第4話「オリエンテーション(後編)」
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結局女子寮には立ち寄らずに部室棟を軽く見て回ったところで(部室は当然のことながら閉まっていて、表札からどんな部活があるのかを確認しただけだった)、次の目的地である特別訓練棟へ移動する時間となった。
特別訓練棟は本棟の北東側にある地下を含めて全四階から成る建物だ。そこには対隣神を想定した戦闘訓練や疑似異層領域の調律訓練を行うための設備が整っている。
「三年生になるまでは、封魔術と調律術の両方を勉強するんだよね」
「ああ。封魔や調律は個々の血筋や得手不得手である程度分かれるものだけど、基礎技術はどちらも習得しておく必要があるってことだ」
「シュウ君はやっぱり、封魔を専攻する予定なのかな?」
「そのつもりだよ。堅持は……聞かなくてもわかるか」
「……お前まで。いやまぁ、確かにそのとおりだけどよ」
ぶっきらぼうな口調で肩を竦めた堅持を横目に、視線だけで綾にも問うと——。
「私は調律です」
コクリと頷いた。
過去、封術学園を卒業した封術師の統計を見ると、前線に立って隣神と戦う封魔師は男性が多く、逆に空間や領域に干渉して世界を正す調律師には女性が多かった。この理由には諸説あるのだが、有力なものとしては男性の脳が一面的な空間認識能力を備えているのに対して、女性の脳はそれを多面的に備えているという説だ。一面的とはこの場合、多重層世界に対しての現層世界に当てはまるということだ。つまり、言語操作に長ける女性の脳はマルチに物事を捉えやすいということだろう。
「でも堅持と違って、シュウ君は調律も得意だもんね」
玲衣が我が物顔で言うと、すかさず堅持が噛み付いた。
「勝手に決め付けんなよ! それも事実だけどさ!」
「そうなんですか。私なんて調律しかできないから、憧れちゃいます!」
しかし彼の抗議の声は、珍しく力の籠もった綾の言葉によってかき消された。
彼女は黒色の瞳を輝かせて、羨望の眼差しを秋弥へと向ける。秋弥はその視線から逃れるように早足で少し前を歩いた。
封魔術と調律術はどちらも本質は同じ——事象を操作することにある。
違いは、事象へのアプローチ方法だ。
事象、すなわち、あらゆる情報体を構成する原質を操るためには、その情報体を理解する必要がある。
九つの原質は、互いに組み合わさって、一つの情報体を形成している。
封魔では、九つの原質のうち、基本的には『波』を除く八種類の原質を改変する。
調律では、『波』という一種類の原質だけを改変する。
言葉の上では封魔術の方が一見扱いが複雑のように思えるが、実際にはその逆で、調律の方が難易度は高い。
調律で操る『波』の原質とは、エリシオン光波長のことを指している。エリシオン光は『星の記憶』という膨大な情報記憶領域を操作する唯一の原質であり、それを操ることは、星の情報そのものを操ることに等しい。調律における現象の観点だけで見れば、わずかに乱れた固有振動数を正すだけなのだが、世界そのものを改変し得る力を孕んでいるだけに、『波』の原質を理解することは容易いことではないのである。
「理屈はそうなんだけど、あたしの場合は感覚的にできちゃうんだよね」
「つまりそれが才能や血統に起因していると言われる理由だな。元来より高い異層認識力を持っていた神職者が退魔ではなく浄化——つまり調律に特化した傾向を持つのも同じことだよ」
「今の時間だと、オリエンテーション用に第一訓練場で封魔の模擬戦をやってるみたいだぜ。秋弥、行ってみないか?」
「いいよ。玲衣たちはどうする?」
「んー、あたしは祭儀場の方に行ってみようかな。たぶん全部の施設は見れなさそうだしね」
「あ、それじゃあ私も玲衣ちゃんと一緒にいきます」
「じゃあ一旦別行動だね」
「オーケイ。じゃあそうだな……。この棟を見終わったらちょうど昼時だし、本棟の食堂で待ち合わせってことでいいか?」
「はいはーい」
「わかりました」
それぞれに了解した女子二人を見送って、男子二人は第一訓練場のある訓練棟二階に向かった。
第一訓練場に通じる廊下の途中で、他クラスの学生の一団とすれ違った。先頭を歩く引率教師が、秋弥たちの顔を見て何故か苦い顔をした。
別棟や本棟と比較して特別訓練棟の部屋数はずいぶんと少ない。その理由は封術用の訓練施設が一部屋を広く設けているためだ。当然、部屋は縦にも広い。地上三階建てにも関わらず、高さは六階建ての本棟に匹敵している。各階ごとに本棟の二階分の高さがある計算だ。
特別訓練棟の各施設は中央に配置され、それを取り囲むように廊下が造られている。そのため施設への入口も廊下と隣接した面ごとにあり、秋弥たちは二階に上がって一番近くの入口から第一訓練場へと入った。
途端、何かを打ち鳴らしたような音と、頭上から歓声が聞こえてきた。
歓声のした方へと視線を向ける。秋弥たちのいる位置よりも高いところに、手すりつきの通路があった。どうやら訓練場内は高いところから全体を眺めることもできる造りになっているようだ。
続いて、音の聞こえた方を見やる。
十メートルほどの線が四方に引かれた訓練場で制服姿の学生が二人、向かい合っていた。
お互いの手には、剣の形をした装具が握られている。
装具とは、人間という情報体を構成する原質の一つである『意』を具現化させたもので、あらゆる情報体(事象)を構成している原質に干渉するための端末である。
形状は所持者によって異なるが、『意』——つまり、人の心から生み出されたものであるためか、大抵の場合において鋭い刃を持っている。
身体の正面で装具を構えている学生と、左半身で装具を構えている学生に視線を向ける。
お互いに似たような装具を持つ者同士の模擬戦のようだ。
——二人とも、強化型近接系直剣というところか。
装具は、形状や事象に与える影響によって、ある程度までカテゴライズされている。
大別すると二つ。
己の身体や装具、あるいは狭い領域に干渉する強化型。
行使者を中心に自領域を生み出して干渉する特殊型。
これをさらに装具自体の干渉対象までの効果範囲で区切り、最後に装具の形状を現実の武器に当てはめることで、装具をカテゴライズしている。
向かい合った二人の手には近接系の直剣が握られている。
ただし、正眼の構えを取る学生の装具は両刃、半身で構えた学生は片刃という違いがあった。
最初に両刃の学生が動いた。
学生の構築した新たな情報体が、装具を介して大気中へと放たれる。
情報体の改変に伴い、存在証明を意味するエリシオンの赤い過剰光が発生した。
大気中に漂う『火』の原質を燃焼現象へと変えて、装具に纏う。
両刃の学生は燃え盛る装具を上段に構えて、一気に振るった。炎は装具から切り離されて熱波となり、片刃の学生を襲う。
しかし、片刃の学生は同じように火系の封術を用いて熱波を相殺した。押さえ込まれた熱エネルギーは両者の間で膨張して弾ける。
一瞬の轟音。
その中を掻い潜って、両刃の学生が切迫した。
炎の消えた剣で切りかかる。
それを、片刃の学生がすんでのところで反応して受け止めた。
だが、両刃の学生は手を止めることなく、連続で斬撃を放つ。切り上げ、切り下げ、突き、切り払い——両刃の学生が放つ連撃を片刃の学生は後退しながらも、その全てを凌ぎきった。
両刃の装具を持つ学生の表情に、焦りの色が浮かぶ。
一旦体勢を立て直そうとして大きく距離を取ろうとした——その瞬間。
片刃の学生は攻撃を耐えながら組み上げていた封魔術式を発動した。
大気中の塵芥を利用して、電位差を操る虚空封術『招雷』が上空から両刃の学生を狙い撃つ。
雷の一撃を避ける間もなく浴びた両刃の学生が、身体を硬直させて膝を突いた。
模擬戦を行っている訓練場では、封術式にリミッターがかけられている。招雷の術式では、せいぜい数秒間、相手の動きを止める程度の威力にまで、効果が減衰されていることだろう。
しかし、それだけの時間があれば十分だった。
片刃の学生が一足飛びで距離を詰めると、装具を対戦相手へと向ける。
模擬戦は片刃の学生の勝利で決着した、と思われた。
(——否、まだだ)
突如、熱波を超える爆発的な炎が片刃の装具を持つ学生の全身を包んだ。その手から装具が零れ落ちる。
術者の手を離れた装具は、地面に触れる前に消滅する。
後に残ったのは、招雷の硬直から回復して、自身の装具を対戦相手に向けた両刃の学生と、奥歯を噛み締めて対戦相手を悔しげに睨み付ける、片刃の学生だった。
(——バックドラフトか)
秋弥は両刃の学生が行った一瞬の逆転劇を、冷静に分析していた。
バックドラフトというのは、熱された一酸化炭素ガスが酸素と急激に結びついて爆発を引き起こす現象のことだ。熱波の術式とは異なり情報体の精密な制御が必要となるため、それを用いた中毒術は、プロの封術師でも扱うことは難しい。
だが、小規模爆発程度ならば、多少の労力さえ惜しまなければ、封術師見習いである学生でも十分に構築が可能な術式だ。
両刃の学生が直前に発動していた熱波術式——これにより酸素濃度が一時的にだが通常よりも低下していた期間があった。一酸化炭素ガスは、その短い期間のうちに燃焼させた装具から生み出したのだろう。
後はその情報体に向けて大量の酸素を集中的にぶつければ、そこに炎の爆発が生じるというわけだ。
近接戦闘の技術では片刃の学生がわずかに勝っていたようだが、封術の技術的な差が、今回の勝敗を左右したとも言える。
両刃の学生は『火』の原質を操作する術式が得意なのかもしれないと秋弥は思った。
「……九槻と沢村か。お前たちも見に来ていたのか」
立ち上がり、学生が互いに一礼をして模擬戦が終了すると、入口付近で模擬戦を観覧していた袋環が二人に気付いて声を掛けてきた。
「はい。先生もですか?」
「私は万が一に備えての立ち会いだ」
「あ、そうですか」
「今回の模擬戦はなかなか見所のあるものだったな。封術的な視点だけではなく、自然現象そのものに目を向けることも封術師には必要だということだ」
「封術的な視点、ですか?」
「そうだ。封術師というものは、なまじ原質を意のままに改変できてしまうがゆえに、その時々の情報体だけを捉えて術式を組み立てようとしてしまうところがある。しかし、情報体という名の資源は万能でもなければ、無限でもない。……これは封術師同士の戦いだけでなく、隣神との戦いにおいても当てはまることだが、封術を行使する者同士の戦いは常にリソースの奪い合いだ。流動的な情報体をよりマクロレベルで理解した者だけが、最終的には生き残る」
「はぁ……、わかるような、わからないような話ですね」
堅持が首を傾げると、袋環は苦笑いを浮かべた。
「今は頭の片隅に留めておくだけで良い。これから私が教えていく中で、きっと理解できるようになるさ」
さてと、と袋環が二人の顔を交互に見つめた。
「模擬戦も終わって私がここに留まる理由もなくなったわけなんだが……。そこで、無理にとは言わないが、この後何も予定がないのならば、この特別訓練棟は私が一緒に見て回ってやろう。……この棟は、お前たちが特に利用する施設ばかりだからな」
予想外の袋環からの申し出に、堅持は眼を丸くした。
「本当ですか。ありがとうございます!」
堅持は素直に喜んでいるが、秋弥は彼女らしくもないその申し出に疑問を覚えた。
ふと頭に過ぎったのは、先ほどすれ違った他クラスのことだった。
もしかしたら袋環は、そのクラスの担任教師から自身の教育方針に対して何らかの指摘を受けたのかもしれない。
しかし、それを問い質したところでさらに苦い顔をされそうな気がしたので、秋弥も黙って頷くことにした。
「よし、それじゃあまずはそうだな……。この場所——第一訓練場について解説を始めようか。ここは封魔の技術や対隣神の戦闘訓練をするための施設で、第一から第三まである。それぞれに性質の違いがあるのだが、それは各施設を回ったときにでも改めて解説するとして、第一訓練場はその中でも、もっとも一般的な使われ方をする訓練場だ。床と天井に描かれた白いラインが見えるか? 訓練場はあのラインの内側へ向けて三重の封術結界を施しているため、よほど派手な術式を行使しない限り、外部への影響はない。他にも、意図的に異層領域を創り出して隣神を呼び寄せることもできるが……これを行うには私のような封術師の教職者が立ち会わなければならない関係上、普段は使えない。専ら、封魔術の練習と模擬戦がメインになるだろうな」
「あれ? さっき、模擬戦にも立ち会ってるって言ってませんでした?」
「万が一に備えて、とも言っただろう。封術結界内には術式にリミッターがかけられているとはいえ、もしも封術式が暴発するようなことがあれば、術者の制御下を離れた封術が結界外に余剰改変を及ぼさないとも限らないからな。だからこそ私は、私の担当するクラスの学生たちに危害が及ばないようにと立ち会っていただけに過ぎない」
「な、なるほど……」
あまりにも淡々とした袋環の口調に、堅持は反応に困って曖昧な表情を浮かべた。
「ここのことはもう良いだろう。次の場所に行くぞ」
袋環はそれ以上かけ合わず、踵を返して訓練場を出て行く。ぎこちない動作で秋弥の方を向いた堅持に肩を竦めただけの答えを返して、秋弥も彼と一緒に袋環の後を追った。
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本棟の学生食堂へ向かう途中で秋弥は玲衣たちと合流した。
昼食には若干早い時間だったが、自分たちも含めて勝手知らずの新入生でごった返すことが予想される時間帯を選んでわざわざ行く必要もない。
弁当を持参していた玲衣のために一旦教室へと戻った後、四人は中庭を抜けて食堂に入った。
「何か綺麗なところだね!」
「食堂というよりはカフェに近い感じだな」
落ち着いた茶褐色のテーブルに椅子が四脚、圧迫感を感じさせないように十分な余裕をもって配置されている。テーブルの上には竜胆の花がさり気なく飾られていた。人工植物の柔らかな緑色や天井から降り注ぐ白色の電灯も、雰囲気作りに貢献している。
血気盛んな若者たちが腹を空かせて集う学生食堂といえば、もっと混沌としたところを想像していただけに、感動も一入だった。加えて、食堂内には緩やかなBGMまで流れているのだから、本格的だと思う。
いくつかのテーブルには他の学生の姿が見られたが、秋弥たちのような新入生グループではない。学年が上がるにつれて、一般科目に対して選択科目や専門科目の比率が増える関係上、上級生の授業時間は不規則になりやすい。その空き時間をこの場所で過ごす学生も多いようだ。
四人は壁際に空いてるテーブルを見つけると、その場所を陣取ってデバイスから学生食堂のメニューアプリを起動した。メニューは寮のものとは異なるようで、品数も圧倒的に多い。選ぶのに迷ってしまうが、とりあえず一通り眺めてから、四人は料理(玲衣はドリンクのみオーダー)を選び終えた。
ほどなくして給仕——地方から入学した学生を支援するために設けられた学生課から斡旋される公式のバイト——がやってきた。
「以上でご注文の品はお揃いでしょうか?」
それぞれの前に料理を並び終えると、給仕は言った。
白いレースで縁取られた黒のワンピースにフリルの付いた白いエプロンを組み合わせたエプロンドレス。左胸に添えられたワンポイントの赤い花飾り。学生食堂の給仕衣装は、校内の施設ということもあって肌の露出を最低限抑えたものが採用されている。その結果、衣装を着用する者に清楚さや上品さを付与させている。カフェのような雰囲気の学生食堂にはぴったりの給仕衣装だった。
四人を代表して、秋弥が給仕の言葉に頷く。
長い黒髪を頭の高い位置でポニーテールにまとめた給仕が深々と一礼して立ち去ろうとしたそのとき、給仕は一番離れた場所に座り、極力眼を合わせないように視線を逸らせていた堅持の存在に気付いた。
「……あれ、沢村くん?」
と、給仕が唐突に堅持の名を呼んだ。
「やっぱり沢村くんだ。ということはこちらの方は……沢村くんのクラスメイトさんだね」
給仕は堅持を除いた三人を不躾にならない程度に矯めつ眇めつ眺めた。
そして、腰に手を当てて上体を前に突き出すと、頬を膨らませた。それは先ほどまでの上品な所作とは打って変わって、ずいぶんと子供っぽい仕草だった。
「酷いな沢村くん。ボクに気付いてたのなら声を掛けてくれてもよかったのに」
しかし、その仕草は怖いくらいに、様になっていた。
「あー……悪い。そんなつもりじゃなかったんだ。仕事の邪魔しちゃあ悪いと思ってな」
堅持はバツが悪そうに頭を掻きながら、言い訳がましいことを言った。
「それに今日はバイトがないと思ってたから、ちょっと驚いちまってさ」
「うん。ボクも今日はオリエンテーションがあるから休みの予定だったんだけどね。どうしてもヘルプに入ってほしいって頼まれちゃって——」
堅持のおざなりな謝罪の言葉に対して、給仕は気を悪くした様子もなく、すぐに機嫌を直すと(もとより怒ったフリをしていただけのようだが)、胸の前でトレイを抱えた。
「ボクとしてもバイトの初日から休むのは、事情があっても心苦しかったからね。ちょっと早い時間だけど、お昼の時間が終わるまでは、皆のお手伝いすることにしたんだ」
「ねぇねぇ、堅持。お取り込み中のところ悪いんだけど、あたしたちにもこの綺麗な人のことを紹介してくれないかな?」
と、二人の会話に割り込む形で玲衣が皆の疑問を尋ねた。
こういう場面でもまったく物怖じしないのは、彼女の持つ美点だと思う——人によってはかなり不躾と紙一重な美点ではあるが……。
「あぁそうだったな。こいつは——」
「太刀川です。皆さんと同じ一年生で、一組です」
給仕——太刀川はスカートを指先で軽く摘まんで、あいさつのためのお辞儀をした。
続いて玲衣、綾、秋弥の順で自己紹介を終えると、まずは玲衣が口を開いた。
「さっそくこんな綺麗な女の子と知り合いになってるなんて、堅持は本当に手が早いよね」
「……そう思うか?」
玲衣の皮肉気な口調にこれまでの堅持ならムキになって突っかかりそうなものだったが、今回は何故か、声のトーンを落としただけだった。
どうにも様子がおかしかったので、秋弥も便乗して彼を弄ってみることにした。
「お前がそんなやつだったなんてな……。堅持、俺はお前のことを少し誤解していたようだ」
「秋弥まで!? どういう意味に解釈すりゃ良いんだよ、その言葉!」
「沢村君……不潔です」
「えぇ、朱鷺戸さんも!?」
「実は……沢村くんには夜な夜な、こんな公然の場所ではとても口に出せないようなあんなことやそんなことを——」
「ちょっと待とうか太刀川ぁ!」
秋弥たちの白々しい棒読み台詞とは違い、口元に手を当て、瞳を伏せて俯くという太刀川の演技は、何処か真に迫るものがあった。
全員から追い討ちをかけられた堅持が、肩で息を切らせながら大きく深呼吸をする。
グラスに手を伸ばして、乾いた喉に一気に水を流し込むと、太刀川が空になったグラスにすかさず冷水を注いだ。
「……いいか。お前らは大きな思い違いをしている」
「堅持に弁解の余地はないのだけれど」
「あるよ! ていうか、頼むからさせてくれ!」
容赦のない玲衣の言葉にもう一度声を荒げてから、咳払いをして太刀川を指差した。
「お前ら、こいつを見てどう思う?」
「人のことを指差しちゃいけないって、小さい頃に教わらなかったの?」
「牧瀬はちょっと黙ろうか! 話が全然進展しないだろ! そこはこの際ちょっとぐらい大目に見てくれよな!」
あまりにも堅持が不憫に思えてきたのと、彼の言うとおり話が全然進まなかったので、秋弥は玲衣に目配せして止めさせる。
堅持に指差された太刀川は胸の前で抱えていた銀のトレイをわずかに上へとずらして、口元と胸元を隠した。それを見た玲衣がまた何か言いたそうな顔をしていたが、無言の視線でそれを抑える。
不躾にならないように注意しながら、秋弥は改めて太刀川の全身を眺めた。ポニーテールでまとめている艶やかな黒髪は腰下まで届いてる。髪の色がエプロンドレスの黒と見事に調和していた。学生食堂用の給仕服とはいえ、実は太刀川が着るために用意した衣装だと言われても納得してしまうだろう。背丈は女子の平均と比べてやや高く、背筋をピンと伸ばした綺麗な姿勢やエプロンの紐で結われた細いウェスト、スラリとした細身な身体も相まって、凛とした印象を印象付けていた。
顔を上げると、太刀川は小さな顔に黒目がちな瞳を細めてかすかに微笑んでいた。
その仕草に、秋弥は違和感を覚えた。
「どうって……とっても綺麗で可愛い女の子だよね。どんなシャンプーを使ったらこんなにサラサラな髪にになるのかな。後でこっそり教えてくれないかな?」
髪のひと房を手に取り、玲衣はその感触を確かめながら言った。
綺麗と可愛いは同居が難しい表現のような気もするが、そこは女子にだけわかる違いがあるのだろう。
「えぇ、良いですよ。牧瀬さんの髪型も素敵ですね。行き付けの美容院とかあるんですか?」
「なんで自然なガールズトークしてるんだよ! ってあぁ、ガールズトークって言っちまった! ちくしょう……」
一方、堅持は何故か自分の言葉に頭を抱え込んでいた。
「……いや、そうじゃない。牧瀬、お前今なんて言った?」
「サラサラになるシャンプーの話?」
「んなこたぁどうでもいいんだよ! 今は、こいつを見てどう思うかって話をしてんだ!」
「女の子にとって髪は命なんですけど。だから堅持はモテないんだよね」
「さりげなくオレを貶さないでくれますかね!」
知った風なことを言いやがって……と、これは隣に座っていた秋弥にだけ聞こえる声で呟いた。
「えっと、綺麗な女の子って言ったつもりだけど。それ以外に答えようがないと思うわよ」
秋弥と綾の二人も首を縦に振って玲衣に同意した。
互いにベクトルは違えど、玲衣と綾も十分に美少女と呼んで差し支えないが、太刀川もまた彼女たちとは違うベクトルを持った美少女に見えた。
だが、堅持の反応は違った。
俯かせていた顔とテーブルの隙間から、押し殺したような笑い声が漏れ出す。それもすぐに堪えきれなくなって、腹を抱えて笑い出した。
「綺麗な女の子だってよ。ははっ、笑えるな。太刀川、満足か?」
「ボクに振られても正直困るんだけど……。ねぇ、やっぱり話さなきゃいけないの? 別にこのままでも良いんじゃないの?」
「……いいや。現実というのはな、ときに残酷なものなんだよ」
堅持は困ったような表情の太刀川と二人だけの間で通じるやりとりを交わす。
笑うのをピタリと止めた堅持が真面目くさった表情をしてそう言うと、
「……わかったよ。それじゃあボクの口から伝えるね」
少しの間逡巡した素振りを見せてから、太刀川は表情を引き締めて女子二人に向き直った。 そして、おもむろに頭を下げた。
「騙すつもりはなかったんだけど、ごめんなさい。ボク、女の子じゃないんです」
一瞬、太刀川の言葉の意味が理解できなかった。
下げた頭を元に戻して、申し訳なさそうに瞳を伏せる。
女子用の給仕服を着用し、どう見ても女の子にしか見えない女の子が女の子じゃないとはどういうことだろうかと、秋弥も良い具合に混乱してきたところで、太刀川はさらに言葉を続けた。
「改めまして、ボクは太刀川夜空と言います。沢村くんと同じ寮生で、ルームメイトです」
その言葉を証明するように、ワンピースのポケットから学生証を取り出してテーブルの上に置いた。確かめてみると、太刀川夜空という姓名欄の隣にはっきりと『MAN』と記載されていた。……証明写真はどう見ても女の子だったが、正真正銘、嘘偽りのない男子学生だった。
「……」
「……」
「……いや、正直言って驚いた。全然気付かなかったよ」
三人の中でいち早く驚愕から立ち直ったのは秋弥だった。思えば、太刀川の仕草や行動は何もかもが本物以上に本物すぎていた。計算し尽くされた演技と言い換えても良いかもしれない。秋弥が感じていた違和感の原因は、これだったのだ。
残りの女子二人は彼女——いや、彼が自分たちと同じ女の子ではなかったことが信じられないようで、呆然とした表情のまま固まってしまっていた。
「本当にごめんなさい。隠すつもりはなかったんだけど、言うつもりもなかったから。それなのに、沢村くんが簡単に種明かししようとするから……」
夜空は非難の眼差しを堅持へと向けるが、その台詞もどうなのだろうと思う。知らぬが仏ということだろうか。
と、まるで呪詛を唱えているのでないかと疑ってしまうほどのボソボソとした声が近くから聞こえてきた。
「……だってだって、あたしよりも顔が小さくて? 背が高くて? 髪が綺麗で? こんなに可愛い……」
「……私、女の子としての自信がなくなっちゃいました……」
声の主をわざわざ探すまでもない。
どうやら玲衣と綾がショックから立ち直るまでにはもうしばらく時間が掛かりそうだった。
後ろ髪を引かれるような思いの夜空には堅持からの事後報告を約束させて給仕の仕事に戻ってもらうことにして、二人に葉できれば昼休み時間中に復活して欲しいなと、秋弥は昼飯を食べながら思っていた。
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本棟は地上六階建ての建物で、東側と西側の建物を中央の渡り廊下が繋いでいる。
西側は教室棟とも呼ばれており、学年ごとに教室のある階が異なっている。二階部分が一年生で、上の階になるほど学年が上がっていき、一階部分は教員室や事務室となっている。
東側は本棟と渡り廊下で繋がる講堂を合わせて多目的棟とも呼ばれている。多目的棟には実験室や音楽室、美術室などの多目的施設や、『学生自治会』、『治安維持会』という封術学園の二大委員会専用の会議室がある。
本棟一階の中央廊下は中庭と繋がっている。中庭には色鮮やかな花木が植えられており、天気の良い日にはベンチや芝生の上で食事を取る学生も多いようだ。
先ほどまで秋弥たちのいた学生食堂は、中央廊下の南側に位置している。中庭を抜けていく以外に、東側と西側の南部分が中庭と隣接しているので、そちらを通って食堂に行く事もできる。
本棟および多目的棟は立体オブジェクト地図の俯瞰視点モードで確認すると、英字の『O』とハイフン、それに英字の『A』を逆さにしたような図形を繋いだ形に似ている。
さらに学生食堂の真上——多目的棟と教室棟の二階南部分には図書館があり、三階部分だけは南側にも東西を繋ぐ渡り廊下がある。
本棟の広さは特別訓練棟と同程度ほど。時間内に全てを見て回ることができないと判断した秋弥たちは、四階より上の階を見学ルートから外した。
まずは三階の図書館を見てから多目的棟の三階、二階を見た後、中央廊下を通って自分たちの教室がある教室棟二階、一階、そして最後に一階の中央廊下を通って多目的棟一階と渡り廊下、講堂という順路を選んだ。
「結構歩いたな。これでオリエンテーションも終わりか」
「施設はもっといろいろあるみたいだけど、スケジュール的にはそうなってるね」
「袋環センセがルートから外したってことは、きっと学業とはあまり関係がない場所だってことだろ」
「でもそう考えると、私には別棟を見て回った意味があまり良くわかりませんでしたが……。九槻さんにはわかりましたか?」
「んー……そうだな。これは俺の私見だから鵜呑みにしないで欲しいんだけれど」
と、秋弥は前置きをした。
「封術師見習いの学生は今の日本にとって貴重な人材だってことはわかるな? その中でも寮生は基本的に二十四時間、学園内にいることになる。他の棟ならある程度は封術教師の目が届く範囲だが、別棟に限っては教師が当直をしているわけでもない。だから、他の棟に比べて厳重なセキュリティを敷いて安全を確保している。それを寮生以外の人にも知ってもらって、普段の私生活においても注意を促したかったんじゃないかな」
考えすぎかもしれないが、あながち間違いでもないように思える。
この辺りの意図については袋環から然るべき説明を受ける必要があったかもしれない。否、むしろ袋環の性格を思えば、学生から質問されることを待っていたという可能性すら考えられる。
今更のことだが、秋弥たちのクラスはオリエンテーションの体裁をほとんど保っていなかった。
「はぁ……。そんなこと、考えもしていませんでした。九槻さんってやっぱり凄いですね」
「さすがシュウ君だねっ」
そんな秋弥の考えを余所に、考えすぎにも思える私見に対して女子二人から称賛を受けて、彼は内心で溜息を漏らした。
次の時間は装具選定なので、必然的に袋環とも顔を会わせることになる。そのときにでも答えを尋ねてみようかと思った。
「それじゃあ次はいよいよ装具選定だな。楽しみだよなぁ、やっぱさ」
講堂を抜けて再び特別訓練棟へと向かって歩きながら、堅持が待ち切れないといった様子で拳を強く握った。
「系統の自己分析はしたの?」
「あぁ? んなもん必要ねぇって」
「ま、堅持の場合は強化型一択だもんね。綾もそう思うでしょ?」
「えっと……そうですね。何だかそんな感じがします」
和気藹々とした雰囲気の中にも、それぞれに緊張の色が見え隠れしていた。
2013/01/02 可読性向上と誤記修正対応を実施