崎班長がつぶやいた。
画面ではその通り、道の反対側に止めた車の扉が開いて、青年が現れた。
「たけし!」
今川夫人が、転びそうになりながら玄関から飛び出した。現れた青年……今川たけしに飛びつく。
「あんた、事故は起こしてないのね!? さっきの電話は何だったの?」
「母ちゃん、落ち着けよ。落ち着けって。俺、電話なんかしてねえよ。母ちゃん騙されたんだ」
「そうなの? ……なんでそんなこと……。あんた、これ知ってたの!?」
「母ちゃんが騙されやすいからだよ! 母ちゃんのためじゃねえか! 俺、いつも言ってんじゃんか。オレオレ詐欺に騙されんなよって。なのに、簡単に騙されるんだもん」
「だってあんた、一応あんたに電話したのよ。でも話し中で繋がらないもんだから……!」
「それも詐欺グループがよく使う手段です。わざとターゲットやあるいは息子に何度も電話をかけて、話し中にして、確認が取れないようにしてしまうんです」
みっちゃんがさらりと言う。
「さあさあ、奥さん。今回のことを教訓にされるために、我々のほうでどうしたら騙されずに済むか、パンフレットと教材ビデオを用意しています。また、ご希望の方にはセミナーのほうも開催していますので、是非そちらにもご参加ください」
泰三が、さっきまでとは打って変わって愛想の良い態度で、ポカンとしている今川夫人と息子たけしに、パンフレットとビデオを渡した。
「では、本日は失礼いたします。後日訓練結果レポートのほうを送付いたしますので、よろしくお願いしまーす」
これも打って変わって朗らかに、みっちゃんがそう言ったところで、ビデオは停止された。
*
「飲んでますか? 啓介さん」
……僕が廊下のソファに座っていると、隣に桂木先輩が腰掛けた。
「……あまり。僕、下戸なんで」
そうですか、と桂木先輩は言う。先輩はちょっと顔が赤い。
「啓介さん、あまり反省会好きじゃないでしょう?」
頷く。
「反省会って名ばかりで、ただの打ち上げじゃないですか。本来は、悪かったところを直して、次の機会にもっとうまくやれるようにするのが反省会じゃないんですか?」
あはは、と先輩は笑った。
「それが必要ないくらい、今日のは完璧だったってことじゃないですか」
「……そうかな。あの今川さんが騙されやすいだけでしょう。粕崎さんにもつっこまれてたけど、現場班は反省点も多かったと思いますよ。だいたい、「お腹の赤ちゃんが無事に産まれるかわからない」ほどなのに示談で済ませるって変じゃないですか」
みっちゃんはやや話を大げさにし過ぎる傾向がある。
「だから泰三さんがラッキーだって強調してたんですよ」
「そういうフォローが必要だったのが反省点だと言ってるんです。みっちゃんは……確かに堂々としてて人を信じさせる魔力がある。それは認めるけど、ちょっと軽率なとこは反省すべきですよ」
「……」
見ると、先輩が目を丸くしていた。
「啓介さんも、みっちゃんて呼ぶんですね。光子ちゃんのこと」
「……え、何ですか。別に変な風に思わないでくださいよ。みんなそう呼んでるじゃないですか」
「……そ、そうですよね。いやあの、ほら私も美枝だから、なんていうか自分が呼ばれたみたいな気がしてドキッとして」
それは知ってますが、と心の中でつぶやく。
僕は話題を変えた。
「本当言うと、先輩の言うとおりですよ。この反省会、あんまり好きじゃないんです。いえ、振り返るのはいいんですけど、最後のネタばらしのところ。あれ、みんなで見る必要あります?」
「……ああ、あれは……」
先輩も、僕の言わんとすることはわかってくれたようだった。
「確かに気分、よくないですよね。訓練だとはいえ、騙してるのは事実ですし」
「そもそも、本人にその場でばらす必要あるんですか?」
「その場でも後でも一緒ですよ。どうせばらすんですから」
「そうかな。しかも息子もその場に呼び出して。あんな恥をかかせる必要があるのかわからない」
先輩は、両手でビールの缶を持ったまま俯いた。ポニーテールが横にたれた。
「あれは、息子さんの希望です。今川さんに限らず、ほとんどの場合、依頼主は騙されると思ってません。99%大丈夫だと思っています。でも1%は心配だから、このサービスを申し込みます。申し込むけど、やっぱり騙されないと思ってます。だからその場に同行したいという人も時にはいるんです。見ていたいと思うのは、むしろあの息子さんがお母さんのことを思っているからだと思いますよ」
「だからよけいに酷いんです。息子の信頼を裏切らせて。僕らのやっていることって、家族の関係を壊すことをしている気がしてならない」
「考えすぎですよ。……考えすぎだって思わないと、やってられないじゃないですか」
「このサービス、実際に効果が出ているという話、本当なんですかね。この地区での振り込め詐欺被害件数が激減してるっていう……」
「本当……です……」
「もしそうならこのサービスにも意味があるんでしょうけど、でも、なんだかこう詐欺の被害を減らすかわりに社会から「信じる」ということを奪っているような、そんな気がします」
「……」
「みんなが疑心暗鬼になって騙されにくくなる社会って、いい社会なんでしょうか。本当は、騙す人がいなくなるほうが、いい社会なんじゃ……」
コトン、と肩に何かがあたった。……先輩の頭だった。先輩が、僕の肩に頭を乗せて、寝ていた。
「……先輩?」
寝息を立てている。僕はため息をついた。
「まあ、先輩もあんまり寝てないからな……」
先輩は、いつも夜遅くまでターゲットに関する情報収集や、最新の詐欺の手口の調査をしている。このチームがエースチームだと言われるのは、先輩の綿密な作戦力があってこそだ。基本設定がベタでも、先輩の手にかかればそこにきめ細やかなリアリティが加えられる。雑なシナリオに見えてそれは柔軟さでありボロが出にくいのだ。
「僕は……人を騙すのが得意です。だからこの仕事は天職なんだと思います。恭平の言うように」
先輩が眠ってしまったので、僕の言葉はただの独り言だ。
「だから、もう少しだけ続けますよ」
*
ああした成功例は、実のところそう頻繁にあるわけじゃない。一日にだいたい20~30件ほど電話をかけるが、大抵は信じることなく電話を切られる。その場合は、無事に詐欺電話を撃退した、訓練は成功ということで、依頼主には「詐欺にはひっかからなかった」と報告して終わりになる。
電話口では信じてしまい、訪問に応じたり待ち合わせに来たりする例は、平均して百件に一件くらいある。その場合は現場班が出動する。
現場で嘘がばれるケースもあるし、場合によっては警察に連絡されている場合もある(警察には事前に届けてあるので大事になることはない)。実際に金銭の支払いまでしてしまう例はさらに十分の一くらいだろうか。
電話班は6班いるが、成功例が出るのは週に1、2回だ。まあ、そのたびに宴会になるのは、皆基本的に酒好きだからか。
それにしても昨日あんだけ飲んだのに、もう翌日には皆けろっとして仕事につくのだから大したものだ。先輩も恭平も、いつも通り。
今日も朝から業務は始まる。ターゲットの家族が出勤(と偽って現場班と待機している場合もあるが)した後の時間帯を狙って、電話をかけていく。
「次のターゲットは……2991番。山口カヨ……」
僕は先輩を見る。先輩も僕を見て、頷いた。僕の背中を叩く。
「これは……僕ひとりですよね」
「ええ、啓介さん。孫になりすましてください。基本シナリオのDパターン。設定は頭に入っていますよね?」
僕は、堅い表情で頷く。
「……今回は俺は休みか」
隣で恭平がつぶやく。
「ああ。必要になったら呼ぶよ。滝本弁護士」
恭平にそう言って、僕は電話をかける。
「おばあちゃん?」
「どなた様?」
「おばあちゃん、僕だよ。弘幸」
「ひろくん? ひろくんかい?」
「うん、弘幸だよ」
「どうしたんだい、ずいぶん元気が無いみたいだけど」
「あのね、聞いてよ、ちょっと困ったことになっちゃったんだよ。お金が必要なんだ」
「お金? どういうわけだい」
会社のお金を使い込んでしまった。ばれたらクビになってしまうから、誰かからお金を借りてばれないように補填したいけど、両親には相談できない。おばあちゃんを頼るしかない。助けて、おばあちゃん。
基本シナリオのDパターン。
ようするにそれだけの内容だが、僕は甘えた声で繰り返し繰り返し、本当に孫になったような気持ちで訴えた。おばあちゃんだけが頼り、親には相談できない、を繰り返した。
「わかったよ。いくら必要なの」
僕は設定資料の「要求額」の欄を見た。
「百二十万……」
「わかった。百二十万円ね。おばあちゃんが貸してあげるから」
「本当!? ありがとう、おばあちゃん! 必ず返すよ!」
僕は振り込み先を伝え、電話を置いた。
「……すげえ」
恭平が、隣で拍手し始めた。僕は舌打ちをする。
「やめろって」
「いや、すげえよ。おいみんな聞いてくれ! 啓介が今日もまたやったよ! 一件目でひっかけた!」
僕は手で顔をおおった。
「恭平さん、後にしましょう。まだ振り込み確認していませんし、他チームも仕事中ですから……」
先輩がたしなめるが、遅かった。
フロア中から、歓声があがる。
くそっ。
*
「山口カヨ、八十二歳。今年二十九歳になる孫がいて、孫の名前は弘幸。弘幸は小さい頃からカヨに懐いていて、厳しい両親のところからよく逃げ出してはカヨのところに泊まっていたらしい」
「だからか……孫の頼みなら断れないって感じだったな」
「旦那を早くに亡くしていてな。最近はつきあう友達も少なくなって、寂しい日々を送っているそうだ」
今日の「反省会」も、まず最初はいつものように粕崎班長によるターゲットの情報説明から入る。
「依頼主は? その弘幸ですか?」
「いや、弘幸の母親だ。つまりカヨの息子の、嫁」
嫁がそういう心配をするのは当然だろう。どうでもいいことだが、ここにくる依頼の依頼主は、女性がほとんどだ。
「今日はうちのチームというより、啓介の手柄だ。それじゃ早速だが、電話パートを再生しよう。特に電話班は、参考になるからよく聞いとくように。……皆、ビールの缶は持ったな?」
粕崎班長が録音された僕の会話を再生し始めた。
僕は、立ち上がって窓際に移動した。皆が感心したり笑ったりしながら僕と山口カヨとの会話を聞いている。
「おばあちゃん、僕にはおばあちゃんしか頼れる人がいないんだよ」
窓の外は闇だ。ビルの間から空が見えるが、星はない。
「ありがとう、ヒロくん。おばあちゃんを頼ってくれて、ありがとうね」
僕は一年前にここにスカウトされた時のこととか、これまでのこととか、ぼんやりと考えていた。
「おばあちゃんはいつでもヒロくんの味方だよ」
山口カヨの言葉で、電話は終わった。
「……そして、一時間後、口座には百五十万が振り込まれた。成功だ」
粕崎班長の言葉におおという歓声があがり、皆が乾杯を始める。それを僕はぼんやりと見ていた。
「粕崎さん、要求は百二十万じゃなかったですか? 三十万ほど多い気がしますが」
誰かが尋ねた。
「ああその通りだよ。高齢だからな。間違えたんだろう」
違う。
お小遣いのつもりでちょっと多めに渡したんだ。
そう思ったが、黙っていた。
「啓介さん、飲まないんですか?」
桂木先輩だった。自分の分ともう一缶、ビールを持ってきている。返事をせずに受け取って、プルタブをひいた。
「先輩……一つ、聞いてもいいですか」
「え、ええ……。何でしょう?」
僕は一口ビールを飲んでから、先輩の目を見た。気弱そうな目。
「場所、変えましょうか」
僕が立ち上がると先輩は慌てる。
「待ってください、まだ反省会が……」
「屋上に行ってます。待ってますから」
……僕は廊下に出た。
「おい、主役がどこへ行く」
後ろから恭平の声が聞こえたが、無視した。
*
「何ですか? 聞きたいことって」
屋上に先輩がやってきた。
「先輩は……気づいてなかったわけないですよね。今日の」
「今日の?」
「ええ。どうして、引き受けたのかなと思って。山口カヨの件ですよ」
「……」
先輩は、ああ、と言った。
「もちろん気づいていました」
「ええ。山口カヨがターゲットになるのは……2回目ですよ」
「……ええ。そうです。でもそういうケースは、今までもなかったわけじゃないでしょう?」
先輩は、視線をそらさない。
「そうですね。1回騙された人の家族がまた依頼してくる、というのは無いわけじゃない。まあ、それこそ「訓練」なのだから、何度もやることに意味はあるのかもしれないですが……でも」
僕は言葉を切る。
「今回の依頼だけは断って欲しかったです」
「それはダメですよ、啓介さん」
……先輩は、僕を見ている。
「どうしてですか。だって」
僕は、それを口にする。
「知っているでしょう。本物の山口弘幸は、いないんですよ」
二十九歳になる息子がいる。そう粕崎班長は説明したが、それは嘘だった。山口弘幸は十五歳の時に死亡している。
電話をかけた孫は、本当は既にこの世にいないのだ。
だが先輩は何でもないことのように言った。
「それは関係ないことです」
「は? 関係ない?」
先輩の淡々とした言葉に、僕の視界が暗くなる。
「ええ。弘幸さんが本当に生きているかどうかに関わらず、カヨさんの中では生きています。だから弘幸を名乗る詐欺に騙される可能性がある。だからこの訓練には意味があります」
「何言ってんだあんた」
思わず語調が荒くなった。僕のこういう癖は先輩もよく知っているので動じない。
「私が引き受けた理由を説明しているだけですよ」
先輩はそう言った。
「依頼主である山口由美子さんからはこう聞いています。カヨさんのもとに以前、本物の振り込め詐欺の電話がかかってきた。カヨさんは振り込んでしまったのだそうです。その時、義母が弘幸が死んだことを理解していないことに気づいたと。何度も説明したけれど、心配は拭えなかった。そこでここに依頼することにした……一度目の依頼です。覚えていますか」
「ええ。一年半前のことだ。僕が電話をした。本物の詐欺に引っかかったのと同じように偽物の詐欺にも引っかかり、カヨさんはお金を振り込んだ。それが僕の最初の成功した仕事でしたね」
「ええ。もちろんそのお金は全額お返しし、カヨさんには本当のことをお話しました。……その時も結局、理解してもらえたかどうかは自信がもてませんでしたけれど」
へっと僕は笑う。
「理解なんかしてなかったじゃないですか! だからまた引っかかった! いや、もう無理なんですよ! いくら言ったってあの人が認めるわけがない。孫が死んだってことを受け入れられてないんだ。そんなこと、先輩だってわかってるでしょう!」
空になっていたビールの缶を、床に投げつけた。
「啓介さん、落ち着いてください」
「なんで引き受けたんだ!? しかもどうして僕にやらせた!?」
先輩は。
「啓介さんにしかできないことだからです」
先輩はそう言って、僕を見る。
ああ、そうだ。一年半一緒に仕事をしてきて、もうそれはわかってる。
「先輩は……目的のためには手段を選ばない人なんですね」
不思議そうな目をして。
「それは、当たり前のことではないでしょうか?」
そう言った。
*
その翌日だった。やはり皆、朝から出勤してきている。先輩も。
「先輩、おはようございます」
「おはようございます、啓介さん」
平然と。
「これ、受け取ってください」
胸ポケットに入れていたその封筒を先輩に差し出す。
「お、なんだラブレターか~!?」
恭平が身を乗り出す。
「や、ややや、やめてください恭平さん」
先輩が顔を真っ赤にして、封筒を受け取った。
「中身、見てください」
仕方なく僕は言う。
「これ、あ、あの、今……見ても?」
「先輩の期待するようなものじゃないです」
……先輩は、目をぱちくりさせながら、封筒の中身を取り出した。
そして固まった。
「どうしてですか」
先輩は、硬直した姿勢のまま言った。
そう尋ねるなら、仕方ない。答えよう。
「もう人を騙すのは嫌なんです」
即座に。
「誰を?」
……。
……。
「あの桂木さん何て書いて……えっ。退職願い?」
恭平が大きな声をあげた。フロアがざわつき始める。
「失礼します」
……僕は背を向けた。
「おい! 待てって! 待てったら!」
後ろから声をかけながら走ってくるのは恭平だ。
「なあ、考え直せって。お前は考え違いをしてる。俺たちのやってることは別に恥ずかしいことじゃない。悪いことでもない。訓練だ。本当の被害から、人々を守るための仕事だ。お前が罪悪感を感じてたのは知ってる。だからずっと俺は相談してくるのを待ってたんだぞ!? なんでいきなりやめるなんて言うんだよ」
変なやつだ。僕がやめるのが嫌なのか。
「お前に相談したら解決したのか? そうは思えない」
「そんなのわからないだろ。してみなきゃわからない」
立ち止まる。
「お前……僕がどういう人間かも知らないくせに」
……そう言うと、恭平は泣きそうな顔になった。こいつはいつもそうだ。弁護士を演じる時は過剰なまでに強気なのに、本当はもろい。
「し、知らないなんて言うなよ」
「知らないさ。いつも僕が演じている「訓練とはいえ人を騙すことに罪悪感を感じて悩んでいる」啓介を、啓介だと思ってるんだろう?」
「はずれてんのかよ」
「はずれちゃいない。でもあたってもいない」
僕は歩き始める。今度は恭平は追ってこなかった。
「待ってよ」
しかし今度は別の人間に手を掴まれた。
「みっちゃん」
「……あんたさ、何様? 馬鹿にしてるわ。あんたがどういう人間か知らない? あったりまえじゃん。そんなの誰だってわからないでしょ。じゃ聞くけど、あんた恭平の何を知ってるの?」
ふん。
「知らないよ。実はそんなに興味がない。あんたと違って、恭平とつきあってるわけじゃないんでね」
「あ、そう。言っとくけど、私たち別につきあってること隠してるわけじゃないからね。そんなことで優位に立ったと思わないで」
「思ってないよ。君は世の中すべてと競争中なんだな。がんばれ」
立ち去ろうとすると前に立ちはだかった。
「やめたきゃやめてもいいけどさ、理由くらい皆に説明しなよ」
説明できるならしてるさ。
「一身上の都合により退職いたします、とかじゃダメか。世間じゃ皆、そうしてると思うが」
「何なのあんた!」
……金切り声だな。怒鳴る時はもっと腹に力を入れろよ、と思う。
もう誰も追ってこなかった。
*
その、夜。
アパートの僕の部屋。チャイムが鳴った。
ドアののぞき穴をのぞくと、そこにいたのは。
僕は扉をあけた。
「……来ましたか」
「来ると思っていたのでしょう?」
「今日来るとは思ってなかったです」
「相変わらず油断しがちですね」
桂木美枝先輩は、やや顔が赤い。お酒を飲んできたのだろうか。
「どうぞ。入って下さい、先輩」
「はい、お邪魔しますね」
スーツ姿だった。
「仕事の帰りですか」
「はい」
「汚い部屋ですが、どうぞそのへんに座ってください」
そのへんも何も、部屋の中で人が座れるのが真ん中の僅かなスペースしかない。先輩は、足を崩して座った。
「さて。何でしょう。僕の説得ですか」
「はい。説得です」
「無駄ですよ。復職はしません」
「しますよ」
先輩は断言した。そして続けた。
「でも、まずはその説得じゃありません」
……他に何かあったかな。
「何を説得するんですか?」
「私を騙そうとするのを、もうやめてもらえますか」
先輩はそう言った。
「へえ……。僕が先輩を騙してるっていうんですか?」
「私だけではないでしょう。皆を騙そうとしていましたよね」
「……イエスと答えても、ノーと答えても、意味がないですね、その質問」
先輩は、ニコリと笑った。
「私だけです」
「……?」
「私だけには、嘘をつかなくていいんですよ。啓介さん」
「へえ。どうして」
「どうして、ですか?」
先輩は、そんなことを考えたことが無かった、という顔をした。
「……じゃあ、啓介さんは、私を騙したいんですか?」
「……」
ああ。
確かに。
「騙したくはないですね」
「でしょう?」
なので、僕はやめることにした。
「わかりました。もう先輩を騙そうとするのはやめます」
僕も床に座る。そして不意に、ぐいと顔を先輩に近づけた。
みるみるうちに先輩の顔が赤くなった。
「な、なんですか」
「仕返しですよ」
「え、な、なんの」
「これから僕がされることへの」
息を吸って、はいた。
「先輩を騙すのをやめます」
そう言うと、どうだろうか。途端に、楽になったような気がした。妙なものだ。自分が壊れてしまったような心地よさを感じる。いや、もうずっと前から壊れていたんだろう。壊れていないと思おうとしていただけで。
*
「僕は、先輩が思っている通りのことをしています。つまり、この仕事を通じて得た、「詐欺にひっかかりやすい人」のリストを、詐欺グループに流しているんです」
「やはりそうでしたか」
先輩が気づいていたのは意外だった。僕はただ、騙すのをやめた。だから言ったのだ。
「いつから、ですか」
「最初からです。僕が先輩に声をかけられてこの会社に入った時から、二つ目の理由はこれでした」
僕は、笑った。
「訓練、ね。偽の詐欺をしかけて、詐欺の手口を周知し、詐欺に引っかかりにくくする……。確かにあの今川さんみたいな人なら、効果もあるかもしれない。でも、世の中、いくら教えてもダメな人もいるんですよ」
「山口さんみたいな人ですか」
「そう。カヨさんはいくら偽の詐欺だって教えたって、そもそも本物の詐欺にあったことだって、よくわかってないんですよ。そしてすぐに忘れてしまう。お金が戻ってこようがこまいが、カヨさんにとってはもう無かったことになってしまう。だから何度でも引っかかる。意味ないですよ、訓練なんて」
先輩は、頬を赤くしたまま、それでもクールな口調で答えた。
「私は、そういう人にも意味はあると思っています。詐欺だということを理解することが大事なんじゃないんです。お金を払っちゃいけないと訓練されること。それだけで意味があります」
「訓練されてますかね。結局三回払っちゃってるじゃないですか。それに、付け焼き刃なんですよ。訓練が活きて「電話で頼まれて振り込んじゃいけない」って覚えたとしても、じゃあ訪問販売詐欺が来たらどうか。リフォーム詐欺だったら? 結局それには騙される。詐欺は、手口が千差万別だし、どんどん違う手法に進化していく。あるパターンだけ訓練したって、無駄なんです」
「……だから、日々新しい手口を研究しているのだし、それに引っかかる人への教育だって、手口の例の多彩さと同時に、新たな手が出てくることも含めて教えています」
無意味だと諦めるには、まだ何もしていないに等しい状況です、と先輩は言った。
それは、そうなのだろう。
「そうですね。先輩の熱意には頭が下がります。でもね、結局そんな先輩の善意があったって、こういうサービスがあったって、そこに僕みたいな人間が混じったら途端に逆効果になるんです。詐欺グループにとっちゃ、垂涎のリストですよ。詐欺に引っかかりやすい人のリスト。そんな美味しいものを、自治体の支援のもと合法的に作ってるってんですからね。自分たちのやってることの危険さに気づいてない。笑わせますよ」
「それで横流ししたわけですか。危険さに気づかせるために?」
僕は首を振った。
「まさか。僕がリストを流そうが流すまいがそれは本質じゃない。そもそも人々を詐欺に引っかかりにくく教育するってことは、要するにそこから漏れた人たちをあぶり出して詐欺の被害にあいやすくするってこととイコールなんですよ。教育とか訓練ってそういうものです」
「教育が嫌いなんですか?」
「ええ。嫌いです。教育ってのはね、望むと望まざるとに関わらず、「優れた人」と「劣った人」の差を作り出してしまうものなんですよ。みんなに文字の読み書きを教えるようになったら、読み書きのできない人が「劣った人」になった。皆が英語が喋れるようになったら、英語のできない人が「劣った人」になった。あぶり出されるんです。人間に優劣をつける作業だ。詐欺に引っかからないように教育することで、詐欺に引っかかりやすい「劣った人」があぶり出される」
僕は挑戦的に先輩を見つめた。
「この訓練の意味? 意味はありますよ。でもそれは、詐欺を働く人間にとっても意味があるんだと思うなあ。僕はそう思います」
「わかりました。でも、私が知りたいのは、どうしてリストを詐欺グループに流したのか、その理由です」
下卑た表情をあえて浮かべて、言ってやる。
「金です」
失望すればいい。
「本当に、お金ですか」
「本当に、お金です」
「そうですか」
先輩は、頷いた。
「なら、その分のお金は私があげますから、やめてください」
冗談みたいな口調で、先輩は真剣にそう言った。
これが冗談なら素敵だった。でも先輩は真剣なのだ。それがわかる。
「……先輩?」
「何を驚いているんですか? 啓介さんがお金を必要としていて、そのために、やりたくない悪事を働いている。だったら、そのお金を用意してあげて、啓介さんを悪事から解放してあげたい。そう思うのは当然では?」
「当然では? じゃないでしょう。当然じゃ、ないです。だって……いやあの、まずどうして、僕がやりたくない悪事を働いていると言うんです? 悪事って、リストを流すことですか? 僕がそう思っていると?」
「そうです。啓介さんは、リストを流すことを悪いことだと思っていて、本当はやりたくないと思っている。そうですよね?」
「どうしてそう……」
「啓介さんは、山口カヨさんをリストから外していたからです」
……。
僕ははっとして、立ち上がり、パソコンを操作した。
「あんた……もしかして」
「ええ。そのリストの内容を知っています」
「どうやって」
「私はこの部屋の鍵を複製して持っています」
「………………は? な、なんて言った今」
先輩は、鞄からパンダのキーホルダーつきの鍵を取り出した。僕にそれを見せる。
「ほら、これ。この部屋の鍵でしょう?」
「……な……な」
僕は自分のポケットから部屋の鍵を取り出す。見比べる。確かに……僕の部屋の鍵と同じ形状だった。
合鍵を……作ったって?
「いつの間に」
「啓介さん、職場で上着を脱いで椅子にかけてますよね。その上着の胸ポケットに鍵入れてるじゃないですか? だから日中それをこっそり抜いて、鍵屋で複製して……戻しておいたんです」
「……犯罪じゃん」
「啓介さんに言われたくないですよ」
先輩は笑った。朗らかに。無邪気に。
この人は……。本当に、先輩は、先輩だ。
「何者なんですか先輩」
「啓介さんがどういう人間か、よく知っている人間です」
その言葉は……昼間、去り際に僕が恭平に投げつけた言葉に、呼応するものだった。
先輩の目は、いつもと同じように気弱そうに、しかしその言葉は確信に満ちている。
「啓介さんは、昔、詐欺を働いたことがありました」
唐突に話し始めた。
「……なぜそれを……?」
言ってから、しまったと思う。
「啓介さんは、電話でオレオレ詐欺をしかけ、成功しました。その時のターゲットが山口カヨさんでした。百二十万円要求して、百五十万円振り込まれました」
なぜそれを……知っているんだ?
「その時啓介さんは、山口さんの息子さんが亡くなっていることを知りませんでした。電話口で弘幸という名を聞き出して、なりすましたんです」
それは、誰にも。
「山口カヨさんは由紀子さんに叱られましたが、その時から弘幸くんが生きていると思いこむようになってしまいました。……ボケ始めていたのもあったのでしょうが」
知られていない筈だったのに。
「ちょうどその時この会社の設立に関わろうとしていた私は先行事例調査の中で由紀子さんにこの件を聞きました。そして調査を進めたところ、犯人があなたである可能性が高いとわかりました」
調査……。そうか。先輩と一年半仕事をしてみてわかる。先輩がその気になれば、あの時の僕の幼稚な手口など容易にバレただろう。
「ただ、被害届は出されていなかった。なんでも由紀子さんは出そうとしたのだそうですが、山口カヨさんが頑なに拒否したためだとか」
「何だって?」
被害届が出ていない?
「啓介さんを罪に問うことはできませんでした。だから私はあなたをうちに誘ったんです」
「だから私は……って、いや色々とおかしい」
先輩はそこで、鞄をあけて、中から何か取り出した。
缶チューハイが、2缶。その片方を僕に差し出した。
「どうぞ」
「え、飲めって? え、このタイミングで?」
先輩はにこりと笑うと片方を開けて口をつけた。
「えっと……あの、先輩、まずですね、詐欺は親告罪じゃありません。被害届が出てなくても、罪に問えます」
「そういう意味じゃないです。私が、啓介さんを告発することなんてできなかったんです」
「なんで」
先輩は答えずにもう一口飲んだ。
「えーと……それと、なんで犯人だとわかって僕を会社に誘うんだ。全然つながっていないぞ」
「つながっています。目的は、啓介さんに再び山口カヨさんを騙してもらうことでした」
「なんだ……そりゃ」
「わからないんですか? 山口カヨさんはまたお孫さんの声を聞きたかったんですよ」
「僕は山口弘幸じゃない」
「カヨさんにとってはそうなんです」
先輩はそこで延びをした。なんでこのタイミングで延びをする。この人には緊張感というものが無いのか。
「山口カヨはボケてるわけじゃないのか。僕が弘幸じゃないとわかっていて、それでも騙して欲しいと言ってるのか」
「ええ。そうなのでしょう」
「……まいったな。大したバアさんじゃないか。こっちが騙されてたんだ」
「ですね」
先輩はほほえんだ。
「で、あんたは……それを知って、協力しようとしたと」
「はい」
「……人が、悪い、な。あんたこそ、僕を騙してたんじゃないか」
「啓介さんに言われたくありませんよ」
……先輩は口を尖らせた。
「で、僕にどうしろと? あの時騙し取った金を返そうか? 警察に行けばいいのか?」
「どっちも必要ありません。カヨさんは受け取らないでしょうし、さっきも言った通り、私は啓介さんを罪人にはしたくないんです。啓介さんのやったことは犯罪ですが、もうそれはいいんです」
いいのか。
「……じゃあ、リスト横流しのほうか」
「ええ。さっき言ったでしょう。お金が必要ならいくらでも私が出します。だからリストを流すのなんてやめてください。……啓介さんは、自分を悪人だと思いたがっている。そのために、本当はやりたくないのに、そういうことをしているだけです。くだらないからやめてください」
「これも犯罪だぞ。通報しないのか」
「しません。啓介さんが逮捕されるのは困ります」
「なんで」
「それはいいじゃないですか」
先輩はそう言って……ぐいとまた缶チューハイを飲む。弱いのに飲むから、もう顔が真っ赤だ。……いや、ここへ来る前にも飲んでたのか?
「なんか……先輩って凄いですね。犯罪は見逃す。部屋の合鍵は勝手に作る……ちょっと、なんていうか常軌を逸してます」
「そんなに褒められると照れます」
ん? 褒めたか? 今、僕。
「で、どうして欲しいんですか、先輩は僕に」
「はい、復職してください。というか、退職願いは受理してません。明日からまた来てください」
「それは無理です」
「そんな、どうしてですか? リスト横流しの件は黙ってますし、カヨさんへ働いた詐欺も黙ってます」
先輩は、懇願するように言った。
僕はため息をついた。
先輩は、本当にこのサービスをうまくいかせることを考えていて、そのためなら手段を選ばない人なのだ。僕の力が必要だ。だから僕に戻って欲しい。それだけだ。僕が過去に何をしようが、関係ないのだ。
正直、僕の能力をこれだけ必要としてくれているというのは、ありがたい話だ。
だが。僕は先輩ほど、ドライになれない。
「先輩……。今日は来てくれてありがとうございます。さんざん悪事を働いた挙句に捨て台詞吐いてやめた人間を、全部知っていて大目に見るから戻ってこいだなんて……。こんなにありがたい言葉はないと思います。どうしてそうまで引き戻そうとしてくれるのかわかりませんが、でもその厚意に甘えるわけにはいきません」
「どうしてですか? どうして戻ってきてくれないんですか?」
「言ったじゃないですか。僕はもう、人を騙すのが嫌なんです」
「……うう……」
先輩が、言葉につまった。そんな先輩を見るのは初めてだったかもしれない。
「啓介さんの、わがままぁー」
……なんだとぅ。
え、あれ、ちょっと待て。先輩が、泣いている。
「わ、わがまま? 僕がですか?」
「わがままじゃないですかぁ。私だって、人を騙すのなんか好きじゃないですよぉー。でも、必要だと思うからやってるんじゃないですかぁー。なんでわからないんですか? なんでわかってくれないんですか?」
「いやあの、でも」
「こんなやり方よくないって思うなら変えていけばいいじゃないですかぁー。私だって意味があることなのかっていつも考えてますよ。考えてるんですよぉ!? それなのに啓介さんばっかり疑問に思ってるみたいなこと言って、私を悪者にしてぇ」
「いや、そういうわけじゃ」
「じゃあどうしたらいいんですか? 教えて下さいよぉ。啓介さんがいいと思うやり方でやりましょうよぉ。人を騙すのが嫌なら、違うやり方で効果のあるやり方を考えてくださいよぉ」
「あの、一旦、一旦落ち着きましょう! 一旦、ね!?」
「ばかぁ」
「ばかって……」
先輩は、最後に残った缶の中身を空にして、それから膝立ちのまま僕に一歩近づいた。
「とにかく。明日、来てくれますよね?」
……。おいおい。「行かない」と言ったら何されるかわからない、と本能的に悟った僕は、穏便にこの場を収める言葉を発した。
「考えさせてください」
「ざけんな!」
カン。
空き缶が僕の頭に振り下ろされた。
まったく穏便に済まなかった。
「痛ぇ……。あの、先輩、それ普通に危ないんで」
「来るの!? 来ないの!?」
「い、行きたいです」
カン。
「行きます」
カン。
「いやあの、ちょっと。行くって言ってますから。叩かないで」
先輩は、腰をおろした。参ったな。ほんと酒よええ、この人。
先輩は、じっと僕を見た。そして、おでこをつついた。
「さて、じゃあ行きましょうか」
「え、行くってどこに」
「恭平さんと光子ちゃんのところですよ。二人は今、やけ酒をしています」
先輩は僕の手を取って、立ち上がらせた。
「なんで……ですか」
「わかりきっているでしょう。謝るんです。明日からまたチームとして働くんですから」
先輩は、立ち上がった僕の背をポンと叩いた。
「でも先輩……」
「何ですか?」
「この仕事が本当に意味のあることなのか疑問だってのは本心です。僕は人を騙すことは理由が何であれ許されないことだと思ってます」
「うわ。よくゆーわー」
む。そりゃそうだけどさ。
「啓介さん。人を騙さないなんて不可能です。誰も自覚していないだけで、人は人を常に二十四時間三百六十五日、騙しているんです」
「そんなことはないでしょうよ」
僕が笑うと、先輩も鼻で笑った。
「啓介さん、じゃあ今から聞くことに正直に答えてください」
「……いいですよ」
「啓介さんはエロDVDをどこに隠していますか?」
「……」
「ほら」
「その質問は卑怯ですよ」
「その答えが卑怯ですよ」
「じゃあいいです。ええ、別に言えますよ? ええと、クローゼットの中の引き出しの一番下の衣類の奥です。ほら、答えられるじゃないですか」
せせら笑って、先輩は僕に返した。
「はい嘘です。騙しましたね」
……。
あ、と気がつく。
そうか、先輩、合鍵持ってるんだった。
「もしかして先輩、僕の部屋、家探しでもしたんですか? 上の収納棚まで」
「はい引っかかった。ほぉら、ほんとに嘘じゃないですか。隠し場所違うじゃないですか」
……。
くそ。
「いやでも先輩、あのですね、言い訳するわけじゃないですけど、こういう嘘と、詐欺とはまるで違うじゃないですか。こういう嘘はなんていうか自衛のためで、詐欺はまた別で」
「同じですよ。だってその嘘によって、私に啓介さんの性癖について謝った認識を持たせて、不利益を被らせる可能性がある嘘じゃないですか。詐欺と一緒ですよ」
「なんで先輩が不利益を被るんですか」
「自分で考えて下さい」
考えてわかるかボケ。
「詐欺を働く人も言うでしょう。これもお金を稼ぐためだ、生活のためだ、だから自衛のためだって。同じですよ」
「極論です」
「あのですね、啓介さん。「極論だ」というのは反論ではないですよ」
……まったく。酔っぱらいに絡まれると厄介だ。
「啓介さん、例えばですね、ミステリ小説で、犯人が嘘をついていて読者に真犯人を誤解させたら、それは卑怯ですか?」
「いや。それこそがミステリ小説ってものでしょう」
「でしょう? それも詐欺と言えば詐欺だけれど、目的が楽しませることだから、許されるんです」
「目的による、と言うんですか」
「ええ。訓練、教育ということにおいては、嘘が必要なことは多いです。例えば、学校の授業でも、子どもたちに学ばせるために予め情報を伏せておいたり、嘘の情報を与えたりすることがよくあります。簡単な例では、「電卓を使ってはいけません」というのもそういう嘘の一種です。計算を早く正確にやるためなら、大人は皆電卓を使います。使っていいんです。でも最初から使わせると暗算能力が全く培われません。だから一時的に嘘のルールを課すんです。嘘をつかずに正直に「電卓というものがあってこれを使ってもいいですが、練習のために使わないで計算の訓練をしましょう」と子供に言うべきだと思いますか?」
難しい質問だと思った。
「まあ……そのほうがフェアだとは思いますが、使ってもいいと言ったら電卓に頼るでしょうね。目的を理解させるより、使っちゃダメだと言ったほうが早い」
「そう。そしてそれは嘘です。嘘も方便。目的が教育だから許される嘘です。……この詐欺対策訓練サービスにおける嘘も、同じです」
「まあ、本当だと思わないと訓練にならないのは、認めますよ。避難訓練で、「これは訓練です」とアナウンスするせいで、訓練効果が薄いという指摘はよくありますし」
「このサービスも、当初は事前に当事者に教えておくケースもあったんです。でもすぐにわかりますよね、それでは全く意味が無かった」
「……でしょうね」
玄関に出た先輩は、靴をはくのに苦労していた。
「……でも僕は、この罪悪感は消えないと思ってます」
「別にそんなの消す必要ないと私は思いますよ。ていうか」
先輩は、立ち上がって、扉を開けると外に出た。と思うとくるりとこちらを向いて、楽しそうに笑って言った。
「なーに、一人だけ許されようなんて思ってんだよ! あたしたち、共犯だろ!」