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封術学園  作者: 遊馬瀬りど
第4章「可能性の魔女」
106/111

第98話「存在証明」

★☆★☆★





 聖奈がフィーの問いに答えた瞬間、二つの心象世界が一変した。

 上空から徐々に近づきつつあった聖奈の心象世界が突如として勢いよく落下し、フィーの心象世界と溶け合うように消えた。地上も空中も、上も下も、右も左も、前も後ろも、何もかもがなくなり、完全な白一色となった世界に、聖奈とフィーだけが取り残された。

 しかし、変化もまた一瞬だった。

 一呼吸を置く間もなく、心象世界が再び構築される。二人の周囲に広がった心象世界は、先ほどまで頭上に広がっていた聖奈の心象世界だった。

 そしてフィーの心象世界が、鑑写しのように二人の頭上に広がっていた。


「私の認識している私が私じゃない――というのは、どういう意味かな」


 フィーは世界が変化する前と変わりなく、聖奈に尋ねた。その様子は、眼前で起こった心象世界の変化よりも、自らの疑問を解決することを優先しているようだった。


「"我思う、故に我在り"。一見矛盾しているように感じるかもしれないけれど、私が私自身の存在に対して疑問を持つことこそが、私の存在証明になるのではないか」


 それはあまりにも有名な命題だ。意識の内側と外側は必ずしも一致するものではなく、意識の内側で考えることによって意識の外側を証明するというその試みは、フィーの問答そのものでもあった。


「そのとおりです。貴女は貴女自身で自己を証明できます。"私は何者であるか"というフィーの疑問は、それを考えた時点で一種の答えに到達していると言えます」


 フィーは聖奈の答えに落胆した。肩を落としながら顔を左右に振る。それは自らが望んでいた答えではなかったからだ。


「だけど、それだけでは足りないんだよ。私は、私が何者なのかを決められな――」


 フィーは不意に口を噤んだ。

 何故いま自分は、"自らが望んでいた答えではない"と思ったのだろうか。

 それではまるで――自らの裡で既に答えが出ているようではないか。


「自己の存在と認識は等価ではないから――」


 と、聖奈は魔女がその疑問を抱くことを予期していたように言った。


「自分一人だけで自己の存在を証明することはできても、認識を決定付けることはできないのだとわたしは考えます。フィーの認識するフィーは、フィーを知る誰かにとっては全く違うものかもしれませんよ」


「それはどういう意味かな?」


「フィーが行ってきた数々の問答の中で、ひとつでもフィーが共感できる答えがありましたか?」


 フィーは押し黙った。これまで数え切れないほどの問答を行ってきたが、彼らの考えに、思想に、感心こそすれ、共感したことは一度もなかった。


「わたしにとってフィーは、かけがえのない存在です」


 聖奈は両手の指を組み合わせて、祈るように言った。


「ですが、他の誰かにとっては、フィーはかけがえのない存在ではないと思います。使い魔の"兎"たちのようにフィーを慕って付いてくる者もいれば、フィーを嫌って遠ざけようとする者もいるでしょう。フィーを愛する誰かと同じくらい、フィーを憎む誰かもいるでしょう。フィーのことを神様とも、悪魔とも、天使とも、隣神とも、人間とも思う者もいるでしょう」


 ステンドグラスに描かれた黒翼を持つ美しい少女を思い出す。少女が悪魔の使いであるのか、はたまた堕ちた天使であるのか。それは見る者の認識によって変わることだろう。

 聖奈と同じように、生まれつき黒翼を持って生まれた天使だと感じる者もいるかもしれない。


「わかりますか、フィー。貴女の中に在る貴女だけが、唯一の貴女だということではないということを――」


 そっと目を開き、聖奈は微笑む。

 聖奈には正面に座る自分自身の顔が、先ほどから別の姿に見えていた。長く艶やかな黒髪、小ぶりな顔に絶妙なバランスで配置された瞳と鼻は、精巧な人形のように整っている。聖奈と同じ姿をしていた頃から身に纏っていた白色のローブと黒髪のコントラストは息を呑むほど美しい。

 それはフィーの本来の姿だった。聖奈は自らを通じてフィーという存在そのものを見つめていた。


「フィーの認識するフィーがフィーであることは間違いありません。ですがそれは、フィーが認識するフィーという存在であって、他の誰かにとっても同じとは限らないということです」


「……自己というものの本誌は、己の内側だけに存在しているものではない?」


「わたしはそう思います」


 それは先ほどから聖奈が繰り返し言っていたことだった。

 自らに宿る『(おもい)』が、自らの内側だけに在るものではないということ。

 『(せいしん)』とは、肉体以上に存在そのものであるということ。


「……自己を定着させることは、できない?」


「絶対的で不変的なものではないでしょう」


「自分自身でさえも、自分がわからない?」


「自分だけがわかる自分というものなら、あると思います」


 こう在りたいと思う自分も、こう在りたくないと思う自分も。

 こう思われたいと思う自分も、こう思われたくないと思う自分も。

 自分の内側にしか――存在しない。

 だけども、そう願って目指した自分の姿が、自分の思い描くように映らない場合がある。

 血の滲む努力をしても、報われない者がいる。

 自らの力以上に、期待される者がいる。

 意識の内側と外側は往々にして一致しない。

 それでも――。


「自分が思い描く自分も、誰かが思い描く自分も、両方とも自分の姿なのだということです」


「それでは……自己を定める必要なんて、ない」


 聖奈は頷いた。


「自分が何者かなんて、わからなくても良いのです」


「だけど、それを知らなければ私は満たされない」


 長いまつげに縁取られた瞳が閉じる。空に広がるフィーの心が陰る。


「フィー……貴女の心は、もう十分に満たされています」


 聖奈は、そうして周囲に眼を向けた。フィーも同じように周囲を眺める。

 草木が茂り、花が咲き誇り、穏やかな日差しと豊かな風が吹く聖奈の心象風景を――。


「……っ」


 違う。

 この世界は、天河聖奈の心象世界ではない。


「――ようやく、気づいたのですね」


 聖奈が安堵の息を漏らすと、頭上に広がっていた聖奈の心象世界(・・・・・・・)から陰が去った。


「貴女の『(こころ)』は、わたしの答えを知って変わったのです。だけど貴女は自分の思いを優先して、そのことから目を逸らし続けていました。わたしの言葉だけで、貴女の世界はこんなにも満たされていたというのに」


 よく見ると世界の色はところどころくすんでいた。しかしそれは最初からくすんでいたのではなく、フィーが満たされていないと感じるたびに、徐々にくすんでいったのだ。


「ああ、そうか……」


 幸福を遠ざけていたのは、自分自身だった。気づかない間に遠ざけていたものを、最初からそこにないものだと錯覚してしまっていたのだと、フィーは思い至った。


「貴女はちゃんと知っていたはずです――貴女の疑問には、それに答える者の数だけの考え方があるということを。そしてそのどれもが、正しいとも、間違いとも言えないことを。

 それはつまり"わからない"ということです。だけど、わからなくとも無意味ではありませんでした。貴女は、彼らの『(こころ)』を通じて、たくさんの考え方があることを知りました」


 彼らには彼らなりの思想があることをフィーは理解していた。そしてその積み重ねが、フィーに、答えは自らの心にこそあると思わせた。

 それは半分しか正しくないと、聖奈は思った。

 自らの心にあるものだけが答えではない、と思っていた。


「わからないから知ろうとした貴女の心は、本当は満たされていたはずです。それなのに貴女は周りを見ていなかった……。彼らの『(おもい)』を通して自分の『(こころ)』に問いかけ続けていたはずなのに、自分の『(おもい)』しかみていなかったから……」


 この心象世界の有り様を見ていればわかる。

 天河聖奈とフィーの二つの心は、決して交わることなく存在していた。二人が互いを認識し、理解し合うことで二つの世界は少しずつ近づいていたはずなのに、いまではピタリと止まっている。

 それはそのまま聖奈とフィーの心の距離だった。どちらか一方だけでは足りず、互いに共感できなければ、二つの心が交わることはない。

 

「貴女は言っていました――自分なりの答えがあれば良いと」


 でも――。

 

「でも、貴女が一番心を許していないのは、他の誰でもない、貴女自身なのではないですか?」


「……ッ!」


 だから答えが見つからない。見えている答えを見つけられない。

 わからないことをわからなくても良いと知っているはずなのに、数え切れない問答の果てに到達したフィーの結論が、答えのない答えを導きだそうとしてしまう。

 その無限連鎖の苦しみに、フィーは長いこと囚われている。

 ならばその苦しみからフィーを解放するためには、彼女一人の力だけでは足りない。

 他の誰かの手助けが必要だ。


「フィーが答えを出せないというのなら、わたしが答えを出します」


 その適役は自分をおいて他にいないだろう。

 フィーであってフィーでない聖奈だからこそ、確信を持ってそう断言できた。


「だから、フィー。自分(わたし)を、信じてください」


 誰かの考えは、正しいかもしれない。間違っているかもしれない。

 たとえ自ら導き出した答えが、誰かの考えに左右されていたとしても。

 それもまた、自らが導き出した答えのひとつなのだと、フィーが理解できたのなら。

 きっとその想いは、誰かと共感できる。


「天河聖奈……」


 わかっている。

 本当はフィーもわかっていた。

 誰かの考えを知ることで自らを深めるという行為は、自己を理解するための一形態であるということを。

 他者に問いかけることは、自らに問いかけるということでもある。

 彼の者はどうしてそう考えたのか。

 自分ならばどう考えるか。

 意識を摺り合わせ、認識を改めるという行為。

 それこそが自己を形成するのだとわかっていながらも、わからないふりをしていた。


「私は……間違っていたのだろうか」


 いつの間にか、自らの答えに固執していた。

 だけど、賢者であっても、愚者であっても、その両方であってもダメだった。

 何者でもない、自分で在らねばならなかった。


「いいえ、貴女は何も間違っていません」


 聖奈がそう答えるのを、フィーは知っていた。


「ただ、それを貴女に教えてくれる誰かが、いなかったというだけのことです」


 もしも世界に自分一人だけしか存在していなかったら、自分とは誰かと悩むこともなかっただろう。

 自分以外の誰かがいなければ、自分自身の存在に疑問を思うこともない。ましてや、自分と違う考えを持つ者がいると知ることもない。

 だからこれも、意識と認識の問題だ。

 世界を構成する二つの要素は、誰かと誰かがいて初めて成立するものだから。

 誰でもない自分が、誰かになるという、ただそれだけの話なのだから。


「……ありがとう、天河聖奈」


 フィーの口から自然と感謝の言葉が漏れたその瞬間、フィーの心象世界が音もなく崩壊した。


「フィーの世界が、生まれ変わるのですね」


 その言葉どおり、一度虚無となった世界が三度、再構築されていく。鏡写しのように空に映っていた聖奈の世界とフィーの世界が今度こそひとつとなって溶け合い、聖奈では認識しきれないほど何処までも広がっていった。


「これが……フィーの世界」


 圧巻の風景を目の当たりにして、それ以上は言葉にならなかった。見渡す限りの心象風景は息を呑むほど穏やかで澄み渡っており、遙か遠くにある世界の輪郭が見て取れる。ところどころに無秩序的に点在している不可思議な形のオブジェは大小様々で、そのひとつひとつが、フィーが築き上げてきた疑問の答えなのだろうと思った。

 この世界の何処かに聖奈の心象世界もあるはずだが、今度は見当たらない。あまりにも広大なフィーの心象世界に聖奈の心象世界は完全に溶け合っているようだった。


「天河聖奈」


 と、フィーは聖奈の名を呼んだ。


「君のおかげで、私は私を知ることができた。他の誰もない、だけども同時に他の誰かである私という存在を知り、そして――認めることができた」


「フィーは既に答えを知っていました。わたしはフィーがそれに気づけるように、ほんの少しだけ後押ししただけですよ」


「たとえそうだとしても、君とこうして言葉を交わさなければ、私が私を知ることはなかっただろう。気づけなければ、ないことと同じなのだから――」


 いや、そうではないな。とフィーは自ら否定した。


「気づけなくても、そこに在るということが真に大切なのだということを、君は私に教えてくれた」


 他者の思想を自らの思想と切り分けて考えていたフィーだけでは、決して到達しなかっただろう。

 他者に答えを見いだしたことの真の意味を、聖奈は教えてくれたのだから。

 これまで積み重ねてきたすべてが、何ひとつとして無駄ではなかったと教えてくれたのだから――。


「私の心はいま、とても満ち足りているよ」


 こんなにも穏やかな気持ちになれたのはいつ以来だろうか。

 清々しくて、心地よい。

 疑問は何ひとつとして解決していないというのに、それを享受できている自分に気づけたからなのだろう。そういえば初めて誰かの考えを知ったときも、同じ気持ちを抱いていたように思える。

 その頃の純粋な想いは、いつからすり減って、歪んでいってしまったのか。


「フィー……」


 分かれていた二つの心象世界が一つとなったからだろう。フィーの穏やかな『(おもい)』が聖奈の『(こころ)』にも流れ込んできて、瞳に涙の滴が浮かんでいた。


「さて、と。それじゃあそろそろ、君ともお別れかな」


 遠くを見つめながら、フィーは言った。


「えっ?」


 突然の別れの言葉に、聖奈は戸惑った。


「お別れの時間が来たんだよ。この世界は、まもなく閉じる」


 言葉の意味がわからずに狼狽える聖奈だったが、フィーが見つめる先に視線を向けて理解した。

 フィーの世界がだんだんと、揺らいで見えていた。


「私たちの器――現実世界の有機情報体は、いまとなっては私の『(せいしん)』よりも、君の『(せいしん)との結びつきの方が強くなっているようだ。だから、これ以上私の『(せいしん)』を表層に出し続けていると、器の方が保たずに壊れてしまう」


「でも、元々は貴女の身体なのに……」


「私の器であるということは、君の器でもあるということだよ。そこに優劣はない」


「ですが……」


「君は元の身体に戻りたくはないのかい?」


「それは……」


 戻りたくないと言えば嘘になるが、言葉にせずとも、聖奈の想いは心象世界を通じてフィーへと伝わっていた。


「心配しなくても、私がいなくなるわけではない。そう私に教えてくれたのは君だよ、天河聖奈」


 フィーはゆっくりと聖奈の傍まで歩み寄った。本来の姿に戻ったフィーの背丈は、聖奈よりも高い。


「私はずっと、ここにいるから――」


 自分の胸に手を当てながら、フィーは言う。


「私は君の『(こころ)』を通じて世界を見る。君が見る世界を君と共有し、共感したい」


 それがいまのフィーの願いとなった。


「……」


 何かを言葉にしようとして、しかし言葉がでない。心の変化に耐えきれず涙が滲んできて視界が歪む。俯き、いまにも泣き出しそうな聖奈の頭を、フィーが優しく撫でた。


「それに、現実世界(あちらがわ)には私ではなく君の帰りを待っている者たちがいる。(わたし)の後を追いかけてきて、君を助けようとして傷つき、倒れた者がいる」


 それはどういう意味なのだろうか。フィーには心象世界からでも現実世界での出来事が見えているようだが、フィーと心を通じ合わせている聖奈には理解できなかった。


「私ではできないんだ。彼を――九槻秋弥を助けることは、きっと君にしかできない」


「……!」


 突然、フィーの口から見知った名前を聞いた。ハッとして思わず顔を上げる。涙の滴が宙を舞った。


「九槻さんが……どうされたというのですか」


「九槻秋弥は私を――君を庇って深い怪我を負った。助けるには『抑止力』としての力――可能性の力を使うしかないが、私の"言葉"では九槻秋弥の『(こころ)』には届かなかった。だから君がやるしかない」


 フィーは、そう言って一歩後ろにさがった。


「お別れだ、天河聖奈」


 どこからともなく長杖を取り出した魔女は、杖の先で円を作った。


「ここから先は、先導者が君を現実世界まで導いてくれることだろう」


 杖の向けられた先にある空間が長方形に縁取られる。まるで扉が開くように空間が裂けると、そこから深紅のドレスに身を包んだ女性が現われた。


「貴女は……」


 輝くような金色の髪に燃えるような紅の瞳を持つ女性に、聖奈は強い既視感を覚えていた。女性は聖奈の姿を認めると、「ふん」と鼻を鳴らした。


「私が誰であるかなんて、貴様には関係のないことだ」


 不遜な態度で深紅の女性――先導者は聖奈を見下した。


「私はただ貴様を元の世界に……貴様を待っている者のいる世界へと連れ帰るだけだ。それが――の望みだからな」


 先導者がいま何と言ったのか、うまく聞き取ることができなかった。


「わかったらさっさと付いてこい」


 そう言って先導者は背を向けた。しかし、歩き出さずに立ち止まったままだった。


「……?」


「天河聖奈」


 背後からの呼びかけに、先導者の足が止まった。先導者が一人で先に行ってしまうことはなさそうだと判断した聖奈は振り返った。


「『抑止力(わたし)』の存在を知り、私と深く共鳴した君ならば、今まで以上に私の力を使うことができるようになっているだろう。

 だけど、これだけは覚えておいてほしい。私の力は君の力でもあるけれど、君の『(せいしん)』が使うにはあまりにも大きすぎる力だ」


 先ほどフィーは、『抑止力』としての力を"可能性の力"と言っていた。


「おそらく君の『(せいしん)』では力の負荷に耐えることができない。君が私の力を使うということは、何らかの代償を支払わなければならないということだ」


 強すぎる力には、それ相応の対価が必要になるということ。

 それは封術の基本原則でもあった。


「わかりました。ありがとうございます」


 聖奈は丁寧に頭を下げた。これでフィーとも本当にお別れだと思うと、一度は止まったはずの涙がまた滲んできた。


「私はこの世界にいるから」


 聖奈の心情を察したフィーが、先の言葉を繰り返した。


「私と君の『(こころ)』は強く結ばれている。(きみ)が『(こころ)』に呼びかければ、(わたし)はいつでもそれに応えることができるだろう。だからこれは、永久の別れではない」


 そう言うと、


「あぁ、そうだ。別れの前にひとつ、君にアドバイスがある」


「なんでしょうか」


「君が九槻秋弥を助けたいと真に願うのならば、自分の心に正直であることだ」


 きょとんとした聖奈に、フィーは苦笑を漏らした。


「この言葉の意味はきっとすぐにわかるよ。それでは、また会おう、天河聖奈」


 未来に繋がる可能性の言葉で、"可能性の魔女"フィーは聖奈を見送る。


「はい。必ず、お会いしましょう」


 聖奈もまた、同じ言葉でフィーに応じる。二人の間に、別れの言葉は不要だった。


「……行くぞ」


 今度こそ先導者は開かれた空間へと向かって歩き出した。

 名残惜しいが、聖奈もフィーに背を向けて先導者の後に続いた。

 二人の背中が、徐々に遠ざかっていく。二人を呑み込んだ深淵の世界が閉じると、二人の姿は完全に見えなくなった。

 再び何もなくなった世界で、フィーは思う。

 これで良かったのだと。

 選択の正当性なんてものは、フィーの疑問の前では意味を為さない。全てが曖昧で、不確かであるからこそ、等しく価値があるものなのだから。





★☆★☆★





「それが魔女様の選んだ答えなのですか?」


「間違っていると思うかい?」


「いいえ、魔女様はいつでも正しい」


「ですが、魔女様が自ら選んだ"器"が、魔女様の"力"に耐えられないはずがない」


「時には必要な嘘というものもあるさ。それは天河聖奈も理解している」


 フィーの世界に、"兎"の頭部を持つ使い魔たちが現われた。聖奈の前に姿を見せたときとは比べものにならない数の"兎"たちが、フィーを迎えるように並び立っていた。


「ところで君たちは酷く盲目的だね。私は、何も正しくないというのに」


「正しいか、間違いか、それを選ぶ権利は我々にもあります」


「選択とは、すなわち、希望なのです」


「希望とは、願望。我々は魔女様に希望を見いだした。生きる目的を見いだしたのです」


 "兎"たちは口々に言った。


「ならば、私が君たちを見放したらどうする?」


 すると、一羽(ひとり)の"兎"が前に出た。


「ご冗談を。兎は孤独になると死んでしまいます」


 そう言うと、フィーは肩を竦めた。


「兎が孤独で死ぬというのは迷信だ。兎は孤独になっても死なない」


「しかし人間は死ぬ」


 表情のない"兎"が、笑ったように見えた。


「人間の中には孤独になると死ぬ者がいる。兎もそうでないと、言えるのですか?」


「ふふ、君は『悪魔の証明』を持ち出すのかい?」


 兎が孤独死しないことを証明するためには、全ての"兎"の死因を調べて、孤独死ではないことを証明するしかない。しかしそれは事実上不可能なことであると言える。


「……そうだね。兎もまた、人間と同じく孤独死するかもしれないな」


 フィーはふと微笑んだ。


「ところで、君たちは本当に兎なのかな? それとも、人間なのかな?」


 奇妙な姿形をした使い魔たちを、フィーは改めて見やる。

 元々の姿は"兎"ではなかったはずだ。それに、なにより彼らは"兎"のかぶり物をしているようにしか見えなかった。


「その答えもまた、魔女様のお心の中に」


 "兎"の言葉に、フィーはついに堪えきれなくなって噴き出した。


「あははっ。君たちがいれば退屈することはないだろうね」


 何よりも身近にあるもの。

 それが幸福の正体だと言ったのは、果たしてどの"兎"だっただろうか。

 それを探すこともまた、幸福(たのしみ)のひとつかもしれない。





★☆★☆★





 永遠の闇の中を、二人は進む。

 前に歩いているという感覚はない。地面を踏みしめているという感覚もない。

 聖奈はただひたすら、前を歩く先導者の背中を追いかけていた。もうずいぶんと歩いたような気がするが、闇の中では時間の感覚すらもよくわからなくなっていた。


「人間――天河聖奈」


 先導者が不意に立ち止まって聖奈の名を呼んだ。


「この先に貴様の帰る世界がある」


 そう言われても、聖奈の視界には相変わらず闇色が広がっているだけだった。


「ここから先は、貴様が一人で行くんだ」


 先導者が身体を引いた。前へ進めと仕草で示している。


「……貴女はどうするのですか?」


「私はこれ以上行けない」


 ここはまだ聖奈の心象世界の中なのだろうか。はたまた聖奈の理解が及ばない別の何かなのか。いずれにせよ先導者はここに留まるようだ。

 聖奈が不安げな視線を送ると、先導者は眉根をひそめた。


「私のことは気にするな。……向こうには、別の私がいるからな」


「えっ?」


「天河聖奈……――を助けてやってくれ」


 また先導者が誰かの名前を言ったようだったが、何故かそこだけは聞き取ることができなかった。

 それでも、先導者が誰の名前を言っているのかはわかっていた。


「……はい」


 先導者の強い想いに後押しされて、聖奈はひとり、闇の中へと踏み出していく。

 そして――。


「…………っ!」


 心象世界から現実世界へと、聖奈は帰還する。薄暗い地下大空洞を、『マナスの門』が放つ光が照らしていた。


「秋弥様!!」


 少女の――リコリスの声が響いた。聖奈は声のした方を向く。


「九槻さん!」


 血だまりの中で仰向けに倒れている秋弥を見て、聖奈も叫んでいた。

 聖奈は急いで秋弥の傍まで駆け寄った。跪いた勢いで白色の制服が乾ききっていない鮮血で染まった。


「九槻さん! 九槻さん!」


 何度も秋弥の名を呼んでみたが、秋弥は血の気が失せた表情で意識を失っていた。


「っ!」


 ひとまず脈拍を調べようと思って秋弥の手首を取ろうと思った聖奈は、彼の右腕が半ばから失われていることに気づいて息を呑んだ。


「そんな……」


 ここでいったい何が起こったのか。それには少なくともフィーが――自分が関わっていることは間違いないだろう。


「……わたしの、せいで……」


 現実世界での状況をほとんど知らずにいた聖奈は、秋弥の容態を見て強い罪の意識に苛まれた。頭の中が真っ白になり、どうしたら良いのかわからなくなっていた。


「貴女が何とかしなさいよ!」


 そんな聖奈を叱咤したのは、聖奈よりも先に秋弥の傍に駆け寄ってすがりついていたリコリスだった。


「貴女の力ならできるでしょう!」


「わたしの……力……」


 いまの自分に何ができるというのだろう。

 混乱した頭で、聖奈は必死に考える。

 どうしたらいい。

 どうしたら……。


「……可能性の力」


 "可能性の魔女"フィーの持つ『抑止力』としての力がある。

 フィーはその力を、これまで以上に使えるようになっているだろうと言っていた。それを使えば、秋弥を助けられるかもしれない。

 だけど、どうやってその力を使えばいいのか。


「……」


 聖奈は開いた両の掌を見つめた。その手に自身の装具である杖を召喚する。

 短杖から長杖へと変貌していた自らの装具を、聖奈は強く握りしめた。

 わからなくても、やるしかない。

 力の使い方がわからなくても、自分の力であることに変わりない。

 ならば、信じられる。


「……やってみます」


 聖奈はゆっくりと眼を閉じる。杖をかざして、祈るように願った。


「お願い……」


 心の深いところから強い干渉力が沸き上がる。


「秋弥様を助けられなかったら、絶対に許さないんだから……」


 そんな呟きを漏らしながら、『(せいしん)の集中を始めた聖奈の邪魔をしないようにと、リコリスが秋弥の傍から離れた。


「九槻さんを……助けて……」


 可能性とは、"こう在るかもしれない"というひとつの形だ。

 秋弥を助けたい。

 その想いを力に変えるように、聖奈は心の底から強く願った。

 すると、聖奈の想いに呼応するように長杖が仄かに光輝いた。

 その光の正体はエリシオン光だった。いくつにも枝分かれした可能性世界の輪郭が、長杖を通じて徐々に見えてきた。


「――!」


 それは秋弥の可能性世界だった。

 聖奈の望む可能性が可能性世界のひとつにあれば、それを現実に投影できる。

 それこそが"可能性の魔女"が持つ可能性の力だ。

 しかし――。


「……だめ」


 見つからない。それ以前に、秋弥の可能性がほとんど見えなかった。

 秋弥を助けることは、叶わないことなのだろうか。

 最早、どうしようもないということなのだろうか……。

 聖奈の弱気な心が可能性の力を弱めた。エリシオン光は失せ、干渉力は急速に霧散した。

 少し離れたところでリコリスが端整な顔をくしゃくしゃに歪ませていた。秋弥のことが心配で仕方がないのだろう。その気持ちは自分だって同じだ。

 だけど、可能性の力すら通じないのではどうすることも……。


――九槻秋弥の『(こころ)』は不完全だ。


 その瞬間、聖奈は自分の声を聞いた。


――しかし、不完全な『意』を埋める存在がいれば、見えてくる因果もあるだろう。


 違う。その声はフィーの声だ。


「……二つの、こころ……」


――そう。君は知っているはずだ。


 聖奈はリコリスを見やる。

 以前、秋弥はリコリスと『意』を共有していると言っていた。

 それは聖奈とフィーの関係にも似ているが、聖奈とフィーが元々ひとつの『意』であったのに対して、秋弥とリコリスは別々の『意』を合わせて、ひとつにしている。

 ならば、


「……リコリスさん!」


 聖奈は少女の名を呼んだ。術式による干渉を解いたことで干渉波を感じなくなった聖奈をリコリスは睨み付けた。


「九槻さんの『(こころ)』の中に戻ってください!」


 続けて聖奈がそう言うと、リコリスは即座に言葉の意味を理解して姿を消した。

 これで離れていたもう一つの『意』が合わさり、秋弥の『意』は完全なものとなったはずだ。

 だからこれで、今度こそ――。


「もう一度、わたしに力を貸して……」


 聖奈は再び長杖を構える。瞳を伏せて強く願うと、可能性の力はすぐに発現した。


「九槻さん……」


 秋弥の可能性世界が、今度こそはっきりと見えてきた。聖奈が強く願えば願うほど、見える可能性世界の数は増えていった


「……………………………………どうして」


 しかし、どんなに強く願っても、秋弥の可能性世界の中に聖奈の望む可能性は見つからなかった。

 術式により別の干渉を受けたからだろうか。切断された秋弥の右腕からは、いつの間にか大量の血液が流れ出してきていた。

 流れ出る血液とともに、秋弥の存在が失われていく。


「九槻さんを……助けられないの?」


 存在としての死へと向かっていく秋弥を見つめながら、聖奈は己の無力さを痛感していた。

 

(九槻秋弥を助けることは、きっと君にしかできない)


 フィーは聖奈に想いを託したときに、そう言っていた。


(私の"言葉"では九槻秋弥の『(こころ)』には届かない。だから君がやるしかない)


 だけど、自分にはこれ以上、どうすることもできない。フィーのようには、できない。

 零れた涙の滴が、装具に落ちた。


「わたしの想いも……"言葉"も……届かない」


 必死になって願っても、届かない想い(ことば)があった。

 願うだけでも、想うだけでも届かない言葉も……。

 そのとき、聖奈ははたと思い出した。


「自分の心に、正直に……」


 フィーは、別れの最後にそう言っていた――九槻秋弥を助けたいと真に願うのならば、自分の心に正直であることだ、と。

 誰かを想うだけではなく、自分がどう想うかということもまた、こう在りたいと願う可能性の力だ。それが足りないから、可能性の力は聖奈の想いに応えてくれないのだろうか。


「わたしは……」


 自分は、どう在りたいのだろうか。

 たかだか十六年――天河聖奈となってからは十一年の歳月で、自分がどう在りたいかなんて決められない。考えられない。

 けれど――。

 聖奈は目を伏せた。


 こう在りたいと願う自分。


 それは何も、広い視野で考えなくてもいいことだ。

 自分の世界は、そんなに広くはないのだから――。

 今の聖奈にとって、封術学園で過ごす毎日が世界の全てだった。そこには真新しいことばかりがあって、苦楽をともにする友達がいて、優しい先輩がいて、厳しい先生がいる。

 その自分だけの世界で、こう在りたいと願う自分は――。




 三組の教室では、秋弥の机を囲んで、牧瀬玲衣が、朱鷺戸綾が、沢村堅持が、星条奈緒が、九槻秋弥が、笑っている。

 玲衣――と秋弥が言った。堅持の態度に噛み付いた玲衣を秋弥がいつものようになだめていた。

 堅持――と秋弥が言った。他愛もない話に適当な相づちを打っていた。

 綾――と秋弥が言った。聞き手になりやすい綾にも、秋弥は自然に話を振っていた。

 奈緒――と秋弥が言った。学生自治会長を務める奈緒の姉に対する愚痴を漏らしていた。

 天河――と。

 秋弥が、そう言った。




「……そう、なんですね」


 心象世界にほど近い場所にいるからだろう。自分でも気づいていなかった自分の姿が、そこにはあった。

 秋弥の言葉に、聖奈は微笑みながら応えていた――誰にも、心の裡を悟られないように。

 自分の心に、嘘をついていた。

 そしてそれこそが、聖奈の願う可能性世界を閉ざしていたということに気づいた。


「……ぁ」


 長杖に、温かい力が宿った。

 装具を握る自分の手に、フィーの手が重なったように感じた。

 力が、想いが、止めどなく溢れてくる。

 それは秋弥と聖奈の世界を救うための力だ。二人の世界を丸ごと塗り替えてしまえるほどの強い力だ。


 強い想い(ことば)は、世界を変えられる。


「……お願い!」


 聖奈は真に願う。


秋弥さん(・・・・)を助けて――」


 自分の心に、もう嘘はつけないから――。





(第四章『可能性の魔女編』――了)


これにて第四章の終了です。

全体の文章量が多くなってしまいました。文庫換算で300P程度でしょうか。


九槻秋弥と天河聖奈の戦い。そして天河聖奈の自分自身との戦いは、当初から予定していました。何年も掛かってしまいましたが、ようやく書けたという感じです。


さて、次は第五章……ではなく、終章となります。

封術学園の一年目の終わりに、『抑止力』との戦いによって物語はひとつの節目を迎えました。終章では、"可能性の魔女"との戦いのその後を語ります。


GW中に公開予定の終章は全2話構成で、文章量は文庫換算で100Pほどになります。

相変わらず成長のない拙い文章で読みづらいところも多いと思いますが、最後までお付き合いいただけたら幸いです。

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