第53話「お泊まり会(前編)」
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「悠紀の家には、私もまだ行ったことがないのですよ」
今朝のことだ。
朝食の席で、月姫が箸の手を休めた。
「いえ、ひょっとすると誰も……スフィアでさえも星条の本邸には行ったことがないのかもしれません」
そのときの月姫の表情は、何とたとえるべきか。
寂しそうとも、悲しそうとも、哀しそうとも見てとれる表情だった。
「封術学園の学生が、同級生の家で遊ぶなんてことの方が珍しいだろ」
秋弥は姉のそんな表情を見ていたくなくて、知れず、語気を強めながらそう答えていた。
その答えはあながち間違いではない。
封術学園の授業カリキュラムは一般高校のそれと比べて密度が高く、専用の施設で自己鍛錬を行う学生も数多くいるため、放課後に遊べる時間はあまりない。また、学生寮を備えているので地方から入学を希望する学生も多く、学園の近隣に自宅のある学生はごく少数だ。付け加えて『星鳥の系譜』に連なるような名家から学園に通っている学生もいるため、『同級生の家で遊ぶ』なんてことはほとんどないのが現状なのである。
「それに、星条会長は星条家の直系で学生自治会長だから、人一倍忙しいというのもあるだろうし」
「そう……ですよね。秋弥の言うとおりで、きっと私の考えすぎなのでしょう」
そういった月姫の表情は相変わらず晴れない。
それに彼女の言葉は思いではなく、願いのように聞こえた。
秋弥と月姫、どちらの言葉も正解であったと彼が知るのは、その日の夜のことだった。
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リムジンがゲート付近に近付くと、ゲートの上部に設置された監視カメラが車の方を向いた。レンズが車の識別番号を認識してゲートが開く。
途端、学生自治会の役員たちはその広大さに言葉を失った。
ゲートの先、本邸と思しき豪奢な建物が遠くに見える。その建物までの距離は目算でも徒歩で十五分以上はかかるだろうか。鷹津封術学園の敷地面積よりも広いことは一目瞭然だ。
本邸へと続く道の両側には色とりどりの花が咲き誇る庭が見える。また、右手側には白亜のテラスらしきものがあり、談笑している者たちの姿がそこにはあった。
リムジンを本邸の玄関前に横付けすると、運転手である初老の男性が車から降りた。回り込んで玄関側に近いドアを開ける。ドアの横に立ち、軽く頭を下げて眼を伏せる男性を横目に、秋弥たちも車から降りた。悠紀と奈緒を先頭にして玄関の前まで向かうと、背後からリムジンが発車する音が聞こえた。彼の仕事はここまでのようだ。
目の前に広がる両開きの扉を眺めながら、秋弥はわずかに居心地の悪さを——場違いさを感じていた。しかし、他の役員はそうでもないらしい。本邸の住人である星条姉妹は言うにおよばず、同じく『星鳥』である鵜上亜子も慣れたものなのだろう。頭に超を付けても足りないほどのお嬢様学校として名高い聖條女学院からの入学生である聖奈も平静としている。ただひとり、美空だけは興味深げに周囲を見渡してはいるものの、その壮観さに驚いた様子は見られない。むしろ何かを観察しているような視線すら感じる。西園寺という名は封術界に限らず、財界や政界でも聞いたことのない名字だったが、秋弥も全てを知っているわけではない。もしかしたら彼女の家庭は比較的裕福な家庭なのかもしれないと秋弥は予想した。
「おかえりなさいませ、お嬢様方」
と、まるでタイミングを見計らったかのように玄関の両扉が開かれるとともに、扉の向こうで待ち構えていた五人の使用人が一斉に頭を下げた。
「ご学友の方々も、ようこそいらっしゃいました」
さらに、秋弥たちに向かっても丁寧に一礼する使用人たち。男性が一人に女性が四人。リムジンの運転手を務めていた初老の男性と同じくらいの歳と見られる男性は皺ひとつない執事服を折り目正しく身に纏い、二十代から三十代の女性たちは黒のワンピースに白のエプロンドレス姿といった典型的なメイド服姿だった。
「客室の準備はできているかしら?」
「はい。お嬢様のお申し付けのとおり、四の客室につきましては手入れが完了しております」
「そう、ありがとう。手間を掛けさせたわね」
「いえ、それが私どものお役目でございますから」
悠紀に応じているのは執事服の男性だ。彼が使用人たちを取り纏めているのだろう。
「それではこれより、皆様方がご宿泊されるお部屋へとご案内いたします。お手荷物はどうぞ、使用人にお渡しください」
美空、亜子、聖奈、秋弥のそばに使用人の女性が一人ずつやってくる。秋弥は男性の言葉に従い、女性にしては長身の使用人に手荷物を預けた。他の役員たちもそれぞれの使用人に持ち物を手渡している。
そのわずかな間にちらりと向けた視線の先で、悠紀と奈緒の傍らに立つ執事服の男性が二人に何事かを囁き、二人の表情にそれぞれ意味合いの異なる色が浮かび上がるのを秋弥は見たのだった。
「ごめんなさい、少し堅苦しかったかしらね」
各々が宿泊する客室に案内された後、自治会の役員たちは悠紀からの招集を受けて同じ部屋に集まっていた。
「やー、こういうのって漫画の世界だけだと思っていました」
美空が満足そうに声を上げる。
「それにしても、せいなっちは何かこういうのにも慣れた感じだよね」
聖奈の方に視線を移しながらそう付け加える。
いつの間にか美空に変なあだ名を付けられてしまったようだが、聖奈はそれを気に留めることもなく、静かな微笑を浮かべた。
「聖條女学院ではお側付きを連れた方々も多くいらっしゃいましたから」
お側付きとは、また聞き慣れない言葉だ。しかし意味合いとしては同じものなのだろう。
「はぁ、何ていうかあたしたちとは住む世界からして違う感じ。さすがは天下の聖條女学院ということね。それにしても、これだけ家が大きいと、ただでさえ小さなあこちの身体がいっそう小さくなって見えるわね。あ、おっぱい以外の話だからね」
「み、みーちゃんっ!」
亜子が美空の余計な一言に赤面しながら、裏返ったような声を出した。
「美空、今はその辺にしておきなさい。……使用人たちは別室で待機させてあるから、何か不自由があれば自由に呼びつけてもらって構わないわ。室内にいるうちは特に用がない限り干渉しないようにも言ってあるから、自分の家のように寛いでいってね」
「わ、わかりましたぁ」
「はーい」
「ありがとうございます」
「……はい」
全員の顔を見回す悠紀に、それぞれがそれぞれの言葉で応じた。
「ところで秋弥君、今日は何だかテンション低くない?」
「いや……」
「そう? 気のせいなら良いのだけれど」
口数が少ない秋弥に、悠紀はキョトンとした表情を向ける。
サイドテーブルに備え付けられた椅子に座っていた秋弥は、彼の部屋に集まった他の役員たち——ツインベッドの一方に腰掛けた二人の女子と、もう一方に腰掛けた一人の女子にも視線を向けて、内心で溜息を漏らした。女子の客室に集められるよりは遙かにマシだが、居心地の悪さは増すばかりだった。
「それじゃあこの際だから、ちょっとした連絡事項も一緒に話しておくわね。ここでは自由に行動して構わないけれど、部屋の外に出る場合は必ず使用人が付いて回ることになるから、その点には注意しておいてね。それと、入ってはいけない部屋や場所については彼女たちが教えてくれると思うし、彼女たちと一緒なら迷子になることはないと思うから、それについては心配しなくても良いわ。あと、夕食は皆で一緒に食べることになるから、十九時になったら食堂に集合よ。部屋にいる場合は私が順に回るから良いけれど、外に出ている場合には使用人たちがタイムスケジュールを管理しているから、その誘導には必ず従ってね。朝食も夜と同じで、時間は七時半からよ。朝が弱い人はモーニングコールを頼んでおいた方が良いかもね」
そこまで言い終えると、悠紀が息をつく間を縫うようにして「会長」と美空が挙手をした。
「お風呂はどうしたら良いんですか?」
「皆が泊まる客室にはバスルームもあるわよ」
淀みなくそう答えた悠紀は、しかし、答えた後で口元に笑みを浮かべた。
「だけど、せっかくだし大浴場の方を使ってみる?」
大浴場という言葉の響きに、美空と亜子がパァと表情を輝かせた。
「大浴場ですかぁ!」
「おぉ、何だか良い響き!」
「大浴場は星条家の人たちしか使えないところなんだけれど。そうね……、二時間くらい貸し切りにしてもらえるように頼んでみるわね」
「やったね! 何だか役得って感じ」
「聖奈さんも一緒にどう?」
「はい、よろしければぜひ、ご一緒させてください」
全寮制の聖條女学院においても、お風呂に入るときは他の寮生たちと一緒だった。それは鷹津封術学園の女子寮に移ってからも同じことで、ゆえに聖奈は、考える様子をわずかも見せることなく首肯した。
「ついでに奈緒も誘っておくわね。そうだ、一応秋弥君にも、男性用の浴場が貸し切れるか確認しておくわね」
さすがの会長でも、ここで彼に「秋弥君も一緒に入る?」なんていうベタなギャグを挟んでくるようなことはなかった。そのことに安堵している自分は少し、いや、かなり感覚がズレ始めているような気がした。
「それじゃあ次に皆と顔を合わせるのは夕食のときになると思うけれど、私は自分の部屋にいるから、暇だったら遊びに来てね」
悠紀が秋弥の方を向きながら最後にそう締めくくって、夕食の時間までは各自の自由時間となった。
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十九時になって大食堂に集まった秋弥たちは、各人に割り当てられた使用人たちによって引かれた椅子に腰を下ろした。
テーブルの上には数本のナイフとフォークが綺麗に並べられている。その様子から、夕食はフルコースらしいことが窺えた。
学生自治会の役員たちに奈緒を加えた六人が席に着くと、しばらくして料理が運ばれてきた。
まずは前菜が目の前に並ぶと、コック服を着た恰幅の良い人物が料理名を告げた。料理の名前は見た目から連想されるイメージで付けられているようだ。つまるところ、ハーモニーだの彩り鮮やかだの何とか風だのと言われても、この料理がいったいどんな料理なのか、一般的な家庭で暮らす秋弥にはさっぱりわからなかった。ただ、分類としてはサラダであることは間違いない。
続いてスープ。十月半ばを過ぎたとはいえ残暑の厳しい季節だからか、運ばれてきたのは冷たいカボチャのスープだった。
三番目は魚料理だ。ひとつひとつ丁寧に盛りつけられたオマール海老のポワレがテーブルに並べられると、美空が思わず感嘆の吐息を漏らした。
「何だか夕食まで堅苦しい感じになってしまって、ごめんなさいね」
魚料理に軽く口を付けた悠紀がナイフとフォークをハの字に広げて置いてから言う。豪華な料理に舌鼓を打っていた亜子や聖奈も手を止めて、悠紀の方へと視線を移した。
「うぅん、全然そんなことないですよ。むしろ、こんな美味しい料理をタダで食べられてラッキー、みたいな」
「そう言ってもらえると、料理人たちも喜ぶと思うわ」
すると、壁際で控えていたコック服の男性がゆっくりと一礼した。
「だけど秋弥君みたいな食べ盛りの男の子には、これでは少し物足りないかしらね?」
「いえ、俺も西園寺先輩と同じ気持ちですよ」
悠紀に倣ったわけではないが、フルコースのテーブルマナーどおりに食べている最中の料理が盛りつけられた皿の両端にナイフとフォークを置いて、秋弥は言った。
「それなら良かったわ。そういえば、秋弥君のお家では月姫がご飯を作っているのかしら?」
「えぇ、そうですよ」
答えると、悠紀が小悪魔的な笑みを浮かべた。
「それじゃあ、月姫の手料理はしばらく食べられなくなるわね。恋しくなるんじゃない?」
「そんなことはありませんよ。今は姉さんが毎日作ってくれますが、以前までは交代制でしたからね」
しかし、秋弥の案外素っ気ない返答に対して、悠紀は笑みを崩した——しかも、意外そうに眼を丸くして。
「ふぅん、秋弥君も料理できるんだ?」
「えぇまあ。うちは親がほとんど家にいないので、俺も人並み程度には家事全般ができますよ」
「そうなんだ。……意外、でもないのかな。秋弥君って何でもそつなくこなしそうだものね」
「会長こそ、料理とかしないんですか?」
秋弥にとっては純粋な質問返しだったのだが、すると悠紀は、何故か途端にあたふたし始めた。
「わ、私はまぁ……うん、人並みかな」
そう呟いた悠紀の隣では、奈緒がそしらぬ顔で魚料理を口に運んでいる。二人の様子は不審以外の何ものでもなかったのだが、生憎それ以上のことを言及する前に、悠紀は他の人へと話の矛先を向けた。
「聖奈さんは家庭的な感じがするし、料理は得意そうよね」
「得意というほどでもないですが、料理や裁縫については女学院で学びました」
「裁縫って……いつの時代の話なのよ」
半世紀前ならいざ知らず、現代では科学技術の発展によって多くのことが機械によって自動化されている。今時、中学校の家庭科の授業でさえ、裁縫技術を教えているところは少ないと言えるだろう。
悠紀は気を取り直して、今度は亜子へと視線を向ける。小さく切り分けた魚料理を体格どおりの小さな口へと運んでいた亜子は、悠紀の視線に気付いて顔を上げた。
「亜子は料理ってしたことある?」
「私ですかぁ? う〜ん……料理はあまり得意じゃないですぅ」
「そうなの? ふぅん、意外といえば意外ね」
「だけど星条会長。あこちはお菓子を作らせたらスゴいですよ」
「え、そうなの?」
「そうなんですよ。たまに家で作ったお菓子を持ってきてくれることがあるんですけど、クラスでもすっごい評判良いんですよ」
美空が亜子に代わって嬉々として語る。そういえば秋弥も夏季休暇中に亜子が持ってきたお菓子をもらったことがあった。そのお菓子は形も味もしっかりとしていたので、そのときはさぞや高級なお菓子なのだろうと思っていたものだが、もしかするとそれは亜子が作ったお菓子だったのかもしれなかった。
「まあ、あたしはあこちの手作りお菓子というだけで十分に萌えますけどねっ!」
「うっ……それは確かにお似合いかも」
小動物然とした亜子の場合、どちらかといえばお菓子をもらって喜ぶ姿の方が目に浮かぶのだが、お菓子作りが趣味というのも何だか頷けるような気がした。
「お菓子作りが得意なプリティあこちなんですよ」
「あーちゃん、私に変なキャッチフレーズとか付けないで!」
亜子の抗議の声も虚しく、プリティあこち、プリティあこち、と美空が謳うように口ずさむので、亜子はムスっとした顔のままで魚料理をパクッと食べた。その様子はやはり小動物のようでいて、怒ってはいても愛らしく、悠紀と美空の顔に自然と笑みが浮かんだ。
「さてと、話の流れとしては次が美空の番なのだけれど。あなたが料理好きなことはもう知っているから聞かないわよ」
「あれれ、あたしが料理好きだなんて、会長に話したことありましたっけ?」
「話してはいないけれど、美空っていつも教室でお昼ご飯食べているでしょ。前に亜子から聞いたことがあるのよ。美空がいつも持参しているお弁当って、自分で作ったものなんでしょう?」
「なるほど、情報の出所はあこちでしたか。まあでも、そうですね。料理は好きですよ」
「はぁ、それこそ意外な事実よね」
「ギャップ萌えというやつですね」
「……狙ってやっているの?」
「もちろん冗談ですよ。料理をしているのは、創作意欲をかき立てるための副次的なものです」
やがて全員が魚料理を食べ終えると、肉料理の牛フィレ肉とフォアグラのローストが運ばれてきた。柔らかな牛フィレ肉とローストされたフォアグラは口の中で複雑に絡み合って融け合い、格別な味わいだった。
最後にデザートのフランボワーズシャーベットが添えられたホワイトチョコレートのムースが運ばれてきたときには、女性陣(特に亜子)が瞳をキラキラと輝かせて幸せそうな表情を浮かべていたものだ。
余談だが、亜子があまりにも美味しそうにデザートを食べるものだから、秋弥が自分の分も食べるかと尋ねたときには、他の女性陣から少なからず反感を買ってしまったのだった。
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悠紀から大浴場の利用許可の連絡があったのは、夕食が終わってから少し後のことだった。ちょうど客室のシャワールームを使おうと思っていた秋弥は、悠紀の厚意を無駄にするのも悪いと思い、せっかくなのでと学生服から私服に着替えてから(入浴後に違う服に着替える手間を省くためだ)、客室を出た。
すると、客室のある廊下の一角——使用人が詰めているという部屋からエプロンドレスに身を包んだ女性が現れた。女性は秋弥の姿を認めると丁寧にお辞儀をした。そして駆けることなく、それでいながらも素早い身のこなしで、瞬く間に秋弥のそばまでやってきた。
「いかがなさいましたか?」
使用人の女性は両手を前で揃え、軽く首を傾げながら秋弥に問いかける。
彼女は今日一日、星条家の客人である秋弥に割り当てられた使用人である。年齢は二十代を折り返したあたりだろうか。妙齢という言葉と縁なしの眼鏡が似合うミステリアスな風貌の女性だ。
使用人の女性——関内桃花に大浴場の場所を尋ねると、彼女はすぐに「それでは大浴場までご案内いたしますので、私の後に付いてきてください」と返した。使用人側にも大浴場を使用する件は話が通っていたようだ。
桃花はそれ以上言葉を続けることなく、必要最低限の応対のみで会話を終える。秋弥は彼女の言葉に従って歩き出した。
「関内さんは、ここに勤めて長いんですか?」
大浴場までの道すがら、秋弥は何ともなしに前を歩く桃花に向かって話しかけた。
客室から大浴場までどれほどの距離があるのかは知らないが、来客者用の部屋と星条家の人間が利用する部屋や施設が近い場所にあるとは思えない。そこまでの道中で、桃花との間に一切の会話もないという状況に彼が堪えられなかったわけではない。桃花の話し方や所作から、それが短期間で身に付けた付け焼き刃のものではないという印象を受けたから、少しだけ興味が湧いたのだ。
桃花は案の定秋弥が予想をしていたとおり、
「はい。私の家系は代々星条の本家にお仕えしており、私も幼少の頃より星条家に仕える者としての礼儀や作法を学びました。また、私はお嬢様方とも比較的年が近いこともあって、お嬢様方には幼い頃から仕えておりました」
それと、と桃花はエプロンドレスの裾の長いスカートを翻しながら振り返った。
「最初に申し上げたはずですが、私のことは桃花とお呼びください」
「あ、あぁ……そうでしたね、すみません」
感情の読み取れない平坦な声と無表情で見詰められ、秋弥はすぐさま謝罪の言葉を口にする。
どうにもこの桃花という女性は、自分のことを名字で呼ばれることが嫌いなようだ。同級生ならいざしらず、年上の女性を名前で呼ぶことにはどうにも抵抗があったが、本人がそういうのだから、次からは気を付けたほうが良さそうだと、秋弥は内心で思った。
「……ところで、つかぬ事をお聞きするのですが、九槻様は封術を学ばれて長いのですか?」
わずかな逡巡を見せた後で、今度は桃花の方から秋弥に質問をしてきた。こちらからの質問に答えてくれたお礼というほどのことではないが、別段隠し立てするような質問内容ではなかったため、秋弥は彼女からの問いかけに応じた。
「うちは一般的な家庭なので、それほど長くはありませんよ。俺の姉が封術学園に通っていたので封術の知識だけはそこそこありましたけど、自分の装具を手に入れたのは学園に入学してからです」
それはほとんど嘘ではないが、すべてが真実でもない——秋弥は入学以前まで自分の装具を持っていなかったが、その代わりに隣神リコリスの持つ装具、魔剣『紅のレーヴァティン』を操っていたのだから。
ただ、それはまだ安易に口にして良い話ではない。
ましてやここは封術世界の頂点に君臨する『星鳥の系譜』序列第一位、星条家の総本山なのだから——不用意な発言をして締まるのは自分の首だった。
「そうでしたか。いえ、九槻様は学園の一年生でありながら学生自治会に参加しておりましたので、何か特別な事情がお有りなのかと思っていたのですが……」
「……偶然ですよ。偶然、星条会長の眼鏡にかなったというだけのことです。……それと、俺のことを様付けして呼ぶのは止めてもらえませんか?」
感覚的な問題なのだが、年上の人間に様付けで呼ばれると、何となくだがむず痒さを覚えてしまうのである。
「これは大変失礼をいたしました。ですが、九槻様はお嬢様方の大切なご友人であり、我々使用人にとっては星条家の大切なご客人でもあらせられます。こればかりは申し訳ございませんがご了承くださいますよう、よろしくお願いいたします」
丁寧に一礼する桃花の生真面目さに秋弥がたじろぐも、彼女は表情を微塵も変えることなく、「それでは参りましょう」と再び彼に背を向けて、歩みを再開したのだった。
今になって思えば、当初から違和感はあった。だけどそれは、星条の本邸が秋弥にとって初めて訪れる場所であり、似たような部屋がいくつも続いていたところで、広い家なのだからそういうものなのだろうと、彼は決めつけていたのである。
「……おかしいですね」
そう呟いたのは桃花だ。本邸の地図が隅々まで頭に入っているはずの彼女が立ち止まって辺りを見渡している。
「どうかしたんですか?」
後ろを歩いていた秋弥は桃花の近くまで寄ると、訝しげに尋ねた。
「はい。どうにも先ほどから、同じところを歩いているような気がします」
表情の変化が乏しくてわかりづらいが、桃花が冗談を言っているようには見えない。
「それは——」
いったいどういうことかと秋弥が尋ねようとしたその瞬間だった。
数十センチほど離れた場所に立っていたはずの桃花の姿が、彼方へと遠ざかった。
「……ッ!」
見開いた視界の先では、廊下全体がまるで引き延ばされたかのように歪んでいた。何処までも延長されてゆく廊下の遙か先に、もはや豆粒ほどの大きさとなってしまった桃花の姿がかろうじて見える。秋弥は鈍痛のする頭を抑えながら、とっさに近くの壁に手をついて身体を支えた。
——これは、『領域隔離』か!
特定の領域を現層から切り離して隔離する調律の高等術式だ。
秋弥は両眼を伏せると、自身の装具である蒼色の流剣『クリスティア』を召還した。
これが秋弥の予想どおりの術式であるならば、『領域支配』の術式によって打ち消せるはずだ。
そう考えた秋弥は術式を展開すべく、流剣を床へと向けた。
しかし、術式を構築しようとした秋弥はそこで手を止めた——否、止めざるを得なかった。
逆手に掴んだ柄の先——流れる小川のような流麗なフォルムを持つはずの刀身が不安定に揺れていたのだ。
特殊型に分類される秋弥の装具は特定の形を持たない。ゆえにその形状は所有者のイメージにより自在に変幻するのだが、流剣は彼の持つイメージでは形状を定着させることができずにいたのである。
そこから導き出される結論は、最早ひとつしか考えられない。
謎の攻撃者による『領域支配』が、秋弥のそれを上回っているということだ。
何ということだろうか。他者の心象にすら干渉を及ぼしうる強固な領域支配が存在しようとは、これまで考えもしなかった。
これでは特殊型の装具は完全に無力化されたようなものではないか。
一瞬にしろ呆気に取られた秋弥の心の隙を突くようにして、今度は彼の立っていた床が忽然と消失した。そして、彼がそうと知覚した瞬間から、彼の身体は今更のように重量に引かれて落下する感覚を得た。
——くそっ、何てデタラメな力だ!
秋弥は内心で毒吐いた。落下しながら、使い物にならなくなってしまった流剣を仕舞う。
『貴方が何処の誰による差し金かは知らないけれど、さっさと降参した方が身のためよ』
すると、何処からともなく声が聞こえてきた。それも、あどけなさと幼さの同居する少女の声だった。
この声の主が『領域隔離』と『領域支配』の高等術式を使う謎の攻撃者の正体なのだろうか。
意外に思いながらも、秋弥には声の主の正体について、ある程度の予想がついていた。これほどまでに強力な干渉術式を操ることができる封術師の家系を、彼はひとつしか知らない。
『何とか言ったらどうなの? それとも恐怖のあまり、思考が追いついていないの?』
少女の声音がわずかに苛立ちを含んだものへと変わる。装具を使えなくなった相手が中々降参しないものだから、苛立ち始めているのだろう。
それを短気だと誹ることはできない。
並の術者であれば、自身の装具が無力化されてしまった時点で勝敗は決しているのだから。装具が使えず、封術すらも使えない状況では、封術師は一般人と何ら変わらない。
しかし、秋弥は違う。
彼は蒼い装具の他にもう一本、神器クラスの装具を所有している。紅色の魔剣を用いればこの隔離領域から脱出することは容易いことだ——。
「——ああ、降参だ。ここから出してくれ」
秋弥は何処が地平かもわからない暗闇の中を落下したまま、両手を挙げて降参の意を示した。
交渉に応じるだけの余地がある相手ならば、むざむざこちら側の手の内を明かす必要はない。それに、秋弥はここが星条家の本邸だということも忘れてはいない。加えて謎の封術師の正体が秋弥の想像どおりの人物であるならば、なおのことだ。
『……最初から素直にそう言えば良いのよ。良いわ。術式を解いてあげる』
言葉が終わると同時に、秋弥の身体から浮遊感が溶けるように消え去っていった。周囲の暗黒も徐々に薄まり、元の廊下が暗闇の下から浮かび上がってくる。
隔離空間から脱した秋弥は両足がしっかりと床を踏みしめていることを確認した。落下中に乱れたはずの髪や服は何ともない。まるですべては幻覚であったかのように、さながら夢の世界に迷い込んでしまったかのような感覚の残滓だけが秋弥の中を漂っていた。
秋弥は元に戻った景色の中で周囲の様子を窺った。桃花の姿が数十センチそばにあったが、秋弥が隔離空間へと引きずり込まれた前後でその表情はずいぶん違っていた。彼女の表情に浮かんでいたのは安堵と不安だった。
続いて廊下の隅に視線を向けると、廊下の角からひとりの少女が姿を現した。
頭の左右で結った漆黒の髪を揺らした少女は、その愛らしい外見には不釣り合いの細く長い剣——主に東洋で用いられた刺突用片手剣の先端をこちらに向けながら、悠然とした足取りで近付いてきた。
「桃花、今すぐにその者のそばから離れなさい」
「……水凜様」
少女に名を呼ばれた桃花は戸惑ったような表情を秋弥と少女の間で行き来させた。それは少女の命令に従うべきか己の職務を全うすべきか悩んでいるようにも見えた。結局桃花はわずかな葛藤を見せたあとで後者——すなわち悠紀からの指示による己の職務を選んだのだった。身を引いて軽く腰を折ると、一歩前に出て秋弥と少女の間に立った。
「水凜様、こちらの方は星条家の客人でございます。どうか装具をお納めください」
両手を前で揃えてゆっくりと頭を下げる桃花に、水凜という名の少女は足を止めた。
「客? このような貧相な格好をした者が、星条の客人だというの?」
水凜は装具を構えたまま意外そうに瞳を丸くした。次いで、秋弥の足元から頭上までを観察するような視線が行き来したあと、彼女は「ふん」と鼻を鳴らして笑った。
貧相に見えるのだろうか。
学園の制服から私服に着替えたのは、どうやら失敗だったらしい。
「冗談は止めてよね、桃花。貴女はこの者に騙されているのよ」
水凜は装具の先端を揺らして、言外にそこから退くよう、桃花に指示した。
しかし、桃花は一歩も動かない。その瞳は真っ直ぐに水凜を捉えていた。
「申し訳ございませんが、その命令には従えません」
「……どうしてよ。わたしの命令が聞けないというの?」
「はい……彼は悠紀お嬢様のご学友でございますので」
水凜の表情に驚愕の色が浮かんだのを秋弥は見た。髪と同じく漆黒の彩りを持つ二つの瞳が大きく揺れる。口もわずかに半開き状態で思考が停止したかのように固まってしまった。
「ですから、水凜様。装具を納めてくださいませんか」
「…………信じられないわ」
たっぷりと間を取ったあとで水凜が小さく呟いた言葉は、否定の言葉だった。
「悠紀お姉ちゃんが、他人をこの本邸に連れてくるなんて……」
絞り出すようにして発せられた声が震えている。
「しかも、よりにもよってそれが男だなんて……」
声に合わせて、構えていた装具もかすかに震えた。
「そんなこと、わたしは認めないわ!!」
瞬間、刺突剣を介して改変された事象が踏み込んだ右足へと集まり、爆発的な加速力を生み出した。数メートルもない距離を一足飛びで一気に詰めたツインテールの少女が、装具を前方へと突き出す。
目前に迫った死の刃を、しかし桃花は避けようとはしなかった。秋弥と水凜の間に立ったまま両手を開き、自身の身体を盾にして秋弥を護ろうとしている。
攻撃のモーションを取れば、桃花が避けてくれると考えていたのだろう。だが実際には、彼女はその場から一歩も動かなかった
関内桃花は封術師だ。星条家に仕えているのだから、それは間違いないだろう。それにも関わらず、彼女は封術や装具を一向に使おうとはしない。それをすれば少なくともどちらか一方が傷ついてしまうことは明白だからだ。使用人である彼女にとっては悠紀の学友である秋弥も、刺突剣を操る『星鳥』の少女も、等しく客人であり、使用人が危害を加えて良い相手ではないということなのだろう。
馬鹿馬鹿しい、と秋弥は思った。死んでしまえば何もかも意味を為さなくなってしまうというのに、死線に立つ女性はそれでも職務を全うしようとしているのだ。
攻撃モーションに制動をかけようとする様子のない水凜の刺突剣が無防備な桃花の身体を貫くまで、あと一秒もかからないだろう。
秋弥は、やれやれと肩を竦める動作をする代わりに、足先に加速力を上昇させる事象改変を施した。踏み出したたった一歩のステップによって桃花と自身の身体を即座に入れ替えると、右手に握った紅の魔剣を下方から振り上げることで、目と鼻の先に迫った刺突剣を真上へと弾いた。さらに、剣の描くラインに沿って身体を回転させると、装具を仕舞って自由となった両手で少女を背後から拘束した。
「やっ、この、離しなさいよ!」
腕の中で水凜が暴れるが、身動きが取れるような半端な拘束はしていない。それでもバタバタと抵抗してみせた水凜であったが、やがて観念したように、彼女の身体から力が抜けた。
「水凜様……」
「…………」
桃花が気遣わしげな声を掛けるが、項垂れた少女は何も答えない。秋弥が水凜の拘束を解くべきかの判断を桃花に委ねようとして口を開きかけたそのとき——廊下の向こう側から、今度は拘束した少女よりも少し年上に見える少女が、足早にこちらへと歩み寄ってきた。
水凜と良く似た顔立ちをしたもう一人の少女は、彼女と同じ漆黒の髪を白いファーリボンで一つに結ったポニーテールを揺らした。まずは拘束されてぐったりと項垂れる水凜へと眼を向け、桃花、秋弥へと視線を移した。
「妹の非礼はわたしがお詫びするわ。だから、妹を離してあげて」
どうやらポニーテールの少女は水凜の姉らしい。どおりで外見が似ているわけだ。
秋弥が拘束を解除すると、身動きが取れるようになった水凜は逃げるようにポニーテールの少女の背後に隠れた。顔だけを覗かせて恨めしそうに秋弥を睨み付けている。
「ありがとう。それと、ごめんなさい。悠紀姉様の客人が本邸に宿泊しているということを妹に伝えていなかったのはわたしのミスだったわ」
一方、姉は強い光を宿した瞳で秋弥を見つめたまま、やや高圧的とも取れるような態度で形式張ったお礼とお詫びの言葉を述べた。
「桃花にも、迷惑を掛けたわね」
「いいえ、私のことは構いません」
迷惑どころか危うく命を失いそうになったというのに、桃花は首を左右に振ってこの件を不問とした。その様子に、ポニーテールの少女は嘲るような笑みを見せた。
「星条家の使用人たちは寛大な心を持っていて助かるわ。それでは、わたしたちは部屋に戻るので、これで」
ポニーテールの少女はくるりと背を向けると、背後に隠れていた水凜の手を握って廊下の向こうへと歩いていった。
嵐のように突然現れて、呆気ないほどあっさりと去っていった少女たちの後ろ姿を見えなくなるまで見詰めていた秋弥は思う。
あの二人はおそらく『神域』花鶏家の——。
「彼女たちは花鶏家の才女、火凜様と水凜様でございます」
まるで秋弥の思考を見透かしたかのように、傍らに立った桃花がそう言った。
『神域』という二つ名を持つ『星鳥の系譜』序列第四位の花鶏家は、現層からもっとも離れた場所に存在する異層を発見した家系だ。花鶏家の封術師は特定の領域を切り取って隔離し、自身の支配下に置く術式に長けている。調律術の基礎を築き上げた斑鳩家の封術師が柔の調律使いであるとすれば、花鶏家の封術師はさながら剛の調律使いと言ったところだろう。調律術を戦闘向けに研究し転用している家系は、花鶏家をおいて他にない。
「遅ればせながら、先ほどは助けてくださって、ありがとうございました」
恭しく頭を下げる桃花に向かって、秋弥は今度こそ軽く肩を竦めてみせた。
「当たり前のことをしただけですから。それよりも、どうして自分の装具で護ろうとしなかったんですか?」
そのおかげで、秋弥は一瞬にしろ魔剣の力を使わざるを得なかったのだ。それも、花鶏家の封術師と星条家に仕える封術師の目の前で、だ。
変に勘繰られなければ良いのだが、と内心で考えていた秋弥は、本邸の玄関ホールで初めて顔を合わせたときから常に無表情だった桃花の表情が、わずかに変化していたことに気付かなかった。
「それは、悠紀お嬢様のご学友である九槻様であれば、無防備な私を護ってくださると信じていたからです」
えっ、と秋弥が疑問の声を上げるよりも先に、桃花は表情に浮かべた笑みを隠すように背を向けて、「それでは、余計な時間を取ってしまいましたが、大浴場へと向かいましょう」と言って歩き出したのだった。
2012/12/27 可読性向上と誤記修正対応を実施