徘徊ノ気持チ
皆様はじめまして、今回語り部として話させて頂くものです。
私が語り部とするテーマは「徘徊」でございます
皆様は意味をご存知でしょうか?
簡単に説明しますと
(1)目的もなく、うろうろと歩きまわること。うろつくこと。
(2)葛藤からの逃避、精神病・痴呆などにより、無意識のうちに目的なく歩きまわること。
となります、そしてもう一つ介護用語では
目的や目標はもとより、自覚しているか否かもはっきりしないまま動きまわること。
さて、お分かりになったかも知れませんが、この3つの意味で共通するものは「目的がない」
ですが、本当にそうなのでしょうか?
私が目につけたのは、認知症の方々は本当に目的がないのかという疑問です。
認知症というのは、記憶の逆行でございます。
今までしてきた事を忘れ、超記憶という古い記憶が現在のモノとして行動するのです。
ということは、徘徊する方達の行動がどういうモノなのか察しがつくと思います。
察しがついても、まだ完璧には気持ちが分かるとは言い切れませんね
私が例え話を致します、それを自分と思って想像してください。
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ふと目が覚めると、見知らぬ場所で辺りを見回しても見知らぬモノばかり
混乱している中、人が入ってきて自分の名前を呼び親しげに喋りかけてくる
自分はその人のことを知らないのに相手は知っていて世話をしてくる
家に帰ろうと相手に喋ってものらりくらりと躱され
一人で動こうとしても、必ず誰かがやってくる
そして、また自分は知らないのに親友や兄弟のように喋りかける来訪者達
自分自身がおかしいのか?と自問自答するが、名前、年齢、親の名前等の記憶はしっかりしている
周りを見渡すと、自分の顔をみながらコソコソと喋る人達
嫌になって、そこから離れ気分転換に顔を洗おうと洗面所に行き顔を洗い、ふと鏡を見ると
自分ではない、年老いたしわくちゃな顔が・・・・・
恐怖を感じ、外に逃げようと外に出ると
そこには理解しがたい建物が並んでいる
自分の知っている場所を帰る場所を探し歩き出す
歩いて歩いて
歩いて歩いて
必死に探しても手掛かりとなるものが一つもない
人に聞いても
地図を見ても
自分の家の場所はわからない
監視された生活なんて嫌だと奮起し歩くも
体力の限界が近づいて体が歩くことを否定し
道端で座り込み、どうすればいいのか?と考えていると
「大丈夫ですか?」と声をかけてくる
助かるかもしれないと思い、今までの事を喋ると
理解してくれ、交番に連絡してくれるという
待っていると声を掛けてくれた人が交番の人を連れてきてくれて、その人にも同じことを説明すると
探しますので交番でお待ちくださいと言われたので
助けてくれた人にお礼をし、交番まで連れていってもらい
安心し待っていると、迎えが来ましたよと声が掛かり
嬉しさのあまり、勢いよく外に出ると
そこには、あの建物にいた人が交番の人に謝罪している姿が
自分を視認するとあの人は
ゆっくりと
ゆっくりと
近づいてくる
自分の顔を見て
笑顔で
歩いてくる
自分の元につくと
手を握られ
優しい声で
「あの場所へ帰りましょう」と
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これで例え話は終わりです
どうだったでしょうか?わかりづらかったら申し訳ありません。
しかし、こういう事になった時に平常心でいられるでしょうか?
ここにいたくないと思いませんか?
逃げたいと思いませんか?
そうなのです、認知症の人が徘徊するのは恐怖からなのです
見た人や追い掛けた人なら分かると思いますが
徘徊してる人は歩く速度がもの凄く速く
齢80の人を20代の若い人が追いかけても息切れしてしまうくらいの速度なのです。
それは何故か、逃げたいから、その場にいたくないから、自分の家に帰りたいから
両親に会いたいからなのです。
目的がないのではなく、帰省本能だということなのです。
SF小説やファンタジー小説でよくある設定とある意味同じと思いませんでしょうか?
そして、その反応こそが自然で人間らしい行動の一つなのだと
長々と語ってしまいましたが、次に語る言葉で締めさせて頂きます。
例え、目的がないような行動や意味の分からない言動でも
そこに何らかの理由や意味がございます。
それをもし理解出来たとき新しい何かを見つけられ何かが生まれるかもしれません
もし生まれたのなら、それはとても素晴らしいことなのです。
それでは皆様、また会う日を楽しみにしております
考え方は人それぞれですので色んな考えがあると思います。
ですので、これはその1つだと思っていただいて、もし共感してくれれば幸いです。
誤字脱字、感想があれば宜しくお願い致します。