第35話「2053/08/21 12:19:00 九槻秋弥」
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考えてみれば、星条会長と自治会室で二人きりになったことはこれまでに一度もなかったように思う。
というのも、自治会室にはほとんどの場合において治安維持会の会長であり、星条会長と同学年で同じ封魔師専攻のスフィア会長が居座っているからだ。
そうでなくとも、五月半ば頃に同じクラスの天河聖奈が自治会役員を拝命してからは、事あるごとに天河と一緒に自治会室を訪ねるようになった。そのため、俺が自治会役員として一人で行動していた期間は実質、二週間にも満たないのだった。
ゆえに、星条会長と二人きりという状況はこれが初めてのことだった。
だからといって、俺は別段気負ったりはしていない。
俺は自治会室のソファに腰掛けると、ブレスレット型の高機能多機能携帯端末を起動させた。
ホログラムウィンドウとキーボードが投射されるのを待ってから、早速自治会の仕事に取り掛かろうとした。
「……」
「……」
「……つまんないなあ」
ぼそりと呟いたのは、もちろん俺ではない。
俺の隣に腰掛けて、ジッとこちらを見詰めている星条会長だ。
頭を動かさずにちらりと視線だけを横へ向けると、星条会長は不機嫌そうな表情を浮かべていた。
「せっかく秋弥君が来てくれるのを待ってたのに、いきなり仕事とか始めちゃうんだ」
「そのために来たんだから、当たり前でしょう」
俺は、その言葉が地雷であることを承知した上で、あえて言い切った。
すると、
「そうだけど! そうなんだけど! 秋弥君には乙女心がわかってないのね、もうっ」
星条会長はぷいっとそっぽを向いてしまった。
「良いわ。だったら私も仕事するから。それで今日予定の作業が早く片付けたら、秋弥君で遊ぶから」
それを言うなら、「秋弥君と遊ぶから」じゃないのか……。
しかしまあ、そんなことにいちいち突っかかっていたらキリがない。
俺が来るまでの間、星条会長は執務用の席に座って仕事をしていたのだろう。
星条会長は一旦ソファを離れると、手にいくつかの資料を抱えて、再び俺の隣に腰掛け直した。
どうやら、ソファに座って自分の仕事を続けることにしたらしい。
それから暫くの間、俺たちは黙って自分の仕事を続けた。
聞こえるのは空調のまわる音と、時折「う〜ん」と唸る星条会長の声だけだった。
余談だが、デバイスが投射するホログラムキーボードにはタイピング時の音がない。システム上で任意に設定することもできるのだが、わざわざ設定する必要もないだろう。
その他にもキーピッチやキーストロークなどの設定もある程度自由に変更することが可能だ。
しかし、押し込んだ際に指から伝わる抵抗だけは再現することができない。それを嫌って、ホログラムキーボードを使わない人もいるそうだが、持ち運びにも苦労しないし、片手操作用の設定も容易であるため、近年ではホログラムキーボードの使用が推奨されている。
なお、鷹津封術学園では講義にデバイスを用いていることから、学生たちは暗黙の了解としてホログラムキーボードの方を使っている。
ちなみに俺の使っているキーボードはダークグレイカラーで、キー上を滑るように指を動かしてタイピングするため、キーストロークはほとんどゼロに近い設定をしている。隣をそっと窺うと、星条会長のキーボードは手の大きさに合わせたコンパクトなサイズで、色は透明感のあるオフホワイト。フラットタイプのキーと、やや離れた位置にテンキーが常備されていた。
「……ねえ、秋弥君」
と——。
俺が仕事の合間に星条会長のキーボードに視線を向けていると、俺を呼ぶ声が聞こえた。
誰が、とはいちいち述べるまでもないだろう。
顔を上げると、星条会長が仕事の手を止めてこちらを見ていた。
しかし、その表情は先ほどとは打って変わっていた。
両眼でしっかりと俺を捉え、柳眉をやや寄せて表情筋を引き締めたその顔は、何かを決心したかのようにも思える。
「何ですか、星条会長?」
俺も仕事の手を休めて、星条会長の方へと向き直る。
「私ね、秋弥君と二人きりになったときに、訊こうと思っていたことがあるの」
いつになく真剣な口調だ。
たいていの場合、冗談かどうかは表情を見ればわかる。昨日も似たような口調で冗談話をされたが、あれは電話越しだったからわからなかっただけだ。
こういうときの星条会長は、絶対に冗談を言わない。
俺は無言を以て肯定の意を示すと、星条会長は小さく頷いてから口を開いた。
「秋弥君が自治会に入ったのは、お姉さん……月姫のためよね?」
真顔で何を言い出すかと思えば、星条会長が俺に尋ねたのは、俺が学生自治会に入った動機だった。
「そうですよ」
俺は間を置かずに即答した。
「昨年の四校統一大会。そこでいったい何が起こったのか。俺はそれが知りたいんです」
いつかは誰かに訊かれることだと思っていた。
だから俺は、予め用意していた答えを淀みなく声に乗せた。
四校統一大会は毎年いずれかの学校が主催校となって行われる封術の競技大会なのだが、昨年の主催校はここ——鷹津封術学園だった。
出場選手の管理や行事の運営を行っていた学生自治会に入れば、封術事故の真相が何かしら掴めるかもしれない。
そう考えて、俺は学生自治会役員となることを選んだ——。
「でもそれは理由の一部分でしかないのでしょう?」
だが、星条会長はさらに質問を重ねた。
「もしも秋弥君の言うことが全てなら、私からの最初の誘いを断ったりはしなかった。違う?」
鋭いな、と思う。
確かに俺が学生自治会に入ったのは、それだけが理由ではない。
学生自治会の『課外活動』のことが無ければ、俺は自治会に入ることはなかった。かといって治安維持会に入ることも、部活に入ることもなかっただろうけれど。
「秋弥君は私たちの『課外活動』を知ってから考えを改めたのよね。顧問封術師の浅間総一郎氏は、貴方ならきっとそうするだろうと仰っていたわ」
「……浅間さんが、そう言いましたか」
やはり浅間さんと学生自治会は裏で繋がっていたのか。しかし、今更それを知ったところで何の感情も沸き上がってはこなかった。
いや、俺はむしろ浅間さんに感謝すべきなのだろうか——遠回しな手を使ってまで、俺を学生自治会へと巻き込んだことに対する感謝を。
「秋弥君、私は貴方が自治会に入った本当の理由を知りたいの。もちろん、ただ興味本位で知りたいわけではないわ」
「理由を知って、どうするんですか?」
俺は出来る限り感情が表に出ないように努めた。それでも声は少しばかり強張ってしまったかもしれない。星条会長は視線を一切逸らさなかったが、その二色の双眸が微かに揺れたのが見てとれた。
「……私は知っておかないといけないのよ。星条の血を引く者として、封術師の将来を担うであろう、才能ある封術師見習いのことをね」
なるほど……。
今の会長を動かしているのは星条の血統だ。
会長は自分の意思ではなく、『星鳥の系譜』序列第一位、星条家の責務として、俺に尋ねているのだ。
これは、いわば選定だ。
力ある者が、その使い方を間違わないための、選定。
俺は黙って、星条会長の蒼い瞳を見つめた。
左右で色の異なる瞳だ。
右眼が黒で、左目が蒼。
澄み渡る空のような蒼い瞳の中で揺らめく粒子の正体は——封術紋か。
封術紋とはその名が示すとおり、紋様を刻むことによって封術の発動を可能にしている印のことを指す。封術紋には封術式だけでなく、発動の条件式や改変の効果時間式も含めているため、汎用性には欠けるが、繰り返し同じ術式を用いる際には重宝される。
間近で見るまでは気が付かなかったが、星条会長の蒼い左眼には、その紋様が刻まれていた。
眼球の水晶体に封術紋を刻むという常軌を逸した技術は、おそらく星条家独自の技術であろう。ともすればそれは神器よりもやっかいだ。俺が知る中でも最小のスケールで刻まれ、複数の線が複雑に絡み合った幾何学模様の封術紋がどのような特性を持った封術を発動しているか、簡単には解読できそうもない。
すべての封術は、術式の発動に伴って情報を改変・改竄する光——エリシオンの光情報流を発しているはずなのだが、封術の発動トリガーとなっている封術紋があまりに微小すぎて、色相パターンから性質を読み取ることすらも困難を極めた。
……やれやれ、嘘は通じそうにないな。
俺はゆっくりと息を吸って、吐き出した。もう一度吸い込んで、
「——あ」
「なんてね」
俺は言葉を発しようとして半開きになった口をそのままに、今度は正真正銘の無表情で会長を見詰めた。
おどけたように左眼を閉じてウィンクする星条会長。
その表情が柔らかいものに変わっていた。
「……訊かなくていいんですか?」
俺は、何故だか自分が酷く馬鹿げた問いかけをしているように思えてならなかった。
「うん。星条家の者として『課外活動』に従事する封術師見習いのことを知っておかなければいけないというのは本当のことだけれど、誰にだって話したくない事情の一つや二つはあるでしょう。特に、秋弥君の場合はね」
俺は痛いところを突かれて、苦虫を噛み潰したような顔をした。
だが、本当にそれで良いのか?
他人事とはいえ、会長は星条家の次期当主候補だ。知らなくて良いはずがない。
俺が言うのも何だが、危険因子となり得る存在ならば、早めに芽を摘んだ方が良いに決まっている。
「それにやっぱり、私の興味本位っていうのが大きかったから。だから、いつか本当に知るべきときが来たら、話してくれたら良いわ」
「……わかりました。機会があればそのうちお話します」
俺が『課外活動』のことを知ってから学生自治会に入ることを決めた理由。
それは俺の中に宿る隣神——リコリスに関係のあることだ。
リコリスの存在を知らない浅間さんにはまだ話していないことだが、既にリコリスの存在を知ってしまっている星条会長には、その理由を隠す必要はないと思ったのだが……。
本人が訊かないというのなら、俺の方から話すつもりもなかった。
「だけど、もう一つ」
と、会長はソファに両手をついて俺の方に身を寄せながら言った。
「ここなら、誰も見ていないから……」
艶めかしい声と、吐息。
高校に上がったばかりの男子諸君を勘違いさせかねない誘惑的な視線と表情。平均的な体型ながらも、身体に合ったサイズの制服を押し上げる二つの膨らみは小さすぎず大きすぎない。腰のくびれも大人の女性らしさをアピールしていた。
桜色の唇が小さく開き、甘い吐息が漏れ出す。
「ねえ、秋弥君」
「……なんですか?」
俺は、ほとんど無意識的に生唾を飲み込んだ。
それから数拍以上の間を開けて、
「私に、隣神リコリスと話をさせて」
会長はそう言った。
2013/01/05 可読性向上と誤記修正対応を実施