第26話「森の支配者」
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四人が乗った無人自動制御車は途中で渋滞に捕まることも事故を起こすこともなく、目的地である見滝市の森林公園へと到着した。
無人自動制御車が普及した現代では、交通事故の発生数が飛躍的に激減している。無人自動制御車は人の運転を必要としない完全自動制御型の四輪駆動車であり、運転免許を持たなくても目的地を入力する方法さえ知っていれば、誰でも簡単に乗り回すことができるからだ。また、このシステムによって人間が車を運転する機会が減ったため、自動車事故の原因で圧倒的な割合を占めていた人の失敗が差し引かれたことも大きい。
もちろん、車を運転する人も未だ多くいるが、それでも自動車そのものの性能が向上しているため、手動運転による思わぬ事故も機械制御によって未然に防がれることが多くなっているという背景もあった。
森林公園近くの駐車場で車が停止する。
入園口の前に立つ警備員に全員が学生証を取り出して身分証明を行うと、事前に学園側から連絡を受けていた警備員は姿勢を正した。秋弥たちは職務熱心な警備員に軽く一礼してから公園へと入った。
封鎖されているため、公園内に人の姿はない。公共の園に誰もいないという光景もまた感慨深いものがあったが、そんなことに気をかけている場合ではない。閑散とした公園内には人を襲う野犬——学園側の見立てでは獣型の隣神が身を潜めているのだから。
「……何だか、とっても静かですね」
聞こえるのは風が揺らす木々のさざめく音だけであり、日常的な光景の中に潜んでいた非日常が密かに浮かび上がってきたような気がして、亜子が声を震わせた。
「そうかい? 夜の公園はどこだってこんな感じだよ」
普段と変わらない様子で最後尾を歩くスフィアが亜子をからかう。そっと後ろから近付いて彼女の背中に指を這わすと、亜子はつま先立ちになって「ひゃっ」と甲高い声を上げた。
「急に何をするんですかぁ、スフィア会長ぉ」
「あはは、相変わらず敏感な反応だね」
「スフィア会長、涙の滲んだ眼で鵜上先輩が異層領域を見逃したら困りますから、あまり怖がらせないであげてください」
三歳以上年上の上級生を静かな声でたしなめる秋弥。スフィアは軽く肩を竦めると、その目標を聖奈へと移した。
「酷いよねセイナ。ワタシはただ、みんなを和ましてあげようとしただけなのにさ」
「えっと……、そのことと鵜上先輩の身体に触れることは、何か関係があったのでしょうか?」
「うん、可愛いものには触りたくなるからね」
果たしてそうなのでしょうかと聖奈は小首を傾げながら、自分よりも背が低くて後ろ姿だけならば中等部生……否、初等部高学年と言っても通用しそうな先輩の姿をじっと見詰めた。
「ま、実際ワタシたちは気楽なものだよ。セイナは見学でワタシはサポート。実際に働くのは調律術を行うアコと封魔術でアコを護るシュウヤだからね」
「わたしはともかく、スフィア会長にはお二人のサポート役という大切な役目があると思うのですが」
「大丈夫だよ。二人ともワタシの助けなんて借りなくても十分に腕の立つ術師だからね。そもそもこの案件、本当に隣神が絡んでいるかどうかも怪しい話だよね」
「? スフィア会長はそう思っていないんですか?」
「そうではないけれど、確証もないという話だよ。目撃情報だってほとんどないし、あるといえば森林に入っていった人が戻ってこないことと、野犬らしき声を誰かが聞いたという情報だけだからね。まあワタシたちに依頼が来た時点で十中八九隣神の仕業だろうけれど、百でなければ零も同じだからね。決めつけて掛かると痛い眼を見るかもしれないよ」
それはずいぶんと飛躍した考えであるようにも思えたが、妙に納得できる部分もあった。
可能性が万に一つでも残されているのならば、それは限りなく決定的であったとしても、確定ではない。
箱の中身は、蓋を開けてみるまではわからないのである。
「そういえばシュウヤ。キミはさっき、面白いことを言ったよね」
「何の話ですか?」
「とぼけたってワタシの耳は誤魔化せないよ。キミは既に、アコの眼のことに気付いているようだね」
その言葉に、秋弥ではなく亜子の方が驚いて眼を丸くした。
つぶらな瞳を数回瞬かせると、それを隠すように小さな両手で覆った。
「隠すことはないよ、アコ。重層視覚はキミが持って生まれた特別な力なのだからね」
「重層視覚?」
訊き慣れない言葉に、聖奈が誰に問うでもなくぽつりと呟いた。それを耳聡く訊きつけたスフィアが両手で瞳を覆い隠したままの——ただしその指の隙間からチラチラとこちらの様子を窺っている亜子の方を一瞥した。
「セイナは重層視覚保有者という言葉を耳にしたことはないかい?」
「はい。言葉からおおよその意味を察することはできますが……、浅学で申し訳ありません」
畏まった口調で眼を伏せる聖奈の態度に、逆に困惑した表情を彼女へと向けるスフィア。彼女が良家令嬢の通う学舎から封術学園へやって来たことはスフィアも知識としては知っていたが、非常に絡み辛い相手だと認識を改めたようだ。
「あー……そんなに堅苦しいとセイナも疲れないかな。ここはキミの通っていた聖條女学院ではないんだから、もっと肩の力を抜いても良いんだよ?」
「会長がそうおっしゃるのであれば、承知しました」
「…………ええっと、重層視覚の話だったよね」
逃げるように話題を元の軌道へと戻したスフィアの様子を見て、秋弥が人知れず苦笑を漏らした。
「そうだ、アコ。いつまでも眼を隠していないで、愛すべき後輩に教えてあげたらどうだい?」
「……はい」
スフィアから促されてようやく両手を下ろした亜子は、それでも切り揃えられた前髪で眼を覆うように指で梳かして、低い位置からやや上目遣いで聖奈を見詰めた。
「重層視覚というのは、封術式を使わずにわたしたちの世界——現層と同じ空間領域に存在している他の層を直視することができる瞳のことを言います。そして、わたしのようにその眼を持つ人のことを重層視覚保有者と呼んでいます」
自分に関係していることだからか、普段以上に滑らかな口調で亜子が説明をすると、聖奈は納得して首肯した。
「ちなみにアコの場合、現層領域上に浮かび上がった異層領域はセピア調——薄い褐色で褪せて映るそうだよ」
そのようにスフィアが補足すると、
「それでは、鵜上先輩はわたしたちと同じ景色を視ていても、その瞳にはとても幻想的な光景を映しているのですね」
などと聖奈が相槌を打った。
「……っ! わたしの眼をそんな風に言ってくれたのは、天河さんで二人目なのですよぉ」
すると、亜子は先ほどとは毛色の異なる驚きの表情を浮かべた後、その表情を綻ばせて嬉しそうに微笑んだ。
その言葉に、聖奈は違和感を覚えた。
「……失礼ですけれど、鵜上先輩はご自分の眼がお嫌いなのですか?」
その違和感の正体を掴もうとして問いかけると、
「だって、わたしは他の人とは違うから……」
亜子は寂しそうに瞳を伏せた。
(インフェリオリティ・コンプレックスというやつか——)
二人の会話を訊きながら、秋弥は亜子の反応から、そう推測をした。
亜子の持つ劣等意識の正体は、他人とは違うものが視えてしまうということだ。おそらく彼女は封術学園に入学する以前に、自身の眼のことで嫌な思い出があったのだろう。とかく学校組織のように同世代の人間を集めるような場所では、多数と違う少数を排除しようとする動きが多く見られるものだ。彼女の持って生まれた才能がたとえどんなに素晴らしい力であったとしても、他人には真似できない力であったとしても、それは常に少数派なのである。
「他人と一緒なんてつまらない。少なくともワタシは、そう思うよ」
「わたしも、鵜上先輩のその瞳はとても素敵で、羨ましいと思います」
幸いな事に、封術学園ではスフィアをはじめ、亜子の周囲にはそれを感じさせない友人知人が多く集まっているようだった。
芝に覆われた公園地帯を抜ける。
鬱蒼とした森林地帯の目前で立ち止まると、秋弥は指示を仰ぐために視線を亜子へと向けた。
「ここからはどうやって隣神の捜索を行いますか?」
「えっとぉ……、そうですね。わたしの眼で異層領域を探すから、道なりに進んで行けば良いですかぁ?」
秋弥からの問いに答えながら、亜子は思案げに中空を彷徨わせていた視線をスフィアへと向けた。
「今回ワタシは二人のサポート役だから、余計な口出しはしないよ。……違った。余計なことにしか口出しはしないよ」
「わざわざ言い直す必要があったんですか……」
「下手に期待されても困るからね」
固い声で秋弥がツッコむも、まるで動じないスフィア。
「……あの、それならそこの遊歩道を進んで行きましょ〜」
亜子が指差したのは森林浴コース用の遊歩道だった。森林の中に設けられたその道は、人が歩きやすいように整備されており、左右から伸びる木々の隙間から陽の光が零れ墜ちて、地面を淡く照らしている。
先頭に立って歩くのは秋弥と亜子。歩幅の違いがあるためにどうしても秋弥が亜子のペースに合わせる形にはなってしまうが、もとより秋弥の役割は亜子を護ることであるため、そこに不満はない。
亜子が周辺をキョロキョロと眺めながら歩いているのは景色を楽しんでいるからではない。重層視覚によって異層領域を探しているためだ。しかし、いくら整備されている遊歩道とはいえ、注意不十分で危なっかしい足取りの彼女がたまに転びそうになることの方が、秋弥には気になって仕方がなかった。
「……ふぁぁっ!」
「おっと」
そうこうしているうちに、いよいよ本格的に躓いた亜子が転びそうになった。ある程度予想していたことだったので、秋弥がすかさず彼女の腕を掴んで支えた。
「あ、ありがとうございますぅ」
その際に掴んだ腕を支点にして亜子の身体が半回転し、秋弥の胸の中にすっぽりと収まる形になってしまったのだが、事情が事情であったためにこういったイベントを大好物にしている金髪灰眼の上級生も、今回は無意味に冷やかすような真似はしなかった。
「おーおー、さり気ないボディタッチだね」
——ということもなく、やはりこの上級生は常時、平常運転だった。
「わわっ、ごめんなさいごめんなさい!」
スフィアの言葉で自分たちの状況を客観的に見ることができたのか。亜子は一瞬にして顔中を真っ赤に染め上げると、両手で秋弥の身体を押し退けて距離を取った。
「……怪我していないですか、鵜上先輩?」
「あ……、うん、大丈夫ですよぉ」
「よし、次はセイナが転んでみる番だね」
「え、えっ、あの?」
「『よし』じゃないですよ。天河も困ってますし、あまり適当なことを言うのは止めてください」
秋弥が振り返って冷たい眼差しをスフィアへと向ける。
サポート役として同行するスフィアと『課外活動』の見学として同行する聖奈は、秋弥たちの少し後ろに付いて歩いていた。
「そうはいっても、この中ではシュウヤだけが男の子だからね。三人の美少女をしっかりと護ってくれないとね」
「自分で美少女とか言いますか……」
「でも否定はしないんだね」
人の悪い笑みを浮かべたスフィアに、秋弥はシニカルな笑みを返した。
一度転びそうになったことで学んだのか、今度は足下にも注意を向けながらゆっくりと遊歩道を歩いて、森のさらに奥へと進んでいく亜子と秋弥たち。
報告の中にあった獣の鳴き声一つ耳にすることもなく、森の半ばあたりまで差し掛かったとき、不意に亜子が足を止めた。
「——待って。何か、視える」
立ち止まり、鬱蒼と生い茂る森の一点を凝視する亜子。色付く世界の中に、褪せた世界の断片を見つけたのだろうか。秋弥はやや警戒心を強めながら、亜子の様子を窺った。
「……遠くてはっきりとしないですぅ。もう少し近付いてみましょう」
亜子の指示に従い、秋弥たちは遊歩道から逸れて獣道ですらない森の中へと進路を変えた。
低く小さな丸太の柵を越えて森の中に一歩足を踏み入れる。
そこは幾重にも重なり合った葉で木漏れ日すらも届かず、落ち葉の絨毯を隠れ蓑にして木々の根が地面から飛び出した悪路だった(これを路と呼んでも良いものかは少々悩みどころだった)。
「鵜上先輩と、それに天河も、足下には十分に注意してくださいね」
先行して森の中へと入った秋弥が足下の様子を確かめながら言った。
「あれ、ワタシには声を掛けてくれないのかい?」
自然に省かれたスフィアが抗議の声を上げる。
「スフィア会長なら眼を瞑っていても問題はないでしょう」
「それはワタシを高く評価してくれているのか、あるいは単に気にかけてすらいないのか、判断に困る返答だね」
その両方ですよ、というのは秋弥の内心の声で、口では第三の答えを返していた。
「眼を瞑っても、というのはさすがに大げさな表現でしたが、スフィア会長は洞察眼を使ってるんですから、この程度は問題ないと思っただけですよ」
「む……、見抜かれていたのかい」
「眼光がいつもより二割増しになっていましたよ」
冗談めかした口調でそう言うと、
「それはお互い様というものだよ」
スフィアがニヤリと笑みを浮かべた。
森の中に入る前に身体強化系の中難度封魔術『洞察眼』の術式を密かに発動させていた二人にとって、この程度の悪路は悪路の内には入らなかった。
秋弥は亜子の様子を、スフィアは天河の様子を気にかけながら、亜子の重層視覚を頼りに、よりいっそう慎重な足取りで森の中を進んで行く。
デバイスがあるので迷子になるということはないが、右を見ても左を見ても同じような木々が無造作に生えているため、方向感覚があやふやになりやすかった。
「——やっぱり、間違いない。あれは、異層領域ですぅ」
やがて、森の奥に異層領域を発見した亜子が言った。
異層領域までは未だ距離があるようだが、その方向を指差して示す亜子に対して、重層視覚を持たない秋弥たちにはどこも同じ景色にしか見えなかった。その様子を見て、亜子がかすかに寂しそうな表情をしたのだった
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亜子の指し示した方向——異層領域に向かって仄暗い森の中を歩いていると、急に開けた場所へと出た。
何らかの生物によって踏み倒されたと見える植物や、木々の折れた枝が散乱するその場所を眼にして、秋弥は思わず眉根をしかめた。
「これは……血痕か?」
暗がりのため判別し辛かったが、その場所には、木々の葉に、枝に、幹に、根に、夥しい量の血液がべっとりと張り付いていた。酸化して赤黒く変色した血液からは、既にずいぶんな時間が経過していることが窺える。
「……ぁ」
すぐそばで今にも消え入りそうな、掠れた呻き声を上げたのは亜子だ。凄惨な光景を目撃して反射的に目を覆い、顔を背ける。
「……これはまた、酷いね」
同じく言葉を失って顔を逸らした聖奈と、近付いて顔をしかめるスフィア。
撒き散らされた血液の量からみても、この場所で何者かに襲われた者が、もうこの世にはいないことは明白だった。死体が転がっていないのは襲った何者かが持ち去ったからなのか。あるいは原型を留めないほどにバラバラにされて落ち葉の影に埋もれているのか。死臭の類いは全く感じられなかった。
しかし、いったい何をどうしたら、これほどの広範囲に大量の血液が飛び散るのだろうか。
まるで、身体の内側から破裂でも起こしたような——。
「シュウヤ。この血は森の中に入ったという者たちの血だと思うかい?」
「……わかりません。ですが、その可能性は非常に高いと思いま——」
後方から尋ねられてスフィアの方へと振り返ろうとした秋弥の瞳——洞察眼の効力によって暗闇の中でも見通せるその瞳が、高速でこちらに迫る物体を捉えた。
「——っ! スフィア会長!」
秋弥が叫んだのとほとんど同時に——否、叫ぶよりもわずかに速く、彼の瞳に映った景色を洞察眼で捉えていたスフィアが、装具を召還しながら振り返り、秋弥と同じ方角を向いた。
そして、手首の先で浅く交差させた両手に握られた双銃型装具の引き金を、わずかにタイミングをずらしながら一度ずつ引いた。
高速で移動する物体同士の交錯は一瞬。
殺傷力を伴った二つの銃弾が真っ直ぐにしか弾道を描けないのに対して、謎の物体は必要最低限の動きだけでこれを回避しようとした。しかし、その動作ではタイミングをずらして発射された二つ目の銃弾を完全には回避することはできなかった。直撃こそしなかったものの、二発目の銃弾は物体の身体を掠めて森の向こうへと消える。謎の物体は銃弾の掠めた部分から黒い血液を滴らせながらも、俊敏な動きを微塵も鈍らせることなく、秋弥たちへと迫った。
スフィアが牽制を行っている間に、秋弥は蒼の装具を召還して謎の物体と亜子たちの間に飛び込んだ。一足飛びで向かってきた物体の前足から放たれた鋭利な爪を装具の刀身で受け止めると、運動エネルギーを背後へと流した。
謎の物体は空中で身体を回転させると、赤黒く変色した血溜まりの中心に四本足でドサリと音を立てて降り立った。
灰色の体毛で全身を覆った体長一五○センチほどの物体——数百年前に絶滅したと言われるニホンオオカミに酷似した一頭の獣は、二本の前足を広げて姿勢を低くすると、空を見上げるように下から上へと勢いよく首を伸ばして咆哮した。
「……ぅ!」
低音から高音へ——広い帯域で響く獣の雄叫びを聞いた亜子と聖奈が反射的に両手で耳を塞いだ。秋弥も顔を歪ませながら、装具を召還していない二人を背中で庇うような位置に移動した。
——人の子よ。何故我が眷属をその手にかけた!
その声は、目の前の獣が発したものだった。
人語を話しているのではない。
エリシオン光の波長である『波』と『星の記憶』を利用した、テレパシーにも似た思念会話現象——高等封術が獣の言語を一定の規約に基づいて変換を行い、人間が理解可能な言語となって秋弥たちの意識に届いているのである。その証拠に、鋭い牙が剥き出しとなった口元は一切動いていなかった。
「はわわわ……」
秋弥は警戒心を獣に向けたままでちらりと背後を見ると、亜子が頭の中に直接響いてきた声に驚いてオロオロとしていた。その胸の前で鞘に納められた三十五センチ弱の脇差を大事そうに抱えている。おそらくそれが亜子の装具なのだろう。聖奈も両手でしっかりと杖型の装具を握りしめていた。
——この地の産土神である我ら眷属から受けた恩恵をも忘れ、仇を為した人の子よ!
獣が眼を見開き、口をわずかに開いて静かな恫喝をした。身体中から溢れだした証明の干渉圧力によって落ち葉が浮き上がり、獣を中心として円形に広がった。
——四肢を引き裂き、
——尾をちぎり、
——内蔵を引きずり出し、
——皮を剥ぎ、
——骨を砕き、
——首をもぎ、
——牙を折り、
——目玉を抉り、
——鼻を削ぎ、
——耳を破り捨て、
——醜き姿を晒した!
——人の子よ!
——お前たちにも我ら眷属が受けた苦しみと同じだけの苦しみを与えてやろうぞ!
産土神であろうが鎮守神だろうが化物だろうが、世界多重層構造理論に照らし合わせれば隣神であることに変わりはない。
思念による対話が可能である以上、相当高位の隣神であることが窺えたが、激昂している相手とは意味のある話し合いができるとは思えなかった。
秋弥は蒼の装具を握り直して、獣型の隣神を向かい合う。
隣神は目の前の一頭だけのようだが、一方的に告げられた隣神の言葉から察するに、どうやら過去には、この隣神にも多くの仲間がいたようだ。
仲間——眷属が人間に襲われて殺されたのだと、獣型の隣神は言っている。
だが、果たしてそうなのだろうか。
異層認識力を持たない一般人にとって、顕現した隣神は地震や台風のような天災と同じようなものだ。
見ることや触ることはできても、危害を加えるなんてことは到底できるはずもない——。
「シュウヤ、無意味な憶測をしている場合ではないよ」
と、思案している様子が端から丸わかりだったのか。秋弥はスフィアからそう指摘されて、意識を再び正面の獣に合わせた。
「カミサマを斃すのかい?」
二丁の拳銃をだらりと下げたスフィアが静かに問いかける。
「……話の通じる相手ではなさそうですし、やむを得ないでしょうね」
シュウヤは苦々しい顔つきでそれに応じた。
「そうだね。……アコ、念のため封術結界を張っておいてくれ」
スフィアの言葉に亜子がコクコクと頷き返すと、術式の構築を開始した。サポート役に徹している場合ではないということだろう。スフィアも臨戦態勢を取った。
「天河は鵜上先輩のそばにいてくれ」
聖奈は秋弥に言われたとおり、亜子のそばに身を寄せた。
二人を護る封術結界が発動するまで、まだ暫く時間が掛かる。
身動ぎ一つせず、しかし、いつ襲いかかってきてもおかしくはない緊張感の中。
張り詰めた空気がピークに達した、その瞬間——。
体勢を低くした獣が恐るべき瞬発力で飛びかかってきた。
秋弥は反射的にその軌道上へと装具を振り下ろす。
重量と空気抵抗をまるで感じさせない高速の剣閃が目の前を横切ったことで、獣の動きが一瞬、静止する。
そこへ、スフィアが封術で生み出した銃弾を放った。
加速術式によって高速を超える速度を得た銃弾が、急加速からの急停止によって身体が硬直して動けない獣の胴体に穴を穿つ。
しかし、銃弾が獣の胴体を貫通した瞬間、獣の姿が朧気に霞んで森に溶け込むように消えてしまった。
「幻影か!」
「シュウヤ、上だよ!」
亜子たちの近くで援護射撃を行ったスフィアが叫ぶ。
秋弥は振り下ろした蒼の装具を地面に突き立てると、後ろに飛び退きながら虚空の封魔術『招雷』を発動した。
水を纏った秋弥の装具——不定形の流剣『クリスティア』を避雷針に見立てて、高電圧の雷を落とす。
秋弥の死角から襲いかかろうとしていた獣は、空中では回避運動もままならずに雷の直撃を受けた。
全身の体毛から細い煙を上げながら、獣は攻撃の手を止めて地面へと降り立つ。
そこへ秋弥は身を低くして走りながら術式の付随効果によってわずかに帯電した装具を地面から引き抜いて、獣との距離を一気に詰めた。
身体を捩り、引いた腕を真っすぐに前へ突き出す。
強烈な突き攻撃が、横っ飛びで避けようとした獣の肩口を引き裂いた。さらに秋弥は右足を軸として身体を回転し、獣の胴体に蹴りを撃ち込む。
獣は傷口から黒い血液の尾を引かせたまま吹き飛び、木の幹に身体を強く打ち付けた衝撃で呻き声を上げた。
——ぐぅ……成程。その力で我が眷属を殺めたということか。
獣は剥き出しの牙の隙間から不規則な白い息を吐き出して、秋弥の装具を獰猛な瞳で睨み付けた。
——その力、我ら産土の眷属が持つ力と似ている。
——良かろう……ならば、我も人の理を捨て、神の力でお前たち人の子と相対しよう。
途端、強い干渉力場が獣を中心に発生した。
事象改変の力だ。
干渉を受けて、木々が葉擦れしてざわめく。
淡い薄緑色の光が周囲の木々から漏れ出して、獣の身体へと吸い込まれていく。
すると、徐々にだがスフィアの牽制攻撃と秋弥の装具によって負った傷口が塞がり始めた。
獣が、木々から生命エネルギーを吸収して取り込んでいるのだ。
「これは……」
産土神を名乗る獣型の隣神に、森全体が力を貸しているのか。
マズい。
秋弥がそう思った時点で、それは既に始まっていた。
空間領域を伝搬する獣の干渉波に、森全体が呼応する。
封術を行使するためには、情報体を構成する原質に働きかけて、その構成情報を書き換える必要がある。
構成情報の書き換えを行うためには、装具を介して対象物に干渉しなければならない。
しかし、森羅万象の情報体には、『星の修正力』の一種である、元の姿を維持するための『対干渉力』が働いている。事象改変を現実に投影するには、改変元となる情報体に働く対干渉力を上回る干渉力を与えなければならない。
森が獣型の隣神に味方したということは、すなわち、事象の改変に対する『対干渉力』を弱めて獣型の隣神からの事象改変を行いやすくしたということだ。反対に、獣型の隣神以外に対しては『対干渉力』を強めることで、事象改変を行いづらくしているはずだ。
術式の構築時に組み込む干渉力の演算式は、強い干渉力を必要とするほどに複雑化する。
干渉力の演算式には、対象物に干渉するための干渉力と、改変後に結果を維持し続けるための干渉力の二種類を組み合わせるのだが、一方が複雑化すると、それに引き摺られる形で、干渉力の演算式は複雑になってしまうのである。
つまり、これから秋弥たちが封術を発動させる際には、今まで以上に複雑な構築式を演算しなければならないということだ。
秋弥は内心で舌打ちをする。
意識は獣へと向けたままで、首を小さく動かしてちらりと亜子たちの方に視線を移す。亜子を中心とした白色の半透明膜——封術結界の輪郭がぼんやりと見えた。
どうやら結界術式の構築は対干渉力の影響を受ける前に終えることができたようだ。
視線を正面に戻す。
秋弥たちから受けた傷が完全に癒え、さらに木々の生命エネルギーである薄緑色のエリシオン光を身体に纏わせた獣が、生気に満ち溢れた面と牙を秋弥へと向けていた。
2013/01/04 可読性向上と誤記修正対応を実施