第14話「違法封術師×封術師見習い」
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廃病院に住み着いた——否、大切な人の還る場所を護り続けた隣神が現層世界を去った瞬間、世界を満たすエリシオン光波の共振現象が二人を襲った。
共振は多層世界の垣根を越えて現層世界に物理的な影響を及ぼした。
秋弥たちの立っている病室の床が、音を立てて崩落する。
足場を失った秋弥の身体がふっと宙に浮く。奇妙な浮遊感覚は重力に引かれて一瞬にして消え失せ、その身体は真下へと落下を始めた。
秋弥はリコリスの手を離さないように、繋いだ左手に軽く力を篭める。
しかしその左手はリコリスの柔らかな手ではなく、虚空を握り締めていた。秋弥は反射的にリコリスを探そうとしたが、すぐに無駄なことだと思い直した。握り締めた左手を緩やかに開いて、そこに蒼の装具を召還する。
次いで、耐衝撃性を持つ薄い膜を体表面に張る『虚空』系統の封魔術式——防護膜を展開した。
秋弥の身体を縁取るように、数ミリの間隔を開けて情報改変の光が走る。
防護膜は肉体強化の封魔術式に数えられている封術の中でも初歩中の初歩の術式だが、それゆえに応用力が高く、また、術者の力量によってその性能が大きく変化する。
たとえば今回秋弥が展開した防護膜は、膜厚がおよそ一センチで、耐衝撃性だけでなく、耐刃性も付与している。
そのため、宙に舞うガラス片が彼の制服や身体を傷つける心配はない。秋弥はバランスを制御して地面に着地した際に受けるはずの衝撃もほとんど感じなかった。
秋弥は軽く足踏みをして地面がさらに崩落しないことを確認してから、吹き抜けとなってしまった天井を見上げた。
崩れた床面——秋弥の視点から見れば天井面——の数からして、どうやら一階まで落下してきてしまったようだ。
秋弥は部屋を出ると、他にも崩壊している箇所がないかを探した。
建物の一部が崩れたことで、粉塵が周囲に舞って視界が悪い。
この粉塵で喉や肺を傷めていないのは、防護膜に付与した追加効果のおかげだ。
隣の部屋や向かいの部屋にも、崩れたばかりだと思われる瓦礫の跡がいくつも見つかった。
「層間共鳴振動だろうな。……厄介だな」
秋弥は瓦礫の山を見詰めて呟く。
情報体は、存在する世界を定義するための光波長域であるエリシオン光波を有している。
情報体の起こす共鳴振動——共振と呼ばれる現象には二種類ある。
同じ世界に存在する情報体が互いに共振する現象を情報体間共鳴振動と呼び、異なる世界同士や、部分的に切り出した領域同士で共振する現象を層間共鳴振動と呼んでいる。
たとえば世界多重層構造理論では、『直感』や『一目惚れ』、『気が合う』などの現象を、情報体間共鳴振動による現象の一つであると位置付けている。こちらは同一世界内でしか見られない現象であるため、重層する世界に対しては大きな影響を及ぼさないとされている。
一方、層間共鳴振動は世界同士が有するエリシオン光波長の共鳴振動を指す。
次元振動によってこれが発生してしまうと、それぞれの世界が有しているエリシオン光波が共振現象により一時的に増幅されてしまうため、不変的な性質の『波』を持つ情報体である無機物は、波長域の増幅に耐え切れず自壊してしまう。
病院の崩壊規模から見積もっても、この崩壊が情報体間共鳴振動によるものだとは考えにくかった。
それに、これが秋弥の予想どおり層間共鳴振動現象であった場合、建物の崩壊なんかよりも、もっと大きな問題が浮上してくる。
共振の対象となった層——現層と異層の間に、世界同士を繋ぐ回廊が生まれてしまうのだ。
これは次元振動による異層領域の発生とほぼ同様の現象であり、異層領域が現層領域に生まれるということは、異層世界の住人たる隣神が顕現する可能性が高まるということと同義だ。
建物の崩落を層間共鳴振動が原因であるとほぼ断定して周辺の調査を続ける秋弥の足元を、小さな黒い影が横切った。
瓦礫を避けてチョロチョロと素早い身のこなしで動き回るその影の正体は、根棲だった。
なんだ根棲か、と関心をなくして視線を外そうとした秋弥は、言い知れぬ違和感に眉をひそめた。
一階と地下階は向江が調律を行っていたはずだ。そして三階で発見した異層領域のうち、禰子を顕現させていた異層領域の方は、既に消滅している。
根棲の生命力は異層領域から離れて長い間存在を維持できるほど高くはない。調律が既に完了しているのならば、根棲は存在力——現層への干渉力を奪われて弱っているはずだ
にも関わらず、部屋の片隅で元気に動き回る根棲を見て、秋弥は嫌な胸騒ぎを覚えた。
踵を返して、病室を出る。
病院の廊下は構造的に直線に作られているため、視界が多少不鮮明であっても道程に困ることはほとんどない。瓦礫に足を取られないようにだけ注意して、秋弥は足早に地下へと降りる階段へと向かった。
階段口は層間共鳴振動の影響で無残にも崩れ落ちていたが、階段の崩れた部分は飛び越せない距離と高さではなかった。秋弥はそう判断すると、軽く助走をつけて階段の折り返し地点まで一足で飛び降りた。着地の衝撃で辛うじて支えられていたらしい階段がわずかに軋んだが、人ひとり分の重さを支えるだけの余裕は残っていたようで、秋弥はそのまま残りの半分を一足飛びで降りた。
地下階は地上階ほど酷い有様ではなかったが、医療器具や不法に廃棄された計測機器など、病院だった頃の名残が一層強く残されていた。
初めから地下に異層領域は無かったのかもしれないが、もしも予感が的中しているのならば、地下の異層領域は未だ調律されずに残されているはずだ。
秋弥は廊下の奥へ向かって腕を伸ばすと、掌から現層領域の固有振動波と同じ光波長の波を放出した。これは向江が用いた異層調査術式を広域対象とした応用術式で、原理としては音波探知機のそれに近かった。狭い範囲を対象にしてパターンの整合性を測るのではなく、不特定箇所へ向けて波を放つため、信頼性と精度は劣るが、術者の異層認識力が高いほど反射波の読み取り精度が上がるため、その分、確実性が向上する。
秋弥の異層認識力は、実のところ層間共鳴振動現象を観測できるほど高い。ただしこれは、彼が隣神リコリスの力の一部を共有しているためであり、封術専攻の次元振動学では、人間が層同士の共振現象を観測することは不可能であると論じていた。
層間共鳴振動現象と情報体間共鳴振動現象とでは、文字どおり次元が違うのである。
しかし秋弥はこの力を持つがゆえ、彼の放った異層調査術式は、並の調律師が行う術式のそれよりも遥かに高い精度を誇っている。
発動した術式は音速に近い速度で空間を走査し、反射波が秋弥の掌に再び収まる。波のパターンに無視できない揺らぎを読み取った秋弥は苦い顔をした。
「……やはり、調律されていない異層領域が残っているみたいだな」
層間共鳴振動の発生源と、行方不明の向江。
振域レベル一以下の異層領域の調律はこの際後回しにするとして、どちらを優先して探すべきか。
層間共鳴振動の発生源は早急に見つけ出して調律を行う必要があったが、向江が仕事を放棄してどこへ行ってしまったのかも気がかりだった。
それにどうも、この二つの事柄は無関係ではないように思えた。
ならば先に探すべきは——やはり層間共鳴振動の発生源の方だろう。
向江は新米とはいえ封術師なのだから、発生源のそばにいれば必ず姿を現すはずだ。
仮に向江が現れなかったとしても、最悪の場合には自分で異層領域の調律を行えば良いと、秋弥は考えていた。それは封術師見習いとしての制約に間違いなく抵触してしまう行為ではあったが、現層世界に及ぼうとしている脅威を知覚していて、それに対処できるだけの力も持っているのに何もしないという選択肢は、初めからないのも同然だった。
目的が明確化したところで、秋弥は常時展開させたままだった防護膜を解除して、一息吐いた。
ずいぶんと妙なことになってきたな、と思う。
最初は調律師の護衛として請けた仕事だった。それが途中から——これは秋弥自身も望んでいたことだったが——調律師と別行動を取って隣神『禰子』の退治を行うことになった。しかも、どちらかと言えば結果論ではあるものの、『禰子』の退治こそが今回の仕事の肝であった。
そして問題の大元であった廃病院の隣神を異層世界へ還したことで、ここでの仕事はほとんど終わりだと、そう思っていた。
それがまさか、新たな層間共鳴振動現象に巻き込まれるとは、夢にも思っていなかった。
それにこの層間共鳴振動は、秋弥が隣神を廃病院から追い払った頃を見計らって——まるでどこからかそれを視ていたかのように狙い済ましたかのようなタイミングで、発生したようにも思えた。
偶然にしてはできすぎだ、と秋弥は思う。
この世界に偶然はない。あるのは理論に基づき、厳密なまでに洗練された基盤の上に築かれた精緻な論理だけだ。
だからこそ、秋弥はこれを偶然だとは考えていなかった。
偶然だとは、認めていなかった。
星の記憶に記された確定した未来ではないと、考えていた。
もう一度、今度は大きく息を吐く。
蒼の装具を強く握り、寄りかかっていた壁から背を離す。
目指すべき場所は、既に決まっていた。
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秋弥は加速術式を用いて、影に濡れた廃病院内を疾駆した。
時刻は『逢魔ヶ刻』と呼ばれる、この世ならざる者が本来の力に目覚めつつある時間帯になろうとしている。
層間共鳴振動によって新たに生まれようとしている異層領域——そこを通って隣神が顕現しようとしているのならば、今の時間を置いて他にはないだろう。
廃病院とはいえ、建物を崩落させるほどの共振現象が発生したのだ。秋弥の予想では振域レベル三、あるいは四を超えているかもしれなかった。
世界多重層構造理論では、現層世界のエリシオン固有振動数を基準として、多層世界の固有振動数との変動値を計測することで振域を段階分けしている。
振域レベルは現層世界との変動値が大きくなるほどに段階を増し、現層世界にとっての『現実味』が乖離していく。
異層世界に住まう存在は、現層世界の概念や法則を超越した未知の力を操って現層世界を侵食する。
現時点で現層世界の最直近にあるとされる異層は、霊体や幽体と呼ばれる存在の世界であると言われている。この異層世界は極小規模の層間共鳴振動でも容易に現層領域と重なってしまうため、わずかでも異層認識力を持っている者であれば、認識することが可能となる。
これが振域レベル〇に相当するのだが、レベル〇の異層領域は封術師が調律を行わなくても、星自身が持つ修正力によって、自動的に元の状態へと復元される。
振域レベル一以降になると、『星の修正力』だけでは元の状態へと戻るまで時間がかかってしまうため、封術師——とりわけ調律師による調律が必要となってくる。振域レベルが低いほど——つまり、現層世界に近い固有振動数を持つ異層世界ほど、その世界の生物、すなわち隣神は、根棲や禰子のように現層世界に存在する生物に近しい外見となる。
なお、日本を襲った四度の地震ではいずれも振域レベル五以上の層間共鳴振動が起こった。一部ではユニコーンやグリフォン、ドラゴンなどといった空想上の生き物が目撃されたという。いかにも眉唾ものの噂ではあったが、歴史を紐解いていくと、これら伝説上の生き物たちの原点は、過去に発生した層間共鳴振動で顕現した隣神たちであり、時と場合によっては、勇者や英雄と呼ばれた者たちが未知なる力——現代における封術を駆使して戦ったのではないかとも考えられている。
秋弥は崩れ落ちた階段を、壁を蹴って一気に駆け上がる。
三階まで上りきると、階段はそこで途切れていた。
逡巡する間もなく、秋弥はデバイスを立ち上げて総一郎から送られてきたメールに添付されていた廃病院の案内地図を開いた。すると、ホログラムウィンドウ上に病院の全体図が三次元オブジェクトで表示される。設定項目の中からワイヤーフレームモードを選んで表示を変更すると、病院内部の様子が丸わかりとなった。
秋弥が上ってきた階段は、一階のエントランスフロアから最も遠い場所にある階段で、三階の一般病棟まで通じている。これより更に上の階へ行くためには、エントランス寄りのやや幅広の階段を使うしかないようだ。
秋弥はメニューを開いてオブジェクトの操作を続ける。
三階より上の階だけをクローズアップして眺めると、エントランス寄りの階段を利用したのでは、五階までしか上れないことがわかった。
だが、秋弥が目指している場所はそこではない。
ルートを確認するためにオブジェクトをさまざまな角度から確認する。すると、病院内を縦に貫いている直方体が眼に止まった。
ワイヤーフレームではわかり辛かったため、その部分にだけテクスチャを貼り付けて元の状態に戻す。どうやらその直方体は、資材搬入用の昇降機のようだった。昇降機の終着点は秋弥が目指している場所に繋がっていた。
デバイスを閉じると、秋弥は階段ホールへは行かずに、昇降機のある中央ナースステーションへと向かった。
二度目となるナースステーションの前で立ち止まり、辺りを見渡す。
薄闇に紛れたナースステーションのカウンター奥に、昇降機の扉らしきものが見えた。
秋弥はカウンターに手を突いて飛び越え、元はガラスで仕切られていたのであろう看護師の詰め所に入る。かすかな夕陽の光だけを頼りにして昇降機の前まで歩いた。
電気が通っていないので、昇降ボタンを押しても扉は開かない。秋弥は扉の隙間に装具を差し込むと、テコの原理を利用して隙間を広げる。わずかに開いた隙間に指を滑り込ませると、力を加えて左右に開いた。
顔を覗かせて昇降機内部を上下に眺める。そしてもう一度見上げると、秋弥はその内部へと飛び込んだ。
正面の壁に足を着けると同時に、運動方向を改変する。壁を蹴ってさらに対面へと跳躍。その繰り返しによって、秋弥は昇降機内部をジグザグに昇った。
瞬く間に最上階の目前まで到達すると、三階の昇降機の扉を開けたときのように、蒼の装具を扉の隙間に突き刺した。秋弥自身はドアの淵に立って手首を捻ることで隙間を作り、手動で扉を開く。
その瞬間、水平線の彼方へと沈みつつある夕陽の光を正面から受けた秋弥は、その眩しさに眼を細めた。
それと同時に、白よりも橙に近い光輝に紛れるようにして、幾筋もの光のラインが秋弥目がけて殺到した。
閃光を直視した瞬間の隙を突くようにして、光の筋が秋弥の身体を拘束する。
身体の自由を奪われた秋弥は、思わず地面に膝を突いた。
秋弥の手から蒼の装具が滑り落ちる。装具は波音のような不思議な音を奏でて地面に転がると、世界に溶けるようにして跡形もなく消滅した。
俯けていた顔を上げると、秋弥は逢魔ヶ時に沈む神来町の町並みを背景にして立つ人物の姿を認めた。
逆光による影に身を染めたその人物は、大仰に両手を広げた。
「やぁ九槻君、ご機嫌はいかがかな?」
「……向江さん」
人影——向江は眼鏡を軽く押し上げると、口の端を吊り上げて笑った。
「いやいや、まさか本当に禰子を倒してしまうなんてね。僕も吃驚したよ。だってそうだろう? 調律師が護衛役の封魔師を依頼して、封術師認定位も持たない見習いがやってくると誰が思う? 普通は思わないさ」
彼の言い分はもっともだったが、秋弥は彼の言葉に共感することができなかった。封術を扱う人間の持つ能力は、封術師見習いや封術師といった肩書きだけでは計れない部分があることを知っていたからだ。
封術学園で封術師見習いが学ぶことは、調律や封魔を扱う技術である。
それは自分自身が持つ『可能性の力』の制御方法であり、決して、根本的な地力の底上げではない。
封術師見習いの中には、一線で活躍する封術師に勝るとも劣らない力を持つ者もいれば、産まれ持った才能によって封術の制御方法を本能的に理解している者もいる。それでも彼らが封術学園に通っているのは、国内で封術を行使するための公的な資格証を得るためであって、その資格証を得るための唯一の手段が、封術学園に通うことだからだ。
「そうですね。まさか向江さんが違法封術師だったとは思いもしませんでしたよ」
ピクリ、と向江の眉が持ち上がった。
「次元振動を人為的に起こして、いったい何をするつもりだ?」
秋弥は向江に対して敬語を使うことを止めた。口調がぞんざいなものに変わる。
向江の手に握られたバタフライナイフ型の装具を一瞥して、再び視線を戻した。
「……君が何を言っているのかわからないな」
しらを切る向江に、秋弥は言った。
「あんたは俺と別行動を取った後、地下に降りたフリをしてこの場所で別の調律を行っていたんだろう?」
その言葉は疑問系の様相を呈しているが、その口調は、向江の行為をほとんど断定しているに等しかった。
「異層領域が生まれる条件として考えられる最悪のケースの一つに、調律師が現層世界の固有振動とは異なる固有振動を故意に発生させて共鳴振動を起こすことで、人為的に異層領域を引き込むというケースがある。調律術式は異層領域を現層世界から切り離すだけではなく、逆に異層領域を現層世界に引き寄せることもできるんだ」
ただし、世界の有するエリシオン光波の固有振動には、互いに干渉を引き起こさないように十分なバッファが組まれているため、調律によって偶発的に異層領域が干渉を起こすことは、限りなくゼロに近い。さらに言えば、異層世界との回線が全く繋がっていない状態の現層領域に異層領域を近付けようとするのだから、術師が故意にそれを行わなければ、まず起こり得ないのである。
「あんたは調律術式を悪用して、異層領域を現層世界に干渉させようとしたんだ」
「……口の減らないガキだな。命が惜しくないのか?」
「どっちにしても俺を殺すつもりなんだから、関係ないだろ」
「……ハハ、ハハハハハハ。君の言うとおりだよ」
向江はゆっくりと振り返ると、顔を手で押さえて、空に向かって哄笑した。
「全く、頭のまわるガキは嫌いだよ。だけどまあ、これから君は僕の開いた異層領域から偶然顕現してしまった隣神によって殺されてしまうのだから、別に構わないさ」
「なるほどな、それが目的というわけか」
違法封術師らしい典型的な主義者の思想だ。
それも、封術が可能にする力に完全に魅せられ——魅入られてしまっているタイプだ。
「ふん、勘違いしてもらっては困るな。これは不幸な事故なんだよ。不幸な事故なのだから、それも仕方の無いことだってわかるだろ?」
封術師に危険は付きものなんだから、と。
存在を固定したバタフライナイフ型の装具に今にも舌なめずりをしそうな表情で、向江は言った。
「自分の手は染めずに、同じ術師を殺すのか」
秋弥は静かに呟いた。
「何だと?」
「向江さんが力を誇示したいのなら、一人で勝手にやってくれ。観客は一人いれば十分だろ」
吐き捨てるように言った秋弥に、向江は一瞬呆然とした。
「無関係の他人まで、あんたの独り善がりに巻き込むなよ」
「……ガキが。この状況を理解しているのか?」
「わかってるさ。無駄な時間を取らされたってことくらいな」
言うや、秋弥は身体を拘束されたままで器用に立ち上がった。
「待て! 逃げられると思ってるのか!?」
その動きを逃走と見た向江が、右掌に『炎球』を生み出しながら言葉と威圧で制する。
秋弥は炎球をチラリと見ただけですぐに視線を向江に固定し、心底呆れたように盛大な溜息を吐いた。
その仕草が向江の神経を余計に逆撫でしたようだ。炎球は彼の感情を表しているかのように煌々と揺らめき、サッカーボール大ほどの大きさにまで膨らんだ。
「封術師が目の前の異層を放って逃げるわけないだろ。あんたの勝手な基準で考えるな」
「ハッ、何を馬鹿なことを。お前は今から死ぬんだよ!」
「そうやって、無抵抗の子供に自身の無力さを痛感させながら事故に見せかけて殺すのか? 自分の方が格上なのだという幻想を抱いて、自己満足に浸るのか?」
「何とでも言うがいいさ。どうせ今のお前には、何もできないんだからな!」
馬鹿にした口調で秋弥を罵る向江に程度の低さを感じながら——。
「できるさ。封術師見習いに危険は憑き者だからな」
落ち着いた口調で言葉を紡ぐと、秋弥は己を縛り付ける幾重もの光の筋を、何の苦も無く解いた。
「…………コイツっ!?」
束縛術式があっさりと解かれたことに気が動転した向江が、咄嗟に掌の炎球を秋弥目がけて放った。
だが、秋弥は余裕の態度を一切崩すことなく、
「——リコリス!」
一輪の紅い花の名を告げた。
次の瞬間、炎球と秋弥の間に紅が舞った。
花弁を舞い散らせながら空中に咲いた一輪の紅い彼岸花は、瑞々しい二本の腕を、円を描くように動かして正面へと伸ばした。
たちまちのうちに幾何学的な紋様——術式の組み込まれた封術紋が浮かび上がり、襲い来る炎球を丸ごと飲み込んだ。
炎球はリコリスの髪を靡かせる程度の熱風だけを残して、跡形も無く消滅する。
刹那の間に起こった出来事に、向江の思考は完全に置き去りとなっていた。
それでも向江の深層意識は、リコリスが放つ狂気に良く似た干渉圧から、無意識的な恐怖を感じ取ったのだろう。「ひっ」という擦れた声とともに、恐怖心が向江の身体を動かした。
その場に尻餅をつき、震える足と腕を使って後退さる向江に向かって、リコリスが右腕を空へと掲げた。
意識しないようにしていても、向江の眼は自然とリコリスの手の動きを追ってしまう。
見上げた薄闇の空に浮かぶ『それ』が、己を裁く神の鉄槌であることを自覚するよりも前に、向江の意識は深い闇の底へと沈んでいった。
2013/01/02 可読性向上と誤記修正対応を実施