第30話「2053/08/21 10:55:00 天河聖奈」
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強い日差しを浴びていると、動かずにジッと立っているだけでもうっすらと汗が滲んでくるほどの暑さでした。
わたしは太陽の光を遮るための白い日傘を差して、綾さんと並んで歩いていました。
余談ですが、紫外線を防ぐことを目的として日傘を用いるのであれば、白よりも黒の方がより効果的だと言われています。というのも、白は反射、黒は吸収の特性を持っているからです。たとえば地面からの照り返しにしても、白の場合は内側から日差しをさらに反射させてしまいますから。
では、何故わたしが白の日傘を用いているかと言うと、吸収特性を持つ黒の日傘は、同時に熱も吸収してしまうためです。
本当ならば日傘を差さなくても、紫外線をカットするクリームを肌に塗ることでほとんど防ぐことができますが、これも外出する際の注意点として女学院で教わったことなのです。
それに、黒い日傘では全体が暗い印象になってしまいますから。
「聖奈さんはあまり学外には出たことがないんだよね?」
「聖條女学院では必要以上の外出は認められていなかったので……。長期休暇中の帰省や法事などの慶弔休暇でもなければ、外出の許可はほとんど下りることはありませんでした」
「……そうなんだ。いろいろと大変なんだね」
大変、と。
そう言われても、わたしにはピンと来ませんでした。
だって、それがわたしにとっての普通でしたから。
幼稚舎からずっと——十年近くもの間、両親のところには一度として帰ることなく聖條女学院で過ごしてきたわたしにとって、それは呼吸するのと同じくらい、当たり前のことでしたから。
「あれ……ということは聖奈さん。それなのに良くホテルで一人暮らしなんてできたね」
「滅多に外に出たことがないといっても、院外での礼儀作法については女学院できちんと教わりましたから」
「あ、そうなんだ……」
何処かたじろいだ様子の綾さんですが、わたしが何かおかしなことでも言ったでしょうか?
確かに最初は戸惑うこともありましたが、大抵のことは高機能高性能携帯端末があれば解決できる世の中ですので、困ったことやわからないことがあれば、そのたびに逐一調べれば何とかなりました。
それでも、今思えばあの頃は危ない橋を渡っていたような気もします。
だって、目に映るモノの多くが初めて見るモノ、経験するモノばかりでしたので、あっちに目移り、こっちに目移りで興味を引かれることばかりでしたから。
それをわたしは無理矢理に自制して、学園からホテルまでの道のりを毎日一直線に往復していました。
「それじゃあ今日は、買い物をしたりご飯を食べたりして、三人でいっぱい楽しもうね」
綾さんの眩しい笑顔を見て、わたしの顔にも自然と笑みが浮かびました。
友人とお買い物をするというのは、恥ずかしながら初めての経験です。
聖條女学院にも友人はたくさんいましたが、それは学院の中に限った話であって、こうしてお友達と一緒に外へ出かけたことは一度もありませんでした。
十年近くもの間、一度もです。
だから今日は、とても楽しみでした。
前日から楽しみで、うまく寝付けなかったほどです。
そのおかげか、その日はあの夢を見ることもなかったのですが——。
「玲衣さんはもう待っているでしょうか?」
「どうかなあ……時間にはしっかりしてる方だと思うけれど」
玲衣さんとの待ち合わせの場所は駅前の広場です。
今日のお買い物計画を立案してくれたのは、玲衣さんでした。
夏季休暇に入る少し前にみなさんで計画を立て始めて、夏季休暇に入ってからもメールでみなさんの予定を調整しながら、今日のこの時間に決まったのです。
残念ながら奈緒さんとは予定が合わなかったのですが、奈緒さんは「三人で楽しんできてね」と言ってくださいました。
「もうすぐ広場だよ。待ち合わせの目印は……ほら、あそこに見えるモニュメントなんだけど、玲衣ちゃんは何処にいるんだろうね」
こちらから到着のメールを玲衣さんに送れば良いのではないかと思いましたが、こうして待ち合わせ相手を探すことも『待ち合わせ』の醍醐味なのだろうと思い直して、わたしも周囲へと視線向けました。
とはいえ、駅前は人通りも多く、雑多な場所にあまり縁の無かったわたしは右に左に行き交う方々をすべて眼で追おうとしてしまい、結果、必要以上に疲れてしまいました。
そうして余計な力が瞳から抜けた、そのときでした。
人垣の中に、玲衣さんの姿を見つけたのです。
わたしは綾さんに知らせようと思って振り返りました。少し離れたところでキョロキョロと辺りを見回している綾さんのところまで駆け寄って、玲衣さんを見つけた場所を伝えました。
「あれ、誰かと話してるのかな?」
綾さんと一緒に玲衣さんのところまで歩き出そうとしたわたしたちでしたが、思わず足を止めました。
見ると、玲衣さんはただ待っているだけではなく、誰かと話をしているようでした。人通りが激しくて相手の顔まではわかりませんでしたが、一人ではないようです。
わたしたちは何となく妙な胸騒ぎを抱きつつも、とりあえず玲衣さんの視界に入るところまで移動をしました。
すると、玲衣さんはすぐにわたしたちに気付きました。
「あっ、シュウく〜ん!」
と、いきなり玲衣さんは大声で名前を呼びました。
それは、玲衣さんが九槻秋弥さんを呼ぶときの愛称でした。
何故、とわたしは訝しみました。どうしてここにいない人物の名を玲衣さんは呼んだのでしょう。
玲衣さんは明後日の方を向いて、大きく手を振ります。そうすると玲衣さんを囲んでいた数人の男性たちは口々に何やら言葉を残しながら、玲衣さんから離れていきました。
玲衣さんは彼らの後ろ姿を一瞥もせず、手を振った方向へと走って、わざわざぐるりと遠回りをしながら、わたしたちのいるところにやってきました。
「お待たせっ!」
太陽のように元気な声で、玲衣さんは言いました。
「こんにちは、玲衣さん」
わたしは反射的にあいさつを返しました。
「今日は九槻さんも来られるんですか?」
そのような話は聞いていなかったので——というより九槻秋弥さんは自治会の仕事で学園に登校しているはずなのですが——わたしは首を傾げました。
その様子を見て、玲衣さんはおかしそうに笑いました。
「違う違う、あれはウソ。綾たちを待ってる間に変なナンパに捕まっちゃって。いつの時代よって感じだったんだけど、結構しつこくてね。適当にあしらうのにシュウ君の名前を貸してもらったってわけ」
玲衣さんが軽い調子で話します。言われてみれば男性の一人が去り際に言った「ナンパ待ちじゃねぇのかよ」という聞き慣れない言葉の意味が、わたしにも何とか理解できました。
わたしはふと、玲衣さんの私服姿に眼を留めました。
玲衣さんは七分丈の袖と短め丈の裾が広いキャメルのワンピースに細い帯のバックルを付けて、下は落ち着いた色合いのカットソーパンツ。靴はカジュアルなスニーカーを履いて、腕にはワンポイントの白いシュシュを付けていました。
普段、封術学園で制服姿の玲衣さんしか知らないわたしの眼には、玲衣さんの私服姿がとても新鮮に映りました。
男性が声を掛けたくなる気持ちもわかります。玲衣さんみたいな方が聖條女学院に通っていたら、きっと多くの同級生や下級生に慕われていたことでしょう。
「や……あんまり見られるのは恥ずかしいかも」
「ご、ごめんなさい!」
つい玲衣さんのファッションが気になってしまい、失礼をしてしまいました。
やや頬を上気させた玲衣さんが、今度はわたしたちの方を上から下まで眺めました。
視線が何度も上下して、玲衣さんが「うぅむ……」と唸ります。
「……綾はフレアキュロットかぁ、ちょっと意外だったかも。聖奈さんは、うん、イメージどおり」
ファッションチェックをしながら、一人納得して頷く玲衣さん。
玲衣さんの中でのわたしは、いったいどのようなイメージになっているのでしょうか……。少し気になります。
実をいうと、ほとんどの時間を聖條女学院の施設内で過ごしてきたわたしは、あまり洋服の種類を持ち合わせていません。大抵の場合は学院の制服着用が義務づけられていたので、寮で過ごしている間だけ着る洋服を数着、持っているだけです。
ホテル暮らしをしている間も、外に出るときは鷹津封術学園の制服を着用していれば良いと思って、新しい服を買ってはいませんでした。
なので、今日の服装は持ち合わせの中から外出をするのに最も無難な組み合わせになるように選んだものでした。トップスは胸元がレースの刺繍で縁取られたAラインブラウスで、ボトムスはフレアタイプのスカート。シューズは選択の余地がほとんどなかったので、ファッション重視のショートブーツを選びました。
「や、聖奈は清楚系というかお嬢様風というか。イメージどおりはイメージどおりだよっ!」
うまく言葉で表現できなかったのか、最後は勢いに任せて抽象的な物言いをする玲衣さんに、わたしはクスクスと笑ってしまいました。
「はぁ、それにしても毎日暑いよね」
顔を上向けた玲衣さんが、太陽の眩しさに眼を細めます。
「どっか移動しよっか」
「そうだね。お昼にはまだ早いから、適当にお店でも見てまわる?」
「そうしよっ」
土地勘のないわたしは、黙って行き先を二人に任せるのでした。
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わたしたちは駅前からすぐの複合型ショッピングモールに入りました。
今日は暦の上では平日なので、モール内には子供連れの大人よりも、わたしたちのような学生の方が多く見られます。
「玲衣さんは、この場所には良く来られるんですか?」
ショッピングモール内を慣れた様子で進んで行く玲衣さんに、わたしは訊ねます。すると玲衣さんは振り返って頷きました。
「うん、ここならいろんなお店が入ってるから、大抵のモノは揃うよ。あ、でも洋服とかアクセサリーは都内まで出て行って買ったりするかな」
並んで歩く綾さんにも視線で問いかけます。
「私がこっちに来たのは学園の寮に入ってからだから、まだあんまり来てないけど。日用品を買うときには便利かなぁ」
二人の言葉を訊きながら、わたしは入口のところで見た案内板を思い出していました。
モール内にはファッション系のお店だけでなく、生活雑貨やアミューズメント、マーケット、雑貨、家電、カフェ、レストランなど様々なジャンルの店舗があって、寮生活をするわたしにとっては、とても便利なところだと思いました。
「ところで玲衣ちゃん、何処に向かってるの?」
と、綾さんが首を傾げました。
「んと、夏用の新しいサンダルがほしくて、せっかくだから見ていこうかなと思って。でも、他に寄りたいところがあるなら優先するよっ」
そう言ってくれた玲衣さんですが、まだまだ時間はたっぷりあるので、わたしと綾さんは揃って首を横に振りました。
「それじゃあ寄らせてもらうね。あ、そうだ。聖奈も一緒に新しい靴を買ったらどうかな。夏にブーツって暑くない?」
暑いか暑くないかと問われてしまえば暑いですが、ブーツは聖條女学院の標準的な履き物なので、それほど気になりませんでした。これも一種の慣れなのかもしれません。
とはいえ、わたしが今履いているショートブーツは手編みのデザインで、比較的、夏にも履きやすいモノでした。
「そういえば聖奈さんって、寮にいるときに履くスリッパもまだ持ってないよね。ちょうど良い機会だからそれも買おうよ」
女子寮は寮の玄関口で靴からスリッパに履きかえなければいけません。わたしは寮長さんから貸し出されたスリッパを使っているのですが、多くの寮生は自分用のスリッパを持っています。
「じゃあ聖奈はスリッパとブーツ以外の靴だね」
訊き漏らしたつもりはないのですが、いつの間にか話が進んでいました。
ですが、いつまでも借り物のスリッパを履いているわけにもいきませんし、ブーツは慣れているので履きやすいのですが、もう少し涼しげな靴を一足は持っていた方が良いと、わたしは思いました。
「聖奈の靴はあたしが見立ててあげるからねっ」
「それなら私はスリッパを担当するね」
二人がそれぞれに言いました。
誰かに何かを選んでもらう。
それは、一人だけでは決してできないことでした。
2013/01/05 可読性向上と誤記修正対応を実施