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封術学園  作者: 遊馬瀬りど
第2章「新入生編」
29/111

第28話「調律師として……」

★☆★☆★



 二体の隣神を斃した秋弥たちは、現在三つ目となる異層領域の調律に取りかかろうとしていた。

 三つ目——最初に亜子が発見した異層領域は、獣型の隣神を顕現させていたものではなかった。

 調律術式の探査結果によると、その異層領域の振域レベルでは産土神クラスの隣神を顕現させることは不可能だということだった。


 では、その異層領域からは何が顕現したのか。

 顕現したのは、おそらくガス状の身体を持つアストラル体の隣神だろう。

 アストラル体は確固たる身体を持たない。それはつまり、存在証明(エリシオン)を固定化できないということだ。情報体が内包している存在力そのものは微弱だが、形を自在に変形させることができる特性は、微小な重層領域からでも現層世界(こちらがわ)への顕現を容易にしている。

 亜子の調律術式によって異層領域の調律を済ませると、秋弥たちはすぐに二つ目の異層領域を発見した。

 二つ目の異層領域は、森の中にひっそりと建てられた社の近くにあった。

 社は手入れされた様子もなく、草臥れ、すっかり風化していた。進物台の上には供物のひとつも置かれていなかった。

 時代の移り変わりとともに、人々の信仰心が失われていった結果だ。その社に祀られていた神というのが、この地の産土神を名乗っていた獣型の隣神だったのだろうか。

 そして、三つ目の異層領域は社からずいぶんと離れた場所に、ぽつんと広がっていた。

 振域レベルとしては二つ目の異層領域と同程度のもので、獣型隣神の眷属を顕現させていた異層領域ではないかと秋弥は推測していた。




「異層領域を調律するためには、まず最初に自分自身の最適化領域オプティマ・フィールドを展開するんですよぉ」


 現層と異層が重なる重層領域の中で、聖奈が亜子から調律術式の説明を受けている。


「あっ、『最適化領域』というのはですね。現層と異層が重層する領域の中で異層領域のエリシオン光波長パターンだけを抜き出して元の状態に正す(ちょうりつする)際に、その探査術式と調律術式を術者独自の方法に定型式(テンプレート)化することを指します。えっとぉ……わかりやすくたとえるなら、電子板の内容を自分の端末に書き写すみたいな感じですね。ほら、電子板の内容ってそのまま書き写さずに、メモを取ったり、余計な部分を省いたり、配置を換えたりしますよね? そんな感じです。で、自分用に最適化した定型式を用いて、無意識領域内で演算をすることから、言葉の末尾に領域と付いているのですよぉ」


 亜子が聖奈に調律術式の手順を説明しているのには理由がある。

 三つ目の異層領域の調律を聖奈に実施してもらうためだ。


「何か言いたそうな顔をしているね、シュウヤ」

「……気のせいですよ」


 腕を組み、二人から距離を置いた場所でその様子を眺めていた秋弥が応じる。

 聖奈に調律を行わせるという案を出したのはスフィアだ。

 秋弥はそのときのやりとりを思い返した。




「セイナは調律師志望だったよね。調律術式のことは知っているかい?」

「理論だけでしたら、独学ですが理解しています」

「調律の実践経験はない、と……当たり前か。それじゃあ、独学ではどの程度まで勉強したのかな?」

「異層領域を探査する術式の構造と理論から、調律術式の手続き方法までです」

「なるほど……。ということなんだけど、訊いていたかい、アコ?」

「ふぇ? なんですかスフィア会長」

「セイナに調律をしてもらおうと思うんだけど、その続きを教えてあげられるかい?」

「スフィア会長、天河に調律をさせるつもりですか?」

「ワタシはそう言ったつもりだよ、シュウヤ。どうかな、アコ」

「えっと、教えることはできるんですけど……いきなり本物の異層領域を調律させて良いんですか?」

「大丈夫だよきっと。いざと言うときにはワタシとシュウヤが全力で護るよ」

「それでも、万が一ということも……」

「万が一でも億が一でも、問題が起こるときは必ず起こるものだよ。それに、訓練場の疑似異層領域でどれだけ調律の訓練を行ったところで、誰にだって『はじめて』は必ずやってくる。それが今になっただけのことだよ。何事も真に経験しなければ身に付かないということを、アコも良く知っているんじゃないかな」

「……そう言うことであれば、わかりましたぁ」

「セイナも、それで良いかな? まあ、ワタシとシュウヤの護衛だけじゃ心許ないかも知れないけれどね」

「いえ、そんなことはありません。……ですが、本当にわたしが調律を行っても問題はないのでしょうか」

「どうしても嫌なら、これまでどおりアコに調律してもらうだけのことだよ。無茶振りに思うかもしれないけれど、これはセイナにとってもチャンスだと思うけれどね」

「……わかりました。鵜上先輩、お手数ですが、ご教示願います」




 というやりとりの末、現在に至る。

 亜子から調律の一連処理——重層領域の調査方法から始まり、最適化領域の展開、異層の探査、固有振動の調律、術式終了の手続き——のレクチャーを訊き終えた聖奈が、杖型の装具を握り直して頷いた。


「アコはそのままセイナのそばについて調律のサポートに付いてあげてほしい。それと、もしも互いの最適化領域が干渉しあうようなら、セイナの最適化領域に合わせてあげてくれないかな?」

「わかりましたぁ」

「それじゃあワタシたちは調律の邪魔にならないように、重層領域の外に出て待機しているよ。ここが領域の境界面かい? わかった、わりがとう」


 異層領域が視える亜子の指示に従い、二人からさらに距離を取る秋弥とスフィア。

 離れたといっても何かあれば二人のそばまで一足飛びで駆け寄れるように、秋弥は無意識領域に加速術式を待機状態で展開させておいた。


「それでは、調律を開始します」


 言って、眼を伏せた聖奈は指を一本ずつ開くと、ゆっくりと装具から両手を離した。

 解放された杖型の装具は、しかし地面へと落下せず、まるで空間に縫い止められたかのように空中で静止している。

 聖奈が重ね合わせた両手を装具へと伸ばす。

 途端、聖奈の柔らかな髪がふわりと揺れた。

 風ではない。

 聖奈を中心として発生した重層の干渉波が聖奈と干渉し合って、事象改変に近い影響を及ぼしているのだ。


「最適化領域の展開にはうまくいったようだね」


 独り言のような呟きを漏らすスフィア。

 調律術式が開始されると、術者の意識領域と無意識領域のほとんどが演算処理に占有されてしまうため、聖奈にはもう、スフィアたちの声が届いていないだろう。


「アコ、後は任せたよ」


 スフィアの言葉に頷くと、亜子は鞘に納められた脇差の柄を右手で握り、鞘を左手で握った。

 そして、柄を上にして身体の正面に脇差を持ってくると、鞘から刃を数センチほど抜いた。

 その瞬間。


「——ッ!?」


 耳を劈くような、甲高い音が鳴った。


「これは——ッ!」


 共鳴だ。

 それも、現層に影響を及ぼすほど強大な共鳴現象——層間共鳴振動だった。

 周囲の木々がざわめき、枝を揺らして葉を落とす。


「きゃぅぁ」


 亜子が悲鳴を上げながら慌てて刃を鞘に納め直した。すると、共鳴音はぴたりと止んだ。


「大丈夫かい、アコ?」


 よろけてその場に尻餅をつき、驚愕に目を白黒させている亜子に向かって、スフィアが声を掛ける。


「は、はぃ〜……何とかぁ」


 弱々しい声を漏らす亜子に、大丈夫そうだね、とスフィアが安堵の息を吐いた。


「スフィア会長」


 と、秋弥が視線を聖奈に向けたままでスフィアの名を呼んだ。


「鵜上先輩に最適化領域を展開させるのは危険だと判断します」

「奇遇だね。ワタシもちょうど同じことを思っていたところだよ」


 言うと、スフィアは手招きをして亜子をそばまで呼び寄せた。


「で、最適化領域を展開する寸前に、いったい何があったんだい?」


 調律は専門外であるスフィアが尋ねると、胸の前で装具を抱きかかえた亜子が戸惑いながら口を開いた。


「それが……わたしが重層領域に干渉しようとしたら、天河さんから……とても大きな干渉を受けました」


 亜子は未だに信じられないというような様子で、調律を行っている聖奈をちらりと見た。彼女は周囲の声がまったく届かないほど、意識の深いところまでを調律術式に傾けているようだった。


「重層領域に干渉しようとして、重層領域からの干渉ではなく、セイナからの干渉(・・・・・・・・)を受けたというわけだね?」


 ひとつひとつ、言葉を句切りながら確認すると、亜子がぎこちない動作で首を縦に振った。


「は、はい……」

「ふむ……、どう思う、シュウヤ?」


 話を振られた秋弥は、腕を組み直して「うぅん……」と唸った。


「意識的か無意識的かはわかりませんが、俺にかけられた治癒術式のときもそうでしたけど、天河の構築する術式には強い対干渉力の演算式が組み込まれているように思えますね。おそらく、天河が重層領域に干渉しているところへ鵜上先輩が干渉しようとしたので、天河自身が持つ対干渉力が働いたのでしょう」

「干渉中の情報体……すなわち重層する領域とセイナとの間に、強力なプロテクトのようなものがかけられているということだね」


 神妙な面持ちで呟くスフィアに、秋弥は首肯した。


「理由はわかりませんが、内外に対して何らかの強大な干渉力が働いていることは間違いないでしょうね」


 秋弥は軽く肩を竦める。

 いったい何が、聖奈にそこまでの力を与えているというのだろうか。

 秋弥の傷を治した術式や白い火球の術式は、これまで見た術式の中でも、特に異質な部類だった

 世界を満たす九つの原質(メディオン)を操作することで、封術師は現層世界に存在する事象の改変を行うことができる。とはいえ、封術師同士の術式が衝突した程度のことで次元振動に近い規模の共鳴現象が起こるというのは、あまりにも常軌を逸脱しすぎている。いっそ、規格外と言っても良いのかもしれない。

 聖奈の調律術式から放たれている干渉力と、彼女自身から放たれている対干渉の圧力。この二種類の干渉力が放つ強大な圧力は、人間の意識領域と無意識領域を総動員して行うことのできる並列演算処理の限界量を遙かに凌駕しているとさえ思えた。


「……」


 最初こそ、秋弥は聖奈の操る杖型の装具に何か理由があるのではないかと考えていた。

 杖型の装具なんてこれまで一度として耳にしたことも眼にしたこともなかった。悠紀の話によると、学園が管理している装具のデータベースにも前例がなかったという。

 だが、改めて思う——果たして、この杖型の装具にだけ秘密があるのだろうかと。

 そのような装具を生み出した聖奈の『意』(こころ)にも、何かしらの重要なファクターが隠されているのではないかと。

 否、そもそも杖型の装具は『マナスの門』を抜けた先の心象世界で手に入れたものではないという話だったか。出自不明の装具と、聖奈が『マナスの門』を通れなかったという事実を結びつけただけで、杖型の装具が彼女の『(こころ)』を具現化した姿であるとは限らないのではないか。

 考えれば考えるほど深みにはまっていく気がして、秋弥は思考を無理矢理打ち切った。

 悩んでも答えの出ないことだ。

 それは言い換えれば、考えても無駄ということだった。


「いや、参ったね。アコの最適化領域で干渉できないということは、よほど強固な最適化領域を展開しているということだろう。全く、大した貞操観念の持ち主だよ」


 スフィアが頭を掻きながら言った。


「……いや、急に何を言い出すんですか」


 秋弥がスフィアの言葉に脱力すると、「似たようなものだろう。自分の端末の中身を見られたくないという気持ちとさ」と、彼女は微笑んで見せた。


「きっと無意識的なことだとは思うけれどね。ただこうなった以上、ワタシたちはもう、セイナが無事に調律を終えることだけを祈って、見守るしかないわけだ」


 そう言って、スフィアが聖奈を見た。

 秋弥と亜子も、彼女に倣って視線を向ける。

 誰も、何も話さなくなった。

 やがて。

 長い睫で縁取られた聖奈の瞼が静かに開いた。

 干渉を解かれた装具が自由落下を始める前に、両手でしっかりと握る。

 聖奈は一度深呼吸をすると、振り返って秋弥たちの方を向いた。


「調律が完了しました」



★☆★☆★



「ご苦労だったね、セイナ」


 開口一番に聖奈を労うスフィア。

 聖奈の顔色が優れないのは、調律術式の行使に集中力を費やしたからだろうか。


「大丈夫か?」

「えぇ、少し疲れただけですから」


 秋弥が心配してそう尋ねると、聖奈は小さく微笑んで、気丈に振る舞った。


「アコ、異層領域は残っているかい?」


 亜子の重層視覚を頼りにして、スフィアが彼女に尋ねる。


「ちょっと視てみますぅ」


 スフィアのすぐそばで返事をした亜子を見て、なぜ自分のサポートを行っていたはずの彼女が重層領域の外にいるのだろうかと、聖奈は首を傾げた。

 亜子は聖奈の立っている辺りをジィと凝視してから、首を左右に振った。


「ありがとう、調律は成功ということだよ」

「もう干渉も起こらないと思うので、念のため、わたしの探査術式で天河さんの調律結果を確認しておきますね」


 亜子は身の丈どおりの小さな歩幅で聖奈のもとまでやってくると、脇差から刃を少しだけ抜いた。

 今度こそ、干渉の共鳴現象は起こらなかった。

 時間にしておよそ数十秒ほどの静寂が辺りを包む。

 聖奈は解いた問題を目の前で添削されているような、真剣な表情で亜子を見詰めていた。


「ふぅ……、問題ないです。完璧な調律でしたぁ」


 脇差の刃を再び鞘へと納める亜子。その際に鍔と鯉口が接触して小さな音を立てた。

 聖奈は今日だけで二つの異層領域を調律した亜子から絶賛されて、顔を綻ばせた。


「わたしの最適化領域が干渉できなかったときはどうなることかと思いましたけど、無事に調律ができて良かったですよぉ」

「えっ?」


 という聖奈の呟きは、誰の耳にも届かなかった。


「そうだね。いろいろとハプニングもあったけど、終わり良ければ全て良しだよ」


 スフィアと秋弥が装具を仕舞ったのを見て、聖奈と亜子も装具を仕舞った。


「さてと……これで今回の『課外活動』は終了かな」

「ですぅ」


 辺りをぐるりと見渡してから、亜子がコクコクと頷いた。


「よし、シュウヤとセイナの一年生コンビによる初めての『課外活動』が無事に終わったことを祝して、これから美味しいケーキでも食べに行こうか」

「わぁ、良いですね!」


 亜子は瞳を輝かせながら、スフィアの話に飛びつく。

 秋弥と聖奈は互いに顔を見合わせた。

 特に断る理由も見つからず、それ以上に自分たちのための祝賀会ということもあって、二人ともスフィアの案に賛成した。

 しかし聖奈は胸にもやもやしたものを残しながら、結局何も言い出せずにいたのだった。



★☆★☆★



 『課外活動』から十数日後。

 聖奈は悠紀から呼び出されて、自治会室に来ていた。

 彼女に促されるままにソファに腰掛けた聖奈の隣には、一緒に呼ばれた綾が緊張した面持ちで背筋を正している。

 ふかふかのソファでその姿勢を維持し続けることは難しそうだったが、他人事のように思っている聖奈もまた、聖條女学院での習慣から、自然と姿勢良く座っていた。

 ちなみに、今日は秋弥と一緒ではない。

 彼は聖奈たちとは逆に、悠紀から「今日はオフなのでゆっくり休んでね」というような内容のメールを受け取ったらしい。

 なので、彼は不在だ。

 それと、珍しいことにスフィアの姿も見当たらなかった。

 そもそも彼女は学生自治会役員ではないため、自治会室にいなくても不思議ではないのだが——いないことが不思議になっている辺り、彼女がどれだけ自治会室に入り浸っているかが窺えた。


「急に呼び出したりして、ごめんね」


 自治会の仕事が一段落ついた悠紀は、執務机から離れると聖奈たちの正面のソファに腰を下ろした。


「いえ、わたしは大丈夫です。ですが、星条会長。わたしだけでなく、朱鷺戸さんも一緒にお呼びしたのには、何か理由があるのでしょうか?」

「えぇ、もちろんよ。二人に関係する話だから。朱鷺戸さんも時間、大丈夫?」

「はい、問題ありません」

「良かった。それほど時間は取らせないから、安心してね」


 言うと、悠紀は二人の顔を見た。


「二人を呼んだのは、天河さんの住まいに関することなの」


 聖奈がハッとしたように息を呑んだ。話が見えずに首を傾げた綾を見て、悠紀は意外そうな表情をした。


「もしかして天河さんから何も訊いていないのかしら……。えっと、あぁでもこれも一応個人情報になるか……。天河さん、朱鷺戸さんに話しても良いかしら?」

「……はい」


 わずかに逡巡する素振りを見せてから、肯定の返事をする聖奈。

 悠紀はアイコンタクトで頷き返すと、視線を綾に向けた。


「朱鷺戸さんは寮生だから、天河さんが寮生じゃないことは知っていると思うけれど。天河さんが今、どこに住んでるか知ってる?」


 そういえば訊いたことがなかった、と綾は思った。堅持以外は実家暮らしだと訊いていたけれど、聖奈が来てからはそういった話をした覚えがなかった。


「えっと……実家ですか?」


 そのため、綾はもっとも可能性の高い答えを選んでみたのだが、悠紀は首を横に振ってそれを否定した。


「天河さんは転校……いえ、入学してからずっと、寮でも実家でもなく、ホテル暮らしをしているのよ」


 悠紀がそれを知ったのは、聖奈を学生自治会の役員とするための手続きをしていたときだった。役員専用制服の届け先を入力するために学園のデータバンクから聖奈の情報を閲覧したとき、学園に登録されていた聖奈の連絡先が、このあたりでも有名なホテルの住所を指していたからだ。

 それを訝しんだ悠紀は制服の発注を行う前に学園長と連絡を取り、その理由を確認していた。


「天河さんは幼少の頃からご両親のもとを離れて聖條女学院の宿舎で生活をしていたの。期間にすると、十年以上になるのかしら」


 それは、両親と一緒に過ごした時間のおよそ倍近くもの間を、他人——多くの友人たちとともに過ごしてきたということを意味している。


「そして今年度から鷹津封術学園に入学するにあたって、聖條女学院の宿舎を退寮して、こっちに一人で引っ越して来たのだけれど……。今の女子寮には空き部屋がなくて、かといって急に他の誰かと共同部屋にされてもいろいろと苦労もあると思って、しばらくの間はホテル暮らしをしてもらっていたのよ」

「そう、だったんですか……」


 だんだんと話が見えてきた綾は、悠紀の言葉に相槌を打つ。


「そうなのよ。それで、天河さんが入学してから誰か仲の良いお友達ができて、そのお友達が女子寮の寮生で一人部屋だったら、天河さんと相部屋になってもらえないかなって、私は考えていたの」


 どんなに勘の鈍い人でも、ここまで言われてしまえばなぜ自分が呼ばれたのか、察しがつくというものだ。

 そして、悠紀が次に言おうとしている言葉も、綾には大体、想像がついた——。


「だから、お節介かもしれないし、私の自己満足でしかないかもしれないけれど。朱鷺戸綾さん。貴女に学園組織側の代表として、学生自治会長である私からお願いがあります。厚かましいお願いであることは重々承知の上だけれど、天河聖奈さんの入寮にあたって、彼女と相部屋になってもらえないかしら?」


 悠紀が座ったままで上体を前に傾ける。緩くウェーブの掛かった髪が背中から顔の横へと流れた。

 綾は半ば予想できていたとはいえ、自治会長から直々に頼み事をされ、さらに頭まで下げられたことで、ちょっとしたパニック状態に陥った。

 視界がぐるんぐるん廻る。学内にいるうちは先輩後輩の関係とはいえ、相手は自分と同じく『星鳥の系譜』に連なる家系の、それも序列一位の星条家の人間だ。その人間から頭を下げられてしまうと、どうして良いかわからなくなる。

 その最中、隣で顔を俯かせていた聖奈の姿が、ふと眼に止まった。

 長い間、家族よりも同世代の友人たちと過ごしてきた聖奈は今、いったいどんな気持ちで、たった一人だけのホテル暮らしをしているのだろうか。

 思い悩むようなその横顔を見た瞬間、綾の中で答えが決まった。


「星——」

「待ってください、星条会長」


 言葉が、重なる。

 遮ったのは聖奈だった。

 二人の視線が自然と彼女へと集まる。


「会長のご厚意は、とても嬉しく思います」


 神妙な面持ちで、胸の苦しみに耐えるように、聖奈は言った。


「……ですがわたしには、わたしの都合で朱鷺戸さんにご迷惑を掛けるような真似はできません。たとえ朱鷺戸さんが『良い』と言ってくれたとしても、朱鷺戸さんの生活スペースに、わたしのような見ず知らずの他人が土足で踏み入ってしまうような、そのようなことは、できません」


 首を振り、真摯な眼差しで悠紀に訴えかける聖奈。

 だが、悠紀は何も言葉を返さない。

 その代わりに口を開いたのは、隣に座っている綾だった。


「それは、違うと思う」


 自信がなさそうに、それでも言葉を一生懸命に探しながら、綾はスカートの上で重ね合わせていた両手をソファについた。

 自然、姿勢が前傾となって、聖奈との距離が近付く。


「えっとね、私は天河さんと相部屋になっても良いよ。というよりもむしろ、大歓迎かな。いっそ私の方からお願いしたいくらいなの」

「えっ」


 綾からの意外な申し出に、聖奈は目を白黒とさせた。


「私ね、実家では三人姉妹の次女で、学園の寮に入るまではずっと、妹と同じ部屋だったんだ。だから、寮に入ってからは一人で寂しかったんだよね」


 その言葉は綾の本心だったのだけれど、もしかしたら聖奈には、社交辞令のような、愛想のように捉えられてしまうかもしれない。

 それでも綾は、自分の思いを伝える。


「私は、誰かがそばにいてくれたら安心できるよ。天河さんだって、そうなんじゃないかな? だから星条会長にお願いされたからとか、そういう理由じゃないんだよ」


 聖奈には家族よりも長い時間をともに過ごしてきた同世代の友達がいたはずだ。

 どういう事情があって聖條女学院から鷹津封術学園へ入学してきたのかは知らないけれど、一人でいるのは心細いはずだと、綾は勝手に決めつけた。

 決めつけることから始めなければ、きっと前に進むことも、後ろに下がることもできないと思ったから。


「朱鷺戸さん……」

「それにね、天河さんはやっぱり間違ってると思うよ。だって私は、天河さんともっとたくさん、いろんなことを話したいもの。だからね、迷惑とか全然思わないし、土足で踏み込んでも良いラインは、あるんだよ」


 洋風建築を例に挙げるまでもなく、家の玄関には土足で立っても良いのだ。

 まずはそこから、靴を脱いで家の中へ入れば良い。

 それだけの話だ。


「私は天河さん……うぅん、聖奈さんと一緒の部屋になれたら、とっても嬉しいよ」


 そして、聖奈は唐突に理解した。

 初めて調律を行ったあの日——なぜ、そばにいたはずの亜子が離れた場所に立っていたのかを。

 最適化領域により調律を行っていた聖奈は、術式に割り込むノイズを検知していた。

 そのノイズの原因は、おそらく亜子からの干渉によるものだったのだ。

 聖奈はそれを、無意識的に遮断した。

 亜子が術式のサポートのために干渉することを事前に知っておきながら、聖奈は何人たりとも術式に介入させないように、改ざんさせないように、自身を護ってしまったのだ。

 怖かったんだと思う。

 怯えていたのだと思う。

 綾に迷惑を掛けることが嫌なことも、他人の領域に土足で踏み入るような行為が嫌なことも、全ては自分自身を護るための方便に過ぎなかったということだ。

 それは決して、悪いことではない。

 間違ったことでもない。

 だけど、主観が変われば見方が変わる。

 自分自身にとっては善だとしても、他人にとっては悪となることもある。

 以前にも、悠紀に言われたことがあった。

 謙虚な姿勢でいるだけでは、手に入れられないものも、大切ななにかを守れないこともあるのだと。

 だからたまには、我儘になっても良いのだと思う。


 この場所はもう、聖奈が長い間生活をともにしてきた聖條女学院ではないのだから。

 礼儀も作法も振る舞いも、関係も理由も在り方も何もかもが、あの場所とは違うのだと。

 幸いにして、綾はもう、聖奈が心の底で望んでいた答えを言ってくれている。

 それに聖奈も、友達のことをもっと知りたかった。

 だけど、いったい何て言えば良いのだろう。

 テストの問題を解くよりも、複雑な術式を構築するよりも、難しい。

 きっと答えは単純なのだけれど、単純すぎて、難解だ。

 聖奈は考えて。

 考えて、考えて。

 いくつもの答えが用意された問題の模範解答を導き出そうとするような苦労の果てに。


「ありがとうございます」


 聖奈はこの言葉を選び、


「わたしも、とても嬉しいです」


 綺麗に微笑んだのだった。


これにて第二章「新入生編」終了となります。

完結してみれば、結局調律に関する説明章となってしまいました……。メインヒロインの天河聖奈もほとんど活躍していませんし(汗)。どちらかと言えば治安維持会長のスフィアが右に左にやりたい放題していた気もします。2丁拳銃は憧れですよね(おい)。


これで一応、一章、二章と合わせて、封術師と呼ばれる人々が行使する事象改変の力、封魔と調律についての大枠の説明は済ませたつもりです。

が、意図的にぼかしている点や、世界の重層構造によるトンデモ設定が絡んでいる部分も多々ありますので、頃合いを見計らって用語集を載せたいと考えたりもしています。特に重層構造と装具、封魔、調律についてですかね……。


■今後の展開について。

次回は第三章……ではなく、間章「真夏の日の夢」となります。その次が第三章「四校統一大会編」となります。

間章と第三章は間を置かずに定期連載を予定していますが、間章の連載開始は年末〜年明けを予定しています。


相変わらず稚拙な文章と構成、長文ばかりで読みづらい点や誤字脱字も多々あったかと思いますが、今後ともお付き合いいただけたらと思います。


2013/01/04 可読性向上と誤記修正対応を実施

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