第84話「こころのありか(後編)」
◆◇◆◇◆
可能性とは無限大なのか。
運命とは不可逆なのか。
「可能性は無限ではない。観測しきれないというだけで、可能性は常に有限だよ」
君がそう言うのならば、きっとそうなのだろう。
「そして運命は不可逆だ。だけども運命は、やり直すことができる」
やり直す?
「そう、やり直す。繰り返すとも言うのかもしれないけれど、状況によるだろう。あるいは主観か。ともかく運命は――やり直せる」
わからない。
「それは君が認識していないというだけだ。そうと知れば、嫌でもわかるようになることなのだよ」
そういうものなのか。
「物事は――事象は個々人の認識の上に成り立っている。そうして形作られた情報世界こそが、この星の本質なのだからね」
本質か。
「究極のところ、『そこ』に本来存在しないものでさえ、私たちは『そこ』に創造することができる。認識するということは、つまりはそういうことなんだ」
運命は、やり直せる……。
「いいや、そういうとやはり語弊があるのかな。一度巡った運命はどうあっても元には戻せないのだから」
どっちなんだ。
「どっちもさ。そもそも誰かにとっての運命は、他の誰かにとっての運命ではない。であれば、誰かにとっての運命と同じ運命を、他の誰かが辿るかもしれない。そうなったとき、誰かの運命を思い返すことで、その運命をやり直せると言えるのではないだろうか」
そんなのは詭弁だ。
「そうかもしれない。だけど、そうじゃないかもしれない。だから結局は認識の問題なんだよ。君がどう思おうと、私がどう思うと、それは相互に作用し合わない。知らないものは知らないし、見えないものは見えない。知っていれば辿る運命は変わるかもしれないし、知っていなければ未来に絶望しないかもしれない。そしてそれらも、可能性の一端にすぎない」
相変わらず、君が何を言いたいのか分からない。
「私が理解しきれない私自身を、君が知っているという方が驚きだよ。だけども案外、自分のことは自分自身よりも他の誰かの方が良く知っているものかもしれないね」
ならば君には、私がどう見えている?
「ん? そうだね……君は迷子の子供のようだ」
◆◇◆◇◆
少年が目を覚ましたところを見計らって、私は姿を現した。
床に転がされていた秋弥少年は寝ぼけ眼を擦りながら周囲を見回すと、首を傾げてみせた。
「……ここは?」
私を見詰めて呟く。
しかし問われた私に人間世界の土地勘は皆無だ。だからここが何処なのか答えようがなかったし、仮に答えられたとして、その結果どうなるということもない。
だから私は、少年の質問を無視して、事実だけを伝えた。
「九槻秋弥。貴様の運命は存在の死へと向かいつつある」
『負死の干渉』の結果として、少年は死に、絶える。
存在としての死。存在の消滅。
それは現在進行形で確定しつつある未来だ。
「存在の死? それって、死ぬってことか?」
「簡単に言えばそうなるな」
存在の死。それは定義としての意味合いを持たせた言葉であって、情報生命体にとっての死は、まさしく『死ぬこと』でしかない。
生きているのならば――やがては死ぬ。
それは『星』の理であって、何者にも覆せない上位概念だ。
「どうして――」
「?」
「どうして俺は死ぬんだ?」
それは、死の運命を突きつけられた誰しもが思う疑問だろう。
「そういう運命だからだ」
私は用意していた答えを淡々と告げた。
「運命ってなんだよ……いや、それより、なんでお前にそんなことがわかるんだよ」
そして次に来る問いは、これだ。
だけども少年の言葉はこれで終わらなかった。
「ひょっとして、お前が俺を殺すってことなのか?」
どうしてそういう答えに行き着くのか。
疑問に覚えた私だったが、すぐに気づいた。
たしかにこの状況――人工的な光源はあるものの窓の類いは一切なく、外の景色がわからないため外界や時間と隔絶されたこの空間には、私と秋弥少年しか存在していない。そうなれば少年の思考がそのように帰結することも頷ける。
頷けるけれども、私は頷かない。
なぜならば、私が少年を殺すわけではないからだ。
少年を殺すのは『負死の干渉』であり、私でないことだけは断言できる。
「……いいや、私ではない」
だから私は、首を左右に振るジェスチャーすらせずに、淡々とそう答える。
「私が貴様の運命を知っていたのは、私が重層世界の狭間で導く存在だからだ」
それが私の役目なのだが、そう言ったところで少年には伝わりづらいだろう。
故に、
「貴様にも分かる言葉で言い換えるのならば――」
言い換えるとするならば、
「――"死神"」
『全統符号』は私の言葉を解釈し、そのように変換したのだった。
「私は"死神"だ」
「……"死神"?」
少年は眼を白黒させながら、私の全身を眺め回した。
「…………そうは見えないけどな。お前、なんか弱そうだし」
心外だ。
今は干渉圧を抑えているというだけで、私がひとたび干渉圧を解放すれば、この辺り一帯にいる情報生命体の『意』に修復不可能な傷を与えることだってできるだろう。
まあしかし、今くらいは我慢しよう。
きっと、少年の抱く"死神"のイメージと、私の姿形が合致しなかったのだろう。
そもそも私は"死神"というものがどういう存在なのかは知らない。だけども『全統符号』による言語の相互変換は、等価の意味を持つように行われているのだから、私という存在は人間にとっての"死神"であると言えるのだろう。
「……弱そうという貴様の勘違いは正しておかなければならないが――それならいったい、貴様には私が何に見えるというのか?」
それはいつか何処かで彼女に訊ねたものと同じ問いだった。
"死神"に見えないと言った少年が『こころ』に思い描いていた私のイメージとは――。
「――"天使"……かな?」
そんな場合ではないというのに、私は思わず噴き出してしまった。
「な、なんで笑うんだよ!」
「いや、あはは……すまない」
それでも耐えきれずに、私は声を押し殺して笑った。
"死神"であろうが"天使"であろうが、言い方なんて心底どうでも良いと思っていた。
しかしながら、"死神"よりも"天使"の方が、何というか響きが良かった。
それに"天使"と呼ばれたのは初めてだったから――人間みたいだと言われたときにも笑ってしまったが、自身のイメージとの釣り合わなさに、笑ってしまったのだった。
「くそ……まあいいや。とりあえず、まずはここから出ることを考えないとな」
これから待ち受ける運命の事を考えればおかしな話だが、幸いにも少年に外傷はなく、手足も不自由していなかった。
「それに帰ったら最後のピースを探して、パズルを完成させないとな」
少年の態度は、これから死ぬことを宣言された者だとは思えないほどあっさりしたものだった。
普通、こういう閉鎖的な状況で独りきりになってしまえば、心細く、不安になるものだろう。それにもっと取り乱しても良いと思う。
そうして膨れあがった負の感情が生の感情で相殺されないまま命を落とすことが、『負死の干渉』に繋がっているのだから。
――いや、そうではないのか。
少年は独りきりに慣れていた。独りぼっちに慣れていた。そういう日常が、今の少年を形作っているのかもしれない。
異常が……日常になりつつあったのかもしれない。
――あるいは。
その可能性はないと思うが、少年はこの場に独りきりとはいえ、人間ではない存在である私がいる。それが少年の『こころ』の支えになっている――そんな可能性だ。
「ん? 何ぼうっとしてるんだ?」
「……いや、何でもない」
「そっか」
「……それよりも貴様、怖くはないのか?」
「え?」
「死に対する恐怖はないのかと、そう訊ねているんだ」
「ああ……」
少年は困ったように頬を掻いた。視線が天井を仰ぎ、揺れて、曖昧に微笑んだ。
「いや、だってさ、よく分からないんだよ」
「?」
「お前が"死神"にしても"天使"にしても、俺が本当に死ぬかなんて、わからないんだろ?」
死んでみなければわからない。
少年は言う。
「だから、死ぬことなんて考えても仕方がないってさ。そうするくらいなら、これからのことを考えるよ」
「貴様は前向きなのだな」
素直な感想を告げると、少年は恥ずかしげに、
「前向きなのかな。目をそらしたいだけかもしれないけど」
私は表情にこそ出さなかったけれど、少年の言葉にハッとした。
それは私が役目を放棄してからずっとしてきたことだ。
見たくないことを見ないように目を閉じ、聞きたくないことを聞かないように耳を塞ぎ、考えたくないことを考えないように他のことを考えていた。
そうして迷っている。
そうだ。
私はずっと、迷子だった。
「――本当に、私は私を知らなかったんだな」
「ん、どうかしたのか?」
「何でもない。独り言だ」
そして、その瞬間は唐突に訪れた。
私の背後にあり、外界と繋がる唯一の扉が、軋む音を立てて開いた。
「うるせぇぞ」
そこから現れた男たちは、部屋の中に視線を向けると、すぐさま私の存在に気づいた。
招かれざる客である私の存在に気づいた。
「な、てめぇ誰だっ!?」
部屋の中にいるのは少年ひとりだけだと思っていたのだろう。それも無理はない。秋弥少年を捕えて、連れてきて、閉じ込めたとき、少年は間違いなくひとりだったのだから。
私が異層領域に身を潜めているとも知らずに。
異層領域に身を潜めたまま、少年の後を追って付いてきていたとも知らずに。
「おい、躊躇う必要はねぇぞ」
男の背後から顔を覗かせたもう一人がそう言うと、男は反射的な動作で私に向けていた"それ"の遊底を引き、安全装置を解除した。
その流れるような動作は、手慣れていて無駄がなく――、
「殺れ」
短い言葉に突き動かされるように、男の指が躊躇いなく引き金を――、
「――え?」
刹那とは、瞬間という意味だ。
ならば今、私が体感しているこれは――引き延ばされた刹那は何と言うべきなのだろうか。
男の指が"拳銃"のトリガーを引くよりも早く、私の前に飛び出した小さな影。
小さな影はまるで私を庇うかのような動きで、私と男の間に割り込んだ。
そしてトリガーが引かれる。
その射線上にいる私と小さな影――少年を目掛けて、銃口から必殺の弾丸が発射された。
「ぐ……ッ!」
私を殺す意図で発射された弾丸が、秋弥少年の身体を穿つ。
くぐもった声を上げた少年の小さな身体が衝撃によってくの字に折れ曲がり、力を失ったように床に転がった。
そして――弾痕からは止めどなく血液が溢れ出し、床一面に血だまりを作ろうとしていた。
「――な」
私は、うまく声を出せなかった。
この結果はあまりにも予想外で、当惑していたというのが正直な思いだった。
まさかこんな形が、こんな結果が、少年の身に降り掛かった『死の干渉』だとでも言うのか。
これでは――。
これではまるで――。
『ハァハァ……』
そのとき、不意に声が聞こえた。声と言うにはあまりにも弱々しいそれは、けれども間違いなく秋弥少年の声だった。
私は足下の血だまりの上に身体を横たえた秋弥少年を注視する。少年の瞳は虚ろで、その口は空気を漏らしているだけだ。
だけど、確かに少年の声が聞こえた。
否、その声は音ではなく、意味として私に伝わった。
そう――それは思念言語だった。
『全統言語』のなれの果て。残り滓。
だけどもどうして、一見平凡に見える少年が思念言語を使えるのか。
私はそんな疑問を棚上げして、その場にしゃがみ込んだ。思念言語を用いている以上、物理的な距離感はほとんど意味を為さないのだが、私はそうしていた。
『九槻秋弥……』
『ハァハァ…………はは、やっぱり俺、死ぬらしいな』
『……どうして私を庇うような真似をしたんだ』
『…………』
少年は答えない。答えられないほど衰弱しているのか、答えに迷っているのかわからないが、私は構わず続けた。
『私は貴様ら人間とは違う存在だ。あのような兵器で、私を殺すことなんてできないというのに』
そう言うと、今度は反応があった。
『あ………………はは、は……そうだったな。忘れ、てた……』
『……忘れてた、だと?』
『だってお前…………リコリス、さ……』
少年を呑み込んでいた『負死の干渉』は、いつの間にか消え去っていた。
それは、もう『死の干渉』なんて必要がないという証拠でもあった。
少年の"死"は、もはや確定している。
『……"天使"……とか…………"死神"とか……そういう……ことより……も、ほん……と…………』
少年は――そしてもう一度、
『人間、みたいなんだもんな……』
『な……ッ!?』
少年の言葉に、私は絶句した。
まさかそんな理由で――そんな思い違いで、貴様は私を庇ったというのか。
だけどもそれは理由のひとつに過ぎなかった。秋弥少年がさらに続けた言葉に、私は私の『生』の中でもっとも驚かされてしまった。
『それに……さ。リコ…スが、死んじゃっ…ら…………一緒に、遊べな……るだ、ろ………』
『……ッ』
本当に。
本当にどうして……
人間という存在はこんなにも。
こんなにも。
こんなにも……!
「……貴様は、どうしようもない愚か者だ!」
私は思念言語ではなく、声に出してそう叫んだ。
すると、死に瀕している少年の表情が、わずかに動いた。
困り顔を作るように――動いた。
――なんだ、その表情は……。
そんな顔をされたら……。
私は……私はどうしたら良いんだ!
――そんなことがあるはずはない。
たかだか人間に情なんて、欠片も移っていない。
移ってなんか、いない。
だけど……
――少年の未練は、これなのか。
『負死の干渉』は負の感情を生み出す。
その原因となるのは、私だったのか……。
私は立ち上がると、瀕死の状態にある少年の身体を見下ろした。視界に入った私の服は、しゃがみ込んだことで少年の血液を吸い、紅色に染まっていた。
紅に赤を染めて、真紅に染まっていた。
――ああ……。
いったいいつから、その運命は始まっていたのだろうか。
私がこの場所で顕現したときからだろうか。
少年と他愛のない約束をしてしまったときからだろうか。
興味本位で少年の前に姿を現したときからだろうか。
『負死の干渉』を辿ろうと思ったときからだろうか。
それを感知したとからきだろうか。
この町に来たときからだろうか。
何もかも見失って、闇雲に彷徨い歩いていたときからだろうか。
役目を放棄したときからだろうか。
それとも最初から、すべて決まっていたのだろうか。
私は少年の身体に穿たれた弾痕を見詰めた。
その姿は、最後のピースを失ったジグソーパズルと重なって見えた。
――九槻秋弥の『こころ』には穴が空いている。
物理的な意味でもあるが、もっと精神的な意味で、少年の『こころ』には穴が空いていた。
だからきっと、九槻秋弥はパズルのピースを埋めながら、同時に自分の『こころ』を埋めていたのだと思う。
姉の気持ちを理解しようとする自分の気持ちを、パズルに投影していたのだと思う。
――だけど。
パズルは永遠に完成しない。
――だって、最後のピースは私がずっと持っていたのだから。
九槻秋弥の前に初めて顕現したとき、私は足下にあったピースを拾っていた。そして私は、拾ったピースをずっと持ったままでいた。
どうしてそんなことをしたのか、私にはわからない。
私という私を、私は知らない。
ただ、それでもハッキリとしていることがある。
――その結果が、これだ。
弾痕から溢れ出した血液は、もう取り返しがつかないほど流れ出している。
存在し続けるための力である血液を大量に失えば、人間は死ぬ。
少年は、死ぬ。
死の運命は――避けられなかった。
――本当に?
本当にそうだろうか?
少年の運命は、ここで終わってしまうのだろうか?
私は拳銃を握る男たちの方に視線を向けた。
少年と思念言語による会話をしている最中も、この人間どもは何発もの弾丸を私の身体に向けて放っていた。
その全ては、私の身体を通過して後ろの壁に小さな穴を作っただけだったが。
「ひ……ッ」
いつの間にか部屋の中に入ってきていた男たちの背後の壁――そこにある扉を、私は視線だけで完全に塞いだ。構成情報を書き換えることで、別の情報体へと再構築したのだ。
これで男たちは、壁を破壊でもしない限り、この部屋から出ることはできなくなった。
そうして私は男たちに向き直ると、ゆっくりと近づいた。
最小限まで抑えていた干渉圧を、徐々に解放していく。
「ち、近付くんじゃねぇ!」
脱出できないと見るや、男たちは手に持った拳銃を乱射した。だけどもその全てが、私には無意味だった。人間相手ならばいざしらず、人間の創り出した兵器程度で、この私を傷つけることなどできるはずがない。
すぐに弾丸は尽きているにも関わらず、それでも混乱からかトリガーを引き続けた男たちの手から、自然と拳銃がこぼれ落ちた。私が解放した干渉圧に中てられた男たちの感情が恐怖によって支配されていく。顔が歪み、全身を震わせ、両の瞳は私という存在から逸らそうとしても逸らせずに忙しなく揺れ動いていた。
「……あ」
言葉を発したのは、いったいどちらだったか。
私は手で触れることなく、男たちの両手首を切り落とした。
その瞬間、男たちは叫び声を上げた。絶叫とも呼ぶべき、けたたましい音だ。
実に不快だ。
私はその不快な音を塞ぐため、口腔内に適当な質量を埋め込んでやった。そうすることで不快な音は聞こえなくなった。
そうだ。それでいい。
次に私は男たちの肘を切断した。存在そのものに影響を与えないように気をつけながら切り落とした両腕からは、今度は血液の一滴も漏れ出さなかった。
故に男たちは痛みを感じるが、死にはしない。
簡単には、死にはしない。
死なせない。
痛みに声を上げることすらできず、かといって死ぬこともできない。
そういう苦しみを、私は男たちに与えると決めた。
続いて肩を切断する。腕が終わると足首を砕く。男たちは無様に床に転がったが、少年のように血だまりは作らなかった。
ただ、見苦しくバタバタと暴れ回った。まるで身体の中で痛覚という化物が暴れ回っているようだった。
その汚らわしい動きを止めるため、私は四本の足を輪切りにした。潔癖なまでに細かくバラバラにして見せた。
男たちは動くのをやめた。
否、手足を切断されたことと、度を超えた痛覚によって身動ぎひとつできなくなったのだ。もっとも、この状態でもまだ生きていることの方が、男たちにとって奇跡的とも言えるのだろうが、この程度ではまだ終わらない。
私の見えざる手は男たちの胴体から皮膚をはぎ取った。その裏には繊維質なモノがあった。私はそれをひとつずつ毟りとると、その奥に隠されていた臓器が見えた。
腸を引き摺り出した。
肝臓を握りつぶした。
胃をちぎり取った。
左右の肺をひとつにして捨てた。
それでもまだ、男たちは死なない。
死なないように、男たちの存在の力を制御しているからだ。
私はただ無表情に、無感動に、二つの頭に眼を向けた。
目鼻立ちや輪郭、唇の厚さや眉の形、髪型。そういった容姿で人間は人間を区別できるらしいが、私にはわからない。
人間ではない私には、人間の区別ができない。
人間ではない私には――秋弥少年とこの男たちが違うということしか、わからない。
鼻をそぎ落とした。
耳を引きちぎった。
歯を砕いた。
頬を貫いた。
下を引き抜いた。
目をえぐり取った。
最後に、脳をすり潰した。
恐怖だけに支配された男たちに、未練や執着なんて欠片も残す暇を与えなかった。
輪廻転生なんて叶わないほど、絶対的に破壊し尽くしてやった。
そこまでしてようやく、私の気は治まろうとしていた。
存在に対する干渉を解いた、その途端――バラバラになった肉塊から大量の血液が飛び散った。
鮮血は近くにいた私だけでなく、部屋中を――壁や床、天井までも紅く染めた。充満する血液の匂いに、私は思わず顔を顰める。その感覚は、『負死の干渉』の不快感と良く似ていた。
そうして、かつて少年と同じ人間だった二つのモノは、この世界から完全に存在を失った。
「…………」
私はもう一度少年のそばまで歩み寄ると、膝を落とした。地面に座り込んで、秋弥少年の顔を真上から見下ろした。背中を流れていた髪が血だまりに落ちて浮かんだが、私は気にも留めなかった。
心臓の鼓動は止まっている。
生命活動を、停止している。
ならば少年は、死んだのだろうか。
――いや、まだだ。
まだ、終わってはいない。
「九槻秋弥……」
私は最後のピースを取り出すと、それをギュッと握りしめた。真っ白だったピースは手の中で真紅に染まった。
九槻秋弥の『こころ』に穴が空いているというのならば――。
ジグソーパズルをピースで埋めるように、『こころ』の隙間は誰かの『こころ』で埋めれば良い。
そうすればきっと――、
『過ぎ去った運命は取り戻せなくとも、やり直すことができる。誰かが辿り着けなかった未来に、他の誰かは辿り着けるかもしれない』
代替存在。
それは誰かが誰かの代わりになるということ。
だけども、そんなものはありふれている。
すべては認識の問題だ。そのときの『こころ』の問題だ。
九槻秋弥の未練は、私を望んでいる。
それは偶然私がそこに居合わせたからというだけで、きっと他の誰だって良かったのかもしれない。
――だけど、そこにいたのは私だ。
その事実はもう変わらない。
ならば私は、少年にとって必要な存在なのだろう。
私が私であるということ。
それを九槻秋弥は、証明してくれる。
私という存在を、認めてくれる。認識してくれる。
だから、きっと――。
「私と貴様は、『こころ』を通わせることができるだろうか」
心外に思うこともあった。
心底思うこともあった。
内心で感じたこともあった。
本心で言葉を紡いだこともあった。
そう思えるということは、私という存在のどこかに、『こころ』があるということ。
ならばそれで構わない。それ以上はもう望まない。
『こころ』があるのならば、それは目に見えなくたっていい。
"そこ"にあると思えば、それは間違いなく、"そこ"にあるのだから。
私は血だまりに横たわる少年の身体を抱き上げると、血液を失って急速に冷えつつある身体を己の体温で暖めるように、強く抱きしめた。
そうしながら私は――私という存在に意識を強く集中させた。
「なあ、九槻秋弥……。次に貴様が目覚めたとき、私はきっと、私ではなくなっていると思う」
私の身体から溢れ出した原質の輝きを、しかし、目を閉じた私は見ていない。
目で見ず、『こころ』で感じ取る。
命の輝きを――感じ取る。
「それでも貴様ならば、そんな私を空虚以外の何かで満たしてくれることだろう」
九槻秋弥の身体からも原質の光が溢れ出していた。
二つの身体を構成していた原質が螺旋状に宙を舞った。
「心配はいらないさ。貴様がこれから生きる未来は、私が望んだ未来なのだから」
意識が途切れる。『星』との接続が断絶される。
私という存在は形を失い、九槻秋弥という存在を形作っていた原質と解け合っていく。
解け合い、一つになっていく。
「だからもう、貴様は独りじゃない」
永遠と刹那は紙一重で――。
過去と未来は連なっていて――。
可能性は一つじゃなく――。
運命はやり直すことができ――。
九槻秋弥の世界は――再構築される。
★☆★☆★
目を覚ますと、そこは知らない場所だった。
すぐに嫌な匂いが鼻について、顔をしかめる。
周囲に充満しているこの匂いは――嗅いだことのある匂いだった。
床に寝そべったまま周囲を見回してみると、壁や天井がどす黒く変色をしている。
そこで俺は、その匂いと変色の正体に気がついた。
血だ。
すると、まるで連鎖反応を起こしたように、次々と記憶が思い起こされた。
見知らぬ男たちに連れ去られて、窓のない部屋に閉じ込められて、リコリスから死の宣告を受けて、その後に男たちが現れて……。
男たちがリコリスに拳銃を向けたのを見た俺は、咄嗟に飛び出した。
「……あれ?」
そういえば俺は、リコリスを庇って銃で撃たれたはずだ。
俺はノロノロと持ち上げた手で身体をまさぐろうとした。身体にも衣服にも凝固した血液が付着していたが、身体は少しも痛みを感じていなかった。
「……え?」
その手が何かに触れた。俺は一瞬ビックリして手を離したが、もう一度、おそるおそるそれに触れる。
それは温かくて、柔らかかった。
そして、今更のようにその何かの鼓動を感じた。
生きている証を――心臓の音を、感じ取った。
「リコリス?」
俺が無意識にそう呟くと、心臓の鼓動を確かめるように俺の胸に耳を当てて眠っている少女が微かに身動ぎをして、口元に小さな笑みを浮かべた。
記憶にある姿とはまるで違う。
だけども、俺にはわかる。
ああそうだ。
きっと、間違いない。
俺は少女の小さな身体に手を回した。
「……温かい」
今自分がどういう状況にあるのか。
どうして自分は生きているのか。
そんなことは、わからなくても良い。
だって、こうして誰かの温もりを感じることで、誰かの鼓動を感じることで、自分が生きていることを実感できるのだから。
今は、それだけで十分だった。
「ありがとうな……リコリス」
そうして、俺の意識は再び深い底へと沈んでいった。
登場人物紹介および世界観設定については第三章完結時にまとめて更新します。