第96話「人間の可能性(2)」
★☆★☆★
フィーが抱いた疑問は、あまりにも漠然としたものだった。
私とは誰なのか。
フィーはフィーであり、他の何者でもない。フィーという存在そのものが何よりの答えであるはずだ。
「貴女は貴女です。"可能性の魔女"……『抑止力』と呼ばれる概念存在のひとつ……」
よって聖奈はフィーという存在を指す言葉を並べることしかできなかった。
「そして……」
それ以上は言葉が続かない。
自分が誰なのかなんて、今まで考えたこともなかった。
だってそれは、考えるまでもないことだったからだ。
いや、違う。そうではない。
考えるまでもないのではなく、考えなかっただけだ。
考えようとしなかっただけだ。
自分が何者なのか。
此所に在る自分こそが唯一無二であり、此所に在るということが一種の存在証明になっていたから、考えなかったというだけのことだ。
"可能性の魔女"も、『抑止力』も、フィーにとっては単なる肩書きに過ぎない。
自分ではない誰かに、"お前は何者か"と問われれば答える程度の肩書きだ。
だから、フィーの疑問はそこにはない。
他者にではなく、自己に向けられた疑問。
自分とは、何者か。
フィーが望んでいるのはまさしく"それ"なのだと、聖奈は自問自答することで理解した。
自己の存在証明――その自問。
自らの心に真実を見いだしたフィーは、フィーであってフィーでない聖奈にその答えを求めている。
「…………いえ、そうではありませんね」
そう理解した聖奈は先の答えを自ら否定して、もう一度考え直す。フィーは優しげな瞳で聖奈を見つめていた。
存在証明。
天河聖奈という『意』は、フィーが自らの記憶を全て封印したことで誕生した。だがそれは厳密には生まれたのではなく、新たに始めたということだ。
記憶のリセット。
新しい自我の目覚め。
ただしそれらはひと繋ぎであり、現にこうして、フィーと聖奈は互いにひとつの有機情報体で『意』を共有している。
過去から現在、そして未来へと至る"存在"の生命。
フィーの未来は聖奈であり、聖奈の過去はフィーである。だからこそフィーの自問は聖奈へと向けられている。
私は誰なのか。
フィーは誰なのか。
聖奈は誰なのか。
わたしたちは、何者なのか。
その命題こそが、魔女自身に対する最終問答だった。
「"私がこれまでに解決したあらゆる問題は、後に他の問題を解決するための法則となった"。問答を通じて得た個々の思想は、私一人だけでは手に入れることのできない、かけがえのないものばかりだった」
魔女は微笑む。その笑みには暗い影が落ちていた。
「彼らは皆、それぞれの思想を持っている。問えば問うほどに、私という存在は深まっていった」
魔女の問答に明確な答えがないことを聖奈は知っている。すべての答えはオープンエンドで、考える者が違えば至る答えも違ってくるのだということも知っている。
「深まっていくほどに、見失っていくものもあると知らずに」
幸福は、失ったときに初めて気づく。
満たされることのない飢えがフィーを蝕んでいる。
「天河聖奈。『意』とは何処に在るのだろうか」
フィーは質問を重ねた。それは聖奈の中に答えを見いだせないと判断したからではなく、一つ一つの問題を解決することでフィーの目指す答えへと至るためだった。
「たとえば"存在としての死"は『意』の喪失ではない。"存在としての死"はあくまでも『意』を宿した有機情報体の死であり、『意』とは別個に考えられる。しかし、有機情報体が存在しなければ『意』を働かせることができない。そうなれば、有機情報体が存在としての死を迎えることで、『意』もまた存在としての死を迎えたと言って差し支えがないのかもしれない。それほどまでに有機情報体と『意』は密接な関係にある」
「それは……おかしいです」
「ほう」
魔女は聖奈の否定の言葉を嬉しそうに受け止めた。
「では君ならばどう考える?」
フィーは聖奈が答えを導きやすいように相づちを打つ。これはフィーが繰り返し行ってきた、聖奈自身に問いかけるプロセスのひとつだった。
「わたしたちが何かを為すためには、考えたことを動かすための身体が必要です。だから有機情報体と『意』が密接な関係にあるというフィーの考えにはわたしも同意します。ですがそれは一時的なものに過ぎないとも思います」
「一時的? ならば君は、何かを為し終えた後であれば有機情報体を失っても構わないというのかな?」
これには聖奈は首を左右に振った。
「もちろん失わないに越したことはありません。"存在としての死"を迎えることで悲しむ者も少なからずいるでしょう。だからそれを肯定するつもりはありません。護れるのなら絶対に護らなければならない大切なもののひとつと考えます」
「矛盾するようなことを言うね」
「矛盾はしていません。わたしたちの身体はいずれ、天命によって必然的に"存在としての死"を迎えますから」
フィーの眉がピクリと動いた。
それは『抑止力』となる前――悠久の時を生きてきた"可能性の魔女"フィーと"人間"天河聖奈の前提が異なる部分だったからだ。
「死してなおも『意』を働かせることができるというのかな?」
「できます」
あっさりと肯定する聖奈に、フィーは内心で高揚していた。
「どうやって?」
続きの言葉を聞きたくて、急くように先を促した。
「……他者の考えを知ることで自らを深めることのできた貴女なら、きっと理解しているはずです」
たとえそれが無意識的なものだったとしても、フィーは知っているはずなのだ。
聖奈にとってそれは問いかけのつもりではなかったが、フィーは聖奈の言葉の意味を考えた。
たった十一年。
フィーにとっては一瞬にも等しい歳月の中で聖奈が得ることのできた答え――それはきっとフィーも知っていることで、だけどもそうだとは気づけずにいる何かだということ。
「フィー、貴女はもう一人ではありません」
聖奈はフィーという過去の自分を知った。それはまごう事なき自分自身であり、しかし同時に自分とは異なる存在だということもはっきりと理解した。
だからこそ、この言葉には意味があった。
「貴女は自分の『意』が自分一人だけのものと考えているのかもしれません。だから貴女は、そのことに気づいていないだけなのです」
「天河聖奈ならわかるのに?」
「わたしは貴女です。でも、わたしと貴女は違います」
同一の存在であっても、思考が違うということの意味。
『意』の在処が違うということの意味を――。
「そうでなければフィーがわたしに問う意味も、わたしがフィーの問いに答える意味もありません。貴女もそれはわかっていることでしょう?」
同じ思考を持つ存在に問うのであれば、思考の堂々巡りにしかならない。自分と同じく、しかし自分と異なる『意』を持つからこそ、この自問自答は意味がある。
聖奈は目を伏せると、自分の胸にそっと手を当てた。
「フィー……あなたの『意』は、わたしの『意』に宿っています」
その言葉に呼応するように、フィーの作り出した真っ白な教会が天井から徐々に消失し始めた。見上げた二人の瞳に映ったのは、色とりどりに満ちた聖奈の心象世界だった。この世界に訪れたときは霧がかっていたように朧だったその全容が、今でははっきりと見えている。
「わたしの世界はわたし一人だけのものではありません。わたしの世界は、他者と関わることで広がり、彩られていきました」
教会はいつの間にか完全に消失していた。地平線の彼方まで続くようなフィーの真っ白な世界に、聖奈の世界が徐々に近づいてきていた。
「そして貴女の世界も、こんなに広い」
しかしフィーの世界には色がない。何処までも広いというだけで、それ以外の何もない。
「ただ広いだけだよ。私の世界はどうしようもなく空虚だ」
「そんなことはありません。フィーが誰かと関わりあったから、フィーの世界はこんなにも広がっているのです」
自分の殻に籠もっていただけでは『意』は豊かにならず、心象世界は広がらない。彼方まで続くフィーの世界は、彼女がそれだけ多くの者たちと関わってきた証でもあった。
「そうだとしても、色がない。私は何も満たされていないんだ」
「そう感じているのは、フィーがまだ気づいていないからです。フィーは自分と向き合ったことで、フィーとわたしを隔てていた霧を晴らしました。だけどわたしの世界は、霧を晴らす前からずっと、そこにありました」
幸福とはいつも気づかないところにあって、しかしすぐ傍にあるものなのだと、フィーは語っていた。
「貴女は他者と関わり、他者の中に答えを見いだしました。他者の『意』を知ることで、自分の『意』を広げました」
「その結果が、この空虚で空白な世界だよ」
自嘲気味に呟くフィーの言葉に、聖奈は柔和な笑みを返した。
「それが何か悪いことなのでしょうか?
白という色は、何色にも染まれる色です。だからこそ貴女の心には世界の色が映り、誰もが気づかず、あるいは見過ごしてしまうような些細なことにも疑問を抱くことができたのだとわたしは思いました。
それに――もう一度、良く見てください」
そう言って二人が同時に瞬きをした直後、それは起こった。
「――っ!」
フィーの世界に色が生まれたのだ。世界を塗り替える変化は二人の向き合ったテーブルを中心にして、二人の周囲に色とりどりの花が咲き乱れた。
「これは――いったいどうして」
思わず腰を浮かせたフィーは、驚きを隠しきれずに聖奈に問うた。
「わかりませんか?」
聖奈は目を細めて微笑む。
「わたしは貴女ですが、この世界はフィーの世界です」
聖奈の世界は、見上げた空の向こうに広がっている。
「貴女の真っ白な心に映し出されたわたしに、貴女が『意』を許してくれているから、こんなにも色鮮やかな世界が貴女の『意』に生まれたのですよ」
『意』は有機情報体に宿るが、たとえ有機情報体を失ったとしても、その『意』までもが失われるとは限らない。
誰かの『意』は他の誰かの『意』の中でも生き続けられるのだと言うことを――フィーは気づいていない。
「『意』を持つということは、たったそれだけのことで他の『意』にも影響を与えています。それに……自分のことを大切に想ってくれる存在には、より大きな影響を与えるものでもあります」
聖奈にとってのフィーがそうであるように。
フィーにとっての聖奈がそうであるように。
目に見えていなくても、気づいていなくても、"幸福"は常に傍にあったのだというように―――二つの世界が近づくほどにフィーの世界は色付いていった。
「たとえ"存在としての死"を迎えたとしても、その者の『意』まで消滅するとは限りません。その者を知る誰かの『意』に、その者の『意』が残ることもあるでしょう」
だからこそ人は――『意』を持つ有機情報体は別の何かと関わりを持ち、何かを残そうとする。それは記憶でも記録でも良い。誰かに、何かに、自分という"存在"が確かにそこに存在していたことを証明してほしいと願っている。
「――」
聖奈は、そして答える。
"私は誰なのか"というフィーの問いに対する、自分なりの答えを。
「フィー」
聖奈は穏やかに微笑んだ。これまでで一番自然で、優しい笑みだった。
「貴女の問いにお答えします」
たぶんこれは正しい答えではないかもしれない。そもそも正しい答えのある問いかけではないことも承知している。
ただ、聖奈なりの答えを出せれば、それだけで良い。
「わたしたちの『意』はわたしたちの中に宿りますが、何処にだって生まれます」
だから――。
「フィーは他の誰でもないフィーです。ですが、フィー自身が認識しているフィーが、フィーの全てではありません」
それこそが"可能性の魔女"の導き出した――たったひとつの答えだった。
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"可能性の魔女"は二人の攻撃を躱しながら、九槻秋弥という名の人間を観察していた。
天河聖奈の記憶の中にある九槻秋弥は、如何な理由かその身に高位隣神の力を宿しているという。その高位隣神というのは、九槻秋弥と共に自分に攻撃をしかけている少女のことだ。外見こそ大きく変わってしまっているが、リコリスという名の少女のことは多少知っている。だから"可能性の魔女"は秋弥の観察を優先した。
「くそ、ちょこまかと」
秋弥は毒づきながら装具の先で照準を合わせ、火の珠を飛ばしてくる。それを杖の先で弾き飛ばすと、杖を振って風の刃を生み出した。
これを秋弥は間一髪で躱す。魔女は感心していた。
「避けられないように狙ったつもりなのにね」
現在を司る『抑止力』は可能性世界に干渉できる力を持つ。その力を使って"攻撃が必ず当たる可能性"を選んでいるというのに、九槻秋弥はこちらの攻撃を何度もギリギリのところで躱していた。
(やはり因果から外れているのか)
考えられる可能性としてはそれしかない。星の因果律から外れていれば、自分たちと同じく『星の記憶』に紐付く可能性世界の変遷の影響を受けなくなるからだ。
だが、一見普通の人間と同じように見える九槻秋弥が如何にして『星の因果律』から外れるに至ったのかがわからない。
(……違う。外れているわけではないのか)
記憶の糸を辿ると、秋弥は一度、聖奈の力で傷を癒やしている。あの力は聖奈が無意識的に使った『抑止力』の一端だ。有機情報体の自己修復能力を高めたのではなく、可能性世界の一つから"傷を負わなかった世界"を選んで干渉し投影した結果だ。ならば九槻秋弥には可能性の力が通用するということになる。
しかしそれは現状と矛盾した現象だ。ならば何処かに因果の外れる条件があるはずだ。
「おっと――」
魔女の進行方向に土の壁が出現した。振り返ると背後にも同じ壁が出来ていた。
「逃げ道を制限しようというのかな」
単純な攻撃ではあるが、そこそこに有効な手だ。両脇に壁があり、正面から攻撃されれば、逃げ場は頭上にしかない。
魔女は空高く飛んだ。数瞬前まで魔女がいた場所を、風を圧縮した球が通過する直接的な攻撃力を持たない封魔術の一つではあったが、その勢いに押されて壁に叩きつけられれば、一時的にだが呼吸が止まり、隙が生まれていたことだろう。
「捉えたぞ、魔女」
空中に飛び上がった魔女に他の逃げ道はない。空間を繋いで瞬間移動したリコリスが紅の装具を振り下ろした。
「いいや」
魔女は身体を柔らかく捻り、魔剣を長杖で受ける。直撃は避けたものの叩きつけられた力で地面に落ちた。
「君たちの連携攻撃では私の身体に触れることはできないよ」
堅い地面に落下した魔女であったが、地面に触れる寸前にベクトルを操って体勢を立て直していた。
「どうかな。お前ならきっと、そうするだろうと思っていた」
「なに?」
ニヤリと笑った秋弥の言葉に眉根をひそめた魔女が一歩引こうとして足を動かしたとき、足首に絡みついている土塊に気づいた。
「誰が身体に触れることができないって?」
「ふふ、やってくれる」
最初から魔女がリコリスの攻撃を防ぐところまで予想していたのだろう。まんまと誘導されたというわけだ。
「この程度の攻撃で私の動きを封じることができたと思われては心外だ。干渉対象、自情報ユニット。干渉効果、他の『干渉』行為の解除」
足を掴んでいた術式が元の土塊へと戻る。土塊に掴まれたせいで白い靴下が汚れてしまっていたので、それもついでに元に戻しておいた。
「……反則じみた力だな」
「残念ながら君には使えないよ」
「そうかい。それは残念だよっ!」
攻撃が再開される。異層領域内に身を隠しているリコリスの足取りは追えないが、どうやら彼らの作戦は九槻秋弥が隙を作り、リコリスがその隙を突いて攻撃するというもののようだ。
装具を握ったまま切迫する秋弥が、構築した術式を片方の手から打ち出した。牽制用の術式"煙玉"だと気づいたのは、攻撃を弾こうとして杖が触れた瞬間だった。簡単に割れた玉の中に充満していた煙があふれ出し、魔女の視界を奪う。
「視界が見えなくとも、存在を知る手段はあるんだよ」
生きた有機情報体は少なからず世界に干渉するための干渉波を放っている。その波を辿れば、たとえ目を瞑っていたとしても、相手の所在を知ることなど容易い。
「そこだ」
煙のなかから飛び出してくる影に向けて杖を掲げた。九槻秋弥の斬撃を防いだと確信した魔女は、しかしその姿を見てわずかに動揺した。
「――いつの間に」
煙の中から現われたのはリコリスだった。彼女と秋弥では装具のリーチが違う。魔女はすぐさま間合いを調整してリコリスの凶刃を防いだ。
いつの間に入れ替わったのか――否、入れ替わっていたというだけではない。
リコリスの握っていた装具が紅から蒼へと変わっていた。
何故リコリスが九槻秋弥の持つ装具を使えるのか。魔女の動揺は隙を生んでいた。死角から迫った秋弥に対する反応が遅れる。
「くっ……」
足払いを食らって身体が浮き上がる。杖を持たない方の腕を秋弥に掴まれた。
このままでは身体を押さえつけられてしまう。一瞬のうちに状況を見極めた魔女は視線を地面へと向けた。
「『裂けろ』」
その刹那、秋弥の立っていた地面が魔女の言葉に従って割れ裂けた。突然の出来事にバランスを崩した秋弥はそれでも掴んだ手を離そうとはしなかったが、力が弱まった瞬間を見計らって魔女は腕を振り解いた。
「今のは少し焦ったかな」
土煙が立ちこめる中で魔女は言う。秋弥とリコリスは合流して距離を取った。
「それにしても君たちに対する疑問は深まるばかりだよ」
思案げに、見定めるような目を二人に向ける。
「まさか『意』の在り方まで完全に同一だとは思わなかった。いよいよもって君たち二人は私たち『抑止力』に近しい存在なのかもしれないと思えるよ」
魔女は考察する。九槻秋弥とリコリスを別個の存在と考えるのは間違いなのかもしれない。
「『星』がこの世界の有機情報体に与えた力――己の『意』が具現化した形である装具は、他者が使うことのできない唯一の力だ。だけども君たちにはそれができる。それはつまり、君たちが一つの『意』を持つ存在であることを意味しているということだ」
「それがどうした」
「どうもしないよ。単なる事実確認さ。
君たちは今、二人で一つの存在となっている。そこまでは良い。私たちと同じだ。だけども、君たちはそうしていると個々の存在が不完全な存在となるらしい」
「……?」
「『意』の在り方が不完全だということだよ。君たちの持つ装具の形に、それは現われている」
秋弥は反射的に握っていた装具を見た。異能系近接系魔剣『紅のレーヴァテイン』。そして今はリコリスが握っている特殊型遠近接系流剣『蒼のクリスティア』。
二振りの装具のうち、紅の装具は本来この世界に存在しないはずの装具だ。
隣神は装具を持たない。
高位隣神リコリスが装具を持っているのは、存在の領域をこの世界に同調させたからだ。一方蒼の装具は明確な形を持たない特殊型に分類される装具だが、それは不完全だという意味ではないはずだ。
「ただし、君たち二人が一つであるときだけは世界の可能性が作用するようだ。その点は私たちとの違いになるのかな。後発的に因果から外れた存在との違い――いいや、やはり君たちこそが例外なのだろう」
頷き、魔女は長杖を正面で構えた。
「どうやらそろそろ終わりが近い。もう少しだけ私に付き合ってもらうよ」
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終わりが近い――それは聖奈の『意』が消滅するタイムリミットを指して言っているのだろうか。
秋弥は奥歯を噛みしめた。このままでは聖奈を助けられないどころか、魔女に一撃を与えることすらできない。
「来ないのなら、こちらから行くよ」
様子見は終わりとばかりに、初めて魔女の方から動いた。空間を裂くようにして大量の"氷槍"が出現する。
「リコリス、近接戦に持ち込むぞ」
「うん!」
遠距離からの攻撃は軽くあしらわれてしまう。勝機があるとすれば、近距離からの乱戦に持ち込むしかない。
秋弥とリコリスはそれぞれの装具に持ち変えると、左右に分かれて攻撃を躱した。"氷槍"の一本が制服の裾を貫いた。
「君たちには私の持つ可能性の力があまり通用しないらしい。しかし、君たちがやったみたいに相手の動きを誘導することで、次の行動を予測できる」
秋弥の進行方向に"氷槍"が突き刺さる。右に避けようとして左足に力を込める寸前、視界の右隅に"氷槍"が映った。
右への回避を諦めて左に避ける。その場所に目掛けて飛んできた"氷槍"を転がるようにして回避した。
秋弥の姿勢が崩れる。すぐさま体勢を整えたが、そのときにはもう秋弥の周囲には大量の"氷槍"が突き刺さっていた。
しまった、と秋弥は思った。蒼の装具で"氷槍"を斬ってみたが、魔女が作り出した"氷槍"は圧倒的な干渉力を内包しており、秋弥の干渉力では魔女の事象干渉を解くことができなかった。
「でたらめな力だな……」
"氷槍"の隙間を抜けられないこともないが、先ほど"氷槍"に貫かれた制服の一部分が凍り付いていた。触れただけで伝搬するほどの冷気を放つ"氷槍"には、装具以外では触れない方が良いだろう。
「秋弥様、しゃがんで!」
リコリスの声を聞いたときにはもう姿勢を低くしていた。その秋弥の頭上を深紅の刃の軌跡が通過する。リコリスが横薙ぎの斬撃で"氷槍"をまとめて薙ぎ払ったのだ。
支えを失った"氷槍"の上半分を吹き飛ばす。秋弥は飛び越えるようにして"氷槍"の牢から抜け出した。
魔女の周囲にはまだ十本以上の"氷槍"が残っている。閉鎖された地下空間のいったいどこにそれほどの『水』系術式を構築できる『水』の原質があるというのか。ここが地下空間である以上、『虚空』系の術式はほとんど使えない。かといって空間リソースにも限りがあるため、『火』と『水』系の大規模な術式を使うにはそれなりの構築時間を要する。
ならばこちらは先ほどからそうしているように、リソースが豊富な『土』系術式をメインに使うしかない。秋弥は"氷槍"の雨を避けながら壁際まで走り寄ると、そのまま壁面に足裏を付けて駆け上った。
平面ではなく立体的な動きで翻弄する。秋弥の動きを目で追っていた魔女は、異層領域に再び身を潜めたリコリスの姿を見失った。
「ふぅん、そういう動きもあるか」
魔女が杖を振る。長杖の動きに従って"氷槍"の軌道が変化した。追尾性能が付与された"氷槍"が秋弥に迫ったが、秋弥は動きに緩急を付けることで全ての"氷槍"を避けきった。
「なかなかやるね。では、これならどうする?」
"氷槍"を使い果たした魔女が新たな術式を展開させる。すると周囲を満たしていた空気の流れが一変した。
「おいおい、冗談だろ……」
空気中に漂う塵や埃を使って『虚空』系統の術式を発動させたのだと理解する。しかし十分なリソースがないこの地下空間で、何故それほどまでに精密な事象干渉が行えるのか。
「私もまた君と同じくこの世界の法則に縛られている存在だが、君とは事象に干渉するプロセスの組み立て方が違うんだよ」
経験の差だとでも言いたいのか。魔女は得意げな様子もなく、ただ当たり前のことのように答えた。
「私の言葉は、重みが違う」
魔女が笑みを作ると、封魔術式の中でも最速の『虚空』系に分類される"電雷"が秋弥へと殺到した。"氷槍"のように目で追っていては避けられない。秋弥は相手の攻撃を予期して一瞬早く左手を伸ばすと結界術式を展開していた。
「……っ!」
二つの力が干渉しあう。魔女の封術式はとてつもない干渉力を内包している。咄嗟に展開した結界術式程度では防ぎきれないことはわかっているが、受け止めるのではなく受け流すのであれば力の大きさはあまり関係がない。むしろ相手の力が大きいほど受け流しやすくなるというものだ。
「――そう君は考えているのだろう」
秋弥を見上げながら、魔女は言った。
「だから君は私の攻撃を受け流そうとする。その考えは正しいが、正しいことが常に正しい道に繋がっているとは限らない」
魔女はそう言って、広げた掌を優しく握った。その動きと連動するように、方々から殺到していた"電雷"が一つに収束した。
「『爆ぜろ』」
握った手を開く。魔女の言葉に従い、収束した"電雷"が爆散した。その衝撃は結界術式を貫通して秋弥の身体に届いた。
「が、はっ……」
壁面を走行するために発動していた常駐型の術式が途切れ、秋弥の身体が空中に投げ出される。異層領域から覗き見ていたリコリスが堪らず飛び出した。
「秋弥様!」
空中で秋弥の身体を捕まえると、壁を蹴って地面へと降り立つ。そこに魔女が土から作り出した波が迫っていた。
「『全統符号』……ホントに厄介な力」
リコリスが手を振り上げる。地面からせり上がった分厚い土の壁に土の波が激突し、互いに消滅した。
「ふむ……『全統符号』を知っているということは、やはりきみは――」
原初の共通言語にして言霊を操るというその力を知っている者は少ない。眼前の少女はやはり"あの彼女"なのだと、改めて魔女は思った。
「……やっぱり、力を抑えながら勝てる相手じゃないよ」
なおも苦しそうに咳き込む秋弥に向かって、リコリスが小声で言う。
「だから秋弥様、ごめんなさい……」
謝罪の言葉と同時にリコリスは駆け出した。異層領域を使った超高速の移動で瞬く間に魔女の眼前に出現すると、紅の装具を水平に薙いだ。
「おっと、あぶない」
これを魔女はひらりと躱す。一歩下がった魔女にリコリスもまた一歩を踏み出した。
彼我の距離は変わらない。相変わらずリコリスの間合いの内側にいる魔女は、しかし涼しげな表情だった。
「やぁぁああ!」
裂帛の気合とともにリコリスは加速術式のアシストを加えた怒濤の連続攻撃を繰り出した。その目にも留まらぬ斬撃の嵐を、魔女は刃を持たない杖で受けた。
「重さを軽減して速さを重視したのか。だけどそれでも私には届かないよ」
一撃、二撃、三撃、四撃……。四方八方からの攻撃を、魔女はひとつずつ丁寧に捌いていった。
「そう言っていられるのも、今のうちッ!」
最後の一撃は鍔迫り合いとなり、二人の顔が近づいた。とてつもない干渉力の塊がぶつかり合って地下空間を揺らす。
「……っ!」
リコリスは紅の装具から片手を離すと、掌から大量の花弁を放出した。その花弁は一片が鋭い刃となっていた。鍔迫り合いで行動の自由を奪った魔女に至近距離から無数の刃が迫る。
「むっ……」
さすがの魔女でもこれだけの数の刃を受けきることはできない。花弁が放たれる寸前に紅の装具を弾くと、思い切り地面を蹴って飛び退いた。
「逃がさないッ!」
リコリスの作り出した花吹雪はひらひらと舞い踊って魔女の動きに追従した。それと同時にリコリス自身も動く。
「花吹雪というならば、全て燃やしてしまえば良い」
その言葉どおり、魔女は大回りで花弁を避けると|"紅蓮の大業火"を作り出した。この地下空間のどこにそれだけのリソースがあったのかと思うほど高干渉力の『火』系高難度術式は、刃の花弁をその熱で燃やし尽くした。
「花を燃やすなんて、性格が歪んでいる証拠ね!」
「……ッ!」
"紅蓮の大業火"によって視界の一部が覆われる。その死角から現われたリコリスの装具がついに魔女を捉えた。
「惜しかったね」
魔女はすんでのところでリコリスの動きを察知し、装具を差し入れていた。確実に捉えたと思っていたリコリスは目を見張る。
「私の性格のことはともかく、君の攻撃ではあと一歩、私には届かないよ」
再び動きが止まったところで、魔女はシニカルに笑った。一方リコリスの口元にも笑みが浮かんでいた。
「リコリスの攻撃だけなら、ね」
魔女がハッとしたときにはもう遅い。杖と身体の動きを止められた魔女の足元から伸びた鎖が、魔女の両手足を縛り付けていた。
「……九槻秋弥か」
"電雷"の一撃を受けて倒れていたはずの秋弥の姿がなかった。リコリスの猛攻を防ぐことに気を取られているうちに秋弥から眼を離していたのは失敗だった。
「やれやれだよ。私の身体と意識はまだ本調子ではないらしい」
魔女はため息を吐きながら首を横に振った。その手から杖型の装具が消える。
それでもリコリスは警戒心を解かずに、両手足を拘束された魔女の正面に立った。地下大空洞の天井から"拘束の鎖"を放った秋弥がその隣に降りてくる。その秋弥に向かって、魔女は笑みを見せた。
「動けないというのに、ずいぶんと余裕がありそうだな」
「ふふっ」
「何がおかしい?」
「秋弥様、早く術式を使って」
リコリスが十分に時間を稼いでくれたおかげで、これまでよりも強固な干渉力を持つ"拘束の鎖"を作ることができたが、どれほどの間、魔女を拘束し続けられるかはわからない。
魔女の不審な様子も気がかりだったが、身動きが取れなくなっている今のうちに『狭き門』を使うべきだ。秋弥は蒼の装具から紅の装具へと持ち替えると、魔女の胸に切っ先を向けた。
「いや、笑ってすまない。だけど君たちがこれからしようとしていることは、私たちにとってまるで無意味なことだからさ」
「……」
「ひょっとして、私が言った言葉をちゃんと聞いていなかったのかな?」
「早く」
リコリスが急かす。これ以上魔女の言葉に耳を傾ける必要はない。
「天河、いま助けてやるからな――」
慈愛に満ちた表情で微笑む魔女と、秋弥の真っ直ぐな瞳が重なった。
装具の切っ先が魔女の――聖奈の胸を刺し貫こうとした、その刹那。
「……なんだ!?」
突然の次元振動に地下大空洞が大きく揺れた。異層認識力の高い三人の視線が『マナスの門』がある方へと向く。
その視線の先から、空間領域を裂くようにして巨大の球体が顔を覗かせた。
何とか間に合いました……。
秋弥・リコリスvs可能性の魔女が決着する次話は、2015/04/25(土)8時予定