第15話「封術師見習い×封術師見習い」
★☆★☆★
秋弥はリコリスの鉄槌を受けて地面に倒れ伏した向江を冷め切った瞳で見下ろしていた。
——違法封術師。
出会うのは初めてだったが、よもや鷹津封術学園の卒業生が封術を私利私欲のために行使しているとは予想外だった。
おそらく向江は、学生の頃から封術を違法に行使してきたのだろう。封術師としての意識の低さがそれを助長させたのかは、今となっては定かではないが……。
「秋弥様ぁ」
秋弥の呼びかけに応じて顕現したリコリスは、向江の存在なんて最初から眼中になかったようだ。発動した術式の効力もろくに確認せず、顕現してからずっと、秋弥のそばにぴったりとくっついていた。
「さてと、後は残った異層領域を調律したら終わりだな」
秋弥はリコリスの柔らかい髪を優しく撫でながら言う。
「秋弥様、この人間はどうするの?」
制服の裾を引っ張って秋弥の意識を自分に向けさせると、リコリスはさして興味もなさそうに向江を指差した。
「放っておいてもしばらくは眼を覚まさないだろう。異層領域をすべて調律した後で、然るべき機関に引き渡すさ」
「ふぅん……」
向江を一瞥した秋弥の心底興味なさそうな態度に、リコリスもまた、どうでも良さそうな態度で応じた。
「でも秋弥様。『かんとくしゃ』がいないと秋弥様は封術を使えないんじゃないの?」
「まあそうだけど。……だけど、この場合は例外だろう」
封術師見習いとしての制約を破ることについてまるで意に介した風もない秋弥の台詞に、リコリスは紅い瞳を大きく見開いて慌てた。
「ダ、ダメだよ! 秋弥様が封術師になれなくなっちゃうのは絶対にダメっ!」
夕闇の空に金色の髪を揺らして必死に訴える彼女の姿に、秋弥は思わず苦笑を漏らした。
「秋弥様には全然関係ないんだから、こんな異層なんて放っておけばいいよ!」
「そういうわけにもいかないさ」
「むぅ……そうだ! リコリスが秋弥様の代わりに調律をするから、それなら大丈夫だよね!」
隣神であるリコリスが封術を使うのであれば、封術師見習いの秋弥が制約を破ることにはならない……のだろうか。
言いながら自分でも名案だと思ったのか、リコリスは早速、装具『紅のレーヴァテイン』を召還した。
「だから、ね。秋弥様は休憩してて」
「はいはい」
「『はい』は一回だよ」
リコリスに背中——正確には腰の辺り——を押されて入口付近まで押し戻された秋弥だったが、不意に人の気配を感じて立ち止まった。リコリスも秋弥よりわずかに早く、その気配を察知して足を止めていた。
気配——空間領域を伝播する存在情報の干渉圧力——を察知する能力は、人在らざるリコリスの方が断然高い。
秋弥は先に気配に気付いたリコリスの視線を追うようにして、彼女の視線の向き先——建物の外縁に備え付けられた非常階段の方を見詰めた。
その非常階段を使って、誰かが屋上へと上がってくる足音が聞こえきた。
それも、ひとつの音だけではなかった。
複数の足音が、不規則なリズムを奏でている。
来訪者に対する警告の意味も込めて、リコリスは空間領域への干渉圧を高めようとしていた。それを秋弥が手振りで制すると、蒼の装具を召喚する。リコリスが立ち位置を微妙に変えて秋弥の制服の裾を軽く掴み、彼の背後に身を隠した。
足音がだんだんと大きくなる。
「……えっ?」
非常階段を上がってきた人物を見た秋弥は、思わず声を漏らした。
「こんばんは、九槻君」
その人物は秋弥の見知った人物だった。
鷹津封術学園の白い制服に身を包んだ女子学生——星条悠紀が、夕闇の中でもはっきりとわかる微笑を浮かべた。
「……星条会長」
「ワタシもいるよ、クツキ」
続いて、治安維持会長のスフィアが悠紀の横に並んだ。
鷹津封術学園の二人の会長は、地面に倒れ伏している向江の姿を一瞥すると、まずはスフィアが先に口を開いた。
「いやいや、ずいぶんとご活躍だったようだね。おや? そこで倒れている男は封術師じゃないのかい?」
楽しそうな口調でニヤニヤと笑う。
秋弥は召還した蒼の装具を仕舞った。多少面倒に思いながらも、浅間から受けた依頼の事も含めて、二人に状況説明をしようと試みた。
しかしその矢先に、非常階段から新たな人物が姿を現した。
「はぁはぁ……、先に、行っちゃう、なんて、酷い、ですよ。かいちょー……」
階段を上りきったところで両膝に手を突き、肩で息を切らしたおさげ髪の女子学生が、悠紀に訴えかけた。
「あ……、ごめんね、亜子」
振り返った悠紀が遅れて上がってきた女子学生——鵜上亜子に謝罪する。封術学園の白い制服を着用していることから、悠紀と同じく学生自治会役員の一人であることが窺えた。
亜子は乱れた呼吸を整えると、膝を叩くようにして上体を起こす。
低い背丈に丸みを帯びた童顔はどう見ても秋弥より年下に見えたが、制服の上からでもわかる女性らしいメリハリの利いたプロポーションは、アンバランスな魅力を醸し出していた。
「はぁ、もう良いですよぅ。……あっ、そこの異層領域を調律すれば良いんですね?」
異層調査術式を発動している様子もないのに、亜子は向江が生み出した異層領域があるとされる虚空を見て言った。
(……重層視覚保有者なのか?)
現層世界の空間領域に他の層が重なる重層現象を視覚的に認識できる者が稀にいる。その者は封術を用いなくても、眼で視るだけで現層領域と異層領域を見分けることができると言われている。
断定はできないが、一瞬で異層を見極めた亜子の瞳は、その希少能力を有している可能性が高かった。
「えぇそうよ。休む間もなくて申し訳ないけれど、お願いするわね」
「はぃ、任されましたぁ」
「待ちなさい、人間!」
「はひっ!?」
突然現れてトントン拍子に話を進める学生自治会の面々に、今まで秋弥の背後に身を隠して——隠れてはいなかったが——ジッとしていたリコリスが、堪らず口を挟んだ。
秋弥の背後から半身を覗かせて、二人を睨み付ける。
高位隣神としての強大な干渉圧こそ放出していなかったものの、この世ならざる者が纏う独特の威圧感と眼光に中てられて、異層に対して人一倍過敏な視覚を持つ亜子が悲鳴を上げて萎縮した。
「この仕事は秋弥様が請けたものなのよ。それを、後からノコノコとやって来た人間なんかに横取りなんてさせないわよ」
静かな怒気を孕んだリコリスの声音に——、
「……貴女が、隣神リコリスね」
悠紀が表情に笑みを貼り付けたまま、ゆっくりと彼女に眼を向けた。
悠紀、スフィア、亜子のうち、リコリスの事を一方的にだが見知っているのは、悠紀とスフィアの二人だけだ。亜子は少女の外見をした高位隣神を目の当たりにして、可哀想にも完全に怯えてしまっているが、二人の会長は隣神リコリスと直接対峙してもなお、少しも態度を崩さなかった。
「……秋弥様、ねぇ」
小声で呟き、ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべているスフィア。
そんなスフィアとは対照的に、悠紀は表情を困り顔へとシフトさせて、幼子を諭すような口調で言った。
「九槻君は、封術師の監督者がそばに付いていないと封術が使えない決まりになっているの。それはわかっているわよね?」
これはリコリスに対する問いかけであると同時に、秋弥に対する確認でもあった。封術師見習いとしての制約を破ったらどうなるかわかっているのかと、彼女は言っているのだ。
「そうね。だけど、リコリスが封術を使う分には何の制約はないわ」
「本当にそう思うの? 貴女が封術を使うということは、九槻君が封術を使うのと同じことにはならないかしら?」
「ふん、何を言うかと思えば、戯言を……。これ以上くだらない言葉を口にするようなら、今すぐにでも『星の記憶』から存在ごと抹消しても良いのよ?」
「止せ、リコリス」
これ以上黙って傍観していると取り返しの事態に発展しそうだと判断した秋弥は、リコリスの頭の上に手を置いて制止を掛けた。
彼女は勢い良く振り返ると、秋弥を見上げて抗議の声を上げた。
「どうして止めるのよ秋弥様! この人間が勝手なことばかり言うから——」
「リコリス」
しかし、秋弥はリコリスの言葉を遮るようにして、語気をやや強めて彼女の名前を呼んだ。ピクリと撥ねた彼女の肩にゆっくりと手を移動させると、腰を屈めて目線を合わせた。
「星条会長の言っていることは間違っていないよ。お前が封術を使うことと俺が封術を使うことは、完全に同義だ」
「……っ!? そんなのおかしい!」
わななわと声を震わせるリコリスの気を落ち着かせるため、彼女の頬に触れる。
そしてリコリスにだけ聞こえるように身体を寄せて、耳元でそっと囁いた。
「おかしくはない。俺とリコリスは、一心同体なんだから」
その囁きはリコリス頭の中を一瞬で真っ白にした。そして、彼女の顔を真っ赤に染め上げた。
「だから今は、俺の言うことを聞いてくれるな?」
「……うん。リコリスは秋弥様の言うことなら何でも聞くわ」
「良い子だ、リコリス」
リコリスの頬をもう一度撫でてから身体を離す。手を引いて彼女を後ろに下がらせると、改めて悠紀に向き直った。
「リコリスが無礼なことを言って、申し訳ありませんでした」
「良いわよ。それよりも、これ以上異層領域を放置しておくとマズいことになりそうだから、調律を始めてしまっても良いかしら?」
「えぇ、それは構いません。ですが……」
「九槻君の言いたいことはわかっているわ。だけどまずは……亜子、調律をお願い」
悠紀が訳知り顔で秋弥と眼を合わせて頷く。次いで、未だに震えている亜子に調律の指示を出した。
「は、はひぃ」
亜子は情けない声を出しながらもリコリスを本能的に避けるように迂回して異層領域のそばに寄ると、装具を召還して調律術式の準備に入った。薄暗い廃病院の屋上に術式の発動に伴うエリシオンの発光現象が生じる。調律を行うために意識を深いところまで落とした亜子には、もう周囲の音はほとんど届かないだろう。
「それでは教えてください、星条会長。封術師見習いは、封術師の監督者がいなければ学外での封術使用が認められていないはずです。なのになぜ、会長たちは封術を行使しているのですか?」
秋弥は少し前までの自分を棚に上げて、悠紀に問うた。
「それはだね、クツキ。これがワタシたちの『課外活動』だからだよ」
問いに答えたのは悠紀ではなくスフィアだった。彼女は豊かな胸を押し上げるように胸の下で腕を組みながら、得意満面に答えた。
「課外活動?」
「そう、課外活動」
しかし、スフィアはその言葉だけで説明を終えてしまった。横で苦笑している悠紀に、どういう意味かと視線で訴えかける。
「それだけじゃ九槻君に伝わらないわよ、スフィア」
たしなめるような口調の悠紀に、スフィアは軽く肩を竦めると一歩後ろに下がった。どうやら説明役を悠紀に譲ったらしい。譲るなら最初から口を挟まなければいいのにと、秋弥と悠紀は内心で同じことを思っていた。
「……課外活動というのは、学生自治会の仕事の一つよ。その活動内容は、封術師でなければ解決できない問題への対処——そう、今の九槻君みたいにね」
秋弥は驚愕に眼を見開いた。驚きで言葉にならない秋弥に構わず、悠紀は課外活動の説明を続けた。
「九槻君と違うところは、私たちは学園側からの要請で動いているということ。だから、私たち学生自治会役員は特別に、学外でも封術の使用が認められているわ。もちろん、一般的な封術師見習いとはまた別の制約があるのだけれど、それは今の貴方に教えることではないわね」
言外に「学生自治会に入れば詳しく教えてあげる」という意味を含んだ悠紀の言葉に、秋弥は初めて自治会長に呼び出された日のことを思い出していた。
——……大小いろいろとありますが、一番の理由は、興味がないからです。
——逆に言えば、興味を引くような何かが学生自治会にあれば、キミは入ってくれるんだね?
——だったらクツキ、キミはそれほど遠くないうちに学生自治会に入るよ。
スフィアとのやりとりが脳裏に思い起こされる。
封術学園を卒業した学生のほとんどは封術師となり、即戦力として第一線で活躍する。
しかしそこで気絶している向江のように、多くの学生は人並程度の実戦経験しか積んでいない状態で封術師となっていく。『星鳥の系譜』に連なる名家の学生や、秋弥のように自主的に封術師のサポートに付いて経験を積んでいない限り、本当の意味で即戦力として活躍することは難しい。
だが、学生自治会の役員に与えられた課外活動という名の特権は、それを可能にしている。
そこには名家の血縁である必要も、封術師のサポートという立ち位置も必要ない。
確かにそれは、秋弥にとってこれ以上ないほど魅力的であり、興味以上の対象だった。
「それじゃあ次は私の方から質問させてね。この場所でいったい何があったのかしら?」
悠紀の問いは、亜子の登場で有耶無耶になっていたことだった。
秋弥は学生自治会の課外活動に関する驚きも醒めやらぬまま、半ば事務的に、廃病院で起こった出来事の顛末についてを悠紀に説明した——悠紀は真摯な態度で秋弥の話に耳を傾けていたが、スフィアは彼女の隣で欠伸を噛み殺していた。
「……ふぅん、そっか。それはご苦労様でした」
一頻り話を終えた後、悠紀が労いの言葉を口にする。
「九槻君の封術の使用は、封術師見習いとしての制約を少しばかり逸脱しているようにも思えるけれど、今回は許容範囲内ということにして目を瞑りましょう。……それにしても、学園を卒業したばかりだというのに違法封術に手を染めてしまうだなんて……。九槻君には嫌な思いをさせてしまったわね」
思いやりの籠もった言葉と柔らかな瞳に見詰められて、秋弥はわずかに表情を緩めた。
「でも、安心して。後のことは私たちで引き継いでおくから」
「わかりました。よろしくお願いします」
ニコリと微笑んだ悠紀に、秋弥は軽く頭を下げる。
いろいろと予想外の出来事が起きたものの、これで本当に終わりだ。封術師見習いの身分では仕事料はもらえないため、それを誰かに催促する必要もないし、向江の末路がどうなるかも知るところではないし、知りたくもない。
後はもう、家に帰るだけだ。
制約によって封術を使うことができない以上、来たときと同じように昇降機内を通っていくことはできない。秋弥は悠紀たちが上ってきた非常階段から帰ろうとして歩き出そうとした。
そのとき——。
「待つんだ、クツキ」
スフィアに呼び止められて、秋弥は歩き出そうとしていた足を止める。
振り返ると、笑みを殺したスフィアが、秋弥の制服の裾を摘んで一緒に歩いていたリコリスを凝視していた。
「ワタシからも、聞かせてほしいことがある」
「……なんですか。スフィア会長」
その只ならぬ視線は、とてもじゃないが断れる雰囲気のものではなかった。
「クツキ……。キミは、その隣神をどうしたいんだい?」
「……どう、とは?」
漠然としすぎている質問に秋弥は聞き返したが、その言葉をほとんど無視する形でスフィアは続けた。
「その娘はワタシたちと同じ人間じゃない。まるで人間のようだけれど、全く人間じゃない。むしろワタシたち人間にとって脅威となる存在だ。違うかい?」
「……」
秋弥が何も反応しなかったことを肯定と取ったのだろう。きょとんとしたリコリスの紅い瞳を見詰めたまま、スフィアはさらに言葉を続けた。
「その娘からは一切の悪意も、一縷の敵意も、一片の害意も、一分の殺意も、何も感じられない。だけどそれは、彼女が人間を取るに足らない存在だと思っているからじゃないのかい?」
「——人間」
「その娘がワタシたち人間のことを『人間』と『秋弥様』で明確に区別していることからも、それは十分に確信できることだ。その娘はいつかきっと、ワタシたち『人間』にとっての脅威となる。それがわからないキミじゃないだろう?」
「いい加減口を慎みなさい、人間! それ以上くだらない御託を並べ立てるようなら——」
「——スフィア会長」
殺すわ、と言いかけたリコリスの言葉に、秋弥は言葉を重ねた。
「確かにリコリスは隣神です。だけど俺はリコリスのことを、俺たちと同じ『人間』だと思って接しています。……その答えでは不満ですか?」
隣神——その元々の語源は『隣人』。現層世界の隣に住まう人という意味だった。それが時代の流れとともに、いつしか『人』から『神』へと転じてしまったのである。
秋弥の抑圧された感情のうねりが、深層意識を伝ってリコリスへと届いた。
彼の言葉に火照った頬を両手で押さえて照れ笑いを浮かべるリコリスを見たスフィアは、表情を崩すと不敵な笑みを浮かべた。
「……いいや、不満はないよ。だけどね、クツキ。いつの日かキミが、ワタシたち『人間』側の敵に回らないことを願うばかりだよ」
「……それじゃあ、俺はもう帰りますよ」
結局言いたいことだけを言われたような気もするけれど、気にしたところでどうしようもない。
今度こそ二人に背を向けて階段を下りる秋弥の背中に向かって、二人から別れの言葉が投げ掛けられる。
「うん、良い休日を」
「またね、九槻君」
それは再会を約束する、別れの言葉だった。
2013/01/02 可読性向上と誤記修正対応を実施