第93話「真なる対峙」
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不思議な感覚だった。目の前にもう一人の自分がいるというのに恐れや不安はなく、むしろ哀愁にも似た懐かしさを覚えていたのだから。
「"多くのことを中途半端に知るよりは知らない方が良い。他者の見解に便乗して賢者になるくらいならば、むしろ自力だけに頼る愚者である方が良い"」
現在でこそ書物を紙で読む文化はほとんど廃れているが、聖條女学院の初等部に通っていた頃に紙の本で読んだことがあった。
確か哲学者ニーチェの作品の一節で、印象的だったから聖奈も覚えている。
「だけども真へと至るためには、私たちは賢者であっても愚者であっても不十分だ。その両方を持ち合わせていなければならない」
自分以外の口から自分の声を聞いた。自分はこんな声をしていたのかと思ってしまう。
「はじめまして、天河聖奈」
もう一人の自分が微笑んだ。
「こうして遭える日を、心待ちにしていたよ」
鏡写しのようにそっくりな自分を聖奈は見上げる。もう一人の聖奈は白塗りの豪奢な椅子に悠然と腰掛けてこちらを見下ろしていた。
二人の聖奈の視線が重なる。
聖奈の心の奥深くが、強く脈打った。
「貴女は……わたし」
「そのとおり。私は君だよ」
互いが互いを認めた瞬間、聖奈はこの真っ白な世界の正体を理解した。
白くて、無垢で、無味で、空っぽな――しかし何処までも続く広大なこの世界は――。
「この世界はわたしの――」
「私の――」
「「心象世界」」
同じ音が重なる。一音もズレていない二人の声が響くと、遙か頭上にあるはずの鐘の音が唐突に鳴り止んだ。
時間さえも止まってしまったような無音の中で、静寂を破ったのはもう一人の自分だった。
「私は天河聖奈――いいや、この名は君に与えられたものだから、私は別の名前を名乗らせてもらおうかな」
そんな前置きの後に、もう一人の自分は自らの名を名乗った。
「私の名は、フィー。『抑止力』としての識別子は"可能性の魔女"。だけども私はフィーという名を気に入っていてね。良ければ君も、私をフィーと呼んでほしい」
"可能性の魔女"フィー。
哲学を意味するΦの名を持つ存在――それがもう一人の自分自身。
否、彼女こそが本当の――。
「しかしようやく……ようやくだよ」
と、フィーは少し疲れたように言った。
「長い眠りから眼を覚まして、君との対話を試みるまでが大変だった。"器"に干渉して私の『意』を表層に出したまでは良かったのだけれど、君の記憶から得た情報を頼りにこの世界の法則に準じて『意』が支配するこの世界へと辿り着くまで、少なからず障害があった」
やれやれとフィーは息を吐いた。
「いくら"兎"たちの視界を通じて多少なりとも外の情報を得ていたとはいえ、自らの記憶を封印して以来の目覚めだったから、大分なまっていてね。"器"は案の定、私の思い通りには動いてくれなかった」
「"器"というのは?」
「ん? もちろん、世界で活動するための器――情報体のことさ。心象世界とは違う本来の世界での身体のことだよ」
フィーは続けた。
「それに情報体というものは何かと不都合が多い。一度にたくさんのことを並列して思考することはできないし、思考と行動にズレがある。頭の中では出来ると思っていることができず、常に世界の法則に束縛され続けている」
「ですが……元々は貴女の身体ですよ」
この世界でフィーと出会ったことで、聖奈は少しずつ思い出し始めていた。
色のない世界の正体や、自分自身のことを。
自分がどうやって生まれたのかを。
"可能性の魔女"は小さく笑みを見せた。微笑みとは違う、慈愛の混じった柔らかな笑みだった。
「聖奈……天河聖奈」
フィーが聖奈の名前を呼んだ。
「とても綺麗な、良い名前だ。私ではとてもじゃないが名付けられない」
フィーが己の手を見つめる。悲しげな瞳が揺れた。
「"この無限の空間の永遠の沈黙は私に恐怖を起こさせる"。私という存在は、この世界が体現しているとおりに空虚なんだ」
その瞬間、聖奈の脳裡にかつての記憶がいくつもフラッシュバックした。
自分たちの心象世界が真っ白な理由に至り、堪らず叫ぶ。
「そんなことはありません!」
彼女の言葉を真っ正面から否定した。今度はフィーが驚くように聖奈を見つめ返した。
「貴女の……フィーの世界にはわたしがいます」
心象世界とは自らの『意』の風景が反映された世界であり、"存在としての死"という収束する未来へと向かって進んでいく人生の中で培われ、作られていくものだ。『始まりの封術師』鷹津宰治のもとに引き取られ、聖條女学院で過ごした九年間と封術学園で過ごした一年間の聖奈の人生が真っ白な空白であったはずがない。
ならば聖奈の『意』の風景とはこの世界のどこにあったのか。それは見上げた空の向こうにずっと見えていた。薄ぼんやりと映った色とりどりの景色こそが聖奈自身の心象世界だったのだ。そして、これほどまでに真っ白な世界こそがフィーの『意』の有り様なのだとしたら――。
それは、とても悲しすぎる。
だけどもこの心象世界には自分という存在がいる。
天河聖奈という存在もまた、フィーの心象世界を構成する要素のひとつなのだと、聖奈はまっすぐな瞳で告げた。
「天河聖奈……ふふっ、そうだね。私の世界には君がいる。それは何物にも代えがたい唯一の救いでもあるんだ」
そう言ってフィーは腰を上げた。長杖を手に持ってゆっくりと聖奈の傍まで近寄ってくる。
「私の中に生まれた君の存在を知ったとき、私は心を震わせたよ。私の子であり、友であり、隣人であり、理解者である君という存在にね。そしていつか、こうして君と話がしたいと思っていたんだ」
フィーとの目線の高さが同じになる。身に纏っている衣服や杖の形こそ違うものの、近くで見ると鏡に映る自分を見るみたいに瓜二つだった。しかしそれも当たり前の話だ。外見――フィーの言葉を引用するなら現実世界の器は一つで、そこに宿る精神が二つなのだから、中身以外は何もかも同一なのである。
「"真理を探究するのであれば、人生において一度は、あらゆる物事をできる限り深く疑ってみる必要がある"。多くの疑問と向き合い、多くの者たちに問い続けてきた私は、その果てでついに理解したのだよ。"私たちは理性によってのみではなく、心によって真実を知る"のだということをね」
フィーは杖を持ち上げた。すると床がせり上がり、二人の間に白くて丸い机が出来上がった。
ふと背後に視線を落とすと、簡素な椅子が出現していた。
「そう……あらゆる世界で唯一君だけが、私の求める答えを知っているということに」
賢者と愚者の二面性。
"可能性の魔女"フィーと"人間"天河聖奈。
「さあ、座って。楽しい話をしよう」
聖奈はフィーに促されるまま腰を下ろした。この机と椅子には見覚えがある。夢の中で幾度も現れた"兎"の姿をした者が良く座っていたものと良く似ていた。
「あの"兎"たちも、フィーが作ったのですか?」
「"兎"? あぁ、彼らのことか。いいや、違うよ。彼らは私に付いてきた、いわば使い魔たちだ。私は眠っている間も彼らの視界を通じて、外の世界の情報を得ていたんだ」
フィーが座ったままで器用に杖をふるった。瞬く間にフィーの背後に"兎"の顔をした者たちが並ぶ。使い魔らしい"兎"たちの真っ赤な双眸がクリクリと動いた。
「そういえば、すまなかったね。君の情報を得るときにも"兎"たちの手を借りていたのだけれど、夢の中で君に接触した"兎"たちは少し……いや、かなり鬱陶しかっただろう?」
「え、えっと……はい」
"兎"たちを前にして正直な思いを伝えるのに若干の抵抗があった。それでも正直に伝えると、フィーも、そうだろう、と頷いた。
「ふふっ、あれでも仕事熱心な方なんだ。君が深い眠りについているときには、その必要もないのに私のところまで来て報告をしてくれたし、なかなかにユーモアもある。ただまあいくら情報を伝えられても私は何も反応を返せないから、それを良いことに言いたい放題、あることもないことも言うんだけどね。全員の話を照合すれば何が本当でどれが偽りかはわかったから、そういう意味でも退屈はしなかった」
「お褒めに預かり恐悦至極」
「我々は常に貴女様のお傍に」
「魔女様の幸福こそが我々の幸福」
「畏怖と畏敬は表裏一体」
"兎"たちの口元がモグモグと動いていて口々に言った。どの"兎"の声も聖奈には同じように聞こえたが、別々の存在なのだろうか。
「あぁわかったよ。ありがとう」
一方のフィーはぞんざいに応じただけで、杖を一振りして"兎"たちを隠した。
「とまあ、そういうことだから、"兎"たちのことは気にしなくて良いよ」
「外の情報というと、外――現実世界の様子はどうなっているのですか?」
聖奈は実のところずっと、そのことが気にかかっていた。現実世界の記憶は保健室に運ばれたところからばったりと途切れている。あれから現実世界では何がどうなっているのだろう。自分の――自分たちの身体はまだ保健室のベッドで横たわったままなのだろうか……。
と、そう考えた聖奈はひとつの疑問にぶつかった。
いま自分がいるのは、現実世界の何処かでもなければ夢の中でもない、『意』の風景が具象化した心象世界だ。この世界にアクセスすることができるのは、全世界中でも封術学園四校の地下に眠る『マナスの門』をおいて他にない。
「どうにもなっていないよ。私が眼を覚まして、他の者たちには少し眠ってもらったというだけのことだ」
フィーは至極当たり前のように言った。そこに悪意の色はなく、単純にそうすべきだと思って行動したようだった
「眠ってもらったって……」
「意識を奪ったということだよ」
こうやってね、と手首を使って杖の先端を振る仕草をした。
「心配しなくても大丈夫、傷つけてはいないさ。もっとも、私の行動を阻害しようとした者たちには少し強めに力を行使したけれどね。彼ら――パーティション七〇八二五の有機情報体を傷つけることは私の本意ではない。こう見えても私たち『抑止力』は博愛主義なのさ」
「……」
パーティション七〇八二五とは何のことだろう。言葉から推測するに重層する世界のひとつひとつに与えられた領域の番号だと思われる。
それにフィーの口から『抑止力』という言葉が出てきたのは、これで二度目だ。そちらも聞き慣れないものだったが、どうやらフィー自身を指しているということは理解できた。
「……わかりました。貴女の言葉を信じます」
ともかく、少なくともフィーは嘘を言ってはいないと感じた聖奈は頷いた。
「フィー。貴女はいま、『マナスの門』にいるのですね?」
『マナスの門』という現層世界の言葉が彼女に通じるかはわからなかったが、それは杞憂だったようでフィーが首肯した。
「そうだよ。それが"器"を得た私が最も不都合に感じたことだった。自らの『意』――君と話をするために、私はそこへ行かなければならなかったからね」
『マナスの門』は現層世界が異層世界の驚異に立ち向かうための最重要施設だ。一介の学生がおいそれと入れるところではない。
やはり現実世界ではフィーが考えている以上の大惨事が起こっているはずだ。いつまでもこんなところでゆっくりとしている場合ではない。
「君が戻ってどうする?」
フィーは聖奈の思考を読んだように先回りをした。目を細め、眉を小さく寄せる。
「いますぐに君があちらの世界へ戻ったところで、事態がややこしくなるだけだよ。それに君は私が無理矢理『マナスの門』まで辿り着いたと考えているようだけれど、その考えは間違っていると訂正させてもらうよ。私はあくまでも君たちの世界の規則に従って行動している」
「……それなら、どうやって『マナスの門』まで辿り着いたというのですか?」
聖奈は語気を強めながら問うた。力業でないとしたら何だというのか。
「君たちが普段そうしているように、歩いて、扉の鍵を開けて、昇降機に乗っただけだよ」
さも当然というようにフィーは肩を竦める。確かに、簡単に説明すればそのとおりの手順で『マナスの門』まで向かうことができるが、それはあり得ない。
『マナスの門』に降りるための昇降機を動かせるはずがない。
「昇降機は……どうやって動かしたのですか?」
最大の疑問を聖奈はぶつける。フィーは、ふむ、と唸った。
「その質問に答えたら、君は私ともう少し話をしてくれるかな?」
「質問をしているのはわたしです」
「釣れない返事だ。そんなに焦らなくても、私と君がこうして話をできる時間はそう長くはないというのに」
「答えてください」
「やれやれ……仕方がないね。私もこれ以上君との貴重な時間を無駄にはしたくないから、素直に答えるよ」
はぁとフィーは盛大なため息を吐いた。自分がため息を吐くとこんな風に映るのかと、聖奈は思った。
「君は知らなかっただろうけれど、昇降機の鍵はずっと以前に『星の使徒』から君に渡されていたんだよ。私はそれを使って昇降機を動かし、『マナスの門』へと辿り着いて、こうして君と話をしている」
「『星の使徒』……?」
「『抑止力』を探していた、君の名付け親のことだよ」
「叔父様が……」
『星』の予言のことも『抑止力』の事も知らないが、名付け親のことはもちろん知っている。
鷹津宰治――『始まりの封術師』にして鷹津封術学園の理事長だ。身寄りを失い、本来の記憶を封印した"可能性の魔女"フィーを"人間"天河聖奈として引き取ったのは彼だ。その彼が全ての事情を理解した上でこの一件の裏で手を引いているのだとしたら――。
「さぁ私は君の質問に答えた。今度は私からの質問に答えてもらうよ」
フィーが大仰に両手を広げる。聖奈は目を伏せた。
「……」
自分の理解が及ばない大局的な流れというものがあって、いまのこの状況も含めて全てが予定調和なのだとしたら――なるようにしかならないのだろう。
ならば、いまの聖奈にできることは、自分自身と話をすることしかないのかもしれない。
それに――。
「――わかりました」
聖奈もまた彼女を――本当の自分を知りたいと思っていた。
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秋弥とリコリスを乗せた昇降機は、途中にあるゲート観測室を通過して『マナスの門』が鎮座する地下大空洞へと繋がる最下層へと到達していた。
ここから『マナスの門』までは二百メートルほどの長い廊下を残すだけだ。
よりいっそう薄暗くなった廊下を歩く秋弥は、『マナスの門』にいる聖奈のことを考えていた。
天河聖奈の重層同位体――聖奈の身体を乗っ取っている存在はこの『星』で最も強い力とされる『全統符号』を操るという。
それはかつて『彼岸の花姫』も使っていた力だ。
具体的にはどのようなものであるかリコリスは示さなかった。おそらく、力を失った現在のリコリスでは、そこまでのことはわからなかったのだろう。あるいは教えられない理由があるのか。
とにかく、厄介な状況に陥っていることは確固たる事実として存在している。天河聖奈の重層同位体が及びもつかないほど高位の――『彼岸の花姫』に匹敵する存在だったとして、勝ち目はあるのだろうか。
それだけではない。
現在聖奈の身体の主導権を握っている存在は、聖奈の装具と似た杖を手に持っていた。形こそ短杖ではなく長杖であったが、あれは間違いなく装具だった。
装具は人類が異層世界の存在に対抗するために与えられた力だ。それを異層世界の存在が使う例を、秋弥はひとつしか知らない。
視線を落とす。並んで歩くリコリスが手に持つ紅の装具へと眼を向ける。
『彼岸の花姫』は九槻秋弥と同化するときに自らの存在定義を変質化させた。その結果として『彼岸の花姫』は力の大部分を失い、残った力はこの世界の規則に従って装具という形に変化した。
天河聖奈の重層同位体の姿は、まさしくそれと重なる。
ひょっとして天河聖奈も自分と同じだったのではないかと、秋弥は考えた。思えば聖奈が操った未知の術式や通常では考えられないほど強い干渉力を伴った事象改変は、天河聖奈という存在が有する特異性を示唆していたととれなくもない。
しかし――。
その場合、およそ無視できない問題が生じる。天河聖奈の重層同位体が『天童』や『神降ろし』の類いではなく、リコリスと似た存在だったと仮定すると、術式『狭き門』が無力となるからだ。
『狭き門』は対象の固有振動パターンを読み取って在るべき世界へ還す術式だ。対象の固有振動パターンが現層世界のものであれば、入口と出口が同じとなって何も変わらない。
「……ここは嫌い」
リコリスの呟きが聞こえた。秋弥は良くない方へと向かっていた思考を切り替えた。
「『星』の『意』が強く作用しているところは嫌いよ」
「『星』の意思?」
「そう。秋弥様は『星の記憶』と言うけれど、『マナスの門』は『星』の『意』と直結しているから、リコリスは嫌い」
そういえば装具選定で門を抜けて心象世界に立ったとき、そこにリコリスの姿はなかった気がする。心象世界での記憶はどういうわけか不明瞭で、思い出そうとしてもほとんど思い出せない。
「『星の記憶』と直結か。夢を見ているような気持ちってわけか」
なんともなしに秋弥が言うと、リコリスは嫌悪感を露わにして顔を歪めた。
「夢なんていう生やさしいものではないと思うけれど。だって、そこには事実と真実しかないもの」
「事実と、真実か」
夢の中には理想や願望も含まれている。それは夢というものが記憶を整理する行為であり、その過程で生じる不連続性を伴うあらゆる種類の記憶の想起が夢を見るという現象だからだ。
「心象世界の景色は、『星の記憶』から作られている?」
「『星』に蓄積された過去の全ての出来事、現在という瞬間、確率的に予測される未来。そこから作られた真実の自分なんて、リコリスは見たくない」
たとえ見た目は小さな少女でも、元々はクラス1st級の高位隣神だ。いまでこそ過去の記憶を閉ざしているが、その知識量は人間の及ぶところではない。
それにしても――真実の自分か。
先導者『彼岸の花姫』――それがリコリスの正体だが、彼女は過去の自分を否定している。現在の自分こそが全てであり、過去は過去のものとして、拒絶してしまっている。
それはある意味では正しく、ある意味では間違っている。
過去があるからこそ現在があって、現在があるからこそ未来がある。
『彼岸の花姫』と呼ばれていた過去は、現在のリコリスを構成する大切な一欠片だ。目を瞑って否定したとしても、悠然とそこに在り続けるものだ。
だからこそ、秋弥は現在のリコリスに、閉ざした記憶を取り戻してほしいと願っていた。それに――何よりも秋弥自身が、もう一度『彼岸の花姫』に会いたいと願っていた。ほんの一時にしろ、秋弥は彼女の存在に救われていた。そして彼女と交わした約束も、果たせずに別れてしまったから。
「リコリス……実際のところ、天河を助けられる可能性はあると思うか?」
何気なく呟いた秋弥の問いかけは、障害物のない薄暗闇の廊下で良く響いた。
「難しいと思う」
秋弥が内心で期待している言葉は知っていたが、リコリスは自分の本心を言った。
「あいつはただの重層同位体じゃない。たぶん秋弥様がいままで出会った隣神の中でも最悪の存在だよ」
「最悪、か……」
その言葉が重くのしかかる。聖奈の力の一端はすでに見知っている。瞬く間に学園全域に展開した術式の驚異的な速度と効力は、一線級の封術師が束になって立ち向かっても無力化できたことだろう。
それほどまでの驚異と、自分はこれから相対しようとしている。
それもリコリスまで巻き込んで、自己満足を押し通そうとしているのだから、自殺願望を持っていると思われても何も言い返せない愚か者だ。
「ごめんな、リコリス」
今更謝っても遅かったが、それでも口を突いて出てしまった言葉にリコリスが足を止めた。秋弥も足を止める。するとリコリスが秋弥の正面に回り込んだ。
「……秋弥様の、ばか」
「えっ」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。まさかリコリスからそんな言葉を言われるとは考えてもいなかった。
「リコリスは秋弥様を止めたよ。でも秋弥様は聞かなかった。その秋弥様のお願いを聞いて、秋弥様と一緒にいるって決めたのはリコリスなの。だから、秋弥様は何も悪くない!」
「リコリス……」
「リコリスは秋弥様とずっと一緒にいるから……秋弥様が戦うときにはリコリスも一緒になって戦うから……秋弥様が死ぬときは、リコリスも一緒に死ぬから……ずっと、一緒だから……」
「……」
弱気になっていたのは自分の方だった。リコリスは秋弥に付いていくと決めたときから、覚悟を決めていたのだ。
これからどんな結果が待ち受けていようと、最後まで秋弥とともに在るという覚悟を。
それを否定するような言葉を言ってしまったのは自分だ。失望されても仕方がない。
「……ごめん」
先ほどとは違うニュアンスを込めて、秋弥は謝った。気持ちで負けていたら成せることも成せなくなる。
ここから先は、本当に強い『意』の力をもって立ち向かわなければならない。そうしなければ天河聖奈を助けることも、『マナスの門』を護ることもできない。
もちろん、自らの命と、リコリスの命も、護ることはできない。
「俺も、ちゃんと覚悟を決めたよ」
今更というなら本当に今更だ。ここまできて何を怖じ気づいているんだと自身を鼓舞した。
「……ばか」
リコリスはムッとした表情のまま無言で背を向け、歩き出した。少し遅れて歩き出した秋弥もすぐにリコリスに追いつく。
長く感じた廊下ももうすぐ終わる。きちんと整備されていた廊下の壁面に岩盤が目立ち始めた。
ここまで来ると聖奈の放つ干渉波の圧力をしっかりと感じ取れた。刻々と近づいている。
「いたよ」
干渉波を辿っていたリコリスが聖奈の重層同位体に気づいたのと、秋弥が聖奈を視認したのはほとんど同時だった。振域レベルの判断も難しい混沌とした異層領域をその身に纏いながら、天河聖奈は僅かな光源が照らす地下大空洞の中で不気味に鎮座する大門『マナスの門』を背景にして佇んでいた。
「天河……」
彼女は『マナスの門』を見上げている――すまり、秋弥たちに無防備な背中を晒していた。
こちらの気配には気づいているのだろうか。その様子だけでは安易に判断できない。すでに一度、聖奈への奇襲に失敗しているということを忘れてはならない。
と、秋弥が彼我の距離を詰めるためにもう一歩を踏み出そうとした瞬間、聖奈がくるりと振り返った。踏み出しかけていた足を止めた秋弥と、振り向いた聖奈の視線が交錯した。
「あら?」
天河聖奈は、
「どうして秋弥さんがこの場所にいるのですか?」
そう言って小首を傾げた。
「それを言うならお互い様だろう」
対して、秋弥は呆れるように言い返した。その態度は普段聖奈と接するそれだった。
「お前は、こんなところでいったい何をしているんだ?」
「何って……」
聖奈は言葉に詰まって迷う素振りを見せた。それが演技のように見えないのは、普段の彼女が素直な性格だということを知っているからか。
「大切なお話をしているのですよ」
はにかむように聖奈は答えた。その仕草もまた秋弥の記憶にある聖奈の姿を想起させた。
「秋弥さんは、どうしてこの場所まで来られたのですか?」
今度はこちらが答える番らしい。
「そうだな。俺は、大切な友人を迎えに来たんだ」
「友人……ですか」
秋弥がそう言うと、聖奈が一瞬寂しげな表情を見せた。
「ところで、秋弥さん。あなたは私の力の影響を最も近くで受けたはずなのに、どうやって私の術式を解いたのですか?」
「さぁな」
秋弥は肩を竦める。
「俺への干渉力が足らなかったんだろう」
聖奈は己が手にしている長杖をまじまじと眺めて柳眉を動かした。
「……まだ身体が慣れていないのかな」
小さく呟かれたその声は、秋弥とリコリスには届かなかった。装具を見つめている聖奈に、秋弥はうんざりしたように告げた。
「いい加減、つまらない芝居はやめようか」
「……どういう意味でしょうか?」
長杖から視線を外した聖奈が言う。丁寧な言葉使いも含めて、天河聖奈という人物をよく模倣出来ていると思う。
それでも、秋弥は気づいていた。
「天河聖奈の物真似をやめろと、そう言っているんだよ」
「秋弥さんの仰っている意味がわかりません」
身体の前で揃えた両手に長杖を持った聖奈は、またその言葉を使った。
「だからさ、それだよ」
嫌悪感を抱いているわけでは決してないのだが、聖奈の口からは聞き慣れていないせいで、どうにも違和感を覚えずにいられない。
「天河は俺のことを、下の名前で呼んだことがないんだよ」
そう言った秋弥の方が、目を見張った。
視線を重ねていた聖奈が不思議そうにきょとんとしていたからだ。
「あれ、おかしいな」
と、まるでスイッチでも切り替わったかのように、一瞬で聖奈の口調と雰囲気が変わった。
「"人間は偽装と虚偽と偽善にほかならない。自分自身においても、また他人に対しても"。つまりはそういうことになるのかな」
わけのわからない独り言を呟く聖奈の重層同位体に、秋弥は警戒心をいっそう強めた。
仄かに発光している大門を背にして立つ聖奈の重層同位体は、秋弥の知る言語と同じものを使っている。しかしそれは大きな誤りであり、聖奈の重層同位体が使っている言葉は、いまでは失われた言霊の力――『全統符号』と呼ばれるものなのだとリコリスは言っていた。
その『全統符号』によって、聖奈の重層同位体と秋弥との間には会話が成立していた。
それは"言葉が通じ合っている"ということを意味している。
その単純にして明解な事実が持つ最大級の危険を――"言霊"がもたらす絶対的な力を、秋弥はまだ知らなかった。
「お前は何者だ?」
地上で一度相対したときよりも幾分話が通じそうだと判断した秋弥は、改めて問うた。
「……ふむ、君は何も知らないんだね」
そんな秋弥に対して、聖奈の重層同位体は一言にいくつもの意味を込めた言葉を返した。
「良いよ。私の後を追ってここまで来た褒美に、教えてあげよう」
そして自らの正体を、意外なほどあっさりと秋弥たちに告げた。
「私は"可能性の魔女"――この有機情報体を活動の"器"とした、"大いなる革新"に対抗する『抑止力』のひとつだよ」
当初の予定どおり、第4章は全12話で終わります。
(((投稿は当初の予定どおりでは全然ありませんが……)))
(私の中で)話の整合は取れましたので、出来る限り早めに更新できたらと思います。