第33話「2053/08/21 XX:XX:XX 天河聖奈」
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乖離していた意識が身体と繋がって、わたしは目を醒ましました。
ここはいったい、どこなのでしょう?
床にはくすんだ色の絨毯が敷かれ、左右の壁には一定間隔で蝋燭の明かりが灯されています。
左側の壁には窓がありますが、景色は黒く塗りつぶされたように何も見えません。右側の壁には……風景画なのでしょうか。額縁に納められた絵画がいくつも飾られています。
古い洋館の廊下を思わせるこの場所は、わたしの記憶にはない場所でした。
わたしは状況を整理するために、記憶を思い返しました。
人型の隣神を追って狭い路地に入ったことは覚えています。
その奥——袋小路で人型を見失ってしまったことも、覚えています。
ですが、そこから先の記憶が途切れていて、次に思い出せるのはこの場所にいる自分自身でした。
つまり、人型を見失った後のわたしの身に何かが起こって、何者かにこの場所へと連れてこられたということでしょうか。
簡単な状況分析を終えたわたしは、向かって右側の壁に近付いて、正面から絵画を眺めてみました。
風景画にしては、何処か不自然にも思えます。何か重要なピースが足りていないような……、そこに当然有るべき何かが描かれていないような、どうしようもない違和感を覚えました。
そう、率直な感想を述べるなら——。
不吉で。
気持ちの悪い、絵画でした。
と、唐突に絵画に影が差しました。蝋燭の炎が風もないのにゆらゆらと揺れたからです。
蝋燭の炎は最低限の光量だけで廊下内を照らしているため、光源が揺れると、廊下には部分的に影が落ちるようです。
わたしはハッとなって、思い出したようにカード型のデバイスを取り出しました。
遅れながら、この状況を誰かに報告しようと思ったのです。
最初に頭に思い浮かんだのは、つい先ほどまで一緒にお買い物をしていた玲衣さんと綾さんでした。
ですが、わたしの現状を鑑みるに、まずは自治会役員の誰かに連絡をした方が良いでしょう。
この状況が人型の隣神によるものであるならば、『課外活動』として認定位持ちの封術師を必要とせずに封術を行使を可能な自治会役員への連絡が先だと考えたからです。
確か今日は、自治会のお仕事で星条会長と九槻さんが学園にいらっしゃるはずです。
わたしはスタンバイ状態にしておいたアプリケーションを開くと、役員の一覧から星条会長の緊急連絡先を参照しました。
そして呼出ボタンを選択しようとしていたわたしの指は、しかし、ウィンドウ上部に表示されたステータスに気付いて止めました。
ネットワークの接続状況を示すアイコンが、消えていたからです。
わたしは思わず目を見張りました。
二十一世紀も折り返した現代では、世界各国が打ち上げた数多の衛星基地局によって、世界中何処にいてもネットワークが繋がるようになっています。
『ネットが繋がらない場所』を考慮する必要がない以上、接続を遮断する方法は意図的に設定変更を行うか、妨害電波によるものしか考えられません。ですが、前者は考えるまでもないでしょう。とはいえ、わたしは念のためデバイスの設定情報を確認しましたが、やはり何の問題ありませんでした。
であれば、何らかの妨害電波が発信されているのでしょうか。
何にしても通信が行えないのであれば、通話もメールも実行するだけ無駄でしょう。
無駄だと知りつつも、それでもわたしは呼出ボタンを押してみました。
発信音が鳴って、二十秒。
やはり、電話は繋がらないようです。
外部への連絡手段を失ってしまったわたしは途方に暮れました。
——…ン。
すると、不意に何かが聞こえました。
重厚な金属を響かせたような、低い音だったように思えます。
「——」
意識を集中すると、もう一度、今度ははっきりと聞こえました。
ゴーン、ゴーンと。
鐘の音のような音が響いていました。
わたしはその音が聞こえる方——廊下の奥へと歩き出しました。
薄暗がりであることと、左右に蝋燭の炎が揺らめいていることが原因なのでしょうか。真っ直ぐのはずの廊下が陽炎のように歪んで見えます。
平衡感覚を狂わされるような気持ち悪さを覚えながら、わたしは重い足取りで廊下を歩きました。
奥へ進むにつれて、音はだんだんと大きくなっていきました。
「……え?」
ですが、わたしの進んだ先には壁しかありませんでした。
音はどうやら、この壁の向こう側から聞こえてきているようです。
何処かに通り道があるのでしょうか。
わたしは左右に眼を向けましたが、隙間ひとつ見当たりません。
いえ……ひとつだけありました。蝋燭のか弱い光量によって黒に塗りつぶされていたように見えただけで、わたしが壁と思い込んでいた廊下の突き当たりには、人がひとり通り抜けられるほどの小さな扉があったのです。
わたしは屈み込んで、まるでドールハウスのようなサイズの両開きの扉に手を掛けました。
手前側に引いて、扉を開きます。
四つん這いになってようやく通り抜けられるような狭い入口でしたが、わたしは意を決すると、その中へと入りました。
さらに狭くなった通路の先に、わずかですが明かりが見えます。
わたしははやる気持ちを抑えながら、さらに奥へと進んでいきました。
出口へと近付いたわたしは、そっと部屋の様子を窺いました。
女子寮の寮室よりも断然広い空間の真ん中に、白いクロスの敷かれたテーブルの脚が見えました。椅子は十脚ほどあって、どれも人が座っている様子は見られません。
わたしは音を立てないよう慎重に、狭い通路から出ました。
皺一つ無いテーブルクロスの上には何も置かれていませんでしたが、おそらくこの部屋は食事をするところなのでしょう。
天井を見上げると、豪華なシャンデリアが釣り下げられ、柔らかな光を放っていました。
わたしはふと、自分が何処から出てきたのか気になって、振り返りました。
煉瓦を積み上げて作られたそこは、なんと暖炉でした。
どうして扉の繋がっていた先が暖炉の中なのか、わたしは首を傾げました。
続いて、洋服に視線を落としましたが、洋服には煤の汚れひとつなくて、わたしは暖炉がずっと以前から使われていないことを知りました。
「遅いよ、キミは何時迄このボクを待たせれば気が済むんだ」
唐突に、わたしは誰かから声を掛けられました。
振り返ると、先ほどまでは何も置かれていなかったテーブルの上に、いくつものデザートが並んでいました。
そして、テーブルの向こうに、誰かが座っていました。
「いいから早く座りたまえよ」
シルクハットから二本の長い耳を生やしたうさぎさんが、口をもごもごと動かしながら言いました。
うさぎ?
それは間違いなく、うさぎでした。
シルクハットを被り、原色をふんだんに使ったストリート系ファッションに身を包んだ紅い眼の人型うさぎが、椅子に座っていたのです。
わたしは有り得ないものを見て眼を丸くしました。そして、言われるがままに、さながら人形のようにぎこちない動きで、うさぎさんの正面の席に座りました。
「全く全く、時間はもうとっくに過ぎているというのに」
「……時間?」
わたしは問い返しました。
「そう、時間さ」
「わたしは何も訊いてませんよ」
「そりゃそうだよ、ボクはまだキミに何も言っていない」
「意味がわからないのですけど……」
「意味なんてないよ、言葉にはね」
そう言って、うさぎさんはおもむろにティーポットを手に取ると——その手は人の手をしていました。うさぎさんの頭はひょっとしてかぶり物なのでしょうか——ポットの注ぎ口を咥えて、中身をちゅーっと吸い出しました。
——カップに注ぐのではないのですね……。
わたしは内心で呟きました。
「ところで、この料理は全てキミのために用意したのだけれど、まるで手を付けていないね」
「え、えぇ……。せっかくだけれど、遠慮しておきます」
「そうかい、それは残念だよ。いや何、キミが気にする必要はないさ。全くない。まあキミの知らない誰かが、知らないキミのために自らの時間を割いて作った料理が無駄になるだけの話だからね。キミには何の関係のない話さ」
「……」
どうしましょう。何故だかわたしは、酷い罪悪感を覚えてしまいました。
「そうだ。ボクの誕生日祝いに来てくれたキミのために、プレゼントを用意してあるんだ」
「わたしが、もらえるのですか……?」
わたしはいよいよ混乱してきました。
うさぎさんが何を言っているのか、わからなかったからです。
うさぎさんの言葉から推測すると、どうやらわたしはこのうさぎさんの誕生日会に招かれた客人のようなのですが、わたしには招待された覚えはありません。
「そうだよ、当たり前じゃないか。誕生日のプレゼントなんだからね」
口をもごもごと動かして言ったうさぎさんは、指をパチンと鳴らしました。
すると、わたしの目の前に小さな箱が現れました。
赤と白の包装紙にリボンを結びつけた箱です。
「さあ、開けてみてくれないかな」
掌を見せてプレゼントを開けるよう促すうさぎさんに、わたしはついに、警戒心を高めました。
この状況は、明らかに異常です。
これまで何の実害も無かったために何となく話を合わせてきましたが、さすがにこれ以上は見過ごせません。
これはきっと、隣神による精神攻撃の類いなのでしょう。
とすれば、攻撃者は狭い路地で見かけた人型の隣神でしょうか。
わたしは視線を落とすと、うさぎさんからは死角となっている膝の上で、装具の召還を試みました。
これが隣神による精神攻撃であると仮定すると、隣神の心象世界では装具の召喚が封じられている可能性もありました。ですが、幸いにもわたしはうさぎさんに気取られることなく、装具を召喚することに成功しました。
わたしはその存在を確かめるように、杖型の装具をぎゅっと握りしめます。
封術師見習いが一人で封術を使用することは禁じられていますが、この場所はおそらく、わたしの夢の中と同じ無意識領域の何処かなのでしょう。であれば身体と精神が現実世界のわたしと乖離されている以上、誰に咎められるということもないはずです。
わたしは膝の上に装具を置いたまま、プレゼントのリボンを静かに解きました。
その最中、わたしは意識領域において封術式の構築を始めていました。
箱の中から何が飛び出してきても、即座に対応できるように備えてです。
うさぎさんが棗型の大きい瞳でこちらを見ています。うさぎさんの感情は読み取れませんでしたが、その紅い瞳はシャンデリアの光に照らされてキラキラと輝いていました。
わたしはプレゼントの包装紙を丁寧に剥がすと、箱の蓋を開ける前に包装紙を綺麗に折り畳みます。
その行動に別段意味はありませんでしたが、わたしは普段そうしているように振る舞いました。
そうしてわたしはいよいよ箱に両手をかけると、ちらりとうさぎさんの方を窺ってから、ゆっくりと蓋を持ち上げました。
「………………?」
身構えていたわたしは、箱の中身を覗き見て、眼を瞬かせました。
何故なら——箱の中には何も入っていなかったからです。
「どうかな?」
うさぎさんが長い耳をピクピクとさせながら尋ねてきました。
「どうも何も……何も入っていませんよ?」
「何も入っていない! 何も入っていないとキミは言ったのかい!?」
「えぇ……」
プレゼントを入れ忘れたのでしょうか……。
「やれやれ、プレゼントが逃げてしまったのかな」
首を振るうさぎさんの動きに釣られて、耳が左右に揺れます。
わたしはもう一度箱の中に視線を向けました。
ですが、見返してみたところで、やはり箱の中は空っぽで、底面の白い色だけが全てを物語っていました。
「何を入れていたのですか?」
わたしは単なる興味本位から、そう尋ねました。
「さあね。それはたぶん、キミが喜ぶものだよ」
わたしが喜ぶもの……。どうにも要領を得ません。
「たとえばそれは希望や絶望、眼で見ることのできないあらゆるものさ」
「——っ!?」
わたしは反射的に箱の蓋を閉じました。
それではまるで『パンドラの箱』のようなものではありませんか。
「何を慌てているのかな。心配しなくても箱の中身は初めから空っぽだったのさ」
「……」
うさぎさんはティースタンドからスコーンを一つ取り上げると、ストロベリージャムをたっぷりと塗ってから元の場所に戻しました。
食べないのでしょうか……。
「さて、キミとの楽しいおしゃべりの時間もそろそろお終いのようだ」
「……何か用事があるのですか?」
わたしは箱をそっと押して手元から遠ざけると、膝の上に両手を戻しました。
「用事という程のものでもないさ。キミにとっても、ボクにとってもね」
うさぎさんはポケットから懐中時計を取り出すと、蓋を開いて時間を確認しました。
「ふむ……、面白い時間だ。早速準備に取り掛かろう」
親指を使って懐中時計を跳ね上げるうさぎさん。
懐中時計と洋服は細い鎖で繋がっていたのですが、勢い良く宙に舞った時計はそのまま天井にぶつかると——天井から落ちてはきませんでした。
しかしそれを気にする様子も無く、うさぎさんは席を立ちました。
「何処に行かれるのですか?」
わたしも椅子を引いて席を立ちました。両手には装具をしっかりと握りしめています。
「此処ではない何処かに決まっているよ」
正面から対峙したうさぎさんは、円柱状の高いクラウンを差し引いても、とても背の高い人物……いえ、動物でした。
「……わたしが、貴方を逃がすと思っているのですか?」
「逃がす? 穏やかじゃないね。だけど、逃げるつもりはないよ」
飄々とした受け答えに対して、わたしは装具を向けました。
ここがたとえ何処であろうと、わたしは目の前の隣神を易々と逃がすつもりはありませんでした。
「これ以上キミに構っている時間はボクには無いんだよ。これ以上遅刻をしたら、ボクの頭部はこの身体と永遠のお別れしてしまうからね」
どうやら時間はとっくに過ぎているようです。
もしかすると、最初にうさぎさんの言っていた時間とは、そのことだったのかもしれません。
「キミにもそろそろ迎えが来る頃だろう。今日のところは記念すべき日だから、キミを逃がしてあげるけれど、ボクは気まぐれだからね。次もこんな風に温厚なボクに出会えるかはわからないし、それに、もうじきお目覚めになられる我らが女王様は、あらゆる可能性世界においても気難しい方であらせられるからね」
うさぎさんはシルクハットの鍔を持って帽子を脱ぐと、慇懃な態度で一礼しました。
「では、御機嫌よう」
そう言って、うさぎさんは反対の手で指を鳴らしました。
パチン、と。
音が響くと同時に、うさぎさんは一瞬にして目の前からいなくなってしまいました。
後に残っていたのはわたしと、テーブルの上のデザート。
それと、うさぎさんの着ていた洋服だけでした。
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うさぎさんをあっさりと逃がしてしまったわたしは、途方に暮れていました。
何故なら、隣神の精神攻撃から脱する手がかりもまた、同時に失ってしまったからです。
わたしは杖型の装具を仕舞うと、椅子に座り直しました。
他に、この場所から脱出する手段はあるのでしょうか。
見たところ、この部屋には暖炉以外の通り道は無さそうです。
……いえ、そういえばひとつだけありました。
わたしは天井を見上げました。
そこには、うさぎさんが懐中時計をぶつけてできた穴がぽっかりと空いていたのです。
ですが、わたしが背伸びをしたとしても天井には指先ひとつでも届きそうにありません。
封術を使えば高く飛び上がることくらいは可能ですが、万が一にも何処から見ているかもわからない攻撃者を刺激してしまい、精神の牢獄に永久に閉じ込められてしまってはどうしようもありません。
そんなときでした。
わたしの耳に、低く鳴り響く鐘の音が聞こえてきたのです。
その音に耳を傾けているうちに、わたしの意識はいつしか深い微睡みへと沈んでいきました。
頭がぼんやりとして焦点がはっきりと定まらず、身体中からは力が抜けてしまいました。
そのままテーブルへと突っ伏してしまったわたしの意識に、最後に届いてきたのは鐘の音ではなく——。
「……せいな」
わたしの名前を呼ぶ、あの声は——。
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その後のことは何も覚えていません。
気が付くとわたしは、鷹津封術学園女子寮の寮室にいて。
ベッドの上に横たわっていたわたしの傍には、玲衣さんと綾さんの姿がありました。
わたしはいつの間にか、『夢』を見ていたのです。
隣神が現れる『悪夢』を——。
ですが、その『悪夢』は今までの『悪夢』とは少し違っていて。
思い返してみれば、奇妙な姿をしたうさぎさんとの出会いは、姿形を変えて何度も見続けている『悪夢』の終わりへと、繋がっていたのだと思います。
そして同時に、『夢』がわたしの『現実』を徐々に浸食し始めた瞬間でもあったのでした——。
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余談になりますが、わたしが眠っている間にもいろいろな出来事があったようです。
そう……たとえばどうして、わたしが寮室で眠っていたのか、とか。
ですが、その辺りのお話については人づてに聞いただけなので、わたしからは何もお話しするつもりはありません。
……だってまさかそんな、九槻さんに……。
2013/01/05 可読性向上と誤記修正対応を実施