第76話「すべては斯くも唐突に(3)」
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「この辺りで良いだろう」
人間の姿を忠実に模した初老の男性は、思念言語による会話ではなく口を動かして音を発生させた。
秋弥たちがいる場所は、何処ともしれぬ平地だった。
男性が使った未知の力によっていつの間にか木々が生い茂る森林の中に移動していた秋弥とリコリスは、背を見せて歩き出した男の後を追って、この場所に辿り着いたのである。平地の規模はおよそ第二演習場と同等といったところで、人の気配はまるで感じられなかった。
「……人気のないところと言っておいて、こんな見晴らしの良い場所で良いのか?」
「ふっ、君たち人間が狭いところに密集する習慣があるというだけだ。世界の規模は同じだというのに、君たち人間は数が多すぎるのだよ」
「……」
「さて……何から話したものか」
男性があごに手を当てて眉間に皺を寄せた。その人間味を帯びた仕草は、彼が隣神であるということを疑ってしまうほどだ。
しかし、この男は重層する世界の言語を相互変換する思念言語を使えるだけでなく、異層に隠れていたリコリスを捕えて現層へと顕現させるという未知の力を持っている。
その力は――『波』を操るリコリスの異能に酷似している。
「まずはそうだな……私の自己紹介から始めようか」
男はシルクハットを手に取って胸に当てると、腰から上だけを折って会釈をした。
「私は"観察者"。人間が隣神と呼ぶ存在の一人だ。以後、お見知りおきを」
上体を戻して帽子を被り直す。自らをウォッチャーと名乗った男性は敵意を感じさせない落ち着いた物腰で言葉を続けた。
「君が私を見て警戒する気持ちもわからなくはないが、重層世界の観察者を自負する私は、君たち人間に一切の危害を加える気はない」
「……信じられるものか」
秋弥が言い返すと、ウォッチャーは口角をわずかにつり上げた。
「君がどう思おうが構わないさ。それでは次に問おう、君はいったい何者だ?」
「……九槻秋弥。異層世界の存在から現層世界を護る封術師の見習いだ」
「九槻秋弥? なるほど……つまりはこれもまた必然ということか」
ウォッチャーは何か得心がいったように頷いた。
「しかし、私が訊きたかったのはそういう意味ではない」
視線を戻したウォッチャーの眼光が、わずかに鋭さを増した。
「私には自信がないのだよ。君が人間なのだと断言できるだけの自信がね」
何を、言っている?
秋弥のことを侮辱されたと思ったのだろう。表には出さなかったが、黙って話を聞いていたリコリスの裡で荒れ狂っている怒りの感情が伝わる。そのおかげもあって冷静でいられた秋弥は答えた。
「俺は人間だ。それ以上でも、それ以下でもない」
「…………そうか。それでは、今はそういうことにしておこう」
無理矢理納得した様子のウォッチャーであったが、自分が人間であるということは、自分自身が一番良くわかっている。
彼がいったい何に対して疑念を抱いているのか、秋弥には理解しかねたが、訊ねても取り合ってもらえないように思えたので、秋弥は別のことを訊ねた。
「俺からの質問だ。お前の目的は何だ。どうしてここにいる?」
「ふむ……端的に言えば、私の現在の観察対象は君たち人間だ。それ故に私は、君たちを観察するためにここにいる」
それが真実かどうかは疑わしいが、少なからずこの"観察者"という存在は思念言語だけでなく、秋弥と同じ人間の――それも日本語を話すことができることは疑いようもない事実だった。
どれくらいの時を観察し続けたのかはわからないが、装具を突きつけた秋弥をすぐさま排除しようとしなかったことや、人目の多い場所をみずから避けたことを鑑みて、この点については信じても良いと思えた。
「次は私の番だな。九槻秋弥、君が私を発見できたのは、そこにいる"彼岸の花姫"の力を借りたということで相違ないか?」
"彼岸の花姫"――それがリコリスの本来の名前であることを知る人間は秋弥だけだ。姉の月姫や母親の綺羅ですら、その名は知らないはずだ。
故に、この男は間違いなく秋弥に内在する前の――異層世界の存在であった頃のリコリスを知っているということだ。
「……ああ、そうだ」
「なるほど、合点がいった。しかし同時に新たな疑問が浮上する。君と"彼岸の花姫"はいったいどのような関係なのか、とね」
「次に質問をするのは俺だ、ウォッチャー」
「ふむ、これは失礼をした」
「お前はリコリスのことをどれだけ知っている?」
「漠然とした問い掛けだな。ふむ……私は世界の観察者として大抵のことは識っていると自負している」
観察者は淡々と述べる。
「"彼岸の花姫"――リコリス。彼女は現層と異層の狭間に住まう境界者であり、その架け橋となって彷徨える存在を導く者だ。そうだな……君たち人間からすれば死神や戦乙女と言い換えた方が、表現上はわかりやすいのかもしれないな」
男がリコリスを眺めながら言うと、リコリスの干渉圧が一瞬だけ爆発的に膨張した。
自分の識らない自分を識っている"観察者"に対して、脅威を感じているのだろう。その感情は秋弥へと伝わり、波紋のように広がって彼の全身にまで行き届いた。
緊張感で手に汗が滲み、背筋には嫌な汗が流れる。
これ以上この話題を続けるべきかどうか迷ったが、ようやくリコリスを識る存在に出会えたことで、訊いておきたいこともたくさんあった。
「それにしてもどうして、そのような姿に変わられてしまったのか。まるで……そう、幼い頃の"彼岸の花姫"を見ているようだ。それにその干渉波は――九槻秋弥。君のものと同等にして同質のものだな?」
「そのとおりだ、ウォッチャー。……リコリスと俺は、存在を共有している」
「何、と……」
大抵のことを識るというウォッチャーは心底驚いたように、シワの浮かんだ瞼を大きく見開いて秋弥とリコリスの間で視線を行き来させた。
「……証明光波を同調させて異なる情報体と固有振動を同化させたというのか――いや、それもエリシオン光波を操る"彼岸の花姫"の力をもってすれば不可能ではないのか……」
「ウォッチャー、識っていたら教えてほしい」
ぶつぶつと呟いている"観察者"に向かって、秋弥は他に訊ねたいことを差し置いて、核心へと迫る質問から投げ掛けることにした。
「俺とリコリスが一つの存在となっている今の状態を、本来あるべき姿へと戻す方法を識っているだろうか?」
幼い頃に巻き込まれたとある事件がきっかけで、秋弥とリコリスは一つの存在となった。
しかし、二つの『意』を一つの情報体に宿した状態というのは、重層する世界の理から逸脱した状態だ――それはいつ崩壊のときが来てもおかしくはない爆弾を抱えているようなもので、いつまでも続くとは限らない。
それに、リコリスは何とも思っていないようだが、秋弥には幼い頃に交わした約束のためにリコリスを束縛し続けてしまっていることに対しての負い目もあった。
秋弥は一縷の望みをかけて初老の男性を見やる。
だが、無情にも彼は瞳を伏せて、首を左右に振った。
「すまないが、それは私にもわからない」
「そうか……」
いくらリコリスを識っているからといって、そう都合良くはいかないか……。
落胆する気持ちもあるが、方法は一つではない。
「識っている者がいるとすれば、それを行った"彼岸の花姫"本人以外に有り得ないだろうが……まさか、"彼岸の花姫"は記憶を?」
片方の眉を持ち上げて訝しむような目を向けるウォッチャーに、秋弥は肯定を示した。
「……ああ。リコリスは俺と同化する前の記憶を、ほとんど忘れてしまっている」
秋弥の口から自然と弱々しい声が零れた。
リコリスの方に視線を向けて、悲しげに瞳を細める。
「異なる情報体が同化したことによる記憶同士の干渉か。"彼岸の花姫"が君に干渉して同化したことで、君が許容しきれない記憶を忘却したと、そう考えるのだな?」
「ああ、そのとおりだ」
それでも『星の記憶』の概念に従えば、あらゆる情報体の記憶や経験は『星の記憶』に蓄積され、『星の記憶』にアクセスすることで想起するのである。
だからリコリスは記憶を忘却したのではなく、記憶にアクセスする手段を失ったというべきなのだろう。
記憶を思い出すという行為は、『星の記憶』を検索してそこから記憶情報を得るということだ。それを正しく行うためには、記憶を思い出す側が適切な索引語を用いて『星の記憶』を検索するほかない。その検索方法が曖昧になればなるほど、『星の記憶』から得られる自身の記憶というものは不透明で、不確実で、不鮮明なものになってしまう。
「なるほど。それならば『星の記憶』に蓄積された"彼岸の花姫"の記憶を想起させるために、外部から働きかけるしかないだろうな」
"観察者"を自負するだけあって知識が豊富なウォッチャーは言った。
『星の記憶』から記憶情報を受け取るためには、アクセスする者が記憶にあると思う事象でアクセスをしなければならない。
リコリスと同化してからしばらくしてその結論に到達した秋弥は、自分の記憶にあるリコリスの情報から、リコリスが失ってしまった記憶の索引語を想起させるという方法を取った。
これは結果的に半分だけ成功した。リコリスは秋弥と出会ってからの記憶と、その前後の記憶を『思い出す』ことができた。
だけど、半分は失敗した。
リコリスは記憶の一部を取り戻したが、思い出せた記憶を『思い出したくない』記憶として閉ざしてしまったのである。
それは何かトリガーとなる出来事があれば自動的に思い出されてしまうが、日常においては意識的にも無意識的にも思い出さないようにと『意』の深いところで箱の中にしまって蓋をした状態だった。
だが、それでも良かった――当初の目的に照らせば半分は失敗だったが、リコリスにとっては成功だったのだから。
誰にだって思い出したくない記憶はあるだろう。忘れてしまった方が楽になれる記憶もあるだろう。
だから、それこそ結果的に、それで良かった。
だけれども、そうして秋弥が取り戻したリコリスの記憶は、悠久の時を生きた高位隣神"彼岸の花姫"としての、ほんの刹那でしかない。
だからこそ秋弥は、リコリスの過去を識る者を探していたのである。
「それにしても、君たちは実に興味深い存在だな。世界の観察者たる私にしても、寡聞にして識らないことはまだまだ多いということか」
本当に人間への敵対心を持ち合わせていないのだろう。
ウォッチャーは人間らしい苦笑を浮かべた。
「"彼岸の花姫"に訊ねたい。私のことも全く覚えていないのかね?」
「識らないわ」
リコリスに即答されたウォッチャーは、予想通りに、しかし僅かばかり寂しそうに頷いた。
「今はそうだろうな。久しぶりに会えたというのに残念なことだが、それも致し方あるまい」
「ウォッチャー」
警戒心を和らげた秋弥が"観察者"の名を呼ぶと、男が顔を向けた。
「お前が識っている限りの、リコリスの過去について教えてほしい」
「秋弥様?」
リコリスがキョトンとした表情で秋弥を見上げる。
秋弥はずっと、このときが来るのを待っていた。
いつかリコリスの過去を識る者が現れたとき、リコリスが自分のために失ってしまった全てを取り戻すためのきっかけになるはずだ、と。
「潜在する意識――無意識に対する刺激か。試してみる価値はあるだろうな」
「協力してくれるか?」
「……私は出来事や物事を主観的に語ることはほとんどしないのだが――他ならぬ"彼岸の花姫"のためならば喜んで協力しよう。……さて、それではどこから話し始めたものだろうか……」
今日このとき、"観察者"という存在に出会えたことは幸運だった。
これだけ近くにいても未だ微弱にしか感じ取れない干渉圧を察知できたのは、母親が開発した極小の立方体――『コア・ルミナスキューブ』が異層領域の存在を感知してくれたおかげかもしれない。
秋弥は心中で母親に感謝しながら、ふと左腕のブレスレットに視線を移した。
そこに取り付けられた『コア・ルミナスキューブ』は――無色透明だった。
「……っ!?」
秋弥はこの瞬間まで、二日前の夜に『コア・ルミナスキューブ』が反応したことと"観察者"との邂逅は関連のあることだと信じて疑わなかった。
しかし、もしもそれらは全く別の事象で、何の関係性もなかったとするならば?
そして、下げた視線はそれを見た。
ウォッチャーの、人間でいえば心臓部分から無造作に生え出た、一本の腕を――。
『ようやく見つけたぜ……』
ウォッチャーの背中から胸へと貫通した腕が、突如として蒼白い炎を纏って燃える。
それを認めたときには、秋弥はリコリスに腕を引かれて後方へと飛び退いていた。
少し遅れて蒼白い炎がウォッチャーの胸から手足へと瞬く間に伝わり、彼の全身を包み込んだ。『コア・ルミナスキューブ』に閉じ込められた光が無色透明から淡い橙色へと変化していたが、秋弥とリコリスがそれに気づくことはなかった。
『人間の真似をしてコソコソと隠れやがってよォ……おかげでずいぶんと手間取っちまったじゃねぇかァ』
自立できずに前のめりになったウォッチャーの身体から腕が抜ける。支えを失ったウォッチャーの身体がドサリと音を立てて地に伏した。全身を包む蒼白い炎は生き物のように纏わり付いて離れなかった。
蒼い炎でウォッチャーを燃やした何者かは、俯せで倒れたウォッチャーの背中を足裏で踏みつけると、満足そうに口の端から炎を吐き出しながら笑った。
『ハハッ、だがこれで邪魔者が始末できたなァ!』
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いったい何が起こったというのか。
ウォッチャーが殺された?
誰に?
何故?
いつの間に?
どうやって?
――秋弥様!
「……ッ」
突然の出来事に思考が混乱しかかっていたが、リコリスの声が脳内に響いたことで、秋弥は今すべきことを思い出した。
装具『蒼のクリスティア』を召喚して構えると、自らの肉体を強化するための術式を即座に構築し始めた。
『"観察者"だとか言って人間なんかに肩入れしてっから、こんな無様なことになったんだぜ! そこんとこ、キチンと理解してるのかァ、このクソジジイがよォ!』
男は足を振り上げて、倒れたまま動かないウォッチャーの背中を何度も何度も踏みつけた。そのたびにウォッチャーの全身を覆っている蒼白い炎から火の粉が舞い上がった。
『ハハハハハッ! 実際のところよォ、クソジジイもいつかはこうなることがわかってたんじゃねぇのかァ? なぁ、おい、何とか言えよ?』
男は踏みつけるのを止めると、今度はウォッチャーの身体をつま先で蹴り飛ばした。
『ンだァ? 死んだかァ? もう死んじまったのかァ? ハハハハハハハハハ!!』
狂気の笑い声が木霊し、身の毛もよだつような恐怖心が秋弥の全身を駆け回った。
突如として現れたこの男から感じる干渉圧が、否応無しにその強さを証明していた。
『ハハ、ハハハハハ……あァ?』
"観察者"という存在から単なる炭へと変わったモノを踏みつけたまま、男の視線がついにこちらへと向いた。
『……んん? おぉ!?』
炎を宿した鋭い眼光で見詰めるその先には――、
『お前、"彼岸の花姫"じゃねぇのか?』
(まさかコイツも!?)
リコリスの表情が、微かにだが動揺したように揺らいだ。そして秋弥もまた、こうも続けざまにリコリスを知る者と邂逅したことに、動揺していた。
装具をしっかりと握り直して、動揺を無理矢理抑えつける。
『んだよ、一瞬誰だかわからなかったぜ、"彼岸の花姫"。しっかし、なんだよその見てくれはよォ。すっかり縮んじまってるじゃねぇか』
逆立った赤毛の髪が炎のように揺らめく。男はリコリスの全身をじっくりと眺めた。
『誰よ、貴方』
リコリスが睨み付けると、男は目を丸くした。
『はぁ? お前、まさか俺のことを忘れちまったのか? おいおい、冗談にしてもそりゃないぜ』
男は手で顔を覆って笑った。そうして一頻り笑い終えると、表情を殺した顔でリコリスを見返した。
『……本当に、覚えてねぇのか?』
『知らないわよ。それに、興味もない』
男の口ぶりからして"観察者"と同じようにリコリスの古い顔見知りのようだったが、過去の記憶を忘却してしまっているリコリスの返事は素っ気ないものだった。
『ハハ、なんだよ。もうよくわからねぇぞ……』
そんな事情を知らない男は、空を仰いで乾いた笑い声を上げた。そして首をガクンと傾けて、顔を秋弥へと向けた。
『まあいい……それよりもお前だ』
続く言葉は――、
『どうしてお前が……殺したはずの九槻月姫までいるんだァ?』
登場人物紹介を更新しました。
・九槻秋弥
・リコリス(「その他」から「隣神」に移動)
・ウォッチャー




