第85話「本当の理由」
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時間にして一瞬のうちに、膨大な記憶の奔流が意識を蹂躙していた。
白昼夢を見ていたような追想から現実へと回帰する。時間の流れが急激に遅くなったような感覚に襲われて頭がクラクラとした。
ただそれも『狭き門』の術式作用に慣れている秋弥だからこそであって、これまでに体験したことのない感覚――自分のものではない記憶を強制的に思い起こされるという感覚を味わった皆は、秋弥と同じようにはいかなかった。
それはそうだろう。いくら覚悟をしていても、これは痛覚のように自己の精神力で耐えられる類いのものではない。『星の記憶』から受け取った記憶情報は実時間に対して数千、数万分の一まで圧縮されて対象の意識領域で展開――想起されるのだから、精神論で対処できるものではなく、常人であれば発狂していてもおかしくはない。
がたん、と大きな音が聞こえた。
その方向に眼を向けてみると、平衡感覚を失った朝倉が会議室の机に手をついてバランスを取りながら苦悶の表情を浮かべていた。
それはまだ良いほうで、美空と時任は顔色を蒼白にして口元を押さえながら、ふらついた足取りで危なげに会議室を出て行ってしまった。おそらく頭の中をぐしゃぐしゃにかき回されるような気持ち悪さに吐き気を覚えたのだろう――廊下で力尽きなければ良いのだが。
鶴木は近くの壁に背中を預けたが、それだけでは身体を支えきることができず、その場にしゃがみ込んでしまった。千景も同様で、鈍痛に頭を押さえたまま、力が抜けたようにぺたりと膝を折った。
調律術を専攻していて『波』の制御に長けているはずの亜子にしても、放心状態のまま身体をふらふらとさせていたかと思えば、次の瞬間には気を失ったかのように倒れそうになった。すんでのところで傍に立っていた袋環が亜子の両肩を掴んで支えることで事なきを得る。ほっとしたような袋環の表情と、それに頷く学園長の表情を見ると、さすがは本職の封術師といったところなのかもしれないと秋弥は思った。袋環教諭と学園長は記憶の追想から意識が帰還した直後であっても、現状を冷静に判断することができている様子だ。
それと二人の会長も、多少の程度の差こそあるが、追想を終えた後もその場に立ったままだった。しかしながら意識はまだ少しぼんやりしているようで、悠紀は右の黒い瞳から流れ落ちた涙の雫を拭うこともせず、スフィアは惚けたような表情のまま、瞬きもせずに固まっていた。
そして秋弥はもうひとり、一見すると平常そうに見える女子学生の方に顔を向けた。
聖奈は壁に手をつくでもなく、背中を預けるでもなく、『狭き門』の術式発動前と変わらずにその場に立っていた。
「……天河?」
だけども、袋環が声を掛けてもなんの反応も返さなかった。その瞳は胡乱で、どうにも焦点が定まっていないように見える。
「聖奈君」
もう一度、今度は学園長が声をかける。すると、ゆっくりと聖奈の瞳に光が戻ってきた。聖奈は二度、三度と瞳をぱちくりさせると、小さく首を傾げた。
その挙動は些か不審に映ったが、亜子と同じように放心状態だったのだろうと秋弥は判断した。役目を終えた魔剣『紅のレーヴァテイン』を指輪の形に戻す。『狭き門』の術式効果で現層世界に再び顕現を果たしたリコリスが手を伸ばしてきたので、その手を自然に握った。
そうしてから、秋弥は学園長に眼を向けた。
「ご覧いただいたとおり、これが俺とリコリスの存在が同化するまでのすべてになります」
記憶の追想を『ご覧』というのかは定かではないが、意識が見せる記憶はそのものずばり『視る』ものなのだから、おそらく適切だろう。
学園長の顔と視線がリコリスへと移った。その後再び秋弥に戻ってくると、
「ふむ……成程」
短い言葉に続けて、
「状況は概ね理解できたのだが、確認したいこともある。だけどもまずは、皆が落ち着けてから話の続きをするとしようかね」
そう言うのだった。
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再び会議室に全員が集まった。
顔色が優れない若干名の学生――意識を取り戻したばかりの亜子や美空たちには椅子に座ってもらってから、学園長が会話の主導を取る形で、秋弥とリコリスに向き直った。
「君たちの関係性――それについてはこの場の皆が概ね理解できたことだろう。その上で、最初に君に確認しておきたいことがある」
もう一度、今度は全員の前で同じ言葉を繰り返した学園長が眼を細めた。
「辛い出来事だったかもしれないが、教えてほしい。君が拉致された日は――二○四七年の一月二十七日で間違いないかね?」
その問いに、わずかな反応を示したのは悠紀と袋環だった。それ以外の――秋弥も含めた皆は学園長の質問の意図が読めなかった。
当時の秋弥は、封術とは浅い縁しか持っていなかったごく一般的な小学生だった。今では《矛盾螺旋》の固有銘を持つ姉の月姫にしても、当時は一介の中学生でしかなかった。例外は封術の研究機関に身を置いていた母親ぐらいのものだが、封術協会による厳重な情報規制が行われていたため、その事実を知る者は少数に限られていた。
しかしながら、その日に起こった別の出来事ならば、秋弥にもすぐに思い出すことができた。
クラス1st級隣神『天童神楽』――その討滅作戦が行われた日と、秋弥が『負死の干渉』を受けて死ぬことが運命付けられていた日は、ピッタリと符合していた。
「……はい。その日で間違いありません」
ただそこに何らかの関係性があるとは思えない。『天童神楽』と同じくクラス1st級の高位隣神であるリコリスが初めて顕現した日はもう少し前の日であったし、偶然の一致以上のことは考えられない――のだが。
「やはりそうなのか……。袋環君、星条君。この巡り合わせは偶然の一致だと思うかね?」
「……偶然、だと思いたいものですが」
「私もそう思いますが、封術師と関係のある事件ばかりに目を奪われていたので……盲点でした」
「どういうことだい?」
深刻な表情で顔を見合わせた悠紀たちに、スフィアがまっすぐな疑問をぶつけた。
三人の会話から察すると、どうやらこの符合は偶然ではない、何らかの必然性があると考えているらしい。
討滅作戦に参加した封術師たちの中には、『始まりの封術師』である学園長だけでなく、袋環と悠紀も含まれている。討滅作戦の当事者だった彼らだけが知っている特別な事情があったのかもしれない。
「……星条君」
「大丈夫です、学園長」
悠紀は顔色を気に掛けた学園長を制すると、僅かに俯けていた顔を上げた。
「スフィアたちが知らないのも無理はない話だけれど、『星鳥』の亜子と鶴木君は、ひょっとしたら関係者から話を聞いたことがあるかも知れないわね」
まだ『追想』の影響が尾を引いているのだろうか。疲れたような表情でそういう風に前置きした悠紀の言葉は、それでも淀みなかった。
「二○四七年の一月二十七日。その日に決行された『天童神楽』討滅作戦の影で、実はもう一つ別の事件が起こっていたの」
「えっ……」
それは初耳だった。記憶を掘り起こすが、封術史の一幕として教科書にも追加されているクラス1stの大規模討滅作戦に、悠紀の言うもう一つの事件に関する記載があったとは思えない。ならばそれは何者かによって作為的に隠蔽された事件なのだろうか。
「その事件というのはね――違法封術師による星条奈緒の誘拐事件よ」
「――っ!?」
奈緒の名前を聞いて驚いたのは秋弥や聖奈ばかりではなかった。ここにいる誰もがその名を――悠紀の妹の名を知っていたからだ。
「私の妹はその日、『天童神楽』の討滅作戦で多くの優秀な封術師が出払っていた隙を狙われて違法封術師たちに拉致されたの――そのときに傍付きをしていた封術師は、違法封術師たちの手によって殺されてしまったわ」
星条家直系の人間を護衛する役目の封術師は、代々その役目を担っている家系の封術師か、星条家当主に選ばれた封術師だけが就けるのだと、悠紀たちの傍付きをしている桃花から聞いたことがある。それは討滅作戦中であっても変わりなかったはずだ。
熟練の封術師が違法封術師によって殺されたという事実だけでも、星条奈緒の拉致事件以上にとてつもない出来事が起こっていたとわかる。そしてそのような汚点は――そういう意図があったとするならば――『星鳥』としては隠しておきたくもなるだろう。
「違法封術師たちが私の妹を拉致した目的は聞き出すことができなかったのだけれど、違法封術師の中には異層世界からの来訪者こそが世界を変革し導く真の神なのだと主張する者も少なからずいるわ」
封術の持つ可能性に魅入られた者だけが封術の違法利用――違法封術師となるわけではない。隣神を飼い慣らすことで恐怖を振りまこうとする者もいれば、隣神を神様だ、救世主様だと崇め奉り、頭を垂れる者さえいる。
それでも、いま現在も奈緒が生きていることから、その事件が解決していることは疑いようもない。死者が出ている以上、無事に、とは言い難いが、違法封術師から何の理由も聞けなかったのは何故なのだろうか。
話の腰を折りそうだったのでそれを口にすることはしなかったが、疑問ではあった。
「……なるほどね。君が妹さんを溺愛する理由がようやくわかったよ」
秋弥がそんな疑問を抱いていると、スフィアがニヤリと微笑みながら言った。
「何よ、何か文句でもある?」
悠紀がムスっとした顔を見せる。
「ないよ。一切ない。だって、家族は大切だもんね」
「貴女ね……」
そこで悠紀は不意に言葉を切った。話が脱線しつつあることに気づいたのだろう。スフィアを軽く睨み付けてから息を吐いて調子を整えた。
「まあ、だけども発生時期と拉致事件という二点の符合だけで、シュウヤと君の妹さんの事件に関係性があると考えるのは、無理があるよね」
「ええ、そのとおりよ。討滅作戦の終結後に星条家の主導で関連事件の調査を行ったのだけれど、封術師が絡んだ事件は妹の事件以外に見つからなかった。だから秋弥君の拉致事件は本当に単なる偶然だったと、そう思いたいのよ」
ねえ秋弥君、と悠紀の視線が動いた。
「秋弥君の拉致事件は当時、どういう風に処理されたか覚えているかしら?」
「……すみませんが、わかりません」
「そうよね……さすがにあの惨状では、秋弥君がいったい何に巻き込まれたのかなんて、誰にもわからないわよね」
悠紀が思い出すように言った。
大量の血液が辺り一面に飛び散って赤黒く凝固し、悪臭の漂う部屋の中で抱き合うようにして眠っていた幼い少年と少女。
最初にその光景を目の当たりにした者はいったい誰で、何を思ったことだろう。犯人である者たちは血液以外に存在を示すものは何一つ残すことを許されず、彼らが一般人であったのかも、封術師であったのかも、秋弥を拉致監禁した目的すらも、何もかもわからないままだった。
だけども、同時期に拉致監禁された奈緒と秋弥。その二人はいま、封術師を目指して封術学園に入学し、同じクラスで友達同士となっている。
これは――この符合は、本当に単なる偶然で済ませて良いことなのだろうか。
たとえようもない大きなうねりの中で、可能性のひとつを試されているような――どうにも言葉では言い表せない不安感が悠紀の胸に残った。
「まあそれは今ここで議論していても結論のでないことだろう。九槻君、次の質問をしても良いかね?」
「……はい」
「高位隣神"彼岸の花姫"の記憶――その中で出てきたいくつかの言葉について、君が知っていることを話してほしい」
その質問は――。
「……申し訳ありませんが、その質問には答えられません」
「ふむ……それはなぜかね?」
「リコリスが俺と同化したとき――リコリスは本来有していた力だけでなく、過去の記憶も失ってしまったからです」
全員がハッとしたように息を呑んで幼い少女を見つめた。
秋弥とリコリスが蓄積してきた――そして蓄積できる情報量の差異。"観察者"は同化した時の干渉によって器となった秋弥が許容しきれない記憶へのアクセス手段に制限が掛かった結果として、リコリスの"記憶の忘却"が行われたのだろうと推測していた。秋弥もその考えには同意するし、だからこそ――、
「だから俺も、学園長たちが追想で得た情報以上のことはまだほとんど知らないんです。……"フィー"という名の存在のことも、『抑止力』というのが何なのかも……知らないんです」
「……いや、そういうことならば、仕方ない。無茶を言ったようで、すまなかったね」
「いいえ……」
「それでは質問を変えよう。高位隣神"彼岸の花姫"。彼女は存在の力を君に移した――いや、分け与えたことで、その姿に変わってしまったのかね?」
「原理はわかりませんが、おそらくはそうだと思います。それに現在のリコリスの固有振動パターンは俺と同一のものとなっていますし、その身体には俺たちと同じように現層世界の物理法則が適用されています。複雑な事象改変――たとえば存在証明に干渉するほどの力を行使するときにも、『意』から創られた装具を介さないとできません」
「……だけどな、九槻。お前はその高位隣神の少女が力の大部分を失っていると言っているが、放っていた干渉圧はクラス1st級のもので間違いなかったぞ」
朝倉が口を挟むと、秋弥よりも先に学園長が口を開いた。
「干渉圧は純粋な力の度合いを示すものではなく、その存在が世界に――情報体に与える影響の度合いによって変わるものなのだよ。それはたとえ九槻君と同化していても同じことが言える。むしろ暮らす世界が異なる存在と同化できるという、ただその一点だけでも、高位隣神"彼岸の花姫"の持つ干渉圧が常軌を遙かに逸脱しているということがわかるだろう」
朝倉はその答えに反論できずに押し黙った。秋弥も学園長の説明に異論はなかった。
「そこの貴方たち。いい加減リコリスのことを『高位隣神』と呼ぶのを止めなさい」
だが、秋弥にはなくとも、リコリスにはあったようだ。
リコリスは学園長をキッと睨め付けた。これが追想で見た彼女本来の姿であったのならば畏怖の念を抱いていたかもしれないが、幼い容貌のために些か迫力に欠けていた。
「おお、これは申し訳ない……それでは何とお呼びしたら良いかね?」
「……リコリスで良いわよ」
「そうならば、これからは君のことをリコリス君と呼ぼう。皆もそれで良いね?」
学園長が下げていた視線を上げて全員を見回した。既にリコリスのことを「リコリス」と呼んでいる悠紀は別として、頷ける気力が残っている学生たちは一様に頷いて見せた。
「さて、それではリコリス君。今度は君に質問をしたい。君は人間という存在をどう思っているのかね?」
学園長の視線がリコリスに戻ると、単刀直入にそう訊ねた。
それは夏休みの自治会室で悠紀がリコリスに行った質疑応答と似ていた。おそらく自分の出る幕はないだろうと思い、秋弥は口を噤むことにした。
「ふん、人間のことなんて何とも思っていないわよ」
「そうかね。しかし、九槻君もまた人間だろう」
「秋弥様を貴方たち人間と一緒にしないで」
「それでは九槻君は人間ではないと?」
学園長からの逆説的な問い掛けに、リコリスは一瞬言葉に詰まった。
「そういうわけじゃ……そうよ。貴方たち人間だって、人間を家族だとか友達だとか他人だとか言って区別するじゃない。それと同じことよ」
「なるほど。これは一本取られてしまったな」
そう言って学園長は笑った。
「貴方……ひょっとしてリコリスのことをバカにしているの?」
「そのつもりはないのだが、そう思われたのならば謝ろう」
「別にいらないわ。貴方に謝られたって、嬉しくも何ともないもの」
ぷいっとそっぽを向くリコリスに、しかし学園長は真剣な――真摯な眼差しを向けていた。
「それでは君は、人間の味方ではないが、九槻君の味方ではあるという認識で間違いないかね?」
その質問は――これで何度目になるのだろうか。
「当たり前のことを何度も訊ねないでほしいわね」
そしてその返答も、いつもどおりだった。
「…………そうか」
長い沈黙の後、学園長は細めていた瞳を弓なりにして、どこか満足げな表情でゆっくりと頷いた。
「確かに私は、至極当たり前のことを聞いてしまったようだな」
その言葉は――先にリコリスが言った言葉のとおりなのだろうと秋弥は思った。
人間は他人を区別する。
それは親や兄弟といった血の繋がりが強い者たちから始まり、親族、恋人、友達、同級生、先輩や後輩、先生、近所の知り合い、テレビの向こうにいる芸能人、見知らぬ誰か――人間社会はそんな風にさまざまな関係性によって成り立っている。
そのような関係性の中で、たとえば家族が何者かに誘拐されたとすれば、絶対に助けたい、無事でいてほしいと思うだろう。だけどもそれがメディアに取り上げられた見知らぬ誰かであれば、ともすれば気にも留めないかもしれない。
リコリスが言っているのは、まさしくそれと同じことだ。
血の繋がり――それは人間にとって存在の力と同じくらい強い結びつきのひとつだ。
ならば、精神の一部分である『意』を共有し、互いの存在を等しくする秋弥とリコリスの関係は、血の繋がりよりもずっと強固であるはずだ。
その信頼関係を、学園長は確認したのだろう。
「それならば、あえて穿った言い方をすると、九槻君が我々人間に敵対しなければ、君が我々人間に敵対することもないという意味で良いのかな?」
「ん……まあそうなるわね」
リコリスがそう言うのを待ってから、学園長は秋弥に視線を移した。
「ということだそうだが、九槻君。君は封術学園に通う封術師見習いだ。ならば君は、我々人間の味方ということで間違いないかね?」
その確認は実に無意味な――事実確認でしかなかった。
「もちろんです」
だからこそ秋弥は即断即答する。
「だけど、俺が封術師を目指しているのは、隣神の脅威から人々を守るためだけではありません」
ただしその目的は、多くの封術師が目指すところとは違っていた。
「ほう……それでは他に何のために、君はその力を振るうというのかね?」
ここから先の話は、まだ会長しか知らないことだ。
リコリスが握った手にギュッと力を込めてきたことを感じながら、秋弥は学園長の目を見返して、ハッキリと答えた。
「俺は――リコリスが失ってしまったすべてを取り戻したい。記憶も力も、何もかもすべて」
「……その果てに、君は何を望むというのかね?」
全員の視線が秋弥に集まる。リコリスも秋弥を見上げていた。
その重圧を一身に受けた秋弥が口を開く――、
「もう一度、過ぎ去った思い出をやり直すために――」
それが――それこそが、秋弥が封術師を目指している理由だった。
先ほどよりも長い沈黙が会議室を支配する。ただそれも、秋弥とリコリスの過去を追想したからこその沈黙だった。
皆、何かしら思うところがあるのだろう。
リコリスと――それに秋弥にも向けられていた敵意や警戒の感情は、もうなくなっていた。
誰もが言葉を発することを――息を吐くことさえ躊躇うような静寂の中で、学園長がふっと柔和な笑みを浮かべた。
「そうかそうか。それならば――宜しい」
「学園長?」
悠紀が訝しげな眼を向ける。
しかし学園長は悠紀が視線で問うた疑問には答えず、
「星条君。九槻君の明日以降の予定はどうなっているのかね?」
そう、訊ねた。
「え? えっと……明日から始まる『神の不在証明』男子予選Bリーグの作戦スタッフを時任君と一緒に担当しますが――」
頭に疑問符を浮かべたまま、悠紀はスケジュールを思い出しながら答えた。ちらりと眼を向けられた秋弥も首を縦に振って頷く。
すると学園長は、ふむ、と頷いて袋環と顔を見合わせてから、
「それならば明日、九槻君を作戦スタッフから外してもらえるだろうか」
「……それは構いませんが、そうする理由を伺っても宜しいでしょうか?」
作戦スタッフが一人欠けたところで、今更調整し直さなければならないこともない。そもそも『神の不在証明』は選手同士による一騎打ちだ。元々作戦スタッフはあまり必要としていない。作戦スタッフとしての役目は、競技が始まる前の準備期間でほとんど終わっているのだった。
だけども学生自治会長である悠紀には、学園長が何を考えているか、何をしようとしているかを確認しておく必要があった。
「理由は先ほども伝えたと思うのだけどね。袋環君」
「はい」
名前を呼ばれた袋環樹が一歩前に出る。手に持ったデバイスを操作して一枚のホロウィンドウを拡大表示させた。
「明日の午後十七時より、封術学園四校の学園長たちと封術協会の幹部たちが集まる会議がある。各校の学園長が一堂に会する機会なんて、そうあるものではないからな。これは契機なのだ。だからこそ私たちは議題として――もう大方の察しはついていると思うが、九槻秋弥。君のこれからの処遇に関する話をするつもりだ」
鷹津封術学園の抱える問題――学園長は確かにそう言っていた。
問題とは、まさに今まで話をしていたことだ。
「私と学園長は今日の出来事がなくても、どのみち九槻のもとを訪ねるつもりでいた。まあこうして不幸中の幸いながらその手間も省けたわけなのだが――」
ホロウィンドウに表示されているのは会議のアジェンダとその出席予定者だった。そこに並んでいる名前は、封術学園に通う学生であるならば、どこかしらで一度は聞いたことのある名前ばかりだった。
「今日の出来事は君たちにとっても良い経験になったと思うし、私たちにとっても、彼らに対する良い手土産となった」
「袋環君。滅多なことを言うものではないよ」
建前上、学園長がそうたしなめる。袋環の方も「これは失礼しました」と建前上の非礼を詫びた。
「ともかく、そのような会議が行われる場に、九槻にも私たちとともに出席してほしいのだ」
「な……っ」
どんなに特別な事情を抱えていようとも、一介の学生に過ぎない秋弥は驚きを隠しきれなかった。
そして袋環が口にした言葉の意味を――いつかは訪れると思っていたそのときを、その危険性を、理解せずにはいられなかった。
「もちろんそのときには、リコリス君にも同席してもらいたい」
すると横から学園長が、恐るべきことをさらりと付け足した。
「学園長……それは――」
そんな予定はなかったのだろう。袋環が険しい表情を学園長に向けた。他の皆は言葉も無く、黙って話を聞いていることしかできなかった。
「良いのだよ、袋環君。それとも君は、今のリコリス君を見て隣神の――それもクラス1st級の高位隣神であるということを見抜けるかね? 少なくとも『魔術師』と呼ばれている私には無理だよ。きっと『神秘眼』鵜上家の者ですら不可能だろう」
鵜上家の血を受け継いでいる亜子が弱々しくもコクコクと頷いて見せたが、それに気づいた者はほとんどいなかった。
「それに、彼らにもそろそろ思い出してもらわないとな――」
「?」
「いや、単なる独り言だよ」
意味ありげなことを言い残して引き下がった学園長にそれ以上の追及はせず、袋環は咳払いをして話を戻した。
「そういうわけだから、九槻。同席願えるだろうか?」
質問の形式を取ってはいるが、不承は認められないだろう。
「秋弥君……」
「シュウヤ……」
二人の会長だけでなく、全員が不安げな面持ちで秋弥を見ている。
いずれはこうなることがわかっていた。
それが早いか、遅いかというだけの違いでしかない。
だから、意を決するまでもなく、秋弥の腹は決まっていた。考える必要はない。悩む必要はない。震える必要はない。恐れる必要は、ない。
必要なのは――、
「はい。もちろんです」
前に進むための、肯定の言葉だけだ。
次回、第三章完結