第79話「すべては斯くも唐突に(6)」
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"可能性の魔女"。
蒼炎を纏った男がその名を思念に乗せた瞬間、聖奈の『意』の奥深くで何かが鳴動した。
心臓の鼓動とは明らかに異なるそれは、懐かしいその名前に呼応するかのように強く脈打った。
聖奈は咄嗟に制服の胸元を手でギュッと押さえた。そうしなければ、自分自身の中に潜んでいる何者かが自分の身体を内側から食い破って飛び出てくるような、そんな突拍子もないことが起こりそうな気がしたからだ。
しかし聖奈の思いとは裏腹に、胸の痛みはすぐに治まった。まるで潮が引くようにあっさりと去っていったため、聖奈はその原因を、視線の先にいる高位隣神の干渉圧に中てられたからだと思い直した。
制服の胸元を押さえていた手をゆっくりと解いていく。空いた手で再び装具を握ると、顔を動かさずに周囲に眼を向けた。
いつの間にか自分たちと合流していた朝倉が装具を構えて立っている。通信が途切れたときは彼の身に何かあったのではないかと思ったが、どうやら無事だったようだ。
光の矢を放った直後に全速力で森を駆け抜けていった悠紀はこれまでに見たことがないような鬼気迫る表情で、平野の中心部付近にいる者を見詰めている。
悠紀の視線の先には強大な干渉圧を放っている二つの存在がいた。
そのうちの一つは全身を蒼い炎で覆い、片方の瞳からも同色の炎を放出している。男の名前は――自分たちが駆けつけたときに思念言語として伝わってきた意味内容によると"原罪の獄炎"というらしい。シンフレアが高位隣神であることは放出している干渉圧からも疑いようはなかったが、彼は何故だか聖奈を見て酷く動揺しているようだった。
もう一つは秋弥と並び立っていた赤い服を着た少女のものだった。幼い少女の姿をしている彼女もまた、人ならざる存在である高位隣神なのだろう。朝倉からの報告ではハッキリしたことまではわからなかったが、秋弥とともにシンフレアに対して臨戦態勢を取っていることから、少なくとも赤い服の少女はこちらの味方であるらしいことがわかった。
『いいや……まだ完全には覚醒していないようだな』
思念言語によるシンフレアの声が聖奈の意識に響く。
『"星の抑止力"……覚醒前にここで潰しておくべきか。だが、余計な手出しはしないほうが良いのかもしれねぇ……』
("星の抑止力"?)
"星の記憶"や"星の自浄作用"ならば知っているが、それは初めて聞く言葉だった。自分がまだ知らないだけかもしれないと思い、聖奈はとりあえずその言葉を覚えておくことにした。
『……"原罪の獄炎"。貴方の目的は一体何?』
悠紀が思念言語でシンフレアとの対話を試みたようだ。すると、シンフレアの瞳に宿る炎が動き、悠紀の視線と交差した。
『目的だァ? んなもんとっくに果たし終えてんだよ。人間は少し黙ってろ』
シンフレアがこの場所に顕現した目的とはなんだったのか。人間を襲うことが目的ならば多くの人が集まっている第一演習場を狙うべきだが、彼はそうしていない。
そういえば、朝倉の報告の中で登場した壮年の男性の姿が見当たらないことに聖奈は気づいた。ひょっとしてシンフレアの目的はその男性だったのではないだろうか。そしてその目的が既に達成されたということは、その男性はすでに……。
そこまで考えたところで、聖奈とシンフレアの視線が再び通った。
『……まあいい。当面の目的は果たせたんだ。これ以上面倒くせぇことに付き合っていられるかよ』
吐き捨てるようにそう言って、シンフレアはこちらに背を向けた。
『後はお前らに任せるぜ。ここで"可能性の魔女"が死ぬようなら、"星の抑止力"は俺たちの計画の妨げにすらならねぇってことだ』
広げた両腕から蒼い炎の雫が滴り落ちた瞬間、シンフレアを中心として異層領域が発生して広がった。
現層世界が有する固有のエリシオン光波長に異層世界のそれが干渉して起こる層間共鳴振動現象を、"原罪の獄炎"は人為的に――否、天為的に引き起こしたのである。
そして異なる世界同士が一時的に同調したことで、そこからたちまち蛇の頭を持つ二体の亜人が顕現した。
身の丈や外見、離れていても感じ取れる干渉圧からして、クラス3rd前後と予想される高位の隣神たちだった。
『それと"彼岸の花姫"。お前とも次に顔を合わせることがあれば、もう少しまともに殺りあえる程度に力をつけておくことだな』
赤い服の少女に顔を向けてそう言うと、シンフレアの全身が蒼の炎で燃え上がった。
『待て、計画とは何のことだ!』
秋弥が反射的に叫んだが、蒼炎は瞬く間に消えて、シンフレアの姿も忽然と消えていた。
圧倒的な干渉圧を放っていた存在が去って、聖奈は無意識に息を吐いていた。
安堵したのは聖奈だけではなかった。すぐ近くで亜子が大きく息を吐いた音が聞こえたし、朝倉の表情もわずかに緩んでいた。
だがそれも仕方のないことだろう。
記録によるとクラス1stの"天童神楽"討滅作戦では、星条家の前当主を含めて六十人以上が作戦に参加していたらしい。その"天童神楽"と同じくクラス1stの高位隣神を前にして、封術師見習いが五人だけではどう考えても勝算が成り立たない。
それはこの場所に集まった誰もがわかっていたことだった。だから不審な様子を見せた"原罪の獄炎"がいかな理由であろうが早々に立ち去ってくれて、心底安堵したのだった。
しかし、クラス1stという脅威が去ったところでまだ安心はできなかった。
蛇の頭部を持つ亜人型隣神が、聖奈たちを狙っていた。
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「秋弥君! 隣神から離れなさい!」
悠紀が光の矢で蛇頭の隣神を牽制しながら声を張り上げた。
彼女の指示に従って秋弥がリコリスとともに大きく飛び退くと、隣神のうち一体の蛇頭がこちらの動きを察知して顔を向けた。
「暫定でクラス3rdが二体か……やっかいね」
三メートルに迫る巨体を見て呟く。長い首も含めれば全長はもっとあるだろうか。
「……どうするつもりだ、星条」
よもやこのような状況になるとは思っていなかった朝倉が、指揮を悠紀に託して問うた。
「そうね……」
プロの封術師が数人がかりで討滅に臨むクラス3rd相当の隣神が二体。こちらは封術師見習いが五人と隣神の少女が一人。
戦力差から考えれば分の悪い戦いだが、幸いなことにこちらには隣神の――それもクラス1st級の少女がいる。
それならば――。
「亜子、異層領域の調律はできそう?」
「えっ、あ、えぇと……うぅ、振域レベルがかなり高そうなのですぐには難しいですが、それなりに時間を掛ければ何とか……」
「まあそうよね」
クラス3rd級の隣神が顕現するほどの異層領域なのだから、調律が難しいのは仕方のないことだろう。
だからこれはあくまでも調律を専門とする者への事実確認であり、良好な回答は期待してなかった。
となれば、隣神を討滅してから調律するのが得策か。
「それなら私と朝倉君が前衛、亜子と聖奈さんが後衛で隣神の一体と戦いましょう」
「……もう一体は?」
「秋弥君と、あの子に任せるわ」
「そんな無茶な!」
朝倉が険しい表情で叫んだ。人数比にすればこちらが四人。しかも二人が『星鳥』の家系だ。一方秋弥には朝倉にとって見知らぬ少女が一人いるだけなのだから、彼が無茶だという気持ちもわかる。
『問題ありませんよ、副会長』
二人の会話に、秋弥が思念言語で割り込んだ。
彼が思念言語を用いたのは、やや離れたところにいる悠紀たちに届く声で喋ることで、二手に分かれつつあった蛇頭の隣神の気を引いてしまう可能性があったからだ。
『秋弥様のいうとおりよ』
秋弥の言葉に続くように、普段の猫を被るような声ではなく年齢以上に大人びた声でリコリスが言い放った。
リコリスの正体を知らない朝倉たちが、初めて聞く少女の声に顔と視線を動かした。訝しむような眼を向けられたリコリスは、それを鼻で笑うと魔剣を一振りした。
『秋弥様とリコリスなら、こんなの何体いても敵じゃないわ』
『疑うつもりはないのだけれど、その言葉に嘘はないわよね?』
この流れになることを想定していたものの、それでも悠紀は念のために訊ねた。
瞬間、リコリスからとてつもない干渉圧を向けられて肌が粟立ち、首筋に刃物を突きつけられたかのような緊張感が悠紀の全身を襲った。
『当たり前でしょ。リコリスを貴女たち人間と同じ尺度で測らないことね』
『そういうことなので、会長。そっちの一体はお願いします』
『こっちが片付いたらすぐにそっちのも片付けてあげるから、貴女たちはせいぜい死なないようにしているだけで良いわよ』
リコリスの言葉は悠紀以外の三人に不信感を抱かせただけだったが、彼女の圧倒的な干渉力を体感した悠紀は十二分に納得した様子で首を縦に振った。
『わかったわ』
『……本当に大丈夫なのか、星条』
朝倉が悠紀の判断に眉根をひそめた。
『ええ、あの子が大丈夫というのなら大丈夫よ』
『そっちじゃない! 九槻の方だ!』
朝倉の怒鳴り声はわずかに震えていた。彼が何を危惧しているのか、悠紀には手に取るようにわかってしまった。この場所にいる時点で、朝倉たちは赤い服の少女が人間ではなく高位隣神であることに気づいているだろう。先ほどまではシンフレアの干渉圧に紛れていて意識しなければ感じ取ることが難しかったが、今でははっきりとクラス1st級隣神一体分の干渉圧を感じ取ることができていた。
『朝倉君……ずっと見ていたのなら、貴女ももう薄々分かっているんでしょう? あの子のことなら心配いらないわよ』
朝倉の心中を察した悠紀が、努めて穏やかな声で言った。
『あの子は私たちとは存在そのものが根本的に違うけれど、私たちの――いいえ、そうじゃないわよね。あの子は秋弥君の心強い味方だから』
ふっと笑みを見せた悠紀が秋弥とリコリスから視線を外し、自分たちの方へと向かってくる隣神を見た。朝倉も引きつけられるように眼を向ける。
「だから私たちは、私たちの戦いに専念しましょう」
これ以上議論をしている余地はない。
迫る蛇頭に『月蝕』を向けて、悠紀がさらに口を開こうとした、そのとき――。
「うわ、何ですかあれ……」
「あれは……高位隣神!?」
悠紀たちの背後にある森の中から、二つの人影が飛び出した。
「貴女たち……」
現れたのは篭手型の装具を腕に付けた鶴木真と、旋槌型の装具を両手に握った火浦千景の二人だった。
治安維持会メンバーの二人がこの場所に現れたのは偶然ではないだろう。二人を差し向けた人物として思い浮かぶのは、一人しかいない。
「スフィアの差し金ね……まったく」
悠紀の口元にうっすらと笑みが浮かんだ。
状況の判断能力と自己の行動力に長けた治安維持会メンバーならば細かい説明は不要だろう。
「火浦さん、鶴木君。この場所に来たからには、二人を戦力と考えて良いのよね?」
「はい。隣神との交戦経験はありませんが、心の準備はしていました」
「……僕も、大丈夫です」
さすがに高位隣神が顕現しているとは思っていなかったのだろう。即答した千景とは対照的に鶴木の返事には僅かな逡巡があった。しかしその眼はしっかりと敵の姿を見据えていた。
「いいわ。それじゃあ火浦さんは近距離から、鶴木君は中距離から私と朝倉君を援護して」
「了解です」
「承知しました」
「それでは各員、戦闘準備! 相手は暫定クラス3rdの亜人型隣神が二体! 最大目標にして最低目標はすべての隣神の討滅よ、それ以外は許されないわ!!」
太陽の光が空を青色に染めている。
そこには白い月がぼんやりと浮かんでいた。
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第三クォーターの開始直後、スフィアは全速力で球の表面を滑り出した。球の外向きに働く力――遠心力が今までにない強さでスフィアの身体を引っ張ったが、その力の向きすらも封術の力で強引に球の内側へと変えることで、スフィアの身体は大きな安定感を得た。
まずは最も近くにいた鶺鴒封術学園の代表選手の前へと跳び出す。相手は不意打ちのように突然現れたスフィアを見て目を丸くしたものの、咄嗟の判断で横に避けようとした。
突進を避けられたスフィアはその場で急制動をかけると、右足を軸にして身体を回転させた。球の表面に綺麗な波紋を作りながら向きを変えたスフィアは、軸にしていた右足に力を込めると回転運動のエネルギーを利用して相手選手に切迫した。
そのまま駆け抜けるようにして相手選手の背に触れて印を奪う。既に左腕の印を失っている鶺鴒封術学園の選手が持つ印は、これで残り一つだけとなった。
だがスフィアはここで深追いはせず、駆け出した勢いのまま球上を滑った。
外側へと引かれる力に重力が加わる。見上げた視界には地面が映っていた。天地が逆転して血液が逆流する感覚が全身を襲ったが、それもわずかな間のことで、球をぐるりと一周すると、こちらの様子を覗っていた鷺宮封術学園の代表選手を発見した。
スフィアの動きを追っていた相手選手の反応は早かった。こちらの動きを警戒して前後左右どの方向にも避けられるように身を低くしている。
(それなら――)
スフィアは相手の二メートル手前で上半身を思い切り後ろに逸らした。そうすることで身体の重心が後ろへと傾き、一瞬だけ動きが止まったように見える。
その瞬間、相手の身体が耐えきれずに動いた。その方向はスフィアから見て右側だった。それを認めたスフィアは左足に力を込めて、上体を無理矢理前に起こす。大きな波紋が左足の裏から生じて、スフィアも右側に跳んだ。
刹那の交錯のうちにスフィアは相手の右腕に触れて印を奪った。これで鷺宮封術学園の選手の印も残り一つ。
「むっ」
大歓声が木霊する中、鷺宮封術学園の代表選手の追跡を避けて十分な距離を移動したスフィアは思いきり左に飛び退いた。
立ち止まり、視線を向ける。数瞬前までスフィアがいた場所に、鶺鴒封術学園の代表選手が立っていた。
脱落寸前となったことで積極的に攻めてくるとは思っていなかったが、どうやら違ったらしい。鷺宮封術学園の代表選手が印を二つ残していたのならば静観していたのかもしれないが、現状では誰かが二つの印を持つスフィアから印を奪わなければ、逃げ続けることができたところで時間切れとなって敗北してしまう。
(賢明な判断だね)
スフィアは心中で思う。
何もせずに敗北するくらいならば、勝利のために足掻いて敗北するべきだ。
他人に任せて勝利の可能性を得るよりも、自分の手でそれを掴み取るための努力をすべきなのだ。
何事に対しても前向きな姿勢を持っていた方が、きっと楽しい。
(それに、そうしてくれた方がワタシとしても有り難いんだよ)
逃げ続ける相手を追い回して印を奪うよりも、その方が早く決着がつくからだ。
(すぐに終わらせて、ユウキたちの後を追わないといけないからね)
心中でそう呟き、スフィアは正面から受けて立った。
相手の左手が突き出される。それを右腕で防ぐと右方向に腕を払った。大きく開かれた胴体を狙って左肘を飛ばしたが、相手は流された腕の方向に身体を移動させて、これを避けた。
(甘いよっ!)
払った腕を巻き付けるようにして相手の左腕を掴んだスフィアは、腰を捻って円運動を描いた。瞳を見開いた相手の表情が一瞬だけ見えたが、すぐに視線を移す。狙いはあくまでも、相手が持つ右腕の印だけだ。
右腕を引き、左腕を伸ばして相手の右腕にある印に触れようとしたが、スフィアの手が掴んだものは相手の右手だった。
指と指が絡み合ってしっかりと握り合わされる。左手の自由が奪われたスフィアは共倒れを避けるべく、相手の身体ごと自身のバランスを維持した。
途端、歓声が響いた。
観客たちにはこの近接格闘がダンスをしているようにでも見えているのだろう。だが実際はそんな生易しいものではない。球の上面で戦っている場合を別として、側面や下面で封術の制御を誤ってしまえば、身体は重力に引かれるままに落下して即失格となってしまう。
相手が手を離したことで左手が自由となる。それと同時にスフィアも掴んでいた左腕を離した。
球上を滑るように二人の身体が離れる。
その刹那、スフィアの背後から鷺宮封術学園の選手が襲いかかった。
隙を突かれてガラ空きとなったスフィアの背中――そこにある印に触れようとして手を伸ばす。
(くっ……!)
スフィアはその場で素早く反転すると、伸びた腕を掴んで進行方向へと受け流した。鷺宮封術学園の選手は慌てて急制動を掛けるが、その瞬間にスフィアと向き合っていた鶺鴒封術学園の選手に対して背中を向けてしまった。背中にある最後の印が鶺鴒封術学園の選手の前に無防備に晒されたのである。
「しまっ……」
気づいたときにはもう遅い。鷺宮封術学園の選手が持つ最後の印は、鶺鴒封術学園の選手によって奪われた。
これで、鷺宮封術学園の選手が脱落して三位が確定した。
あるいはここで鶺鴒封術学園の選手は、印を奪わずに鷺宮封術学園の選手と共闘してスフィアの印を奪うこともできただろう。
しかし、鶺鴒封術学園の選手がその選択をしなかったのは、自らの手で勝ちを得ることを選んだからだとスフィアは思った。他の選手と共闘すればスフィアの印を奪える確率は高まるだろうが、それが必ずしも自身の勝利に繋がるとは限らない。
背中に印の残っていた鷺宮封術学園の選手に対して、鶺鴒封術学園の選手の印は右腕にのみ残っていた。一見すると死角となる背中に印が残っている方が不利のように思えるかもしれないが、他者の印を奪うためには直接手で触れなければならない。必然的に腕は相手の眼前に晒されやすく、先ほどのような接近戦となれば背中の印の方こそ、むしろ守りやすいのである。
鶺鴒封術学園の選手との距離が再び詰まる。貪欲に印を奪おうとする姿勢に好感を覚えつつも、勝ちを譲るつもりは毛頭ない。
姿勢を立て直したスフィアは印を失っている右腕を突き出して相手の右腕にある印を狙いにいった。当然、相手はこれを防ぐために右半身を後ろに、左半身を前にしてスフィアの腕を避ける。相手選手は胸の前を抜けていくスフィアの腕を右腕で抱えるようにして掴むと、左の掌をスフィアの二の腕に押し当てた。
二の腕に斜め下方向の力が込められる。腕を伸ばしたことで重心も前に移動していたスフィアの身体は球の表面に向かって落ちていった。
身体がぶつかる寸前、スフィアは右の掌を対象にして封術式を発現させた。その術式はスフィアが球の表面に立つために両の足裏に使用していた術式と同じだった。触れた面との間に強い張力を生み出すその術式は、効果の対象を両足から右の掌へと移したのである。
上面に近いとはいえ球の側面にいながら、スフィアは地面に手をつくような感覚で右手を球の表面につけると、自由になった両足で相手選手の足を薙ぎ払おうとした。
自ら両足を球面から離すとは思っていなかった相手選手は意表を突かれたように目を丸くしたが、すぐに俊敏な反応を見せて左足を下げた。惜しくも右足だけを払ったスフィアは姿勢を崩した相手選手に追撃すべく、足の裏に術式の効果を戻してから印を狙って手を伸ばした。しかし、あと少しで右腕の印に触れそうになったところで、伸ばした腕を抑えつけられて阻止されてしまう。
腕を引かれ、体勢が再び入れ替わる。互いの腕を掴み合ったまま、二人は球の下面へと滑っていく。
印が最後の一つとなったことで守る部分と狙われる部分が絞られたからだろう。なかなか突破口が開けない。
(だけど、開けないのならば、無理矢理にでもこじ開けるまでだよ!)
互いに印を持っている腕で牽制しあう中、スフィアは相手の右腕の付け根部分に左の掌をかざした。腕の支点となっている部分を抑えられたことで相手の腕の動きが止まる。
その瞬間を狙って、スフィアは掴まれたままの右腕を自分の身体側へと引き寄せた。身体の位置が入れ替わり、重力の加わる向きが逆転する。円運動に付随する遠心力によって相手の身体がわずかに開いた。
刹那、スフィアは相手の左腕を捻り上げた。
そうして掴む力が弱まったところで右腕を振り解くと、左手で相手の左手首を掴んだまま背中側に回り込んで関節を極める。身動きが取れなくなった相手の右腕――そこにある鶺鴒封術学園の校章に、ついにスフィアの手が触れた。
第三クォーターの開始から四分二十一秒後。
『螺旋の球形』決勝戦の勝敗が決した瞬間だった。