第74話「すべては斯くも唐突に(1)」
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四校統一大会五日目、競技は大詰めを迎えつつあった。
花形競技である『神の不在証明』を残して、本日で他の競技はすべて終了となる。
まずは午前十一時から、予選トーナメントを勝ち上がった六名三ペアによる『二体一対』の決勝戦が第二演習場で開始される。
その後、昼休憩を挟んで午後二時半からは、第一演習場で『螺旋の球形』の決勝戦が行われる。
会場設営の都合もあって、時間的には重なっていないものの両方の競技を観戦する場合には『二体一対』の競技終了後、すぐに移動しなければならない。だが五日目にもなれば観客たちも会場の移動に慣れたもので、歩きながらでも食べることのできる簡単な食べ物を手にして、『二体一対』の考察や『螺旋の球形』の結果予想を話題にしながら歩いていた。
「トキトウは期待を裏切らないよね」
決勝戦のために用意した競技服に袖を通しながら、スフィアは悠紀から『二体一対』決勝戦の結果を聞いていた。
「時任君の場合は期待だけじゃなくて、予想も裏切らないけどね」
「確かにそのとおりだ」
軽口を言い合いながら笑い合う二人を、聖奈が少し離れたところで眺めていた。
「だけど、『二体一対』で先に時任君たちが優勝しちゃったから、貴女も少しはプレッシャーを感じたのではないかしら?」
悠紀は背中に手を回してファスナーを上げようと四苦八苦しているスフィアの背に回ると、彼女の代わりにファスナーを持ち上げた。ボディラインを殊更強調するような素材で作られた競技服のためか、胸の後ろあたりに差し掛かると窮屈そうに反発したが、悠紀は顔を微かに引きつらせながら力を込めてファスナーを閉めようとした。
「痛い! ユウキ、痛いよ!」
「痛いのは今だけよ!」
「い、いや違うね。この圧迫感は今だけでは済まないね!」
「あ・ら・そ・う・で・す・か!」
「ああそうか、これがプレッシャーというものなんだね! わかった! それならワタシはこの痛みを甘んじて受け入れるよ!」
ああ言えばこう言うような言葉の応酬を繰り返しながら着替えを終えると、外で待たせていた秋弥を部屋の中へと呼び戻した。
「お待たせ、シュウヤ。どうかな、この服」
制服からライディングウェアに似た競技服に着替え終えたスフィアが、それを見せつけるように秋弥の正面に立った。
「ッ……!?」
秋弥は思わず目をそらす。
日本人離れしたプロポーションのスフィアがライディングウェアのような服を着ると、日本人離れしたスラリとした長い四肢や豊かな胸、引き締まったウェストのくびれがハッキリと見てとれるので、思春期の男子としては目のやり場に困ってしまう。
『螺旋の球形』においては身体にぴったりと合った服装の方が動きやすいのは確かだが、まさかこの格好のまま競技を行うのだろうか。せめてジャケットを羽織るか、着脱式の不透明なスカートを身につけてほしいものだが……。
「おやおや、ワタシの艶姿に見とれて言葉も出ないのかな」
「……はい」
僅かに赤面しながら秋弥がそう答えると、してやったりと良いように得意げな笑顔をスフィアは見せた。
「ははっ、初々しいね。だけど、競技が始まる前にはこのあたりにスカートを着けてしまうから、この格好が見られるのは今だけだよ」
自分の腰を指し示しながらスフィアが身を捩る。
そのスカートとやらは聖奈が両手で抱きかかえるように持っているものだろうか。不透明どころかほとんど反対側が透けて見える上に、その生地のボリュームからしてミニスカートではなかろうか。
秋弥は小さく嘆息しながら、改めてスフィアの表情を伺い見た。
つい先ほど第二演習場で行われていた『二体一対』の決勝戦が終了し、多くの観客たちが第一演習場へと集まりつつある。
壁に耳を当てていたわけではないが、外で待機していた秋弥の耳には、中での会話が断片的に聞こえていた。
『二体一対』の結果を聞いて、スフィアにもプレッシャーに感じている部分が少なからずあるのではないだろうかと思っていた。
だが、そんな気遣いはどうやら無用のようだった。
他人は他人、自分は自分と言いたげに自信で満ちあふれたスフィアの表情を見てしまえば、こちらまで不思議と安心感を覚えてしまう。
それからしばらく、四人で他愛のない話をした。
競技の開始十分前になると、秋弥と聖奈、悠紀は作戦スタッフ席に、スフィアは競技場に移動するため、部屋を出た。
「それじゃあまた、第一クォーターの後でね」
「うん、またね」
休み時間の間に別のクラスから遊びに来ていた友人が、休み時間の終わりとともに去っていくような気軽さで、スフィアは決勝戦の舞台へと臨んでいくのだった。
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第二クォーターも終盤に差し掛かっているが、巨大な球の表面を華麗に舞う三名の代表選手たちの表情に、疲れの色はまだ表れていない。
それに、印を失った選手はいるものの、脱落した選手はまだ一人もいない。
決勝戦に進出した他校の選手たちはいずれも運動部に所属しており、十分な技量と体力を有していることは疑いようもない。むしろ、その中に混ざっていても何の遜色もないスフィアが特出していると言えるだろう。
その様子を作戦スタッフ席から眺めていた秋弥の脳裡に、直接語りかける声があった。
――見つけた。
彼にだけ聞こえる声――リコリスの声が脳裡に響くと同時に、秋弥は眼を伏せて意識と感覚を沈めた。
――何処だ。
――あっち。干渉したのは一瞬だけだったけど、もう覚えた。
リコリスと感覚を共有した秋弥が彼女の示した方向を見詰める。
満員の観客席におかしな様子はなく、秋弥には領域干渉の痕跡を感じ取ることができなかったが、エリシオン光波長の感知能力に長けたリコリスにはハッキリと掴めているようだ。
「秋弥君、どうかしたの?」
すると、右隣から悠紀が怪訝そうな顔を覗かせた。いくら星条家の跡継ぎ候補であっても、リコリスが感知したという何者かの存在には気づいていないようだった。
「……いえ」
そのことを言うべきか迷った秋弥であったが、僅かな逡巡の後で首を左右に振った。
干渉行為が一瞬だけであったことから、観客席にいるらしい何者かは現層に対して何らかの危害を加えようとしているのではないのかもしれない。
それならば、出来る限り穏便に事を済ませたい。
自分たちがいるのは他校の自治会役員たちも集まっている作戦スタッフ席だ。自分だけが離席するならまだしも、悠紀まで一緒に離席してしまえば明らかに目立ってしまう。
だから秋弥は一人で――否、リコリスと二人で観客席の方にいる存在と立ち向かうべく、席を立った。
「すみません、会長。少しの間席を外します」
「それは構わないけれど、何処へ行くの?」
「それは……」
答えられない。
答えに詰まってしまった秋弥を不審に思った悠紀が眉根をひそめた。
「もしかして、何か見つけたの?」
「……」
「どうかしたのですか?」
悠紀の隣では聖奈が何事かと首を傾げている。今はまだ競技の方に意識が向いているから良いが、このままでは他の学生たちまでもが自分たちの方に注目してしまうことだろう。
聡明な悠紀もすぐにそのことに気づいたようだった。諦めたように視線を下に向けてから、力の籠もった瞳で秋弥を見上げた。
「……いいわ、行きなさい。だけど、絶対に無理はしないで。貴方の身の安全を最優先に考えなさい」
「……はい」
秋弥も力強く頷いてから、悠紀に背を向けて駆け出すと作戦スタッフ席から関係者用通路へと飛び出した。
――リコリス。絶対に居場所を見失うなよ。
――うん!
場所ではなく存在そのものを感知しているリコリスに一応の念を押すと、秋弥は誰もいない関係者用通路を走って観客席の方へと向かう。途中で数度、リコリスに方角を確認しながら経路を調整し、最終的に一般用通路を抜けて観客席の南側最上段に出た。
――いたよ!
意識することでリコリスと感覚を共有した秋弥にも、今ならば薄ぼんやりとだがわかる。
視界の左前方。
立ち見客のために手すりが設けられた通路に立ち、競技フィールドに視線を向けている初老の男性がいた。
――あぁ、間違いない。こいつだ。
男性は自分の擬態が完璧なものと思い込んでいるようだ。近くで人の往来があっても気にした風もなく、男性の瞳は巨大な球体の表面を舞い踊る選手たちに見入っていた。
実際、男性の纏う干渉波――突き詰めれば存在を定義している証明光波は、人間の固有振動パターンと限りなく同じように感じる。一般人は論外として、第一線で活躍する封術師であったとしても、この者が人間ではない存在であることを見破れないだろう。
しかし、彼我の距離が十数メートルともなれば、リコリスの力を借りた秋弥の感覚は誤魔化せない。
秋弥は一般人も多い観客席であることを意識して装具こそすぐには召喚しなかったものの、十分に用心して男性に近づいていった。
そして男性の背後までゆっくりと近づくと、身体の影に入るところで装具を召喚した。
『動くな』
実体化させた小型の装具を背後から突きつけながら、秋弥は思念言語による会話を試みた。
これほどまでに人間そっくりに擬態できる隣神なのだから、高位の隣神であることは間違いない。それならば多少なりとも会話も成立するはずだ。
『……おや?』
少しばかり嗄れた、年季の入った声が脳内に直接響く。
僅かに驚いた様子を見せた初老の男性は、その場から一歩も動かずに顔だけをこちらに向けて、再びの驚愕に眼を見開いた。
『ほぅ……まさか、この私が人間に見破られてしまうとはな。……ん? いや、これは――』
『答えろ。ここで何をしている』
感情を抑制した声音で秋弥が言うと、初老の男性は危機的状況にも関わらず、口元をつり上げて笑みを浮かべた。
『面白い、実に面白い質問をする。私がこの場所で何をしているかと、君はそう問うのだな』
秋弥よりも背の高い男性は、質問を繰り返しながらおもむろに振り返った。そのときになって秋弥は握った手が装具を掴んでいないことに気づいてハッとした。
『決まっている。君たちと同じように私も観ているのだよ。君たち、人間をね』
それは何処か似通っていて、その実、何かが決定的に間違っていると感じざるを得ない答えだった。
否――それでも根本的な部分では同じことなのか。
観客たちは四校統一大会を観に来ている。それは大会期間中に行われる競技を観ているということであって、それは競技を行っている選手たちを――つまりは人間を観ているということに他ならない。
『よもやこのような状況に陥ることは想定していなかったのだがね。……仕方がない、場所を移そう。いくら互いに思念言語を用いているとはいえ、このような場所では話しづらいこともあるだろう』
そう言って初老の男性は勝手に話を進めると、秋弥を警戒する素振りすら見せずに観客席の出口へと向かって歩き出した。
――秋弥様! あいつ、行っちゃうよ!?
――あ、あぁ……。
余裕に充ち満ちた態度を見せる初老の男性から格の違いを感じて気圧されてしまった秋弥であったが、リコリスの声を聞いて我に返ると、すぐに男性の後を追いかけた。
黙って前を進む男性の姿を、秋弥は後ろから眺める。
燕尾服にシルクハットという出で立ちでどこかレトロな雰囲気を漂わせている男性の姿はどう見ても人間であり、また、彼の纏う干渉波も人間と何ら変わらない。
しかしながら、隙だらけで前を歩いている男性の背に向けて、もう一度装具を突きつけることなど考えられなかった。
――どうするつもりなの、秋弥様?
――とりあえず、今は言うとおりにしよう。人目のあるところから離れてくれるなら、こっちとしても都合が良いからな。
秋弥と男性は一定の歩調で一般用通路を歩く。その間も秋弥は常に目の前の男性が不審な行動をしないか注意深く睨み付けていた。
『あぁそうだ』
すると、不意に男性が立ち止まって振り返った。
男性との距離を不用意に詰めないように秋弥も立ち止まったが、警戒心をむき出しにした秋弥に構わず、男性は一歩、二歩と距離を狭めると、視線を秋弥ではなく、彼の左隣に向けた。
『そこに隠れているのは、いったい誰かな?』
――えっ……?
男性が無造作に伸ばした右腕が空間の中へと消えていくのと、リコリスが声を上げたのはほとんど同時だった。
その突然の出来事に反応が遅れてしまった秋弥が立ち尽くしていた一瞬の間に、空間の中へと消えた腕が何かを掴んで戻ってくる。
「やっ! 離して!」
「……リコリス!?」
何もない空間から引っ張り出された幼い少女の姿を認めて、秋弥は思わず叫んだ。
異層領域下に身を潜めていたリコリスが、男性の手によって現層へと引きずり出されたのである。
(マズい!)
リコリスが本来有している領域干渉力は尋常ではない。それを最小限に留めることなく現層世界に顕現してしまえば、大会を観に来ている多くの封術師たちにリコリスの存在を感知されてしまうだろう。こんな場所でそうなってしまえば、昨年の封術事故以上の大事となることは明らかだ。だから、それだけは何としてでも防がなければならない。
秋弥の思考が直接伝わったリコリスは、完全に顕現する前に、現層世界に存在するための干渉力を秋弥のものと同調させることに成功した。
人間と同等の干渉力を纏ったリコリスが現層世界に顕現すると、男性は掴んでいたリコリスの細腕を離した。
途端、リコリスは弾かれたように飛び退き、秋弥に寄り添うように地面にふわりと降り立った。
「リコリス、大丈夫か?」
「うん……だけどこの男、いったい何者なのよ」
リコリスが刺すような眼差しで睨み付けるが、男性はそれを意にも介さず、口元に指を当てて興味深そうに彼女を下から上へと眺める。
『おや……これは、何と……』
深い赤のワンピース。目も眩むような金色の長い髪。ガーネットよりも鮮明な紅の双眸をじっくりと観察した男性は、秋弥に己の存在を知られたとき以上に衝撃を受けたような表情を見せた。
『ずいぶんと容姿が変わられてしまっているが……まさかこのような場所で"彼岸の花姫"にお会いできるとはな』
『なっ……"彼岸の花姫"のことを知っているのか!?』
"彼岸の花姫"。
それは、今はもう失われてしまった、リコリスという存在を世界に定義していた名前だ。
老紳士が静かに頷くのを見た秋弥の身体は、抑えきれない興奮で震えていた。
ようやく……ようやく出会えた。
あの日から六年――秋弥は自分以外にリコリスを知っている者を、ずっと探していた。
封術師となるための技術を独学で身に付けながら――。
浅間総一郎の仕事の手伝いをしながら――。
封術学園に入学し、学生自治会役員となって課外活動に参加しながら――。
ずっと探し求めていた存在が、ついに現れたのだ。
『しかしこれは……ふむ、どうやら何か複雑な事情があるようだな』
『あ、ああ……』
『なるほど、実に興味深い。君たちに訊ねたいことはいくつかあるが、いつまでも立ち止まっていてはいけないな。……"彼岸の花姫"が共に在るのなら問題ないだろう』
そう言って、男は上げた腕を下ろした。
たったそれだけでの動作で、秋弥は眩暈にも似た感覚を覚えた。
ぼやけた視界の中で、周囲の景色が紙芝居のように切り替わっていった。
登場人物紹介を更新しました。
・朱鷺戸綾
・沢村堅持
・葛城俊輝