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封術学園  作者: 遊馬瀬りど
終章
107/111

第99話「有望な術師たち」

★☆★☆★





 "可能性の魔女"との戦いから一週間が過ぎ、退屈とはほど遠い封術学園の日常は、最上級生の卒業式と後期終業式によってひとまずの区切りを見せていた。

 学生たちが束の間の休みを堪能できる春期休暇へと突入していく中で、第一学年最後のホームルームを終えた秋弥と聖奈の二人は、学友たちとしばしの別れの挨拶を済ませると、足早に一年三組の教室を後にしていた。


「急な用件というのは何なのでしょうか」


 リノリウムの床を叩く二つの音が響く。

 昨夜のこと、二人は学生自治会長の悠紀から急ぎ伝えたいことがあるという緊急の連絡をもらっていた。


「さあな。だけど、今更何を言われたところで、俺は驚かない自信があるよ」


 学生自治会の役員として学校行事の準備や雑務などで多忙を極めていた数日間もようやく落ち着きを見せたところでの緊急連絡――さぞかし重大な話なのだろうと秋弥はすっかり慣れた様子で了承したのだが、果たしてどんな用件が降ってくるのだろうか。


「そうだと良いですね」


 秋弥の言葉に聖奈も同意する。学生自治会役員の仕事も大変ではあったが、それ以上に二人の脳裡に思い出されたのは、聖奈の裡に眠っていた『抑止力』に関する顛末だった。




 聖奈の完全治癒術――否、同時間軸上に平行して存在する数多の可能性世界を読み取って再構成することで"ありえた可能性"を現在の状態に上書きする異能の力によって、傷ついていた秋弥の身体は何事もなかったかのように完全に癒やされた。しかし、大口の隣神に噛み千切られた腕から大量の血液を失っていた秋弥の意識はすぐには戻らず、聖奈もまた、"抑止力"の異能を行使した代償で意識を失った。"可能性の魔女"が去ったことで学園全体を覆っていた結界術式が解け、しばらくして駆けつけた封術学園の顧問封術師――浅間総一郎が、意識のない二人を抱えて特別訓練棟内の救護室まで運んだのだった。

 そしてその翌々日――眼を覚ました秋弥と聖奈は、学園へと戻って来ていた鷹津宰治学園長に呼び出された。学園長室には鷹津宰治だけでなく、他の学園の学園長たちも集まっていた。

 学園で起こった出来事の説明を求められた秋弥は、自分が知る限りの全てを――地下大空洞までの昇降機を動作させた方法に関してだけは嘘を交えて――詳細に伝えた。

 最後まで聞いてから深く頷いた鷹津宰治は、秋弥と聖奈にも封術史の真実を話して聞かせた。鷹津宰治から聞いた話は、秋弥にとって驚くべきものだった。話の内容よりも"可能性の魔女"が話したことが全て真実だったことに、秋弥は愕然とした。

 収束する可能性未来を破壊する特異点"大いなる革新"。

 "大いなる革新"に対抗するべく『星』が生み出した概念『抑止力』。

 秋弥の記憶は"可能性の魔女"に固有術式『狭き門』が発動したところで途切れていたが、おそらく術式の効果はなかったのだろう。元々この世界に生まれた存在である魔女に、現層世界と異層世界を繋ぐ『狭き門』は意味を為さないのだ。

 では何故、容易く殺せたはずの秋弥を生かして、魔女は聖奈へと戻ったのか。

 その疑問は聖奈の話を聞いて氷解した。

 心象世界で"可能性の魔女"フィーと言葉を交わした聖奈は、魔女の目的を知った。

 魔女は自らの存在証明を求めていた。そのために心象世界へアクセスできる『マナスの門』を目指していたのだと、聖奈は言った。

 目的の違い。価値観の違い。

 結局は秋弥が魔女を信じていなかったからこそ魔女と戦うことになったのだが、魔女の話したことがすべて真実だと知っていたならば、もっと別の結果になっていたかもしれないと思う。

 だがそれもまた、ひとつの可能性の話だ。全てが終わり、確定した後では詮ないことだ。

 結果として秋弥は"可能性の魔女"と戦い、人間の持つ可能性を示してみせた――それが事実だ。

 それに、人間の敵でも味方でもない『抑止力』が隣神に噛み千切られた右腕の止血をしてくれていなかったら死んでいただろうという事実も、決して忘れてはならない。

 何故"可能性の魔女"は自分を助けたのか――それは結局、謎のままだった。

 もうひとつ驚いたことは、聖奈の出生の秘密を知ったときだった。

 人間と隣神の混血――その特異な出生が『抑止力』の器として選ばれた理由なのかもしれないと秋弥は思った。



 それからさらに一日後、二人は鷹津学園長とともに封術教会の総本部がある都心へと足を運んでいた。

 封術協会の動きは迅速だった。鷹津封術学園内で起こった『抑止力』の覚醒からたった三日足らずで、代表議席を埋めている"星鳥の系譜"の重鎮たちを召集したことからもそれは明らかだったが、彼らが"大いなる革新"と『抑止力』の存在を知っていたのであれば、それも納得できる話であった。『抑止力』が覚醒したという事実は、"大いなる革新"が現われる日も近いということだからだ。

 『始まりの封術師』たちが事情を説明する中で、その身に高位隣神を宿した秋弥の存在を封術協会の上層部が危険視していた理由もようやく理解できた。隣神は現層世界にとって最大の脅威ではあるが、何よりもそれが『抑止力』を宿した天河聖奈の近くにいるという事実を、彼らは懸念していたのだろう。当然のように秋弥を聖奈に近づけるべきではないという声も上がったが、最終的には『抑止力』と直接相対してその力を認められたという事実が彼らの声を黙らせることとなった。

 秋弥と聖奈は終始話を聞いていただけだったが、事情説明が済んで今後の方針を検討し終えた頃には陽がすっかり沈んでいた。




 そうしてようやくすべての事後処理が片付いた後は学園の雑事に追われることになり、現在に至る。二人とも心身ともに疲れきってはいたが、自分たち以上に多くの案件を抱えている上級生たちを前に弱音を吐くこともできないので、こうしてささやかな愚痴を漏らしながら、もはや目を瞑っていてもたどり着けそうな学生自治会室までの道のりを歩いていたのだった。


「失礼します」


 自治会室の前に立ち、秋弥が携帯端末(デバイス)で二人分の認証を済ませて入室した。


「いらっしゃい、秋弥君。聖奈さん」


 二人が入室するよりも先に扉のロックが解除されたことに気づいていた星条悠紀が、整った顔に笑みを浮かべて応じた。

 秋弥は軽く室内を見回す。悠紀の他に自治会役員の姿はなかった。それにいつもの治安維持会長の姿も――。


「スフィアなら今日はいないわよ。他の役員たちも今日はお休みよ」


 秋弥の様子に目聡く気づいた悠紀がくすくすと笑う。嫌なところを勘付かれてしまったことに若干顔をしかめながら、その視線は悠紀の背後にあるガラス窓へと向いていた。だがすぐに目を逸らすと、改めて悠紀と向き直った。


「それで、会長。早速ですが俺たち二人に直接伝えたいというのは、いったい何のことなのでしょうか」


 こうして三人だけで集まったということは、これから悠紀が伝えようとしていることは他の人の耳には入れたくないような話なのだろう。何を伝えようとしているかは皆目見当も付かなかったが、真剣みを帯びた秋弥の表情に、悠紀もまた、浮かべていた笑みをスッと消した。


「まずは急に呼び出してしまったことを謝罪するわ、ごめんなさい。でもこれから私が話そうとしていることは、それだけ重要で、大事な話だということを理解してほしい」


 机に肘を突いて指を組み合わせる悠紀。その声は重々しく響いた。


「昨日、鷹津封術学園宛に封術協会から通達が届いたわ。それを学園長が拝見し、学生自治会長である私にもその内容が伝えられたわ」


 封術協会と聞いて、良い思い出がない秋弥の脳裡に嫌な予感が過ぎった。おそらくその通達の内容は秋弥に内在するリコリスと、聖奈の『抑止力』に関することなのだろうと直感的に思った。


「……これはもう決定事項だから、学園長は自分から二人に伝えると仰ってくださったのだけれど、いずれにせよ近いうちに周知されることで、私にも全く無関係というわけではないから――だから私の口から二人に、封術協会からの通達を伝えることにしたの」


 悠紀の表情に陰りがあるのは、背後の窓から射す陽光のせいだけではない。彼女自身も無関係ではないという言葉の意味は気がかりだが、話が終わる前から疑問を挟むのは礼儀に反する。

 秋弥と聖奈は直立したままで悠紀の言葉を待った。ふぅという小さな呼気の音が聞こえた後、悠紀は二人をまっすぐに見つめた。


「九槻秋弥君。天河聖奈さん。二人には昨日付けで、封術協会から"銘"が与えられることになりました」


 その言葉の意味を秋弥たちが理解するよりも早く、悠紀は手元の端末を操作して仮想ディスプレイを拡大した。

 そこに映し出されたのは、昨日届いたという通達の文面だった。定型的な挨拶から始まったその文面には、今し方悠紀が口にしたとおり、今回の事件を経て、封術協会は秋弥と聖奈の両名に封術師としての固有銘を与えるという旨が記載されていた。

 文面の中央よりやや下に、九槻秋弥と天河聖奈の名が並んでいる。その右側に記された各々の"銘"に、二人の視線は固定された。




 天河聖奈――固有銘『魔女神判』


 九槻秋弥――固有銘『隣神憑き』




 二人は思わず絶句した。その顔色を覗いながら、悠紀は言葉を挟むタイミングをはかった。


「『魔女神判』。それに『隣神憑き』。固有銘はその術師の性質を表すものとはいえ、さすがに直截的よね」


 自らも『光輝月天』の固有銘を持つ悠紀が皮肉げに引きつった笑みを浮かべた。秋弥がぎこちない仕草で視線を動かすと、悠紀と目があった。


「もうわかっていると思うけれど、封術協会と『星鳥の系譜』はリコリスの存在を公式に認めて、受け入れることを決定したわ。とはいえ学園長が仰るには、そうなることは統一大会のあのときからほとんど確定的だったそうなのだけれど」


 悠紀が深く嘆息する。


「まさか封術協会がこういう形で手を打ってくるとは思わなかったわ。……いいえ、そうじゃないわね。その可能性は確かにあった。だけど私が考えないようにしていただけ」


(考えないようにしていた?)


 その言葉に、秋弥は違和感を覚えた。

 封術協会から術師としての固有銘が与えられるということは、封術師にとって名誉のあることだ。固有銘とは革新的な封術式を開発した封術研究者や、高位の隣神を数多く斃している封魔師、魔窟とも呼ばれることがある振域レベルの深い異層領域を調えた調律師などが有する特出した功績や異能に寄与するものであって、本来であれば一介の学生に与えられるものではない。

 しかしながら、秋弥に内在する特異な存在と、聖奈の持つ特異な力を鑑みれば、功績はともかく類い稀な異能の持ち主であることは間違いない。それに加えて異能の発動媒体となる二人の装具は、"魔女"との戦いの後で、正式に異能型として登録されたのである。強化型や特殊型の装具と違い、異能型に分類される装具はほとんどなく、異能型の装具を持つ術師には例外なく固有銘が与えられている。

 封術師見習いにして固有銘を持つ悠紀が、異能型の装具の所有者が封術師見習いであるという理由だけで固有銘が与えられないと考えるはずがない。


「たしかに固有銘という形でリコリスの存在が公に晒されるというのは少々不本意ですが、こうすることでリコリスが自分たちにとって敵対的な存在ではないと証明できるのであれば、悪くはない処置だと思います」


 聖奈の固有銘はともかく、『隣神憑き』はさすがに直球すぎると秋弥も思ったが、全ての封術師を統括している封術協会が定めたこの固有銘は、直球であるほど効力を発揮するものだ。封術協会が正式に認めたのであれば、封術協会に与する者たちの秋弥に対する不安は今よりも薄まることだろう。


「そうね。だけど、固有銘が必ずしも名誉のためだけに与えられるというわけではないということも、わかってる?」


 秋弥と聖奈は揃って頷いた。封術を私的な理由によって行使する違法封術師の中には、忌み名としての固有銘が与えられている者も多くいる。

 悠紀はそのことを指して言っているのだろうと思って二人は頷いたのだが、悠紀の表情は相変わらず沈んだままだった。


「ところで聖奈さん。あなたは『天童神楽』討滅作戦のことを知っているかしら?」


 ふと話題を変えた悠紀を二人は怪訝に思った。だが、この話の流れで彼女が無意味な話をするはずがない。


「『天童神楽』討滅作戦というと、クラス1st級隣神『天童神楽』と『星鳥の系譜』に名を連ねる封術師たちを中心に編成された大規模な討滅部隊との間で行われた討滅戦のことでしょうか」


「ええ、そのとおりよ」


 悠紀が首肯する。クラス1st級隣神との討滅戦と言えば封術史にも記録を残すほどの大事件であるが、秋弥と聖奈が知っている情報はせいぜい歴史書に書いてある程度のことしかない。

 実際のところ、『天童神楽』がどこから顕現し、どうやって追い詰めるに至ったのか、その詳しい経緯は全く触れられていない。秋弥はそのことに疑問を覚えて図書館で調べてみたこともあったが、結局有力な情報は得られなかった。


「聖奈さんたちが知っていることは、そのくらいかしらね」


 そういえば、悠紀は当時中学生ながらにして『天童神楽』討滅作戦に参加していたのだったか。さらに作戦の指揮を執っていたのは当時星条家の当主を務めていた彼女の祖父で、現当主である彼女の父も当然参加していた。ならば教科書や歴史書で記されている以上のことを知っているはずだ。


「『天童神楽』は――」


 目を細め、神妙な面持ちで悠紀は言う。


「――元々は一人の人間だった」


 秋弥と聖奈はハッとして言葉を失った。予想していなかった言葉に思考が停止する。


「人間だった頃の名前は花鶏神楽(あとり かぐら)。秋弥君が星条の本邸で出会った花鶏火凜と花鶏水凜の実母にして、『神域』花鶏家至上最も深い異層領域に到達したことで『天童神域』という固有銘を与えられた聡明な女性だったわ」


 花鶏火凜と水凜姉妹のことは秋弥もよく覚えている。

 特に妹の水凜には出会い頭に『領域隔離』の術式を使われたのだ。まだ小学生だった彼女が行使したとは思えないほど高干渉度の『領域隔離』に捕まってしまった秋弥は、リコリスの力を使わなければ脱出することも叶わなかっただろう。結果的に水凜自ら術式を解いてくれたため、リコリスの力を使わずに済んだのだが、彼女たちの母親がそれほどまでに原質『波』の扱いに長けていたというのならば、彼女たちの持つ才能にも頷けるというものだ。


「だけど、彼女は自ら"深淵"と名付けた深い振域への干渉を繰り返した結果、本人ですら気づかないうちに徐々に変質していったの。そうしてついに人間としてのエリシオン光波長パターンは崩壊し、覗き視ていた異層世界の波長と同調して、人ならざるに変わり果ててしまった……。これがクラス1st級高位隣神『天童神楽』が現層世界に顕現した理由よ」


「そんな……」


 聖奈が堪らずに震えた声を漏らした。『抑止力』としての異能に目覚め、その力を行使できるようになった聖奈にとって、他人事ではなかったからだ。

 そしてそれは秋弥にとっても同じことだった。『(せいしん)』をリコリスと共有し、リコリスの持つ異能を行使できる秋弥もまた、半分以上人間ではないと言えるかもしれない。

 悠紀が二人に伝えたかったのは、このことだったのだ。そう思って悠紀の瞳を見つめ返した秋弥は、悠紀の次の言葉でその認識でも不十分であったと思い知った。


「封術協会から固有銘を与えられた封術師は、その功績や異能、特異性において、潜在的に神格化する可能性を秘めている。そして固有銘を持つ封術師が人間(じぶんたち)に敵対的な意思を見せたとき、封術協会はその封術師を討滅すべき隣神として扱うわ。『光輝月天』の銘を持つ私も、『矛盾螺旋』の銘を持つ月姫(かぐや)も、これからはあなたたち二人も――」


 悠紀が考えたくないと言った意味を真に理解した秋弥たちは押し黙るしかなかった。学生たちももうほとんど残っていない学園内は、嫌になるほどの静けさで満ちていた。


「……だからね。固有銘というのは私たち封術師に対する烙印でもあるのよ」


 複雑な感情が入り交じった二色の瞳が揺れる。

 悠紀が自らそのことを伝えたかったのは、『星鳥の系譜』序列第一位である星条家の責務だと感じたからではない。秋弥と聖奈が封術学園に入学してすぐの頃に二人が抱える事情の一端を知った悠紀は、せめて自分たちが卒業するまでは学生自治会で匿おうと考えていたのである。しかしながら、結局はこのような結果に至ってしまったことに責任を感じていたのだった。


「――」


 秋弥はふと、学生自治会に入るきっかけとなった出来事を思い出した。

 封術の力に魅入られた一人の封術師が、調律術式を悪用して故意に異層領域を作り出そうとしていた。封術師としての道を踏み外して違法封術師へと墜ちた彼と相対したときに、彼に向けて言った言葉が不意に頭に浮かんで、秋弥は思わず苦笑した。


「秋弥君?」


 首を傾げてこちらを見つめる悠紀の瞳を見返す。

 秋弥の瞳には、覚悟を決めた強い意志が宿っていた。


「大丈夫ですよ、会長」


 何てことはない。何を今更、とも思う。

 重層する世界には、封術師(ひと)がいて、隣神(りんじん)がいる。

 ただそれだけのことだ。

 そしてそれが重層するこの『星』の理であって、それは封術師たち(じぶんたち)にとっては当たり前の日常なのだから。


「――封術師に隣神(きけん)憑きモノ(・・・・)ですから」


 だから秋弥はそう言って、不敵に笑った。





★☆★☆★





「あれでよかったのかい?」


 秋弥と聖奈が自治会室を出て行く姿を見送った悠紀は、背後からの声に振り返った。

 空いた窓の縁に治安維持会長が腰掛けている。金色の髪が春の風できらきらとなびいていた。


「あれって?」


 悠紀はわざと惚けてみせる。金髪碧眼の治安維持会長はチェシャ猫のようにニンマリと笑った。


「シュウヤとセイナの二人のことだよ。本当はもっと言いたいことがあったんじゃないかな?」


 窓の外に隠れて話を聞いていたスフィアが知った顔で言う。学生自治会室や封術教師たちの研究室がある本棟東側の各部屋には、盗聴や盗撮に対して強固なセキュリティが敷かれている。それにも関わらずスフィアが室内での会話内容を知っていたのは、悠紀がそうできるように手引きしていたからだ。


「もちろんあったわよ。でも――」


 悠紀は視覚強化の補助効果を持つ封術紋が刻まれた左眼だけを細めた。

 スフィアに指摘されるまでもない。本当なら二人にもっと伝えたいことがあった。

 それは悠紀が封術協会から固有銘を与えられた封術師のひとりだからという理由もあったが、それ以上に自分が『星鳥の系譜』に名を連ねる者だからという理由の方が大きかった。

 二人は『星鳥の系譜じぶんたち』のように力を求めたわけではない。運命の悪戯によるものか、はたまた『(かみ)』の采配によるものか。秋弥は偶発的に、聖奈は必然的に強大すぎる力を手に入れてしまった。

 そして、たったそれだけの理由で二人はこれから生涯、封術協会という組織の監視下に置かれることになる。封術師としての活躍を周囲から期待され、しかし少しでも道を踏み外してしまえば、掌を返すように周囲の全てが敵となる。

 そんな人生を歩むことになる二人に対して、自分が何かを言えた義理はないのかもしれない。同じく銘を持つ者であっても、それは自分の家系が血統による力を求めたからであり、ある意味では自業自得だと言えるのだから。

 もっとも、悠紀自身が生まれる家や親を選べたわけではない。それこそ運命の悪戯であり『星』の采配でしかないのだが、それでも悠紀は生まれてからずっと、そういう覚悟を持って生きてきた。

 だからこそ――秋弥と聖奈の瞳の奥に宿っていた強い覚悟の光を見てしまったら、何も言えなくなってしまったのだ。


「はぁ……私って先輩失格かしらね」


「そんなことはないよ、ユウキ」


 いつの間にか悠紀の目と鼻の先まで顔を近づけてきていたスフィアが、彼女の瞳を覗き見ながら言った。


「キミはよくやっていると思う。それこそ、背負わなくても良い責任まで背負おうとしていることが、端から見ていてもわかってしまうくらいにね」


 悪戯っぽくスフィアが微笑む。彼女が日常的に浮かべるその笑顔は、日本人離れした容姿とも相まって、同姓の悠紀から見ても魅力的に映った。


「だけど、誰もがキミの助けを必要としているとは限らないし、そうやって心労を抱え込もうとしているキミの身を案じている人も、たくさんいるんだよ」


 しかし悠紀は知っている。スフィアの魅力的な笑顔の裏に隠された心の闇を――。


「シュウヤとセイナはワタシたちが思っている以上に強い子だし、良い子だ。それにとても聡い。一を知って十を知った気になるんじゃなく、一を知ることで十を導き出せる、そんな二人だからね」


 それはそれで可愛げのない話だった。しかし、手の掛からない後輩というのは、案外そういうものなのかもしれない。


「だからきっと、ユウキが伝えたかった想いもちゃんと伝わっているよ」


 優しく包み込むようなスフィアの言葉が胸に響く。と同時に頭を軽く撫でられる感触があった。


「それにシュウヤの言葉を聞いていたら、カグヤに銘が与えられたときのことを思い出したよ。やっぱり姉弟は似るものだよね」


 スフィアが懐かしむように言うので、悠紀もつられて思い出した。

 今から二年前。三人が封術学園の二年生だった頃に、九槻月姫は『矛盾螺旋』の固有銘を与えられた。そのとき既に固有銘を与えられていた悠紀に、月姫は万人が見惚れる綺麗な笑顔でこう言ったのだった。


『これで私も悠紀と同じになれましたね』


 月姫がいったいどういう意味でその言葉を口に出したのかはわからない。しかし悠紀はその言葉に思わず涙してしまった。それは妹の奈緒が違法封術師に拉致されたとき以来、決して人前で流したことのない涙だった。次から次へと止めどなく溢れてくる涙の滴は自分でも制御できなかったほどで、スフィアと月姫を慌てさせてしまったのは忘れられない記憶として今でもハッキリと覚えている。

 あとで振り返れば、その涙は悠紀が誰とも共有できなかった苦悩を、真の意味で誰かと共有できたという安堵の気持ちから来たものだったと理解できた。胸の奥深くに仕舞い込んで自分でも意識することをやめていた事実と、改めて向き合えた瞬間でもあったのだ。


「そうね……本当に良く似ているわ」


 九槻月姫は悠紀にとって初めて心を許せた大切な友人だった。その友人が心底溺愛していた弟のことを、自分もつい構いたくなってしまうが、完全無欠の姉がそばにいるのだから、自分の出る幕はないのかもしれない。

 たとえ今は封術が使えなくなっていても、心を支えるのに、封術は必要ないのだから……。


「まあ物事はなるようにしかならないし、未来のことはわからないんだからさ。ワタシたちはワタシたちのできる範囲で、二人を支えていけば良いんだよ」


 そう言って悠紀のそばから猫のような身軽さで離れたスフィアは、仮想ディスプレイを拡大表示させると、ある学生名簿を見せた。

 それは昨年度まで学生自治会の書記を務めており、今年度が始まってすぐに、封術を違法に行使した罪で封術師としての認定証(ライセンス)と装具を剥奪された卒業生の学生名簿だった。


「そう――彼のことは失敗してしまったけれど、同じ過ちを繰り返さないようにしていけば、必ず良い結果に繋がっていくはずだよ」


 学生名簿の彼――向江仁と同時期に学生自治会の役員を務めていた悠紀は、学生時代の向江が実直で真面目な性格だったと記憶している。そんな向江が封術協会の定めた規則に背いて封術を違法行使した背景に、学生自治会での課外活動が少なからず関わっていることは想像に難くない。

 封術の実務を模した課外活動は第四学年の後期から始まるが、学生自治会の行っている課外活動は実務そのものであり、実践そのものだ。だからこそ課外活動に参加する者は早い段階から実践的な力を身につけることができるし、卒業後はすぐに第一線で活躍できる封術師となっていく。

 しかしそこには、それに見合ったリスクが当然ながら存在している。事象を改変する力を扱う以上、精神的に未成熟な者がそれを扱えば、過ちを犯す可能性はずっと高くなるからだ。そのため封術学園は高等専門学校と同じく五年生を採用している。伸び代の大きな若いうちから封術教師の直接指導の下で封術に関する知識や技術を学び、高学年になって肉体的にも精神的にも成熟してから、習得した技術を実践に取り入れて実務経験を積ませるためだ。

 そうして得られるはずの良識や見識といった社会生活を行っていく上で必要不可欠な要素は、課外活動を通じてではほとんど得られない。むしろそういった要素を学ぶ前に封術を実務に用いてしまうため、封術の持つ可能性を誤って認識してしまう事の方がずっと多いだろう。

 秋弥を学生自治会の役員に迎えたいという話をしたとき、朝倉が懸念していたことはまさにそれだった。そのリスクは悠紀もスフィアも十分に承知していた――その数週間後に向江仁の一件があったからなおさらだった。

 それでも本人が望むと望まないとに関わらず、他者よりも強い力を手にしてしまった秋弥と聖奈だからこそ、誤ったときには叱り、間違ったときには正せる者が早いうちから身近に必要なのだと、二人は考えたのだ。もっとも、彼らより三つ年上というだけの自分がそこまでの人格者だとは悠紀自身も思ってはいないが――。


「……ふぅん。貴女も真面目なことを言うときがあるのね」


「どういう意味だい?」


「言葉どおりの意味よ」


 でも、と悠紀は後ろからスフィアに抱きつくようにして彼女の端末を操作すると、仮想ディスプレイの表示を切った。


「月姫のことと今回のことで私は改めて思い知ったの。私たちがたとえどんなに強い力を持っていたとしても、大切な人たちが助けを必要としているときにそばにいられなければ、どんなに強い力も無力なんだってこと」


「それは、まぁそうだね」


「だけど、それで私たちの力まで失われるということはない。だったらその力は、他の誰かのために役立てることができると思わない?」


「それは高貴なる者の義務ノブレス・オブリージュかな」


「貴女が言うように、同じ過ちを繰り返さないことは大切なことよ。人は失敗から学び、成長していくものだものね」


「失敗は成長の母ってね」


「だけどやっぱり、過ちは起こらないに越したことはない。特に封術師絡みの問題に関してはね」


「……まさかユウキ」


 何かに気づいたスフィアの耳元で、悠紀は囁くように言った。


「私は、次代の星条家の当主になるわ」


 その発言に、スフィアは瞳を瞬かせた。

 星条家の次期当主になる。

 それは星条家に生まれながら星条家を嫌っている悠紀にとってあまりにも大きな決断だった。


「たとえそうなることで、自分の大切な誰かだけを護ることはできなくなってしまうとしても……。私は封術師の在り方そのものを変える立場を選ぶわ」


 『星鳥の系譜』序列第一位の星条家当主となれば、多くの封術師たちを統括し管理できるようになるだろう。自分の味方を増やし、現在の封術師の在り方を改革することもきっとできるはずだ。長い目で見れば、自分でない誰かが自分の大切な誰かを護ってくれるような、そういう世界を作りたいと悠紀は思う。


「ずいぶんと大胆な告白だね、ユウキ」


「あら、大胆な告白は女の子の特権なのよ?」


 ひょいと離れた悠紀の方を振り返り、スフィアは肩を竦めた。


「それじゃあワタシは、キミの影になってキミの大切な人たちを護る立場になろうかな」


「何よそれ、美味しいところだけ取ろうっていうの?」」


「おや、早速バレてしまったかな」


「バレバレよ。でも、それも良いわね」


「そうだね」


 二人は笑顔で頷いた。


「とはいえ、ワタシと手を組んでコソコソしていたら、キミがこれから築こうとしている地位も危うくなるのかな?」


「どうして?」


「だってワタシは……」


 スフィアは言い淀む。彼女が何を言い淀んだのか気づいた悠紀は強気に笑った。


「私が上に立つのだから、誰にも文句は言わせないから安心しなさい、スフィア・智美・アンダルシア。いいえ――」」


 二色の双眸が揺れる。


「――月宮智美(つきみや ともみ)


 表の星条と裏の月宮。

 序列第一位と序列第零位。

 二人の未来もまた、秋弥と聖奈に出会ったことで大きく変わろうとしていた。





★☆★☆★





 自治会室を後にした二人の間に、会話らしい会話はなかった。秋弥は家に帰るために、聖奈は学生寮に帰るために、同じ方向に歩いているだけだった。

 リコリスの存在が正式に認められたことは本来喜ぶべきことだが、固有銘を与えられることの本当の意味を知ってしまえば、手放しには喜べないだろう。

 その点について聖奈はどう思っているのだろうか。『抑止力』に覚醒したときの聖奈は、本人の意思でなかったとはいえ、高度な術式で学生たちの意識を奪い、強固な結界術式を広域に行使し、リコリスを凌駕する力を見せた。潜在的な神格化の可能性が高いとすれば、秋弥よりも聖奈の方だろう。


「"可能性"か……」


「秋弥さん?」


 思わず足を止めて呟いた秋弥の言葉に、聖奈が反応する。


「聖奈はまた自分が自分でなくなるとは考えないのか?」


 そう尋ねると、聖奈は考えるように小首を傾げた。


「……そうですね。"可能性"が絶対にないとは言えませんが、心配しなくても大丈夫ですよ」


「どうしてそう言える?」


 秋弥は重ねて尋ねる。何か根拠でもあるのだろうか。


「根拠はありませんが、フィーはわたし自身ですので、たとえそうなったとしても、そのときにはフィーを信じてあげてください」


 それに、と聖奈は恥ずかしげに上目遣いをした。


「……秋弥さんがわたしを連れ戻そうとしてくれれば、私はまた戻ってこられると思いますから」


 その仕草と言葉に、秋弥の顔はカッと熱くなった。何か言葉を返さなければと慌てて思考を巡らすが、これという言葉が見つかる前に、


「……おい、教師の前で堂々とイチャついているんじゃない」


 突然の乾いた声に、二人はハッとして声のした方を向いた。

 二人のクラス担任を務める袋環樹が、白けた表情で二人を眺めていた。


「良識の範囲内であれば仲良くすることは一向に構わないのだが、TPOは弁えることだな」


「す、すみません!」


「いや……謝ったらだめだろ」


 素直に頭を下げた聖奈に、秋弥は嘆息した。明らかに単なる冷やかしだとわかる袋環の態度にそんな反応を返してしまえば、自分の行いが彼女の言うとおりであると認めているようなものだった。


「それはともかく、九槻秋弥、天河聖奈。君たちはこれから帰るところか?」


「はい」


「そうか。それではもう星条から固有銘のことを聞いたのだな」


「先生は既にご存じだったのですか?」


「ああ。私だけじゃなく、封術教師陣は全員知っているよ」


 袋環は頷いた。


「とりあえず、おめでとうと言っておこう」


「ありがとうございます」


 そう言って二人揃って頭を下げた。


「しかし、固有銘を与えられるということが必ずしも名誉であるとは限らないことも、星条から聞いているな?」


「はい」


「……それなら良い。決して良いことばかりではないと思うが、少なくとも君たちが封術学園の学生であり、封術師見習いであるうちは、君たちは私の大切な学生で護るべき対象だ。困ったことがあれば自分たちだけで抱え込もうとせず、私たち封術教師を頼ってほしい」


 その心強い言葉に、聖奈と秋弥は表情を緩めた。


「引き止めてすまないな。春期休暇中も学生自治会の役員は忙しいと思うが、無理せず頑張ってくれ」


 相変わらずクールな表情を崩さない袋環であったが、最後の方は早口で言って、秋弥たちが来た方へと歩いて行った。





★☆★☆★





 終業式が行われた日であっても、拳術部に所属する部員に部活休みはない。

 今日も基礎体力作りのためにグラウンドの周囲を走っていた沢村堅持は、いつもよりも長い時間走っていた。彼以外の一年生部員はとっくに体力の限界を迎えて休んでいる。


「最近お前、頑張ってるよな」


 部長が引退して新たに部長となった四年生が、堅持に並んで走りながら声を掛ける。


「っす。俺はもっと強くなりたいんで」


 呼吸を乱さないように気を配りながら、堅持は答える。部長は感心感心と頷きながら、走るペースを速めた。

 堅持も彼のペースに合わせてスピードを速める。他の上級生部員たちもそれに続いた。


「そうか。だけどな、無理をしたって急に強くなれるわけじゃないんだぞ」


 次第に他の部員たちとの距離が開いていく。一人、また一人と上級生部員たちが脱落していった。


「結局は積み重ねなんだ。何事もコツコツと積み重ねていけば、最終的には誰もたどり着けなかった高みにまで到達できるってなもんだ」


「……そっすかね」


「沢村。お前には才能がある。お前が強くなりたいと思い、その努力を怠らなければ、きっといつか強くなれるだろう」


 気づけば堅持と部長以外の部員は全員が足を止めて休んでいた。堅持もさすがに体力の限界が近づき、走るペースが落ちてきていた。


「お前が何のために強くなりたいのかは聞かない。お前は、目標を持てばそこへ向かって真っ直ぐに目指せるやつだっていうことは、この一年でよくわかったからな」


 いつの間にか堅持のペースに合わせていた部長は、堅持の横に並ぶとその肩をポンと叩いた。


「今のお前の限界はこの辺りだ。だけど、明日は今よりも一歩前に行け」


 堅持は足を止めて両膝に手を突いた。それでも部長は足を止めず、どこまでも先へと走っていった。





★☆★☆★





 一学年最後のホームルームを終えてから、玲衣は奈緒と綾の二人を誘って駅前までやって来ていた。先日オープンしたばかりのカフェに入り、紅茶とケーキのセットを注文して一息ついた玲衣は、二人の顔を交互に眺めた。


「どうかしたの、玲衣ちゃん?」


「うん……結局あたしは、シュウくんと聖奈が一番大変なときに、何もできなかったんだよね」


 そう言うと、ミルフィーユをつついていた奈緒が手を止めた。


「でもそれは仕方ないよ。秋弥くんと聖奈ちゃんは特別なんだよ」


「奈緒はそれで良いの?」


「えっ?」


「たしかにあたしはシュウくんと聖奈みたいに特別な力もないし、奈緒と綾みたいに星鳥の出身でもない普通の封術師見習いだけど……それでも、大切な人たちが戦っているときに何もできないのは、やっぱり辛いよ」


「玲衣ちゃん……」


 紅茶をソーサーに置いた綾が神妙な態度の玲衣に声をかける。


「私も、あのとき聖奈さんの一番近くにいたのに、自分を護ることしかできなかったから……玲衣ちゃんが感じている気持ちはすごく良くわかるよ」


「うんうん。それに秋弥君と聖奈ちゃんを見ているとつくづく思うんだよね。才能の優劣に"星鳥"の名前なんて……血統なんて関係ないって」


 ミルフィーユの層をフォークで切ろうとして、その破片が勢いで飛び散った。

 奈緒はあわわわと慌てながら紙ナプキンを手にとって皿の周りに飛び散ったミルフィーユの破片をかき集めて一ヶ所にまとめた。それから切り分けたミルフィーユをフォークで持ち上げて玲衣に差し出した。


「ほら、ミルフィーユもおいしいよ」


 玲衣は差し出されたミルフィーユをぱくりと咥えた。多層のパイ生地は歯を立てるとサクっと音を立てて崩れる。ほろ苦いチョコレートと甘いカスタードが口の中で広がると、何故だが涙腺が緩んできた。


「うーん……それなら、私たち三人で特訓しようよ」


「奈緒ちゃん?」


「今日みたいに三人で集まって、強くなるために特訓するの。そうすればもっと強くなれると思うし、いざというときに私たちが秋弥くんたちを助けられるかもしれないよ」


「でも私たちって、三人とも調律師志望じゃないの?」


「え、私は封魔師志望だよ?」


「えっ!?」


「えぇ――――――――ッ!」


 思わず大声を出してしまった玲衣は慌てて口を噤んだ。周囲の目が玲衣たちに向いたが、すぐに自分たちの歓談へと戻っていった。


「そうだったの!?」


 若干声を抑えながら、玲衣は迫るように尋ねた。


「う、うん。言ってなかったっけ?」


「聞いてないよ! ね、綾」


「うん、初耳」


「そっか。じゃあ今言ったということで」


 うんうんと奈緒は頷く。玲衣と綾は目を丸くしながら互いに顔を見合わせて言った。


「奈緒が封魔師志望って……どうなの?」


「うぅん……星条会長が封魔師専攻だから、才能的にはアリなのかも?」


「だけど性格的な問題も、ちょっとあるよね……」


「ちょっとね……」


 ちょっとというのはだいぶ穏やかなニュアンスであって、実際にはちょっとどころではないほどの不安がある。

 そんな二人の心配をよそに、奈緒は笑顔を見せた。


「私も封魔師が自分に向いているとは思わないけど、いつまでもお姉ちゃんたちに護られているばかりじゃダメなんだって思っているから。だから封魔師になりたいんだ」


 ミルフィーユを切り分けようとして、また失敗する。今度は綾にミルフィーユを差し出してから、周囲に飛び散ったパイ生地の欠片をかき集めた。


「封魔師になるにも調律師になるにも、努力は絶対に必要だよ。私は才能よりも努力が大切なんだって思うから……だから今は仕方ないって認めることにしたの。だって、いつまでも過ぎたことを悔やんでいたら、努力する時間がなくなっちゃうもん」


「奈緒……」


「だから玲衣ちゃんも、私と一緒に強くなろう? 誰かと一緒なら、今よりももっと頑張れると思うから」


「うん、そうだね。そうしよう!」


「私も、二人と一緒に頑張りたいです」


 三人はそれぞれの思いを胸に、今よりももっと強くなるための決意をしたのだった。





★☆★☆★





 春期休暇中は本棟の学生食堂も営業を停止する。

 そこで学生バイトに勤しむ太刀川夜空は、本年度最後のバイトに精を出していた。


「夜空君は休みの間、何をして過ごすの?」


 学生食堂を利用する学生はほとんどいない。閑散とした食堂の四人用テーブルを一人で占有した西園寺美空が、給仕でやってきた夜空に声を掛けた。


「春休み中は学生食堂のバイトもないんでしょ?」


「はい。でもその代わりに、新年度の行事の準備や先生方の研究のお手伝いをする仕事がありますので」


「へぇ……学生バイトにはそういうのも含まれるんだね。んん? ということは、学生自治会の仕事を手伝うこともあるのかな」


「人手が足りなければ、そうですね」


「休みの間も休まずに働くなんて、ホント立派ね」


「そんなことはありませんよ。学生自治会の方々も働いているじゃありませんか」


「それでも働き詰めというわけじゃないから。少なくともあたしはね」


 星条会長は常に何かしらの仕事をしているイメージだが、自分はそうではない。持ち帰れる仕事は部活の合間や自宅で片付けているし、"星鳥"の学生たちと違って時間的な余裕もたくさんある。


「ボクは給料をいただいていますから、それに見合った働きをするのが当然です。でも学生自治会や治安維持会のみなさんは違いますよね。だからボクなんかよりも立派ですよ」


 夜空はニッコリと笑う。その純粋な笑顔に美空の頬はぼうと熱を帯びた。


「夜空君……こんなに可愛いのに、どうしてあなたは女の子じゃないの!」


「あ、あはは……」


「という前フリは置いておいて、今日は別の用件があって夜空君に会いに来たのよ」


「ボクにですか?」


「うん。聖奈さんが神格化したあの日、ただ一人意識を失わずにいた(・・・・・・・・・)あなたに話を伺いたくてね」


 美空は鋭い瞳で夜空を見上げた。夜空はトレイを胸で抱きながら困り顔を見せた。


「……気づいていたんですか」


「もちろん気づいていなかったわよ。言ったでしょ、夜空君以外の全員が意識を失っていたって。でもね、今の夜空君の反応で確信したわ」


 本当はそこまでの根拠があるわけではなかった。学園全域に張られた結界術式の効果が切れて外で待機していた封術師たちが学園中を見回った際、唯一目覚めていたのが太刀川夜空だったという話を聞いただけのことだ。

 だが、異層認識力の高い亜子や自分よりも早く目醒めるなんて普通では考えられない。自治会の仕事の合間に夜空の学生名簿を調べた美空は、異様な数値の高さを示した異層認識能力(オラクル)と『鞘持ち』の装具に着目した。


「夜空君。あなたはあのとき、いったい何をしたの?」


「そんなに怖い顔をしないでくれませんか。ボクはただ、斬ったなんだけですから」


「斬った?」


「はい。術式の干渉効果を装具で斬りました」


「?」


 それでもきょとんとしたままの美空に、夜空は「失礼します」と言ってトレイをテーブルにおいた。


「えっとですね……こんな感じに――」


 そして夜空は白いエプロンドレスを縛った細い腰に自分の装具があるというイメージを作ると、その柄に手を掛けて、まるで居合抜きをするように装具を抜き放つジェスチャーをして見せた。


「――斬りました」


「……つまり、装具で術式の干渉効果を斬ったということ?」


 先ほど夜空が言った言葉と同じ事を、自らが解釈したとおりに言うと、


「はい」


「いやいやいやいや、あり得ないでしょっ!」


 美空はバンとテーブルを叩きながら腰を浮かせた。


「たしかに装具の対干渉効果で干渉効果を無効化できるけれど! 『火』『水』『風』『地』系統の四大術式ならともかく、『虚空』系統の術式や精神に干渉するような特殊な術式の干渉効果が装具で簡単に斬れるわけがないでしょう!」


「そう言われましても……」


 相変わらず困り顔を見せる夜空に、思わず熱くなってしまった美空はわざとらしい咳払いをした。


「……ねぇ夜空君。ひょっとして、あなたには何か特別な才能があるんじゃないの?」


 美空が疑いの目を向ける。夜空は持ち直したトレイで顔を隠した。

 その仕草は、照れ隠しをする少女のようだった。


「ボクは普通ですよ。普通の男の子です」


「……そうね、そうよね。普通の男の娘よね」


「何かニュアンスが違いませんか?」


「まあいいわ。とりあえず、そういうことにしておいてあげる」


 ふぅ、と美空は一息吐き、すっかり温くなってしまった紅茶に口を付けた。

 どうやら今年度に入学した封術師見習いには、一癖も二癖もある連中が集まっているようだった。





★☆★☆★





「多忙なところにお時間を取らせてしまい申し訳ございません」


「構わない。お前の方から私に話したいことがあるなんて、珍しいことだからな」


 終業式を終えて鶴木家の本宅に帰ってきた鶴木真は、その日の深夜に鶴木家の当主である実父と向かい合っていた。

 鶴木真の父――鶴木信玄(つるぎ しんげん)は、警視庁で異層に関わる事件の全権を任されている人物である。

 仕事だけでなく私事に対しても常に厳格な父親のことが、鶴木は昔から苦手だった。現在では封術学園を卒業して正式な封術師となった長男の崇次(たかつぐ)を自らの後継者として育てるべく注力していることもあって、次男の鶴木とは滅多に顔を合わせることもなくなっていた。

 その父親に自らの意思で面会を希望したのは、鶴木にとっては勇気のいる決断でもあった。


「真、お前はまだ知らないだろうが、お前の同級生の二人――九槻秋弥と天河聖奈に、封術協会から正式に固有銘を与えられた」


「えっ……九槻と天河が……」


 鶴木は眼を丸くして驚きを露わにした。九槻月姫に続いて『星鳥の系譜』ではない二人の封術師見習いに固有銘が与えられたということは、封術師の血統に重点を置く『星鳥の系譜』が築き上げてきた地盤を揺るがしかねない大事だった。


「お前の学園での成績は報告を受けて知っている。一般教養科目もそこそこの成績を残しているし、専門科目に関しては崇次に比肩する好成績を残している」


「ありがとうございます」


「だが何処の世界にも上には上がいるものだ。そしてお前にとってのそれは九槻秋弥と天河聖奈の二人だ」


「……はい、そのとおりです」


 鶴木は緊張した面持ちで頷いた。事実と向き合い、認めなければさらに上を目指すことはできない。そのことはこの一年間で嫌と言うほど学んだのだ。

 鶴木が頷くと、信玄は意外そうに眼を見張った。しかしすぐに元の厳格な表情に戻った。


「そのことをきちんと認識しているのなら宜しい。それで、お前の話というのもそのことと関係があることなのだろう?」


「はい」


 鶴木は真剣な眼差しで信玄の瞳を見返した。強い眼光を放つ信玄の瞳から目を逸らしたい衝動に駆られたが、必死に堪えながら口を開いた。


「春期休暇の間、僕に父上のお仕事を手伝わせていただけませんか?」


「良いだろう」


「突然な上に不躾なお願いだというは重々承知しております。ですが、僕はもっと強く……え」


「お前に私の仕事を手伝わせてやると言っているんだ」


 即答した信玄の言葉に耳を疑った鶴木は、瞳をぱちくりさせた。


「宜しいのですか?」


「私に同じ事を何度も言わせるつもりか?」


「いえ、そんなつもりは……申し訳ございません」


 鶴木は深く頭を下げた。父親との交渉は困難を要すると思っていたので、快く引き受けてくれたことに拍子抜けしまっていた。


「すぐに頭を下げるな。気持ちは常に強気でいろ」


 と、父親の声が頭上から降ってきた。


「最初に言っておくが、私の下で働く以上は一切の弱音も妥協も許さん。そして実戦に身を置く以上、学園で教わるような生ぬるいものでも綺麗なものでもないということも覚悟しておけ」


「はい!」


「それでは今日はもうゆっくりと休め。明日からは地獄だぞ」




「嬉しそうですね、信玄さん」


 鶴木真が応接間から出て行った後で入れ替わるように入ってきたのは信玄の妻――朋代(ともよ)だった。信玄は仕事から帰ってきてすぐに鶴木を応接間に呼んで話をしていたのだった。


「そう見えるか?」


「ええ、表情が緩んでいますよ」


 それは微かな違いではあったが、長年連れ添ってきた朋代にはお見通しだった。


「真がようやく自らの意思で芽を開こうとしているのだ。嬉し思わないはずがないだろう」


「真は昔から強情なところがありましたものね」


「全く、誰に似たのやら」


 朋代があらあらと笑った。


「何にしても、真は封術学園で良い学友と出会えたようだ」


「そのようですね。そういえば九槻秋弥さんと天河聖奈さんは二人とも学生自治会の役員ですので、課外活動の一環であなたとも会う機会があるかもしれませんね」


「そうだな。それはそれで楽しみだが、まずは明日のことだな」


「うふふ、あまり真に厳しくしすぎないでくださいね。真は崇次やあなたと違って、根っこは繊細なのですから」


「繊細さが脆さに繋がるとは限らない。それを見極めるためにも、私なりのやり方でやらせてもらう」


 挫折や失敗から立ち直った者は、それを経験しなかった者よりも強くなれる。

 九槻秋弥と天河聖奈という異質な才能を持つ二人に出会えた鶴木真は、これからもっと強くなれるだろう。

 二人は息子の成長を期待して、笑みを交わし合った。





★☆★☆★





 京都府某所にある月宮家の別邸で、月宮雅(つきみや みやび)は仮想ディスプレイを見つめて唸っていた。


「どうされたのですか、雅お姉様」


 奏のそばに寄り添った月宮奏(つきみや かなで)は、しなだれながら言う。


「どうもこうもないよ。九槻秋弥に固有銘が与えられたというだけのことさ」


「まぁ! それは素晴らしいことですね」


「そうだね」


「雅お姉様?」


「その固有銘のことなんだけどさ、これを見てよ」


 雅は仮想ディスプレイの表示が奏にも見えるように身体を寄せた。ほとんど抱き合うような距離で、奏は仮想ディスプレイを見つめた。


「……固有銘『隣神憑き』?」


「どういう意味だと思う?」


「どうもこうも……ありませんね」


「でしょ?」


 奏は小さく唸った。言葉遣いや髪型、服装こそ違うが、二人の唸った様子は瓜二つだった。


「固有銘は術者の性質を表しますので……言葉どおりの意味だとするなら、九槻秋弥様には隣神が憑いているということになりますが」


「隣神が憑いている……隣神憑き。ということは何かな。あのとき僕たち二人と戦った九槻秋弥は、その力を抑えていたということかい?」


「そうなのかもしれませんね」


「へぇ……」


 雅は笑った。感情の揺らぎに呼応して放出された干渉圧が空気を揺らした。


「怒っていますの?」


「全然。むしろ僕は楽しいんだ。隣神が憑いてる人間なんて、普通じゃないからね」


「普通じゃないといえば、もう一人のことはご存じですか?」


「誰?」


「天河聖奈様。『抑止力』のひとつ、"可能性の魔女"を宿した女性のことです」


「あー……そっちはあんまり興味ないかな」


「あら? 意外ですね。雅お姉様なら興味をお持ちになると思いましたのに」


「僕にだって好みはあるよ、奏お姉様。それに『抑止力』には手を出すなってお爺さまに言われているしね」


『そうだぜ、月宮の人間ども。"可能性の魔女"はこの俺の獲物だからなァ』


 突如、何の前触れもなく二人の眼前に蒼い炎を纏った男性が現われた。月宮姉妹は露骨に嫌そうな顔を向けた。


「何だよ"原罪の獄炎(シンフレア)"。君は頻繁に僕たちのところに現われるけれど、ひょっとして僕たちのことが好きなのかい?」


「あァ!? ンなわけねぇだろうがァ。気持ちわりィ、燃やすぞ』


「怖いなぁ。軽い冗談じゃないか」


 "原罪の獄炎"は舌打ちをした。


『チッ、なんで俺が……』


「ん?」


『ともかく『抑止力』は俺が殺す。お前らは手を出すんじゃねぇぞ』


「はいはい、わかってるよ。それじゃあ"原罪の獄炎"も、九槻秋弥には手を出さないでよね」


『それは保証できねぇなァ。俺には人間の見分けがつかねェからよォ』


「そうでございましたね。"原罪の獄炎"様は九槻秋弥様と九槻月姫様の見分けもつかないほどですものね」


 月宮奏は上品にくすくすと笑った。


『……お前ら全員、俺の手で殺してやる』


「まあまあそんなに怒らないでよ。ところで結局、何しに来たのさ」


『あァ、お前らに伝言だ』


「はい? いったい何でしょうか」


 "原罪の獄炎"が投げ捨てるように寄越したのは一枚の記録カードだった。データ転送を用いなかったのは、外部への情報流出を避けるためだ。


『さっさと見ろ。見終わったら燃やす』


 月宮奏は雅から身体を離すと、スタンドアローン型の多機能端末装置に記録カードを挿入した。数秒も待たずに記録データが再生された。


「お爺さまからのものだね。……ふぅん、第七の『マナスの門』(セブンス・ゲート)から生まれた封術師がこっちに来るんだ」


 封術協会が公にしている『マナスの門』は日本の四ヶ所だけだが、日本国外では既に三ヶ所で『マナスの門』が発見されている。

 アメリカ合衆国のワシントン州で発見された『マナスの門』は、月宮家の主導で秘密裏に調査、運用されている。しかし、七番目の『マナスの門』は封術師の力で無理矢理心象世界へのアクセスを可能とさせているため、常に不安定な状態となっており、成功例はほとんどない。そんな中で数少ない成功者は例外なく特出した力を手にしており、『星鳥の系譜』から外れた月宮家の雅と奏が持つ装具も、この七番目の『マナスの門』から手に入れたのである。


「だけど良いのかな。僕たちが海外の『マナスの門』を利用しているってことが"星鳥"に気づかれてしまうけれど」


「それを言うのなら今更ではありませんか、雅お姉様。雅お姉様は智美お姉様のことをお忘れですか?」


「あー……そうだったね。智美お姉様はあちら側に付いたんだった」


「お忘れになられては智美お姉様が可哀相ですわ」


「そうは言うけれど、智美お姉様もきっと僕たちのことなんて思い出したくもないだろうから、お互い様でしょ?」


「それでも一応、わたくしたちのお姉様ですよ」


「奏お姉様と違って、僕たちと智美お姉様の間には、直接的な血の繋がりはないけれどね」


 雅はあははと笑った。奏はクスクスと笑った。


「智美お姉様のこともそうですが、わたくしたち月宮家は封術史上からなかったこと(・・・・・・)にされております。ですが、わたくしたちの存在までがなかったこと(・・・・・・)になったわけではありませんわ。

 歴然たる事実として、『星鳥の系譜』はわたくしたちの存在を黙認しております。ですから。わたくしたちが今更心配することは何もないでしょう」


「それもそうだね。僕たちが政治的なことを考える必要はないね」


「そのとおりでございますわ」


「それに"アンダーバベル計画"も順調に進行しているようだし、僕たちはお爺さまからの指示があるまでは自由にやらせてもらおうよ」


「えぇ、そういたしましょう」


「それじゃあ待たせちゃって悪いね、"原罪の獄炎"。もうデータは燃やして、帰って良いよ」


 その言葉を待っていたように、"原罪の獄炎"は指をパチンと鳴らした。一瞬のうちに記録カードを挿入していた端末装置が、記録カードもろとも跡形もなく燃えて消えた。


「ってああぁあ!? なに丸ごと燃やしてくれてるのさ!」


「み、雅お姉様、落ち着いてくださいませ!」


『ピーピーうるせェんだよ。今すぐにその騒がしい口を閉じねェと、次はこの建物ごと燃やすぞ』


 さすがにそれは困るので奏と雅は口を閉ざした。"原罪の獄炎"は二人の様子に満足すると、現われたときと同じように一瞬で姿を消した。


「……何はともあれ、来年度が楽しみだね、奏お姉様」


「そうですね、雅お姉様」


 月宮姉妹は同じ顔で微笑む。

 封術学園に入学する日が待ち遠しかった。




過去最長の文章量になりました。

次話(最終話)は5/10 8:00に更新します。

また、既に掲載済みの登場人物紹介、世界観設定は次話投稿後に削除し、最後に更新版を掲載する予定です。

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