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封術学園  作者: 遊馬瀬りど
第3章「四校統一大会編」
83/111

第82話「こころのありか(前編)」

◆◇◆◇◆



 機械のように生きてきた。

 生きることが――単なるルーチンワークとなっていた。

 だけども私にだって――機械のように生きてきた私にだって、『こころ』があった。

 何処にあるかはわからない『こころ』だけれど。

 あったのだろう――少なくとも何処かにあったはずだ。

 だからきっとこうして、私は気の向くまま――あるいは気の向かないまま、あてどころもなく、彷徨っているのだ。



◆◇◆◇◆



――ああ。


 思い返してみれば、何をやっていたのだろうと思う。何をやってきたのだろうと思う。

 此方の世界と彼方の世界の狭間に立って、彷徨える存在や迷える存在を正しい世界へと導いてきた私は――だけども私自身を導くことができなかった。

 いや、きっとそうではない。

 私が私として在り続けること。

 それこそが、私自身の道だった。

 他者を――見知らぬ誰かを導く私こそが、私そのものだったと、そう思い、そう思っていた。

 だけども今、そのアイデンティティは脆くも崩壊してしまっていた。


――脆くも?


 脆くも何も、今にして思えば私を構成するアイデンティティなんてものは、最初から砂上の城だったではないか。

 いや、砂上の城というよりも――砂城だった。

 誰かの土地の誰かの城で生まれ育った私は、最初から砂上の砂城に住んでいたというわけだ。住んでいて――それが世界のすべてだったというわけだ。

 すべからく世界は砂の上にあって、すべては砂のように脆く危ういのだと。

 私はそう認識していた。

 そんなはずはないのに、そうとしか認識していなかった。

 だから、彼らは迷い、彷徨い、私に導かれていくのだと――あろうことかそんな勘違いをしていた。

 その結果が、今の私だ。

 砂上に造られた砂城は、そうして容易く崩壊した。


――どうして?


 自問する。

 そのきっかけなんて、たいしたことではない。

 単純なことだ。

 私がそれに気づいたから、壊れてしまったのだ。

 他者を導くという私のアイデンティティがルーチンワークとなって幾星霜。

 ふと私は、こんなことを思ったのだ。

 思って――しまったのだ。

 もしも私自身が、私が導いてきた者たちのように道に迷ってしまったとき――世界に対する存在定義を見失ってしまったとき、いったいどうなってしまうのかと。

 そんな些細な――ともすれば誰もが一度は考えてしまうような、そんなことを――。

 私は、初めて考えた。

 一考して、思案して、三思して……考察して考究して掘り下げて突き合わせて考え迷って悩んで愚考して考量して検討して自問して自己分析して位置付けて熟慮して思索して考え抜いて考え込んで思惟して沈思黙考して――振り返って。


 私は、いったい何をしているのだろう。

 

 そう思った。

 ルーチンワークと化した私の生に、疑問を覚えた。

 そうして私は、私で在り続けることを放棄した。

 他者を導くという私の生を、放棄したのだ


――それにしても。


 それでも世界は相も変わらず、何事もなく回り続けている。

 私がいなくても、私ではない誰かが、私の代わりをしているのだろう。

 たとえ私と同じことはできなくとも、私と同じ結果を得ることができるのであれば、それはつまり、同じことなのだから。

 結局は、そういうことなのだ。

 そう――この『星』はそういう風にできている。

 『星の修正力』とは、そういう力なのだと。

 世界の歯車が欠けたとしても、別の歯車に取り替えてしまえば良いのだと。

 私がこの異層世界で――知恵を得た情報生命体の中でもっとも数が多く、それだけ迷いも多い存在である人間という種が生きるこの世界で――赤子の手を捻るよりも簡単に、手を触れるまでもなくいたずらに、多くの人間たちを蹂躙したときでさえ、この異層世界のエリシオン光波長にはそれほど大きな負荷が掛からなかったくらいなのだから。

 ああ、そうだ。

 私がどんなに強大な力を持っていようとも――世界に唯一無二の存在であろうとも、私という存在そのものを求められていなければ、私の代替存在なんていくらでも在るのだということだ。

 全く、腹立たしいほど良くできた理だと感心さえしてしまう。

 感心しながら、同時に虚しくも思う。

 空虚で、満たされない。


――だけど、"フィー"ならば。


 可能性世界を束ねる力の代償に自己という形を失った彼女ならば、どう感じるのだろうか。

 決まっている。

 "フィー"ならば、きっとこういうだろう。


『満たされていないものなど何処にもない。世界は空虚で満たされている』


 と、そんな益体もないことを言うはずだ。

 私は空を見上げる。

 視界は濡れた髪の毛に遮られていて、よく見えなかった。

 いつの間にか雨が降り始めていたようだ。

 そんなことにすら気づけないでいたまま、空っぽな私は歩いていたのだった。


――"フィー"。あなたはいま、何処で何をしているの?


 迷うことなく、惑うことなく私のもとへ来られた彼女のことだ。今も何処か遠い異層世界で、空っぽな器を己の存在で満たしているのだろう。

 いや、でもどうなのだろう。

 今にして思えば、"フィー"はいつでも迷っていたし、惑っていたのかもしれない。だから彼女はいつも可能性ばかりに眼を向けていたし、だから自己が曖昧なのかもしれない。

 実をいうと、こうして彷徨い歩いていれば、いつか何処かで"フィー"とも再会するかもしれないと、私は思っていた。会って何かを話したいというわけでもなかったけれど、今の私の心境くらいは聞いてくれるかもしれない。

 まあ"フィー"が適切なアドバイスをくれるとは絶対的に思えないけれど――、


――"フィー"のことは、嫌いじゃなかった。



◆◇◆◇◆



 これまで長いこと、この異層世界を彷徨い歩いてきた。

 言うなればこのひとり旅は、自己証明探しの旅とも言えるだろうか。

 しかしながら結局今も、私は何も見つけられてはいなかったのだが……。

 こうなればいよいよ私という存在は、此処にいながらにして何処にもいない存在に――誰も知らない存在に成り果ててしまうのではないかと思った。

 "彼岸の花姫"の名が、聞いて呆れるものだ。

 だけども、私にはもはやどうすることもできなかった。

 もとより自分が何をしたいのかもわからないのに、何かができるはずもなかった。何かを見つけられるはずもなかった。

 そう……だからこんな逃避は、無意味だった。

 無意味で、無価値だった。

 私はいったい、何がしたかったのだろう。

 わからない。

 どうしようもなく、わからない。

 何処にもいない存在ならば、存在していないことと同じではないのか。

 生きていても意味がないのならば、それは死んでいることと同じではないだろうか。

 死――存在の消滅。


――ああ、本当に。


 自分から去った場所にはもう戻れない。かといって、何処かに行くあてもない。

 まるで出口のない迷路を彷徨っているような気分だ。進めど進めど前は見えず、引き返す道も真っ暗闇で見えない。まっすぐ歩いているつもりでも、全く明後日の方向に進んでいるかもしれない。

 立ち止まって、足下に視線を落とす。

 異層領域に身体を置く私の姿は、この世界の人間たちの眼には映らない。

 最近になって妙な知恵を付け始めた人間たちは、私の干渉圧を感知して襲いかかるようになった。

 当然そんな輩は返り討ちに――直截的に言えば殺していたのだが、如何せん人間たちは数が多くて鬱陶しかったので、今ではこうしてこそこそと存在を隠すような真似をするようにしたのだ。

 こうしていれば、少なくとも人間たちに私の干渉圧を気取られることもなくなる。

 しかしながら、こうすることで私という存在はさらに希薄になってしまった。


――本当に、何をしているのだろうな。


 自分の生に疑問を覚えた私は、今の私にも同じ疑問を覚えている。

 それをどうしようもなく、愚かなことだと思っている。

 愚かで、救い様のない存在だと思っている。

 いっそこのまま、消えてなくなりたい。

 誰にも知られないまま、ひっそりと消えてしまいたい。


――だけど。


 本当に、このままで良いのだろうか?

 やはり答えは出ないまま、それでも私は、立ち止まらなければいつか何かが見えてくると、何処かにある『こころ』の片隅でそっと信じながら、再び歩き出した。



◆◇◆◇◆



 ここはどこだろう。

 目的もなく彷徨い歩いてきたのだから、ここ『は』どこではなく、ここ『も』どこだろうという感じなのだが、東も西も北も南も関係なく歩いていた私には、ここがどこだろうと全く関係はなかった。

 関係はなかったけれど、気にはなった。

 周囲には同じような家屋が数多く見受けられた。人間という種は密集し、寄り集まって生活することはもう今更わかりきったことだった。正直理解に苦しむが、脆弱な人間は脆弱な人間なりに、同じ種同士で相互干渉しあいながら生きているのだろうと、私は適当な結論を付けた。

 それよりも。

 そんなことよりも。


――ああ……嫌な感じだ。


 私が足を止めた理由は、そんなことではない。

 ただ、ここでも。

 こんな平和そうな場所でも、私の感受能力は否応なしに、私にそれを知覚させたのだ。


 負死(ふし)の干渉。


 それは私が"彼岸の花姫"として存在し続ける限り付きまとう、呪いのようなものだ。

 あまねく情報体に常に付きまとっている『死の干渉』の負の側面。

 未練。

 執着。

 情報体が"存在としての死"を迎えてなお、世界との関係性を断ち切れずに彷徨い続ける可能性の高い『死の干渉』――『負死の干渉』。

 そうして次の段階へと変遷できずにいる情報生命体を正しい世界へと――本来在るべき世界へと導くことこそが、私の本来の役目だった。

 だからこそ私にはそれを――『負死の干渉』を感受する力があった。

 いいや、違うな。これは逆なのだろう。

 私にはそれを感受する力があったから、そういう役目を授かったのだと、今ではそう思う。

 なぜなら私のその感受能力は、私の生そのものであった役目を放棄した今でも、依然として変わりなくあったのだから。

 私はふぅっと息を吐いた。


――この人間世界(いそうせかい)は、未練だらけだ。


 誰もが誰かに気を配り、気を遣い、ときには譲り、ときには諦め、かと思えば犠牲も厭わずに他者の願いを踏みにじってでも己の願いを叶えようとする。

 誰かを尊い敬う一方で、嫉み嫉むような存在だ。

 行きすぎた愛情が憎悪へと変わるような存在だ。

 何かをせずに後悔していながら、何かをやっても後悔する存在だ。

 何かを為せずに絶望しながら、それでも求めて縋るような存在だ。

 そんな複雑怪奇な精神構造を理解しようとするのは、私には土台無理な話だった。


――それでも。


 目的もなく彷徨い歩いている間にも幾度となく――それこそ数えるのも馬鹿馬鹿しくなるほどの『負死の干渉』を感じ取りながらも、役目を放棄していた私は歯牙にも掛けていなかったのだけれども。

 何でも良いからきっかけを探していた今の私は――強い『負死の干渉』が刻々と収束しつつある情報生命体のもとへと向かって、歩みを再開していた。

 私は『負死の干渉』の糸を辿って、導かれるようにとある家屋の前までやってきた。

 目的の家屋の両隣には、私からしてみれば全く同じにしか見えない家屋が並んでいる。しかし、干渉波を感受している以上、目の前の家屋に(くだん)の情報生命体が潜んで――否、暮らしているとみて間違いないだろう。

 そういえば、私は今まで人間が暮らす家屋の中に入ってみたことがなかったと気づいた。だけどもその必要性を感じなかったのだから――家屋をその辺に点在している物体としてしか認識していなかったのだから、それも仕方のない話だろう。

 まあ目の前に何かが入っていそうな箱が置かれていたら、ひょっとしたら好奇心に駆られて中身を確認してみたくなる者もいるかもしれないが、蛇が出るか鬼が出るかわからないものの中身を、私はわざわざ確認したいとは思わない。

 もちろん、たとえ箱の中から災厄が溢れだそうとも、私が臆するようなことは決してないのだが……そこに必要性を見いだせなければ、生産性のないことはできるかぎりしたくはない。

 もっとも、"フィー"にしてみれば『箱の中身を見てみるまでは必要性も不必要性もわからないのに、どうして必要性がないと決めつけられるのか』と言い出すのかもしれないが、そもそも"箱の中身を見てみること"それ自体に必要性が見いだせないのだから、たとえ中身が希望であっても絶望であっても、私は一向に構わないのだが……。

 だけども"フィー"は、続けてこう言うのだろう。


『それは思考の停滞であり、単なる逃避だ』


 確かにそのとおりなのかもしれない。実際に今の私は、自分でも何かわからないものを――曖昧で不確かな何かを探して、生産性のない行動をしているのだから。

 ときとして生産性のないことにこそ価値がある場合もあるのかもしれない。

 ともあれ、箱だ。

 いや、家屋だ。

 異層領域に身を潜めたままの私は、この異層世界の情報体に干渉することなく、内と外を隔てる外壁をすり抜けて、家屋の中へと足を踏み入れた。

 初めて目にする家屋の中は、意外なことに、さらにいくつかの仕切りによって分け隔てられていた。

 外から眺めているよりもよっぽど狭く苦しい家屋の中は私にとってうんざりするものだったけれども、ここまで来てしまった手前、すぐに引き返す気持ちにもなれなかった。

 絶えず私の意識に流れ込んでくる『負死の干渉』ではなく、情報生命体の干渉波を探る。すぐそばの壁の向こうからその気配を感じ取った私は、とりあえずその方角に向かって歩いた。

 その部屋は、他の部屋よりも比較的広かった。人間の手によって創り出された光の照らす部屋の中には、ひとりの人間の姿があった。

 人間はこちらに背を向け、地面にある何かと向き合っている。同じ空間を共有していながら異なる層にいる私に気づく様子はない。

 当たり前だ。妙な知恵を付けた人間に感知されることがないようにと振域の深い層から覗き見ているのだから、こんな小さな人間が私の存在に気づけるはずがない。

 私はその小さな背中を静かに眺めていた。


――ああ、間違いない。


 本当に、どうして今までそうと感じなかったのか不思議に思ってしまうほど、これは気持ちの悪い感覚だった。

 目に見えないけれど、肌で感じる『負死の干渉』は――。


――間違いなく、この人間に収束している。


 近い未来、この人間は何らかの強い『負死の干渉』を受けて、存在としての"死"を迎えることだろう。

 だけどもそれを知ったところで――たかだか人間程度の存在がひとつやふたつ消えようとしているところで、私の身体の何処かにある『こころ』は、少しも揺れ動かなかった。気まぐれに人間を蹂躙したときも何とも思わなかったのだから、たった一人の人間に私の『こころ』が揺れ動くはずもないのに。

 私は、そのことに少しだけ、失望していた。


――……。


 それにしても、この人間は、いったい何をしているのだろう。

 私はふと、そんなことを思った。

 『負死の干渉』が収束しつつあるというのに、暢気にも何をしているのだろうと。

 まあそもそも人間が『負死の干渉』を感じ取ることなんてできないのだから、この小さな人間は日常生活をいつも通りに過ごしているだけなのだろう。

 それを取り上げて暢気というのは、いささか理不尽だったか。

 だけどもどうして、そうであっても私は疑問に思った。

 首を傾げて、そう思った。

 どうせ見えていないのだからと、私は小さな人間の正面に立ち、次にしゃがんで、人間が見詰める視線と同じ方を見た。

 見たけれど、さらによくわからなくなった。

 そもそも私は人間の精神構造だけでなく、行動原理でさえ理解できるとは思っていなかったけれど――理解するつもりなんてさらさらなかったのだけれど。それでも、小さな人間が見詰める先に何らかの文字が書かれているのであれば――当然ながら私は人間の言葉も文字も理解できないが――『全統符号(バベルコード)』の力がそれを私にも理解できる符号に変換して、私の意識へと届けてくれるはずだった。

 そう思っての行動だったのに、これはいったいどうしたものか。

 小さな人間が向き合っていたのは、地面に――床に大量に散りばめられた、真っ白い板の破片だった。

 そこに文字や絵があると期待していた私は、少々面食らった。

 やはり、人間の考えていることはわからない。


「……」


 小さな人間は、その白い破片をジッと見詰めている。そうして何を思ったのか、そのうちのひとつをつまみ上げると、脇にあった木枠の内側に、その破片を置いた。

 私もそちらに眼を向けて見ると、その木枠の内側には、周囲を囲うように白い破片がいくつも並べられていた。小さな人間は手に持った白い破片を、既に置かれていた白い破片に合わせるように置いたのだった。


――……?


 自分が壊した何かを直そうとでもしているのだろうか。

 だけども結局この日、小さな人間がその白い板の破片を、元の状態に戻すことはなかった。



◆◇◆◇◆



 人間が自然な形で存在としての"死"を迎えるまでの期間はとても短い。

 その代わりに人間は、己の遺伝子を次代へと継承する。

 それは血の巡り。

 それは命の巡り。

 ただ、そんなこととは関係なく、人間という存在は脆くて、そして儚い。

 手を触れずとも簡単に死んでしまうような人間は、それでも日々を生き続けようとして、今日という日も生きている。

 強い『負死の干渉』が纏わりついている小さな人間もまた、現在(いま)という日を――日常を生きていた。

 生きているという日常を――生きていた。

 そうはいっても『負死の干渉』が何時如何なるときに小さな人間を襲うのかはわからないし、だからといって私がそれをどうこうしようとも思わない。

 『負死の干渉』とはいえ、その運命は、ありのまま受け入れなければならないのだから。


――運命か……。


 けれどもその運命は――乗り越えることができる。

 負死の運命は――変えることができる。

 もちろん容易いことではないが……可能性で言えば限りなく零に近いといっても良いのだが、『抑止力』の介入さえ受けなければ、可能性は零ではない。

 『確定未来』と『可能性世界の収束』。

 大局的な運命の歯車のひとつですらないようなちっぽけな情報体の存在なんて、『星』や世界にとっては取るに足らない存在だということなのだろう。

 生き残ろうが死に去ろうが、所詮は誤差の範囲内であって、強大な『可能性未来』には何の影響も与えないということなのだろう。


――さて。


 そういう視点で見たとき、はたしてこの小さな人間はどうなのだろう。

 『負死の干渉』を感受することができる私でも、その『死の干渉』が絶対的に避けることのできない『可能性世界の収束』なのかまではわからない。

 だからもしも、そうでないと仮定するならば。

 この小さな人間は、『負死の干渉』に抗うことができるのか。

 あるいは、『負死の運命』を受け入れてしまうのか。

 人間の生き死になんて興味のなかった私だったけれども――空っぽな私は、それが気になった。

 世界は――『星』は、賽を振らない。


 目の前にあるのは常に、可能性と、その結果だけだ。



◆◇◆◇◆



 翌日も、小さな人間は床一面に散りばめた真っ白い板の破片と睨み合いを続けていた。

 それの何が楽しいのだろうか。小さな人間の正面でしゃがみ込んで、同じように白い破片を見詰めて見るが、私にはさっぱりわからなかった。

 人間の考えていることは、全くといっていいほど理解できなかった。

 だから、なのだろうか。


「――なあ、小さな人間よ」


 気づいたときには、私はそう呟いていた。

 姿を顕現させて――小さな人間の眼前で姿を現して、私はそう呟いていた。


「――!?」


 それに対して小さな人間が取った行動は、およそ予想できるものだった。

 裏返った声を上げながら、床に敷いた白い破片を蹴飛ばすようにしてひっくり返ったのだ。

 声と一緒に、身体をひっくり返した。


「な、ななな……っ!?」


 何かを言おうとして、それが言葉にならない様子だ。小さな人間は手と尻をつきながら、這うようにして後退った。


「だ、だだれ、だだ!?」


 誰だ、と言いたいのだろうか。気が動転しすぎというか些か過剰反応すぎるようにも思えたが、驚かせてしまって可哀想なことをしたとは思わなかった。

 むしろ、これからこの小さな人間に起こり得る『負死の干渉』の方が、よっぽど可哀想に思えるくらいだ。

 まあ客観的なものの見方として可哀想に思うと考えただけで、私の『こころ』はそう思っていなかったのだけれど。


「小さな人間よ」


 もう一度、同じ言葉を繰り返した。

 私の言葉は『全統符号』の効力によって小さな人間にも理解できる言語に変換されて届いているはずなのだが、ひょっとして私の呼びかけが届いていないのだろうか。


「慌てるな、少し落ち着け」


 慌てさせたのも落ち着きがなくさせたのも私なのだが、つい反射的にそう言ってしまった。ただ、そんな言葉だけで慌てず、落ち着けるはずもないとは思うのだが。

 しかし、どうやら私の言葉はきちんと通じていたようで――はたまた時間が解決してくれたのか――私がそれ以上は黙して語らず、足下に落ちていた白い破片を何ともなしにつまみ上げ、目の前でかざして眺めていると、壁際まで下がった小さな人間は、ようやく気を落ち着けたようだった。


「……だ、誰だ、お前…………どうやってこの家に入ったんだよ……」


 壁に背を預けた小さな人間は、声を震わせながらそんなことを言う。己の身に危険が迫っているかもしれないという状態で、そんなことを確認している場合なのかと私は疑問を覚えたものだが、せっかく人間との会話が――対話が成立しようとしているのだから、これに乗っからない手はないだろう。


「私は――」


 だけども私は、自分の名を答えようとして、言い淀んだ。

 自らの役目を放棄した私が、他の誰かに対して"彼岸の花姫"を名乗って良いものだろうか、と。もちろん"彼岸の花姫"という名は役目――あるいは立ち位置というべきだろうか――に与えられる名ではなく私自身を指し示す名なのだから、普通は言い淀むところではない。

 普通、ならば――。

 そう。私は今、自己というものを見失い、探している最中なのである。だからここで私が私の名を言うことは、役目を放棄したときから、私自身が何も変わっていないことの証明になってしまうように思えて。

 そんな悪あがきにも似た醜い葛藤の中で私が口にした名は、


「私は"リコリス"――」


 咄嗟に思い浮かんだのは、"フィー"が私を呼ぶときの名前だった。

 リコリス――彼岸花。

 それは"彼岸の花姫(わたし)"という存在をもっとも体現していると思えた。

 だから私はこの呼び名が嫌いじゃない――そういうと、まるで好きではないという風に捉えられるかもしれないが。

 そういえば……私のことを"リコリス"と馴れ馴れしく呼ぶあの男の顔を思い出してしまい、私はつい顔をしかめてしまった。あの男に"リコリス"と呼ばれると不快な気分になる。そういう意味では、やはり嫌いなのかもしれない。

 どうだろう。曖昧だ。

 見方によって、同じものの捉え方が変わるというのは。


「……リコリス?」


 小さな人間が私の名を呼ぶ。

 誰かの口からその名を聞くのは、久方振りだった。

 私の存在を、認められた気がした。


「……母さんの知り合い?」

「?」


 私は問いかけの意味がわからずにきょとんとする。いや、『全統符号』は小さな人間の言葉を私にも理解できる形で変換しているので、意味がわからないというよりも、意図がわからないというべきだろうか。

 だから、私は何も答えない。

 その沈黙をどう捉えるかは、小さな人間次第だ。


「……まさか、隣神なのか?」


 隣神。

 それは人間が自分たちの世界以外の存在に対して使う言葉だと、『全統符号』が私に教えてくれる――いや、そういう意味なのだと私が自然な形で理解できるように変換されたのだ。


――隣神。


 かつては"死神"だの"戦乙女"だのと言われたこともある私だけれども、その言葉の響きは、聞いた瞬間からどうにも好きになれなかった。ハッキリ言えば、嫌いだった。その言葉で括られると、人間程度の存在に見下されているように思えた。

 久方振りに腹立たしい気持ちを覚えたものだが、それでも私は沈黙を守った。

 すると、小さな人間の視線が私の全身を眺め回した。

 私が干渉圧を最小限に留めて顕現したからだろうか。小さな人間は最初こそこちらが驚くくらい驚いていたものの、今はもう必要以上に警戒した様子もなく、むしろ私に興味津々といった様子が、その視線から感じ取れた。


「……なんだ?」


 その視線に耐えかねた私が訊ねると、


「…………いや」

「?」

「きっと隣神なんだろうけど……何て言うかお前、人間っぽいなって」


 小さな人間がそう言うのを聞いて。

 私は――。


「あ……ははっ」


 私は――笑ってしまった。

 そうか。この小さな存在にとっての私は、そう見えるのか(・・・・・・・)

 だけど鍵掛かってたよな。ってことはやっぱお前、隣神なんだよな。とか何とか言っている小さな人間に、私は微かな笑みを向けながら、


「人間――貴様の名は?」


 私が人間に名前を問うのは、どのくらい振りになるだろうか。

 少なくとも最後に笑ったときよりも後のはずなのだが。

 小さな人間は訝しむような眼を私に向けながら名乗った。


「……九槻秋弥、だけど」


――九槻秋弥。


 それが、"死"の運命にある小さな人間の名前だった。


第83話は2013/07/31 08:00~


感想より指摘をいただいた誤りについて修正しました。

・第45話「月宮の双子」

・第78話「すべては斯くも唐突に(5)」


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