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封術学園  作者: 遊馬瀬りど
第1章「封術師編」
14/111

第13話「隣神×封術師見習い」

★☆★☆★



 階段を上って二階に到達した秋弥は、そこで足を止めることなく三階を目指した。

 隣神の気配——現層世界の領域に満ちる情報体の干渉圧を、細い糸を手繰り寄せるようにして追う。

 三階の廊下に出た途端、鼻腔をくすぐる甘い香り(・・・・)がした。

 廃材やら瓦礫やらが無秩序に散乱する廊下に、カツン、カツン、と足音を響かせる。

 そこに、カツッカツッカツッ、と小刻みな足音が重なった。

 リコリス——隣神の少女が自然な足取りで秋弥の横に並んだ。


「——薄暗いね」

「ずいぶん前から使われなくなってたんだろうな。ライフラインが停止して人の手が入らなくなった場所は、朽ちるのが早いからな」

「ふぅん、そっかぁ」

「余所見も良いけど、足元には気をつけろよ」


 リコリスが現れたことに驚くそぶりを見せず、むしろ隣にいることが当然であるかのような態度で、秋弥は彼女を気遣った。


「ちゃんと見えてるから大丈……あっ」


 言っているそばから転びそうになったリコリスを、秋弥は間一髪で抱きとめた。


「えっへぇ〜……」


 秋弥に抱きとめられたリコリスは満面の笑みを浮かべて、そのまま彼の右腕に抱きついた。

 リコリスの行動が彼の気を惹くためのわざとであることは百も承知だったが、秋弥は抱きつく少女を無理に振りほどこうとはしなかった。


「今日はご機嫌だな」

「うん! だって久しぶりに、秋弥様と二人っきりなんだもん」


 両腕を巻きつけるようにしてギュっとしがみつくリコリスに眼を向ける。彼を見上げるリコリスの瞳は、自然と上目遣いになっていた。


「ねぇ秋弥様、秋弥様ぁ。リコリスは秋弥様の言いつけを守っていっぱい、いぃ〜っぱい我慢したんだからね」


 何かを期待するようなキラキラとした真紅の瞳で見つめられた秋弥は、そこで足を止めると、空いている左手で彼女の髪をそっと撫でた。

 ちなみに蒼の装具は向江と別れた時に仕舞っている。装具は必要に応じて召還すれば良いし、持ったままでいるのは何かと不便だった。

 頭を撫でられて気持ち良さそうに眼を細めたリコリスは、まるで猫みたいだった。


「だけどお前、一度勝手に出てきたよな?」

「……うっ」


 一転してばつが悪そうに表情を硬くしたリコリスの小さな頭を、今度は優しく叩く。


「だけどまあ自分でも悪いと思ったから、家の中でも顕現しない(でない)ようにしてたんだろ?」

「うぅ……」


 お見通しだとでも言いたげに、秋弥は錦糸のように滑らかなリコリスの金色の髪を梳いた。


「……もう、怒ってない?」


 怯えるようなリコリスの言葉に、秋弥は眼を見張った。


「そりゃあ少しは困ったけど……。最初から怒ったりはしていないし、それでリコリスのことを嫌いになったりはしないよ」

「そっかぁ……そうだよね。秋弥様はいつだって優しいんだもんね」


 リコリスは目元に浮かびかけていた涙の粒を屈託のない笑みで弾き飛ばすと、秋弥から手を離して、舞うようにステップを踏んだ。


「あぁ……やっぱり外の世界は気持ち良いなぁ」


 ワンピースの裾を翻して、一回転。


「埃っぽいところだと思うけどな」

「気持ちの問題なの。存在のエネルギーで満ち溢れてる感じが好き」


 苦笑交じりの秋弥に、彼の正面に立ったリコリスが、腰に手を当てて頬を膨らませながら抗議をした。


「存在のエネルギー……原質(メディオン)


 原因と結果。

 事象と記録。

 存在(メディオン)証明(エリシオン)——。


 上機嫌なリコリスとともに歩みを再開する。

 途中、異層領域が生じている病室を見つけたが、規模は一階のそれと大差なかったため、後に来るであろう向江に調律を任せることにして通過した。


「……さっきよりも強い干渉圧を感じる。近いな」


 隣神の干渉圧を追って三階中央のナースステーションの前を通った秋弥たちは、だんだんと強まっていく干渉圧に、静かに身構える。


「誘われている感じがするな。リコリス、お前にもわかるか?」

「うん、わかるよ。これは明らかに、誘っているね——」


 リコリスは笑う。


「誘ってる相手が、狩人(ハンター)だとも知らずにね」


 秋弥に対して見せた人懐っこい少女の姿からは想像も付かない、残忍な笑顔で笑う。


「そうだな。さっさと退治して帰ろうか」


 応じるように、秋弥は蒼の装具を召還する。

 と、初めて秋弥の装具を見たリコリスが可愛らしく小首を傾げた。


「ん、どうした?」


 その様子に、秋弥が訝しげに声を掛ける。

 だがリコリスは何も言わずに、観察するようにジッと、蒼の装具を見つめた。


「……これって多分、人間みたいに言うと『とくしゅがた』っていうんじゃないの?」


 実体を持たない蒼い刀身に細い指を通しながら、リコリスが不思議そうに尋ねた。


「あぁ、そうだよ。これは特殊型遠近接系流剣(・・・・・・・・・)だ」

「でもでも、秋弥様はさっき『きょうかがたきんせつけいかたてけん』って言ってたような——」

「そうだったか?」


 とぼけて見せたが、それで誤魔化せるとは到底思っていなかった。


「あの人間に、『ウソ』をついたんだね?」


 リコリスの問いかけに、秋弥は肯定も否定も返さなかった。しかし、黙秘こそが彼女の言葉を肯定している証だった。


「ふぅん……」


 探るようなリコリスの視線を、秋弥は涼やかに受け流す。何か考えがあってのことだと読み取ったのか、リコリスからそれ以上追及されることはなかった。

 メールに渡されていた資料によると、病院の三階より上は一般病棟となっている。主要な医療設備はなく、あるのは中央のナースステーションと病室のみだ。

 病室は一人用の個室もあれば、四、五人で共有する大部屋まであるが、ひときわ強い干渉圧を放っている病室は、どうやら個室のようだ。

 扉の前には三○九のプレートがかけられている。病院が廃業となる前に回収されなかったのか、プレートの下には患者の氏名が書かれた紙が貼り付けられていたままとなっていた。

 秋弥は背後にリコリスを従えて、病室の扉を開ける。

 ベッドや袖机などの調度品が取り払われた病室は、個室の割にとても広く感じられた。壁に掛かっていた唯一の調度品とも呼べるカレンダーが、八年前の七月で時間を停止させていた。

 開業当時は、それこそ病的なまでに白かったであろう壁には、四方八方に大きな亀裂が見られた。割れた窓ガラスの破片が床に散らばって、沈みかけた夕陽の光を浴びて煌いている。


「何にもないね」


 扉を開けただけで中の様子が一望できてしまうほど、何もない。そこには隣神の姿など、影も形もなかった。

 それでも秋弥は、何が起こっても対処できるようにと、慎重な動きで病室に足を踏み入れた。

 隣神の存在証明ともいえる干渉圧は、まだここに残っている。

 それが残滓なのか、はたまた単に姿が見えないだけなのか、まだ判断は付かないが——。

 室内にはいないだけで、たとえば壁面などに張り付いて隠れているのかもしれない。

 窓辺に近付こうとしてガラス片を踏む。

 ガラスの割れる音を聴いた瞬間、秋弥は窓枠に佇む一匹の黒猫に気付いた。

 秋弥はハッとして窓から飛び退いた。黒猫に視線を固定させたまま、一瞬にして扉の前まで戻る。

 黒猫は窓枠から床へひょいっと飛び降りると、ゆっくりと部屋の中央へ向かって歩いた。

 その姿が次第に大きくなる。両者の距離が縮まったことによるものではなく、黒猫の質量が増大しているのだ。


「——禰子(ねこ)ね」


 長い年月を経て神格化した猫の隣神だ。猫又との違いは、尾が二つに分かれてないことだろうか。

 全高二メートルほどまで巨大化した黒猫の隣神を、下から上へと眺める。夕陽を背景にして闇に溶け込むような黒の体躯。その四本の足はまるで靴下を履いているかのように白く、秋弥を威嚇して大きく膨らませた尻尾の先も、同じように白い。

 禰子は全身の毛を逆立たせると、肉球の隙間から尖った爪を伸ばして、前脚を横に薙いだ。物がなくて広く見える室内とはいえ、動き回れるスペースは限られている。

 秋弥は封魔術式の補助を得て高く跳び上がることで、禰子の攻撃を避わした。


「住人が目撃した隣神というのは、コイツのことか」


 着地して背後の壁を一瞥する。爪が通過した後の壁には横方向に三本の亀裂ができており、その衝撃によって秋弥たちの入ってきた扉が音を立てて崩れ落ちた。

 壁中に広がる幾本もの亀裂は、この隣神の引っ掻き傷によるもののようだ。


「秋弥様ぁ、頑張ってぇ」


 いつの間に移動したのか。リコリスは重力に逆らうように壁面に立ち、紅の装具を振り回して歓声を飛ばした——当然、身に着けている洋服も金色の髪も何もかもが、彼女と同じように重力に逆らっている。

 手を貸すつもりのないらしいリコリスを横目に、秋弥は身体を禰子へと向ける。攻撃が避わされたことで警戒心をより一層強めた禰子は、四肢の曲げて身を低くした。

 飛びかかってくる前兆だ。

 そう考えた時点で、秋弥は横に飛び退いていた。数瞬遅れて、突進した禰子が隣を通過する。

 慣性を殺して滑るように振り返る。壁に頭をぶつけた禰子は、目標を見失ってキョロキョロとあたりを見回している。

 禰子と相対するのは初めてだったが、どうやら長い年月を生きていても、知能は猫並らしい。

 見失っていた秋弥の姿を見つけると、禰子は振り返ることなく、今度は尻尾を振り回した。伸縮自在の尻尾が鞭のように部屋中を飛び交う中、秋弥は不規則な軌道を冷静に読み取って避わし続けた。

 その間、一切の攻撃を与えようとはせずにひたすら動き回りながら、秋弥は大気中に広がった塵芥(じんかい)を利用して、ある術式の演算を行っていた。

 演算し終えた術式を待機状態で保持したまま、なおも攻撃を避わし続けていると、唐突に尻尾の攻撃が止んだ。

 猫の性で、同じ行動を続けることに飽きたのだろうか。秋弥は距離を取って次の行動を窺った。

 禰子が尻尾で地面を何度か叩く。それは攻撃のためではなく、動物的な反射行動のようだ。隣神を知覚できる者にしか感じ取ることのできない地響きが地面——現層世界と重なり合った異層世界の地面を揺らす。

 隙だらけだな、と丸まった禰子の背中を見つめながら思っていると、隣神が緩慢な動きでこちらへと向き直った。


「キシァアァァァァァァァアァ」


 口角を吊り上げて鋭い牙を覗かせ、禰子が鳴き声を上げる。後ろ足に力を蓄え、重心を後ろに移して、再び突進をしようとしている。


(来いっ!)


 秋弥は装具を身構えて、内心で呟く。禰子の隣神は、現層世界の動物を遥かに上回る身体能力を有している。その移動速度は、加速術式の補助封術を行使している秋弥よりも速い。

 だからこそ、隣神が動いてから動き始めるのでは遅い。

 秋弥の視線は隣神の後ろ足へと注がれている。隣神が床を蹴る瞬間の筋肉の動きを、床の軋みを見逃さないように注視していた。

 タンッ。

 しなやかで、それでいて力強い音が鳴った瞬間——。

 隣神は秋弥が発動させた束縛系術式の網によって、あっさりと捕縛された。



★☆★☆★



「やったぁ。さすが秋弥様ぁ」


 横から飛び付いてきたリコリスを抱きとめると、秋弥は塵芥の分子結合を組み変えて生み出した網の中でもがく禰子を見上げた。

 禰子は現層世界の猫が神格化して生まれた隣神であり、多くの隣神は異層領域内でしか存在できない。また、現在向江が調律を行っている異層領域の振域レベルでは、禰子のようなクラス7th相当の隣神を長期間、現層世界に留め続けることも難しいはずだ。

 隣神である禰子が現層世界に留まれているのは、現層世界の存在であったはずの黒猫が隣神へと変質したことによって生じた存在定義——エリシオン光波長の矛盾を解消するために、元の存在定義(現層世界)と新たな存在定義(異層世界)を繋ぐ回路を作り出す『星の矛盾許容』と呼ばれる作用が働いたからだ。

 さらに言えば、次元振動によって偶然にも生まれた異層領域から、禰子のエサとなる根棲が顕現するようになったことで、栄養(エネルギー)摂取にも不自由しなかったからだろう。

 であれば、一階の異層領域を調律していたときに、集団で襲ってこなかった根棲の異常行動にも、一応の理由付けができる。

 調律が成功すれば、現層世界との接続(コネクション)は強制遮断される。

 不可抗力によって望まない顕現をし、不幸にも捕食者——禰子の餌食となった根棲は、最低限の犠牲だけで現層との接続を遮断しようとしたのだろう。

 餌場がなくなって困るのは禰子なのだから、元の異層世界へ還りたいと望む根棲を脅して、調律師を襲わせた。

 事の経緯(いきさつ)は、まあそんなところだろうか。

 網に捕らわれてもがき苦しむ禰子も、災難といえば災難だ。

 猫が神格化することなど、滅多に起こるものではない。

 おそらく何らかの心的障害(ストレス)によって、突然変異を起こしたのだと推測できる。


「ねぇ秋弥様。この禰子どうするの?」


 リコリスが自身の数倍もある禰子の隣神に物怖じした様子も見せず、あまり興味無さそうな声で言った。


「もちろん、異層世界へ還す」


 しかし、淡々と告げた秋弥の言葉には、意外そうに眼を見張った。


「どうして? (たお)しちゃえばいいのに」

「還せるのなら、元の異層世界にちゃんと還してやりたいんだ」


 穏やかな秋弥の口調に、リコリスは満足げな笑みを浮かべると、そっと身を離して紅の装具を差し出した。

 蒼の装具を仕舞い、代わりに紅の装具『紅のレーヴァテイン』を受け取る。

 リコリスが遠ざかるのを確認してから、秋弥は禰子の正面に立った。

 身動きが取れずに悲痛な鳴き声を上げる禰子を見上げ、秋弥はふと、悲しそうな表情を見せる。

 だがそれも一瞬のことで、すぐに表情を引き締め直すと、装具を肩の高さで水平に構えた。

 右腕を押し出すようにして、ゆっくりとした動作で装具を突き出す。

 魔剣『紅のレーヴァテイン』は調律術式を行使する際に装具が地面へと溶け込んでいくように、静かな波紋だけを残して、禰子の身体の中へと溶けていった。

 悲鳴は起こらない。

 禰子の痛覚が遮断されているのではなく、魔剣の刃が禰子を傷つけていないのだ。

 禰子は憑き物が落ちたかのように、暴れることをやめた。これから自分の身に何が起ころうとしているのかわからず、身体の中へと浸食していく装具を、愛嬌のある大きな瞳を見開いてジッと見詰めていた。

 秋弥はレーヴァテインの柄から右手を離して、その掌を禰子の身体へと向ける。

 すると、禰子の身体から徐々に光の粒——情報体を構成する最小単位である原質(メディオン)の粒子が生まれて、吸い込まれるように魔剣の中へと消えていった。


「——狭き門『ゲート・オブ・バビロン』」


 その光景を眺めて、リコリスが小さく呟いた。

 存在エネルギーを内包した光の粒子は、少しずつ、ゆっくりとだが確実に禰子の存在を分解し始めた。


 『波』の原質を自在に操る異能——。


 それこそが、魔剣《紅のレーヴァテイン》を異能たらしめる特異な性質の正体だった。

 秋弥はその異能を用いて、禰子の持つ『波』から異層世界へ通じる近道(ショートカット)を作り出したのだ。

 魔剣は対象となった情報体の固有振動パターンを読み取り、本来在るべき世界へと通じる(ゲート)の役割を果たす。ただし、魔剣自体が門の役割を担うため、そこを潜り抜けて元の異層世界へ還すには、情報体を一度、情報の最小単位である原質(メディオン)へと分解しなければならない。

 ゆえに、狭き門。

 断片化された情報体は、門を抜けた向こう側——異層世界で再構成(リビルド)される。

 秋弥は禰子を構成する原質を一つたりとも逃すことのないように、意識を強く傾けた。

 光の粒子が体外へと溢れ出るほど、禰子の存在は弱まっていき、その身体はうっすらと透き通っていく。

 時折、粒子の奔流に紛れるようにして、一際強い発光現象を伴う粒子が、禰子の情報体を離れてレーヴァテインの中へと吸い込まれていった。

 そして、そのたびに秋弥は視た。

 此処ではない、此処に似た何処かの光景だ。


 ——その光の正体は、遠い日の禰子の記憶だった。



★☆★☆★



 そこは病室だった。

 開け放たれた窓の向こうで一陣の風が舞い、レースのカーテンを揺らす。

 室内には暖かな光が満ち、白い壁や床、ベッドを照らしていた。

 その可動式ベッドの上で、上体を起こして読書をしている一人の少年がいた。

 病院服に身を包み、線が細く、薄幸そうな少年だ。

 彼はふと何かに気付いたようにこちらを向いた。


「どうしたの? 何でこんなところにいるの?」


 声変わりをする前の、女の子のような高いソプラノ声。

 本の中でしか見たことのない『ソレ』を目の当たりにして、少年は内心の驚きを隠せずにいた。

 本を閉じて、ベッドから這い出ようとする。

 しかし、少し動いただけで少年は苦痛に顔を歪めた。左腕に繋がれた点滴のことを思い出して、残念そうに溜息を漏らす。


「ねえ、こっちにおいでよ」


 少年が何を言っているのか、『ソレ』には理解できなかった。

 『ソレ』は少年に近付いてみることにした。




 少年はベッドの上に飛び乗ってきた『ソレ』を見て、そっと手を伸ばした。

 彼の手は震えていた。

 それが恐怖によるものなのか、はたまた興奮によるものかはわからない。

 おそらく前者だと思うけれど、確信はない。

 『ソレ』は自ずから少年の手に触れた。

 途端、吃驚した少年は手を引っ込めた。

 だけどすぐにもう一度手を伸ばして、『ソレ』の身体に触れた。


「わっ! とっても柔らかい」


 最初はおっかなびっくりだったけれど、だんだんと慣れてきたのか、『ソレ』の感触を確かめるように優しく、何度も何度も繰り返し撫でた。

 心地良い体温を感じた。

 人の持つ温もりを、『ソレ』は感じていた。




 廊下の向こうから誰かが近付いてくる音を聴いた。

 丸めていた身体を起こして、ベッドから飛び降りる。

 その際に爪をシーツに引っかけてしまったようで、ベッドの上の少年は慌ててシーツを整えていた。


「もう行っちゃうの?」


 言葉の意味を理解したわけではないが、少年に呼び掛けられたような気がして、『ソレ』は振り返った。

 しかし返す言葉を持たない『ソレ』は何も応じることができずに、静かに病室を出て行こうとする。

 少年が遠ざかっていく『ソレ』の背中を寂しそうに見送っていると、『ソレ』と入れ替わるように、白衣を着た初老の男性が病室へと入ってきた。

 男性が足元を通り抜けた『ソレ』に気付かなかったことに、少年は胸を撫で下ろしたのだった。




「やあ、また来てくれたんだね」


 壁に掛かったカレンダーが一枚捲られた頃、『ソレ』は再び少年の病室を訪れた。

 何てことはない、ただの気まぐれだ。

 それでも少年は純粋に、無邪気に、とても嬉しそうに、読んでいた本も投げ出す勢いで、こっちにおいでと手招きした。

 手招きをするのは自分の役目じゃないのかと『ソレ』は思ったのだが、生憎それを伝えるための共通言語を持ち合わせていなかった。


「触ってもいいかな?」


 問いかけられても答えられるわけがない。言語体系が人間とは異なる『ソレ』は、この前と同じようにベッドの上に飛び乗ると、身体を丸めて寝そべった。

 それを肯定と取ったのだろう。少年は『ソレ』の背中を撫でた。


「初めて君が来たときにね、僕、先生に怒られちゃったんだよ」


 一方的に、少年は話を続ける。


「シーツの上に君の毛を見つけてね。あんまり煩く言うものだから、耳にタコができるかと思っちゃったよ」


 少年は本の知識から得た『ソレ』の扱い方を試してみようと思い、顎下へと静かに指を這わせた。


「ずっと一人だったんだから、少しくらい大目に見てくれても良いのにね」


 少年に喉元をくすぐられて、『ソレ』は気持ちよさそうに鳴いた。




 少年は一人でいるとき、ずっと本を読んでいる。

 少年にとっての世界とは、眼に映る病室のことであり、本の中のことだった。

 いつも。

 いつもいつも。

 いつもいつもいつも。

 少年は一人だった。

 病室に訪れるのは、『ソレ』と白衣の男性だけだ。

 いや、たまに妙齢の女性がやってくることもあったが、少年と少し話をすると、持ってきた荷物を忙しなく片付けてすぐに部屋を出て行ってしまうのだ。

 少年はベッドから出ることもできず、窓枠で区切られた先に広がる、広い世界を知らない。

 『ソレ』は頻繁に、少年の病室を訪れるようになった。

 だんだんと、彼の言葉を理解できるようにもなってきた。


「そうだ。君の名前を教えてよ」


 名前なんて、ない。

 少年だけでなく、『ソレ』も一人ぼっちだったから。

 互いに身を寄せ合うように、傷を舐め合うようにそばにいるだけだ。


「もしかして名前がないの? それじゃあ僕が名付けても良いかな」


 好きに呼べば良い。

 どうせその名前で呼ぶのは君だけなのだから。


「えっと……、うぅん……、難しいなぁ」


 腕を組み、眉間に皺を寄せて唸る少年を見て、『ソレ』は暢気に欠伸をした。


「決めた! 今日から君のことはサクラって呼ぶね!」


 その日はちょうど、窓の外に桜が見える季節だった。




 サクラ。

 とても綺麗な三つの音。


「サクラ」


 名を呼ばれて、サクラは少年を見上げた。


「サクラ」


 もう一度、少年は笑顔でサクラの名前を呼ぶ。


「サクラ」


 今度はイントネーションを微妙に変化させて言った。

 一体何だというのだろうか。

 サクラ、サクラと屈託のない笑顔で繰り返す少年を見詰める。

 ——今日からそれが、私の名前となった。




 水滴が窓ガラスを叩く音が聞こえる。

 外の天気は、雨。

 此処に来る途中で少しだけ身体を濡れてしまった。


「拭いてあげるから、こっちにおいで」


 病室にやってきたサクラを見て、何処からか取り出したタオルを両手に、少年は言う。

 濡れた身体でベッド目がけて飛び跳ねると、水滴が撥ねて少年の顔にかかった。


「冷たいなぁ、もう」


 タオルで身体を包まれる。サクラに触れることにもすっかり慣れた手付きで、少年は身体に付着した水滴を丁寧に拭き取っていった。

 少年に触れられることは、なぜだか嫌いじゃなかった。




「——夢があるんだ」


 ——夢?


「僕は大人になったら、学校の先生になりたいんだ」


 遠い眼差しで、少年は将来の夢を語った。


「学校っていうところはね。同じ年齢の人たちがたくさんいて、一緒に勉強したり、運動したり、遊んだりするところなんだって」


 まるで他人事のような少年の言葉に、サクラは違和感を覚えた。

 丸めていた身体を起こして、少年をジッと見詰める。

 その視線に気付いたのか、少年は困ったような笑みを浮かべた。


「……僕、ずっとこんな調子だったから、一度も学校に行ったことがないんだ」


 シーツを握り締める拳が弱々しく震えていた。

 もしかしたら、涙を堪えているのかもしれない。


「だから、この病気が治ったらもっとたくさん勉強するんだ。それで学校の先生になって、皆に勉強を教えたり、一緒に運動ができたりしたらいいなって。……おかしいかな?」


 おかしくはない。

 立派な夢だと思う。

 それから少年は、他にもたくさんやりたいことがあるのだと言った。

 それは、幼い頃からずっと病院で生活を続けていた少年らしい、ささやかだが当たり前の夢ばかりだった。




「今日は何だか調子が良いんだ」


 いつ訪れてもベッドの上で横になり、可動式ベッドの補助機能を得ることでかろうじて上体を起こしている少年を見て、言葉どおりに調子が良いとは到底思えなかった。

 筋肉も握力もすっかり衰えて、歩くどころかサクラを持ち上げることすらも叶わない少年が、それでも嬉しそうに笑顔を見せた。


「今度、手術するんだってさ」


 手術。

 その言葉の意味を、サクラは知っている。

 いつか少年から聞いた、病気を治すために必要なこと。

 手術をすれば、病気が治る。

 少年はそう思い込んでいる。

 その思い込みこそが彼を支える力になっているのかもしれないと、サクラは思った。

 だから、いっそう力強く鳴いてみせた。

 少しでも少年の生きる助けになれれば良いなと、そう思いながら——。




 季節が巡り、春がやってきた。

 少年からサクラという名前をもらってから、二度目の春。

 サクラは久しぶりに少年の病室を訪れた。

 実はここ数か月の間にも、何度も病室を訪れていたのだが、なぜかいつ来ても少年はいなかったのだ。

 ベッドの上にいない少年を見たことがないサクラにとって、それは不安と呼べるに値する衝撃の出来事だった。

 だから、ベッドの上に少年の姿を見つけたとき、サクラは思わず安堵してしまった——。

 病気が治らなかったために再び戻ってきた少年を見て、涙が浮かぶほど安心してしまったのだ。


「……あ、サクラ」


 ゆっくりと視線を移した少年が、サクラを見て柔らかに微笑む。

 懐かしい、三つの音。

 サクラはすっかり定位置となったシーツの上に軽く飛び乗る。

 頬がこけて肌の色が一層白さを増している少年は、ニット帽で頭の先から目元のギリギリまでを覆い隠していた。

 その豹変ぶりは同じ人間が見たら眼を丸くして驚くほどだろうが、人間を匂いで嗅ぎ分けているサクラにとっては、見た目の変化なんてあまり関係のないことだった。

 少年の骨ばった指が、サクラの存在を確かめるようにそっと触れた。

 感触は違ったけれど、確かにそれは少年の持つ温もりだった。




「……僕のおうちは、母子家庭なんだ」


 身体を横に向けて、袖机の上に置かれた紙袋を眺める。


「母子家庭ってわかるかな? お母さんと僕の二人だけってことなんだけどね……。僕、お父さんには一度も会ったことがないんだ。お父さんの話をするとお母さん泣いちゃうから……あんまり聞かないようにしてるんだけど。僕が生まれたってことは、この世界のどこかに僕のお父さんがいるってことだよね」


 紙袋はつい先ほど、少年の母親と思われる女性が置いていったものだ。


「……ねえサクラ、君のお父さんとお母さんはどこにいるのかな?」


 少年に問われて、サクラは初めて自分の記憶から両親の記憶が抜け落ちていることに気付いた。

 少なくとも、自立できるようになるまでは育てられてきたはずだ。

 なのに、過去の記憶が全く思い出せなかった。


「お母さんはいつもいつも、朝早くから夜遅くまで働いているんだ。……本で読んだんだけど、母親一人で子供を育てていくのってすごく大変なんだって。それなのに、僕の身体はこんなだから、お母さんには余計に苦労を掛けちゃってるんだ」


 少年は心の痛みに耐えるように、胸をぎゅっと握りしめる。


「だけど、お母さんは仕事の合間で僕の見舞いをしてくれるんだ。それだけでも僕はすごく嬉しくって、それと同じくらい、とても情けなくって……。お母さんのために何かしてあげたいんだけど、何にもできない自分がもどかしいんだ……」


 きっと少年の母親は、彼がこうして生きていてくれるだけでも、嬉しいに違いない。

 それが、母親というものじゃないだろうか。

 無責任でご都合主義な思いかもしれないけれど、そんな気がした。




 程良い室温を維持し続けるために窓が閉められているにも関わらず、蝉の鳴き声というのは存在を高らかに主張するように、耳障りだった。

 そんな夏の日のことだ——。


「……僕が死んでしまったら、君は……、一人ぼっちになってしまうのかな」


 縁起でもないことを少年は言ったのだ。


「たとえば、君がいなくなってしまったら……、僕はとても悲しいし、たくさん泣いちゃうと思う。でもそれは、悲しむことも泣くこともできなくなった君のためなのか、自分のためなのか……」


 少年が何を言いたいのかわからない。

 難しい話をしようとしているのだろうか。


「ねえサクラ」


 弱々しい光を宿した少年の瞳が、サクラをジッと見詰めた。


「僕がいなくなったら、君は悲しむかい?」


 ——当たり前だ。

 ——私がどんな想いで、君のいなかった数か月を過ごしてきたと思っているんだ。

 二、三鳴き声を上げて抗議をすると、少年は申し訳なさそうにサクラの頭を撫でた。


「ごめんね。……でも、最近目を瞑ると考えてしまうんだ。僕の病気はもう一生治らないんじゃないかって。……眠ったら、そのまま眼を覚まさないんじゃないかって。夜、一人でいるのがとても寂しくて、怖いんだ……」


 サクラを撫でる手が震えている。シーツの上に水滴がポツポツと滴り落ちた。


「こんなことをお母さんに話したら、もっと悲しませてしまうだけだってわかっているから言えないけれど、本当はずっと怖かった……。それを誤魔化そうとして、無理して笑うようにしてきた……。だけど、僕の身体のことは、僕が一番良く知ってるんだ……」


 嗚咽交じりの少年の声はだんだんと涙声へと変わり、サクラを撫でていた手は力無く下ろされた。

 サクラは身を起こすと、俯いて涙を零す少年のそばに寄った。

 首を精一杯上に伸ばして、小さな舌で少年の頬を舐める。

 涙は、しょっぱい味がした。




 このところ、少年はずっとベッドに寝たきりだった。

 サクラがベッドの上に乗っかっても、身を起こそうともしない。

 かろうじてシーツの隙間から腕だけを出すと、まるでサクラの姿が見えていないかのような手付きで探すのだった。

 だからサクラは、自分から少年の腕に触れる。

 そうしてやっと、少年はサクラの存在に気づく。


「あぁ……サクラ、来て、くれたんだね……」


 少年の視線は天井の——その向こうに広がる青空を見詰めているようだ。


「……何だか、身体が思うよう、に動かないんだ……。こうやって、サクラに触れ、ているのに……、僕の手が、僕の足……、が、僕の身体が……僕のものじゃない、ように……感じるんだ……」


 ——大丈夫だよ。私はちゃんと、君を感じているよ。


「あれ……、サクラ、何処行っちゃったの? ……もう帰っちゃったの?」


 サクラに触れていた少年の手が、突然、ベッドの上を右往左往しはじめた。


「待って、まだいかないで……」


 ——私は、ここにいるよ。

 サクラは鳴き声で存在を示そうとするが、少年の手はサクラを探し続けた。


「……暗いんだ。何も見えないんだ……、だから……お願い……、僕をひとりに、しないで……、ひとりぼっちはもう、嫌だよ……」


 触覚だけではない。

 視覚や聴覚も、少年はとうに失っていた。




「血圧五十五……五十……なおも低下を続けています!」

「駄目です、心臓停止!」

「自然治癒は絶望的です!」

「電気ショックを与えるぞ! モニターから眼を離すなよ!」

「頼む、持ち堪えてくれ……!」




「——二十一時五十六分十秒。ご臨終です」


 白衣を着た男性が、感情を押し殺した声で事務的な言葉を告げた。

 少年の手を握って必死に名前を呼び続けた母親は、呆然とした表情でベッドの上に静かに横たわる息子の顔を見詰めた。

 集まった医師や看護師の中には、瞳に大粒の涙を浮かべているものもいる。

 たくさんの人たちに囲まれて。


 少年は、その短い人生を終えた。




 袖机の上に一輪の花が飾られている。

 黄色い花だ。

 花の名前は知らないけれど、そういえば少年の病室で花を見たのは初めてだったような気がする。

 空気を入れ替えるためか、開けっ放しの窓からは心地良い風が流れ込んできている。

 サクラは、いつもそうしていたように、ベッドの上へと飛び乗った。

 その際に、綺麗に整えられたシーツに皺が寄ってしまったが、誰にも咎められるということはないだろう。

 ベッドの上にはもう、少年はいないのだから——。




 ——ねぇ。

 ——君はいつ此処に帰ってくるの?

 ——私はずっと、君のことを待っているから。

 ——君の帰りを、此の場所で待ち続けているから。

 ——だからお願い。

 ——私をひとりに、しないで……。

 ——ひとりぼっちは、寂しいよ……。



★☆★☆★



 永遠に引き延ばされた刹那の刻を旅する。

 膨大な記憶情報によって頭の中がぐちゃぐちゃに掻き乱される感覚。

 きつく閉じられた瞼の裏で迸る強烈な閃光。

 頭痛。眩暈。吐き気。

 禰子の記憶と自身の記憶がない混ぜになり、自己という存在を失いそうになる。

 情報体を構成する『波』は世界であり、記録であり、記憶そのものだ。

 その原質を操る魔剣『紅のレーヴァテイン』は、分解した情報体が持つ記憶を読み取る。

 魔剣へと取り込まれた情報体の原質は、装具の所有者であるリコリスと深層意識下で繋がっている秋弥に、禰子の記憶を見せた。


 世界に記された記録(レコード)ではなく——。

 禰子が感じた世界の記憶(メモリー)だ——。


 だから今の秋弥には、禰子の気持ちが手に取るようにわかったし、また、痛いほどに伝わった。

 禰子はずっと、待ち続けていたのだ。

 この病室で、何年も前に亡くなってしまった少年のことを、たった一人で待ち続けていたのだ。

 壁に掛けられたカレンダーは、少年が亡くなった年月で止まっている。


 病院が廃業になっても、


 何度、季節が巡ろうとも——。


 長い年月が、いつしか己の姿を変えてしまったことにも気付かずに——。

 病室を訪れる者たちから少年の還ってくる場所を守るために、この隣神は戦い続けてきたのだろう。

 もはやほとんどの情報が現層世界から失われた禰子を見上げる。

 その秋弥の左手を、リコリスの小さな手が握った。

 禰子の記憶を共有しているリコリスと二人で、禰子の最後を見送る。

 いつか見た記憶の中の『彼女』と同じように、禰子は身体を丸くして、気持ち良さそうに眠っていた。


「おやすみ、サクラ」


 秋弥は、今はもういない少年が名付けた禰子の名前を呼んだ。

 最後の粒子が宙に舞い、静かに現層世界から消えていったサクラの表情は、安らぎに満ちていた。


2013/01/02 可読性向上と誤記修正対応を実施

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