第80話「すべては斯くも唐突に(7)」
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――隣神との戦い方……ですか?
眼前で繰り広げられている戦いを見詰めながら、聖奈は夏期休暇期間中に袋環の研究室で受けた個別講義のことを思い出していた。
来客者用の椅子に腰掛けた聖奈は、担任教師であり封術師でもある袋環樹と向かい合っていた。
「隣神との戦い方……ですか?」
「そうだ。天河がこの先も学生自治会の『課外活動』を続けていく上で、いずれは君自身が隣神と戦わなければならない場面もあるだろう。だから天河には今のうちに隣神との戦い方を教えておく」
袋環は手元の書類を机の上に置いた。
それは聖奈が初めて『課外活動』に参加したときの報告書だった。
専門科目よりも一般科目の授業の方が割合の大きい第一学年では、封術に関する基礎的な知識と歴史的な背景が専門科目の主となっている。
カリキュラムどおりに授業が進んでいけば、袋環がこれから説明しようとしている内容は第二学年の前半に学ぶことになるはずだ。
「隣神は大別するとアストラル体(実体)とマテリアル体(霊体)に分けられるが、姿形で言えばその数は限りない。そして隣神の多くは現層世界に存在している生物と似通った姿をしており、同種の姿形をしていれば、その生体構造も現層世界の存在とほとんど同じと思って良いだろう」
「生体構造も同じなのですか?」
「大体はそうだ。天河は『重層同位体』という言葉を聞いたことはないか? 情報体が持つ固有振動の波長パターンだけが異なり、それ以外は全く同じ構造情報を持つ情報体を指す言葉だ。まだ完全に解明されたわけではないが、異なる世界が層を為して存在しているこの重層世界構造において、あらゆる情報体は根源を同じくしているという説が有力なのだ。だが、姿形や生体構造が似通っているからといって、隣神が我々とは全く別種の存在であるということを忘れてはならない。隣神の住まう世界と我々の住む世界とでは、自然環境から物理法則まで、あらゆる面で異なっていると考えておかなければならない。なぜならば――異層領域と現層領域が干渉しあった領域において、現層世界に顕現している隣神はこの世界の法則には縛られず、自己の世界の法則によって行動することができるからだ」
自分たちに当てはめれば、異層領域が干渉している領域でも、自己の世界の法則が適用されるということだ。
「さて、ここで天河に問題だ。現層世界に顕現した隣神と我々とでは、適用される世界の法則が異なっている。では逆に、現層世界に顕現した隣神と我々とで、共通しているものが必ず一つあるのだが、それが何かわかるか?」
「……干渉している世界の固有振動パターン――証明光波長が同じ、ということでしょうか?」
「正解だ、さすがだな天河。層間共鳴振動によって異層世界と現層世界の一部分が干渉しあった場合、その領域はそれぞれが本来は異なる領域でありながら、エリシオン光波長の固有振動パターンが同じになるのだ。そのため、顕現した隣神が有する固有振動パターンも自ずと同じものになる。これを共鳴振動現象にならって『同調干渉』というのだ。これがあるからこそ、異層世界の存在は現層世界で姿形を保つことができ、現層世界に影響を与えることができるのだ」
本題に移ろう、と袋環は言った。
「天河、頭を切り落としても心臓を貫いても決して死ぬことのない不死の隣神が存在した場合、君はこの隣神を討滅できると思うか?」
「……不死ならば、できないと思います」
「そうだろうな。それが一般的な解答だ。しかし、私は封術師で君は封術師見習いだ。不死だから死なないという考え方はまさしく正論だが、我々封術師は隣神の生命を奪うことを討滅と言っているのではない。隣神の存在を奪うことを討滅と言っているのだ」
「……」
「意味が分からないという顔をしているな。だがそれでいい。そうでなければ私が講義をする意味がなくなるからな」
袋環はシニカルに微笑むと、真面目な表情になって続けた。
「いいか、天河。先ほども言ったとおり、顕現した隣神は現層世界に『同調干渉』している。それはすなわち、現層世界に確固たる情報体として存在しているということだ」
「……存在証明」
「あぁ、そのとおりだ。問題の答えを教えよう。頭を切り落としたとしても心臓を貫いたとしても死ぬことのない不死の隣神が存在するのならば、存在自体を奪ってしまえば良い。存在する力というのは、世界に干渉する力――干渉力と同義であり、森羅万象の情報体が何らかの形で必ず有している絶対的で不変的なものだ。そして、存在する力が失われれば、情報体は世界に干渉できなくなり、やがては存在ごと世界から消えていなくなる」
――隣神の存在を奪うということ。
「それこそが隣神を斃すということであり、討滅するということだ」
それでは、話をまとめよう。
袋環はそう言って、人差し指と中指でピースサインを作った。
「隣神との戦いにおいて、覚えておかなければならないことが二つある。一つ目は、我々と隣神とでは適用されている世界の法則が異なるということだ。これに対抗するため、我々封術師は封術を――事象を改変する力を駆使している。二つ目は、あらゆる隣神は現層世界に『同調干渉』しているということだ。故に我々が隣神と戦うとき、その生命を奪おうとするのではなく、存在を奪うための方法を考えるのだ」
目算で二メートル半を優に超える巨体を持つ隣神が丸太のような腕を振り下ろした。横跳びで回避した朝倉がその腕に剣型の装具で斬りかかるも、刃は腕に数センチの切り込みを入れた程度で、切り落とすまでには至らない。しかもその腕の傷は微かに煙を立たせながら、みるみるうちに再生してしまった。
「くそっ」
悪態を吐きながら朝倉は後退したが、隣神は長い首を伸ばして朝倉の身体を呑み込まんとして迫った。あの大顎に噛み砕かれれば、人間の身体は容易く二つに分かれてしまうだろう。
しかし、隣神の大顎はその半ばでガギィィンという音を立てて急停止した。隣神から最も離れたところで装具を胸に抱いた亜子が封術障壁を行使したのである。短期的に強い干渉力を与えていた封術障壁は役目を終えてすぐに砕けてしまったが、わずかな時間にしろ隣神の動きを止めたことで、新たな隙が生まれた。
そこに鶴木のペンデュラムが飛翔した。ペンデュラムと篭手を結ぶワイヤーが隣神の身体に巻き付いて強く締め上げる。
「――!!」
強固なワイヤーによって腕ごと縛られて身動きが取れなくなった隣神は、身体が切り裂けることも厭わずに、腕に力を込めてワイヤーを無理矢理引きちぎって見せた。ワイヤーで切り裂かれた身体中の傷は、やはりすぐさま癒えてしまう。
その驚異的な再生能力を目の当たりにしながら、聖奈はふと、人間が持つ存在の力のことを思い出した。
袋環は人間が持つ存在の力についても話してくれた。
人間が持つ存在の力はいくつもある。その最たるものは身体を巡る血液なのだと、彼女は言った。血液が正常に身体を巡っているからこそ人は存在しており、血液が脳や心臓に巡らなければ存在は滅びるのだと――。また、大怪我をしてそこから血液が流れ出て行けば、存在を保てずに死に至るのだと――。
その話を聞いたとき、聖奈は脳や心臓は存在の力の一部分でしかないのだと思い知った。心臓は身体の中で血液を循環させるためのポンプであって、血液がなければ意味がない。脳は人間に精神的な意味での意識を与える制御部であって、人間という存在を直接形作っているものではない。
存在の力というのはつまり、そういった根源的なものなのである。
聖奈は隣神を見やる。
"原罪の獄炎"が持つ蒼炎から生み出された蛇頭の隣神――その存在の根源は炎だ。
炎は一度でも点火されれば、たとえか細い炎となっても、燃料と酸素、そして熱がある限り、すぐに元通りとなって燃焼を続ける。
あの驚異的な再生能力は、炎の性質に由来するものだろう。
朝倉の創り出した『水球』が隣神の身体に直撃するも、瞬く間に蒸発してしまった
鶴木の創り出した『氷錐』が隣神の腕に突き刺さるも、すぐさま溶けて消えてしまった。
千景が勢いよく飛びかかり、トンファーの先端部を隣神の頭部に打ち付ける。爆発音が轟いて四肢よりも柔な蛇の頭部が吹き飛んだが、傷口から炎が溢れ出し、吹き飛んだ頭部が一瞬で復活した。
これでは――まるでキリがない。
新たな頭部の口が開き、炎のブレスが吐き出される。至近距離で戦っていた朝倉と千景が火炎を避けるために左右に跳んだ。ここが木々の無い平野でなければ、今頃は辺り一帯が火の海と化していただろう。
後衛まで下がって弓型に変形した『月蝕』の見えない弦に右手を添えていた悠紀が、朝倉と千景が隣神から距離を取ったところを見計らって、干渉力を溜めた光の矢を放った。鋭く尖った光の矢は隣神の身体に突き刺さり、胴体を穿つ。しかし向こう側の景色が映ったのは僅かな時間で、それすらも炎が徐々に塞いでしまった。
「普通の炎なら、燃料、酸素、熱のいずれかの要素を奪えば良いのだけれど……」
厳しい表情で隣神を見詰めた悠紀が、そう呟きながら『月蝕』を剣型に変えて前衛へと戻っていく。高速で接近すると、すれ違いざまに隣神の首を切り落とした。
だがその程度のことで隣神の動きは止まらない。巨躯の隣神が腕を振るうと、それだけで灼熱の熱波が悠紀たちを襲った。
続けて反対の腕が振り抜かれる。直撃すればただでは済まない強烈な打撃を、間に割って入った千景のトンファーが受け止めた。その直後、力の接触点が爆発を起こして隣神の腕の一部を炭に変えた。『妖精の尻尾』では術式の使用に制限があったため見ることができなかったが、千景は瞬間的に力を発揮するタイプの術師なのである。
「これなら――ッ!!」
爆発によろけながらも踏みとどまった隣神の背後に素早く回り込んだ朝倉が、隣神の背中に裂傷を与えた。
蛇頭の隣神は恐るべき再生能力を有しているが、遠目にも僅かに体格が縮んだように見えるのは気のせいではない。
悠紀たちの猛攻によって、存在の力が徐々に弱まっている証拠だった。
一線で活躍する封術師であっても複数人で討滅にあたるとされるクラス3rd級の隣神に対して、見ているだけの自分を除いてもたった五人の封術師見習いだけで、善戦しているのである。
聖奈は杖型の装具を握る手に力を込めた。
術式を構築して、杖の先端部に水の球を創り出す。
悠紀に後衛を任された以上、ただ立っているだけでは意味がない。皆が命の危険と隣り合わせになりながら隣神と戦っているのだから、自分だけが指を咥えて見ていて良いはずがない。
悠紀たちのように装具を手足のように使えるわけでもない。
悠紀たちのように難しい術式を知っているわけでもない。
だけど――何もしないよりは、多少なりとも隣神の注意が引ければ良い。
聖奈は『水』系統の基本術式である『水球』を同時に四つまで創り出してから、それを一斉に放った。
それでもきっと、水球は朝倉が放ったときと同じように、隣神が体内から発している高熱によってすぐさま蒸発してしまうだろう。
そう予想していた――のだが。
「なん……」
その声は誰の発したものだったか。
水球が隣神の身体に触れた、その瞬間だった。
「グガァァァァァァアアッ!」
蛇頭の隣神が大音量の叫び声を上げた。
その絶叫に全員の意識が向く。
聖奈の放った四つの水球は、次々に隣神の身体に接触すると、体表面の高熱を急激に奪いながら悠紀の光矢をも凌ぐ大穴を隣神の身体に空けていた。穿たれた部分からは大量の蒸気が噴き出していた。
「えっ、どうして……」
封術を行使した自分でさえ、どうしてそうなったのかわからずに戸惑う。
封術式の理論に則って構築した基本術式に、特別な効果を付与したつもりもない。ましてや複雑な構築式を組み込んだつもりはない。
ただ少し、干渉力を強めようと思って構築式を組み上げただけだ。
それだけなのに――。
「……貴女、本当に人間なの?」
聞き慣れない声がした。
だけどそれは、少し前に聞いたばかりの声だった。
「……まあいいわ。とりあえず、上出来といったところかしらね」
偉そうなその口ぶりは、いったい誰のものか。
戸惑う聖奈の視界に、真っ赤なワンピースを着た少女の背中が見えた。
少女の手には、血液よりも深い紅色をした禍々しい形の剣が握られていた。
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クラス1st級の隣神は、他の隣神とは一線を画している。
それは格付けの最高位であり、それ以上の位分けができないことを意味しているからだ。
故にクラス1stとは、クラス2ndにカテゴライズされる隣神よりも現層世界に与える影響が大きい存在という意味合いしか持たない。強さを示す干渉強度の指標はある地点から判断不能となり、世界に対する影響も未知数となる。
それが、クラス1stという存在だ。
とどのつまり――悠紀たちが"彼岸の花姫"や"原罪の獄炎"をクラス1stと見なしたのは、その程度の意味でしかないということだ。
悠紀が初めて彼女を見たのは装具選定のときだった。瞬間的に発生した極大の干渉圧から、彼女をクラス1st級の隣神であると断定した。
次に彼女を見たのは課外活動で廃病院へ行ったときだった。秋弥の背後に身体を隠していた彼女からは強い干渉圧を感じなかったが、人とは違う独特の気配を纏っていたのを覚えている。
その次は夏休みのとき。完全に人と同じ固有振動パターンの干渉波を宿して顕現した彼女は、ふとすれば高位隣神であることを忘れてしまいそうになるほど、普通の人間らしかった。
だけど、今日初めて彼女の――リコリスの戦闘を間近で見て、悠紀は改めて思い知った。
彼女は間違いなく、クラス1stにカテゴライズされる存在なのだと――。
圧倒的という言葉ではまるで足りないだろう。
眼前で繰り広げられているのは、まさしく蹂躙だった。
少女の魔剣が隣神の肉を裂き、骨を断つ。広げた掌から溢れ出した花吹雪が隣神の身体に無数の裂傷を刻む。体表面はボロボロとなり、片足を失った隣神は崩れ落ちるように地面に倒れた。
存在証明を司っている『波』の原質を自在に操るという異能の魔剣『紅のレーヴァテイン』によって受けた傷は――恐るべき再生能力をもつ蛇頭の隣神にしても、再生できない傷を負わせていた。
蛇頭の隣神はいつしか、叫び声を上げることすら止めていた。
無慈悲に奪われていく存在の力が尽きるときが来るのを、ただ待っていることしかできなくなっていた。
(あぁ……)
思い返してみれば"原罪の獄炎"が悠紀に向けて放った炎蛇にしても、一匹だけでなければあの瞬間に命を失っていてもおかしくはなかった。そう思うと、悠紀は内心で安堵せずにはいられなかった。
クラス3rd級の蛇頭の隣神に対して、朝倉も、亜子も、聖奈も、千景も、鶴木も、封術師見習いながらに善戦してくれた。
だけどクラス1stは――やはり格が違いすぎる。
やがてリコリスが頭上に掲げた腕を振り下ろすと、いつの間にか空中に浮かんでいた大質量の氷塊が蛇頭の隣神を押しつぶした。
そうして蛇の頭を持つ亜人の存在は、氷塊に磨りつぶされて現層世界から永遠に葬り去られたのだった。
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スフィアが『螺旋の球形』で優勝した余韻に浸ることなく、全速力で鶴木たちの足跡を追いかけて野外演習場に辿り着いたときには、戦いは終わっていた。
「……これは、いったい何があったというんだい」
草花がジリジリに焦げて緑を失った野外演習場の一帯を包んでいる空気の圧迫感から、振域レベルの高い異層領域が発生しているということはすぐにわかった。
それに、もっと別の強い干渉圧も感じる。
野外演習場には『妖精の尻尾』の氷原フィールドでも見られないような巨大な氷塊が鎮座していた。誰かが『水』系統の上位封術でも行使したのだろうか。
そちらに視線を向けると、氷塊の前に秋弥と赤い服の少女の姿があった。少女を見るのは廃病院での課外活動以来だが、あのときとは打って変わって、凄まじい干渉圧を放っていた。
そこからやや離れたところには朝倉と千景が、その少し後ろに鶴木と悠紀が、氷塊から最も離れたところに亜子と聖奈が立っている。六人ともが呆然と氷塊を――否、秋弥の隣に立つ少女を見詰めていた。
「最後まで俺の出る幕はなかったな」
「えへへー、たまには良いでしょ」
「まあ俺がいてもリコリスの邪魔になるだけだろうしな」
皮肉げに秋弥がそう言うと、リコリスが慌てたように手を振った。その仕草につられて彼女の持つ干渉圧が波となって発生し、スフィアの露出している肌部分が粟立った。
「そ、そんなことないよ! 最初の敵は秋弥様と一緒に戦ったし、次の敵はあそこの人間が弱らせていたから、勢いでついでにやっちゃえって思っただけで……」
「はいはい、わかったよ」
一生懸命弁解するリコリスの頭を秋弥がぽんぽんと叩いた。リコリスの凄まじい干渉圧を直接肌で感じて、今更ながら彼は何と恐ろしいことをしているのだろうとスフィアは思ってしまうが、当のリコリスは何故か嬉しそうに顔を赤らめた。
「それとな、リコリス。みんなが警戒しているから、もうその干渉圧を弱めて良いぞ」
「あっ、久しぶりだから忘れてた」
すると、野外演習場を支配していた圧倒的な干渉圧が一瞬で消失した。
異層領域は未だに健在だったが、その様子から事態はすでに収束しているのだと判断すると、スフィアはひとまず悠紀のそばまで近づいた。
「……あぁ、スフィア」
悠紀が顔を向ける。その顔はわずかに血の気が失せているようだった。
「貴女、試合には勝ったのよね?」
そんなことを訊ねている場合なのかと珍しくスフィアは突っ込みを入れたくなったが、そうしたくなる気持ちをぐっと堪えて、軽口で返した。
「当たり前じゃないか。この格好を見てわからないのかい?」
「わかるわけが……あぁそう。確かに校章が残っているわね」
着替えもせずに駆けつけたので、スフィアの服装は競技服のままだ。赤いワンピースの少女を除けば全員が学園の制服を着ているので、場違いな感が否めない。
「それで、問題はもう解決したんだよね?」
「えぇ、ついさっきね」
悠紀が再び氷塊へと視線を向けたので、スフィアも同じ方を見た。そこでは空の色のように蒼い装具で氷塊を片付けようとしている秋弥と、夕焼けよりも深い紅の装具で異層領域の調律をしようとしているリコリスがいた。
「だけど、私たちの問題はこの後かも……」
未だに装具を構えたままの朝倉たちを見て、悠紀は盛大な溜息を吐いたのだった。