第54話「お泊まり会(中編)」
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花鶏水凜と想定外の一戦を交えたからというわけでもないが、秋弥は客室から大浴場までの道程を全く覚えていなかった。
それでも行きと同様に帰りも桃花が案内役を務めてくれるのだから、そもそも最初からその必要はないのだ。それに、もう二度と訪れることはないだろうから——。
「それでは、私はこちらで待機しておりますので、どうぞごゆっくりしてください」
そう言って男性用の大浴場前で立ち尽くす桃花は、廊下に生えた樹木のようだった。秋弥が帰り道を覚えていて、先に戻っていても良いと言ったとしても、頑として動くことはないだろう。それが彼女の職務であり日常なのだから、秋弥が介入すべきことではない。彼にできることは心の中だけで、早めに風呂から出てこようと思うことだけだった。
秋弥は大浴場前の脱衣所で衣類を脱ぐと、シャワールームで身体や髪に付着した埃を洗い流してから、彼ひとりのためだけに貸し切られた、誰もいない浴場へと入った。
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秋弥はひとり、湯船の中で腕や足を伸ばす。
残暑が厳しい季節であっても、湯船に浸かるという行為はそれだけで身体の中の悪いものが抜けていくような気がして、気持ちが良い。
身体の力を抜くと湯船の縁に後頭部を当たる。そのまま浴場の天井を仰いだ。
そこに何があるということでもないが、これもリラックスの一環だ。
明日には他学園の学生自治会役員たちと顔合わせを行い、その翌日には大会出場選手も会場入りを果たす。そして七日間にも及ぶ四校統一大会が開催され、最終日には出場選手たちと役員たちによる懇親会が行われる運びとなっている。
スケジュールだけを見ると多忙にも思えるが、実際にはどうなのだろう。統一大会には封術協会からのスタッフも派遣されてくるので、自治会役員がそこまで忙しくなるということもないように思える。むしろ、これまでの三週間が烈火の如く忙しかったのだ。そう考えると、たまにはこうして羽を伸ばす機会も必要だと思える。
秋弥はゆっくりと息を吸い、吐き出す。
すると、身体が湯に溶け出すような不思議な感覚を得る。
瞳を閉じると、秋弥の意識はゆっくりと乖離していき、ふわふわと宙をたゆたう。
途端、渦巻く奔流が秋弥の胸のうちから沸き上がってきた。
これは『星の記憶』。世界を構成する根源の要素にして『すべての答え』を記す概念だ。
秋弥の内にある『意』が解放されて、彼の意識と『星の記憶』とを繋ぐ。
だが、膨大な情報が秋弥の意識に押し寄せてくることは決してない。彼の意識が自分に関連のある情報だけを選別して通しているからだ。
思い出されるのは、あるひとつの想いだった——。
月姫を巻き込んだ封術事故から、もうすぐ一年が経とうとしている。
月日が経つのは早いものだ。
だが、あの事故の原因は未だ何一つ解明されてはいない。
もしかすると本当に、単なる封術事故だったとでも言うのだろうか。
秋弥は別の方向に記憶の糸を辿る。
自治会室で昨年の大会記録を分析していたときに、秋弥は『神の不在証明』女子の部決勝戦で月姫の対戦相手だった鷺宮封術学園の選手の名前と、封術事故後の経過観察記録を発見した。
対戦相手の名前は榊瑪瑙。記録によると、肉体的な怪我は全身の打ち身程度で済んだということだった。だが、封術の暴走によって彼女の無意識領域内で過剰演算が行われた結果、彼女は重度の精神錯乱状態に陥ったという。しかしそれも、現在では幾分平常に戻っており、普段どおりの生活が行えているということだった。
ただ、無意識領域に強い負荷を受けた代償として、彼女は月姫とはまた別の理由によって、封術をほとんど扱えなくなってしまったようだ。
それでも彼女は現在、封術学園の第四学年に進級しており、順調にいけば二年後の三月には封術学園を卒業することだろう。封術師——とりわけ封魔師として生きていくことはもはや絶望的と言えるだろうが、三年生の時点で鷺宮封術学園の代表選手として『神の不在証明』の決勝戦まで上がってきたほどの実力者だ。卒業後は封術研究の道を志しているのかもしれない。
今年の四校統一大会を観戦しに来るようであれば話くらいは聞いてみたいものだな、と秋弥が考えていると、不意に入口の方から音が聞こえてきた。
横開きの扉を開く音だ。
続いてお湯で濡れた床面を叩く足音がひとつ。
秋弥は浮遊していた意識を身体へと戻して、もたげていた頭を起こした。
悠紀の話では一時間ほど貸し切りだということだったはずだが。いくら道中で余計な時間を取られたからといって、浴場で考え事に耽っていたからといって、まだそれほど時間は経っていないはずだ。
とはいえ、他の誰かが浴場に入ってきたところで、秋弥にとってはさしたる不満もない。むしろ身に余るほど広い浴場を一人で占有していたことに罪悪感すら覚えていたほどなのだ。
無論、事前に悠紀から説明があったとおり、この浴場は星条家に関わりのある者のみが利用できる浴場だということを秋弥は忘れてはいない。向こうにしてみれば、見知らぬ子供が我が物顔で浴場を占有していたら、間違いなく不審に思うことだろう。たとえ悠紀の名前を出したところで、水凜のように聞き分けのない相手だったら問題だ。だが、その可能性が少しでもあるならば、浴場前で今も待機しているはずの桃花が止めたはずだ。ならば、この相手は悠紀の学友が浴場を利用していることを知った上で、わざわざこの時間帯を選んで入浴しにきたということになる。
ならば、その意図は何か——。
さまざまな考えを巡らせていた秋弥だったが、その人物は秋弥の存在をまるで気に留める様子もなく、一分の迷いのない足取りで湯船へと近付いてくると、つま先からゆっくりと湯船に足を入れた。
肩までしっかりと浸かった後で、その人物は湯船の縁に両腕をかけると、先ほど秋弥がしたのと同じように大きく息を吐き出した。
「ふー……良い湯だなぁ、極楽極楽。なあ少年、君もそう思うだろう?」
突然話しかけられた秋弥は軽く目を見張った。だが、それよりも彼が驚いたのは、その人物の顔に見覚えがあったからだった。
「……え、えぇ、本当にそう思います」
言い淀みながら湯船の中で居住まいを正した秋弥に、
「おいおい、ここは浴場だぞ、少年。私に構わず、もっと楽にして良い」
その人物——星条家の現当主であり、現代最強の封術師の一人に数えられる星条帝は、ガハハハと豪快に笑った。その声は大浴場内で大きく反響して秋弥へと耳に届いた。
「しかし、よもやアレから頼み事をされることがあるとは、夢にも思わなんだ」
帝は親指と人差し指を顎に宛がった。生やした髭を撫でながら、秋弥の顔を正面から見据える。
「少年、九槻秋弥と言ったな。君は、アレとはどんな関係なのかね?」
アレというのは十中八九悠紀のことを指しているのだろう。
悠紀の父に当たる星条帝が何を勘繰っているかは知らないが、秋弥にとっては探られて痛い腹ではない。そこにいるだけで強烈な干渉圧を放っている最強の術者に対して、秋弥は気圧されないように湯船の底にしっかりと座ると、気丈に応えた。
「会長とは学生自治会の先輩後輩で、それ以上の関係でもそれ以下の関係でもありません」
「フム……、そうかね。しかし、私の聞いた話では、君は装具選定で顕現してしまったクラス4thの隣神を、たった一人の力で斃したそうじゃないか。私にとっては、そしてアレにとっては、それだけでも十分なほどに君がタダ者ではないことがわかってしまうのだよ」
帝の鋭い眼光が秋弥の視線と交錯した。その瞬間、秋弥は引きつりそうになった表情を必死に保つための努力をしなければならなくなった。悠紀だけでなく星条家の当主からも一目置かれたという事実が額面どおりの意味合いだったとしても——もしもここで秋弥が少しでも不審な挙動を見せれば、目の前の封術師はたちまち彼の秘密を看破してしまうのではないかと思えてならなかった。
秋弥は表面上だけでも平常心を保つために、帝に対する警戒心を一層高めながら、堂々とした居住まいで湯に浸かる帝と向き合った。
「おっと、そうだった。それよりもまずは、私の娘を助けてくれたことに対して礼を言うべきだったな。ありがとう、少年。奈緒が今日まで無事にいられたのは、君のおかげだよ」
だが帝は秋弥のそんな心持ちなどお構いなしに、何事かを思い出したようにそう言って軽く頭を下げた。その突飛な行動に拍子抜けしてしまった秋弥は、呆けたようにぽかんとした表情で帝を見返した。
「いやはや。奈緒はアレと違って本当に手のかかる娘というか……否、アレが手のかからなすぎる娘なのかも知れないがね。全く、今更ながら、奈緒にもちゃんと封術を学ばせておくんだったと反省しているよ」
右手で後頭部をボリボリと掻く帝に、秋弥は言い知れぬ違和感を覚えていた。
違和感の正体——それは星条帝が星条奈緒の事を「奈緒」と呼び、星条悠紀のことを「アレ」と呼んでいることだ。
そういえば夏休みに悠紀から連絡があったときも、彼女はあまり実家に帰りたくなさそうな様子を見せてはいなかっただろうか。
どうやらそこには、他人が安易に踏み入ってはいけない深い事情がありそうだった。
「その件がきっかけになっているかはわからないが、奈緒は君のことをたいそう気に入っているようだ。つい先刻も奈緒は私の書斎に来て、君の話をしていったのだよ。全く、年頃の娘が父親に向かって同年代の異性の話をするなど……父親としては娘との仲を勘繰らないわけにはいかないだろう?」
「それはまあ……そうかもしれません」
秋弥が曖昧な声で応えると、帝は再び髭を撫で回した。
「そうだろう? だから私はこうして娘が入り込めないこの場所で、君と二人で話をしているのだよ」
つまり、何が言いたいのか。
「率直な答えを聞きたい。君は奈緒のことをどう想っているのかね?」
一歩前に乗り出すようにして帝が顔を寄せてくる。最強の封術師の顔がその瞬間、年若い娘を持つ普通の父親の顔に見えて、秋弥は自然と表情を緩めた。緩めながら——、
「——奈緒とはクラスメイトで友達です。それ以上の感情はありません」
秋弥もまた、真っ向からハッキリと応えた。
この言葉で帝が安堵の表情を見せるか、それとも落胆の表情を見せるか。それによって彼が何を考えているのかわかるだろう。
しかしそれは、一般庶民の考えに過ぎなかった。
帝は乗り出していた姿勢から一転、湯船にどっしりと腰を落とすと、「そうか……」と低い声で言った。
「ならばどうだね、少年。『星鳥の系譜』に加わってみる気はないかね?」
「…………はい?」
突然何を言いだしたのだろうか。
秋弥は帝の放った言葉の意味を理解することができずに、キョトンとした表情を見せる。
「奈緒と同じ年齢にしてクラス4thを単独で斃す実力。模擬戦とはいえ鶴木のところの若造を負かしたという技術。それらは間違いなく本物だ。努力以上の才能だと言い換えても過言ではない。そして君は、アレと同等かそれ以上の力を持つ≪矛盾螺旋≫九槻月姫の弟なのだろう」
それならば、と声が反響する。
「それならば、申し分ない」
そう語る帝の言葉は、相変わらず淀みない。
一方秋弥は帝の話に付いていけず、目を白黒させた。
「残念ながら、次代の『星鳥』を束ねるアレには許嫁が既に決まっているが、君が奈緒と少なからず親しくしている間柄で良かった。おかげで多少の手間が省けたというものだ」
「……えっと、あの」
秋弥は困惑を言葉で表現しようとしたが、それよりも早く、帝が結論を述べた。
「少年、奈緒を嫁として星条家の婿養子となり、『星鳥の系譜』に名を連ねてみる気はないかね?」
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星条帝——何という男だ。
秋弥は脱衣所で脱いだ服を着直すと、足早に廊下へと出た。
「どうかなさいましたか、九槻様」
「……いいや」
そのときの自分は、いったいどんな表情をしていたのだろう。
秋弥は桃花からの問いかけに短い答えを返すと、桃花が続けて何かを問う前に廊下を歩き始めた。桃花は戸惑いの表情を浮かべたまま彼の背中を追いかける。
先に歩き始めた秋弥にすぐに追いつき、黙って彼のやや後方に付き従う桃花。星条家の使用人である彼女がこの時間帯の秋弥以外の入浴を認めたのは、この本邸で悠紀以上の権力を持つ人物が相手だったからだろう。そのことで桃花を責めることはできないし、そのつもりもない。彼女はただ自身の職務に対して優先順位を付けたにすぎないのだから。
そしてそれは、星条帝にしても同じことだった。
血縁によって繋がりあう『星鳥の系譜』——その頂点に君臨する星条家の当主にとって、優先すべきは娘の心情よりも質の良い才能を持つ封術師の血統を得ることだったということだ。
十三家のほとんどがそういった慣習を持っていることを秋弥は知識として既に知っていたはずだった。しかしそれは自分とは全く関係のない、どこか遠くの場所での話だと思っていた。そんな思いが少しでもあったからこそ、実際にそれを突きつけられたとき、彼にしては珍しくも憤りを感じずにはいられなかったのだった。
桃花は一定の足取りで廊下を進んでいく秋弥の様子をチラチラと窺っていた。少年の表情はかすかに強張っている。
いったい、何があったのだろうか。
そう思うものの、秋弥が表情を強張らせている理由についてはある程度察しが付いていた。
彼が大浴場を利用するタイミングを見計らったかのようにして星条家の当主が現れた。その行為が単なる入浴を意図したものでないことは明々白々だ。
それではいったい、どんな話が大浴場で行われたというのか。
——強いてあげるなら奈緒お嬢様のクラスメイトであり、悠紀お嬢様が会長を務める学生自治会の役員だということくらいでしょうか。
影のようにぴたりと付いて歩きながら、桃花は思考を巡らす。
疑問はある。しかし、ただの興味本位で尋ねるわけにもいかない。この少年は星条家直系の血族である悠紀と奈緒の学友であり、星条家の客人だ。使用人の身分である彼女にとって、それは出過ぎた真似なのだった。
しかし、使用人という立場であるからこそ得られたヒントもあった。
それは今より少し前のこと——秋弥と花鶏水凜が装具を交えたときのことだ。
わずかコンマ以下の出来事だったが、桃花は確かにその瞬間、秋弥が血のように深い紅色の装具を召還したところを見た。
——水凜様の装具を弾いたあの剣から感じた力は、尋常ではなかった。
おそらく装具を交えた水凜は自分以上にその力を感じていたはずだ。その後、彼に拘束された水凜が急に大人しくなったのは、抵抗することの無意味さを感じたからなのではないかと、桃花は内心で思っていた。
だからこそ、桃花は思う。
星条家の現当主が、秋弥の秘められた才能を見抜けないはずがないと——。
そしていつしか桃花自身も気付かぬうちに、目の前の少年について興味を持ち始めていた。
思えば、普段は悠紀と奈緒の身の回りの世話をしている自分に、今日一日だけのこととはいえ、この少年の面倒を見るように告げたのは悠紀だった。ならば、そこに何かしらの思惑が——あるいはそれ以上に大きな何かが隠れているような気がした。
結局秋弥は一度も道を間違えることなく、己の記憶だけを頼りにして客室まで戻ってくることができた。
客室の並ぶ廊下へと至る最後の角を曲がったところで、秋弥は自分に割り振られた部屋の前に立つ女の子の姿に眼が留まる。
足音に気づいたのか、女の子が視線をこちらへと向いた。
「あっ……」
夕食の席で顔を合わせたときよりも幾分沈んだ表情の奈緒が、秋弥の姿を認めて音にならない声を漏らした。
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頭を下げて使用人の控え室に戻ろうとする桃花に道案内の礼を言った秋弥は、客室のドアを塞ぐようにして立っている奈緒に視線を戻した。
奈緒は何かを言い出すでもなく、そわそわした様子でしきりにこちらの様子を窺っている。
その様子から、どうやら立ち話では済まないようだと察した秋弥は、自分の方からそう声を掛けることにわずかな躊躇いを覚えながらも、奈緒を部屋の中へと招き入れた。
奈緒はツインベッドの片側に腰掛けてから、見上げるようにして秋弥を見た。
「えっと、その……ごめんね」
「何の話?」
数時間前とは異なり、秋弥が奈緒と向かい合う形でツインベッドのもう片側に腰を下ろした直後のことだった。
急に謝られた秋弥は、それが何に対する謝罪なのかわからずに首を捻った。
「…………お父さんと遭ったでしょ」
「……ああ」
何処で、とまで言われなくてもわかる。浴場でのことだろう。秋弥は一応頷いておいた。
「たぶんそのときにお父さんが秋弥くんに変なことを言ったと思うけど……きっとお父さんは私のことを想ってそう言ってくれたんだと思うから、お父さんを許してほしいの」
「別に気にしてないから、大丈夫だよ」
奈緒の意味深な言葉には触れに、不安げな彼女を安心させるために口ではそう言っておきながらも、秋弥は思いだしていた。
浴場で星条帝から奈緒の婿にならないかと問われた秋弥は、一考することなく辞退した。
もちろんそれは、秋弥が奈緒のことを嫌いだからということではなく——当然そこには自分の気持ちも多分に含まれてはいたが、それ以上に奈緒の気持ちを考えてのことだ。
封術の根源が血脈や才能に大きく依存することは遺伝子学に基づいた研究結果により明らかとなっている。そして、封術社会においては親同士が決めた許嫁や特出した力を持つ者を婿養子として取り込むことが主流となっているという事実もある。
奈緒の父親を責めたところで、何も変わらないだろう。であればそこに無駄な労力を割くのは得策ではない。
「でもね……」
ベッドが沈む感覚とともに、不意に秋弥の隣に腰掛け直した奈緒が、ベッドに両手をついて秋弥に身を寄せてきた。
「私は、秋弥くんさえ良ければ……いいよ」
奈緒の顔が、吐息のかかりそうな距離まで近づく。
星条家の直系である奈緒は秋弥よりもずっと、封術社会の深いところにいる。父親と秋弥がどんな話をしたのか、見当が付いているのだろう。
秋弥は蕩けるように揺れる奈緒の視線とウットリとした表情から眼が離せなくなり、思考が麻痺しかける。そうして、部屋の中には自分と奈緒の二人しかいないということにも思い至った途端、胸の鼓動が高鳴った。
激しい動悸。
血が逆流していくような感覚と、時間が何倍にも引き延ばされたかのような錯覚を得る。
「…………」
「……」
「…………」
「……なんてね、冗談だよ」
ふっと、奈緒が身体を離した。引き延ばされた一瞬が、遅れを取り戻すように加速し始める。緊張が一気に緩和して身体中の力が抜けた。
秋弥はそのままベッドに背中から倒れ込みたい衝動に駆られた。しかしそれでは逆に襲ってくれと言わんばかりだったので(普通は逆なのだが)、秋弥は後ろに手を突いて身体を支えると、そうやって奈緒から身体を遠ざけたのだった。
「秋弥くんでも、動揺することがあるんだね」
隣で奈緒が小さく笑う。
「……俺を何だと思ってるんだ」
「んー……スーパーマンかな」
奈緒が冗談っぽく言うので、秋弥は乾いた笑みで応じた。
「でも、私にとってはヒーローかな」
しかし、冗談っぽい口調から一転。はっきりと感情の込められた言葉に、秋弥は怪訝な表情を奈緒へと向けた。
「装具選定のときのこと、覚えてるかな?」
六か月以上も前のことだが、忘れるはずもない。
「あのとき、波長障害で気を失っていた私を助けてくれたのは秋弥くんだったよね」
覚えている。だけど、あのとき助けたのは玲衣と綾、そして堅持の三人だけであって、秋弥が四人目の存在に気づいたのは助けに入った後のことだった。
今になってそのことを正直に伝えると、奈緒は一瞬寂しそうな表情を見せてから、首を左右に振った。
「うん、本当はそうじゃないかなって思ってた。でも、助けてくれたことには代わりないよね。それにね、今まで誰にも……お姉ちゃんにもお父さんにも話してないことなんだけど。私ね、少しだけ視ていたんだ」
理由はわからないんだけど、と奈緒は言う。
「私は綾ちゃんの結界の中で、気を失っている私自身を視ていたの。そこには沢村くんと玲衣ちゃんもいた。袋環先生は遠くでクラスの皆の避難誘導をしていたかな。あと、鶴木君が袋環先生と話しているのも視えたよ。それに、綾ちゃんの結界は隣神の攻撃から堪えるのに精一杯で、あともう少しで壊れてしまいそうだったのも、ね」
それはおそらく、奈緒が心象世界から戻ってきてから、秋弥が心象世界から戻ってくるまでの間の出来事で、彼の知らない出来事だった。
「皆がもうダメだって思って、私も私自身を視ながら、死んじゃうって思ってた。だけど、そこに秋弥くんが現れたんだ。調律の力でも封魔の力でもない、装具だけの力で隣神から私たちを護ってくれた」
奈緒は『視ていた』と言うが、これはどういった作用によるものなのだろうか。
秋弥はその現象が、学園の地下深くに存在する『マナスの門』による影響によって発生したものではないかと考えた。『マナスの門』は己の心象世界、すなわち意識そのものに繋がっている。奈緒が心象世界から戻ってきた時点で心象世界とのリンクは完全に切れるはずだが、門の通過中に気を失ったことでリンクの切断が不完全状態となり、結果として『マナスの門』を通じて意識だけがその場に乖離したのではないだろうか、と。
「あのときの秋弥くん、すごく格好良かったな。途中で視えなくなっちゃったからその後でどうなったかは覚えてないんだけど、目を覚ました後で支倉さんから、秋弥くんが隣神と戦って斃したんだよって教えてもらったんだ」
それからのことは秋弥も知ってのとおりだった。
そのときのことがきっかけとなって、こうして奈緒とも仲良くなり、日々を過ごしている。
「だからね、私にとって秋弥くんはピンチのときに助けに来てくれるヒーローだったんだよ」
えへへ、と奈緒ははにかんだように頬を赤く染めて笑う。
秋弥にとって奈緒を助けたというのは結果論に過ぎない。しかしそれでも、本人が意図しないところで物事は進み続けている。
物事の捉え方は千差万別だ。奈緒が秋弥に助けられたと感じているのならば、彼にそれを否定することはできない——主観が違えば感じ方が違うのは当たり前のことなのだから。
「ヒーローはちょっと恥ずかしいな。これでも一応、クラスメイトで友達なんだからさ」
「あはは、そうかもね。でもあのときのことがなかったら秋弥くんたちと仲良くなることもなかったかもしれないって考えると、私はあのときの私に感謝しなくちゃいけないのかも」
「それはずいぶんと命懸けだな」
「そうだね」
「だけどきっと、俺たちと奈緒はいずれ同じように知り合うことになっていたと思う」
「どうして?」
「たとえば奈緒が波長障害を起こさなくて、俺が隣神を斃さなかったとしてもさ。俺が何かしらの理由で学生自治会に入れば、会長を通じて奈緒と知り合っていたかもしれないだろ? それでなくても、天河のときみたいに玲衣を通じて知り合ったかもしれない。そもそも学生自治会や共通の友人なんてものは全然関係あgなくて、単にクラスメイトというだけで、普通に友達になっていたかもしれない」
「『情報体の可能性未来』だね」
『星の記憶』という概念から派生した考え方のひとつに、過去から現在までの情報を材料として導き出す予測された未来というものが存在する。それが『情報体の可能性未来』だ。
可能性未来は一個の情報体を中心とした無数のツリー構造から成っていると言われており、説明にはしばしば一本の大樹が用いられることが多い。
情報体の過去から未来までを一本の太い幹として、そこから無数に枝分かれする枝葉によって、情報体同士を関連付けている。さまざまな条件下によって現在の可能性は刻々と変動するが、大本となっている幹には大きな変動はなく、最終的には同じ結果へと収束していく——という考え方だ。
現状、秋弥が知っている限りでは封術協会により≪矛盾螺旋≫という固有の銘を与えられたただ一人の例外を除いて、可能性未来を観測した者はいない。科学的な証明がされていないオカルト性の強い眉唾な話ではあるが、仕組みはどうであれ、可能性未来が実在することを知っている秋弥にとっては一笑しにくい話でもあった。
「でもそっかぁ……、そうだよね。そういう可能性も、あったかもしれないね」
「どんな過程にしろ、今在ることが真実だよ」
「『封術師は目の前に在る事象を認めなければならない』だね」
それがどんなに有り得ない現象であっても、理解することから始めなければ、何も得ることはできない。
お姉ちゃんも良く使ってる言葉だよ、と奈緒は言った。
「……そういえば秋弥くんは、私とお姉ちゃんのことってあんまり聞かないよね」
「ん?」
「どうしてお姉ちゃんはあんなに何でもできるのに、私はこんなにダメダメなんだろうってことだよ」
それは思ってもいないことだった。しかし、こう言っては身も蓋もないが、悠紀と奈緒とでは同じ血が流れているはずなのに、出来が違いすぎている。
その答えは、すぐに奈緒の口から出た。
「えっとね……何ていうか、私とお姉ちゃんは、所謂異母姉妹なんだよ。お姉ちゃんのお母さんはもう死んじゃってて、私のお母さんがお父さんの二番目の奥さんになるんだ」
浴場で遭った星条家当主と話したときに、奈緒と悠紀に対する態度が明らかに違っていたのはこれが理由なのかと、秋弥は内心で思った。
奈緒は語り続ける。
「お姉ちゃんのお母さんはね、より強い力を持つ子供を星条家の跡取りに据えるために、おじいちゃん——先代の当主が外部から連れてきた女性なんだって。だから、お姉ちゃんのお母さんとお父さんの間に、本当の愛と呼べるものはなかったって、お姉ちゃんは言ってた。それにお姉ちゃんのお母さんは、お姉ちゃんを産んですぐに死んじゃったから、私はお姉ちゃんのお母さんがどんな女性だったのか知らないんだ」
「……」
「私のお母さんはね。昔からお父さんと付き合っていた人なんだって。今はちょっと本邸にいないんだけど、お母さんは封術の才能がほとんどなかったから、お姉ちゃんが産まれてなかったらきっと、お父さんとの結婚も許されなかったと思うの」
だから、
「お姉ちゃんは何でもできるけど、私は全然できないんだ。お姉ちゃんは星条家の次期当主候補として周りから期待されているけれど、私は誰からも期待されていない。だけどその代わりなのかな。お姉ちゃんはお父さんからあまり愛されていないみたいだけれど、私はお父さんから愛されてると思ってる。そんな、チグハグな関係なんだ」
「……親から望まれずに産まれる子供だって、世の中にはたくさんいるさ」
乾いた笑顔を表情に貼り付けて感情の籠もらない言葉で語る奈緒に向かって、秋弥は言わずにはいられなかった。
「それでも奈緒は、会長のことが好きなんだろ?」
「うん。私はお姉ちゃんのことが大好きだよ。尊敬もしてるし、憧れてる。今はまだお姉ちゃんには遠く及ばないけれど、いつかお姉ちゃんみたいになりたいと思ってるよ」
「だったらきっと、会長も幸せだよ」
それが気休めにしかならないことはわかっている。
それでも、奈緒は嬉しそうに微笑んだ。
「そうだったら良いな……えへへ、秋弥くんは優しいね。ヒーローじゃなくて王子様の方が良かったかな」
「だから、そういうのは止してくれよ。俺は奈緒の友達さ」
「友達、ね……」
奈緒は小さな声で意味深に秋弥の言葉尻を繰り返す。
しかし、その声も絶妙なタイミングで客室の扉をノックする音によってかき消されてしまい、秋弥の耳に届くことはなかった。
もうすぐ一周年になるのですが、終わりませんでした……。
2012/12/11 誤記修正
2012/12/27 可読性向上と誤記修正対応を実施