八.受信限界
(注:シモネタ内容を含みます)
翌朝。
「いってきま~す」
隣の黒坂家から菜月の声が聞こえる。
それを聞いた俺は慌てて家を飛び出し、菜月の後を追った。
昨日、菜月のじいちゃんからの依頼を受けた後、俺は自分のスマートフォンにあのパンツ図鑑アプリをインストールした。いや、させられたと言った方が正しい。
『まずはお前が使ってみるんじゃ。そうじゃなきゃ、売れんからの』
じいちゃんの言い分も分かるが、こんな得体の知れぬアプリをインストールさせられる身にもなってほしい。
なんて言ったって、まずはアプリのアイコンが怪しい。
だって、じいちゃんの顔写真がそのままアイコンになっているのだから。
――これをクラスの奴らに見られたら、しばらくは笑いの種だぜ。
そしてそれ以上にヤバいのが、アプリ本体のパンツ図鑑。
『使い方は簡単じゃ。この画面を表示させながら菜月に近づくだけでええ。菜月の腕がパンツの近くで振れていれば、その時に発する電波を受信するはずじゃ』
じいちゃんは簡単に言うが、それは菜月のすぐ近くでこのパンツ図鑑を表示させろってことじゃねえか。
菜月にこれが見つかったら即死刑だし、クラスの女子に見つかれば社会的に抹殺されることは間違いない。
幼馴染の俺にとっては、リスクだらけの危険なアプリなのだ。
――でもじいちゃんとの約束もあるし、一回くらいは使ってみるか。
そこで考えたのが、登校時に菜月に近づくという作戦だった。家の近くでなら同じ学校の生徒はいないし、うまくやれば菜月にも見られない。
俺はスマートフォンをポケットに忍ばせ、先を歩く菜月の背後から声を掛けた。
「よっ、菜月」
声を掛けずに背後でコソコソやるという手もあったが、もし見つかった場合は大変危険だ。「そのスマホで何やってんのよ!」としつこく追求されて、中身を菜月に見られることになりかねない。ヤバいことは堂々とやった方がいいのだ。
「いつもこんなに早く登校してるのか?」
俺は必死にさりげなさを装った。
「おっ、真也。今日は早いじゃない。どうしたの?」
「あ、い、いや、しゅ、宿題を学校に忘れちまってな。だから早く行ってやろうと思って」
やっべえ。家を早く出る理由までは考えてなかったよ。全く、あせったぜ。
「アホ」
一言で菜月が俺を突き放す。
なんだよ、その言い草は。
お前のじいちゃんのせいでこんな目に遭って、お前のじいちゃんのためにこんなことをやってんだぞ。
「アホで悪かったな」
悪態をつきながら俺は菜月と並んで道を歩き始める。
――でもなんとか怪しまれなかったようだ。
第一関門クリア。俺はほっと胸をなでおろした。
これからの作戦はこうだ。
まず、今から数分経つと、俺のスマートフォンから呼び出し音が鳴るように設定されている。俺は立ち止まり、メールを受けたフリをして菜月に見られないようにパンツ図鑑アプリを起動させる。そして菜月を先に行かせ、その隙にパンツの種類を探るという手順だ。
これならスマートフォンを使っていても怪しまれることはない。
作戦がうまくいくかどうか、ドキドキしながら俺は菜月の横を歩く。しかし菜月と話す話題が特に無いことに気付いた俺は、早くも後悔し始めた。
――呼び出し音が鳴る時間を、もっと早くしとけばよかったぜ。
家を出る前、スマートフォンが十分後に鳴るように設定した。が、その時間はまだのようだ。無言で歩き続ける時間が、永遠に続くような気がした。
――なんだよこれ。初デートみたいじゃねえかよ。
デートって、したことないけど。
ほら、漫画やアニメでよくあるだろ? 男と女がコチコチになって無言で歩き続けるのって。今の俺はまさにそんな感じだぜ。別にデートじゃないけど……。
その時、菜月の方からいい香りが漂ってきた。どうやらシャンプーの匂いのようだ。
チラリと菜月を見ると、肩くらいの長さの髪がサラサラと風に揺れている。
――コイツの髪型、小学校の頃から変わんねえな。
昔だったら平気で髪をくしゃくしゃってやれたのに、今はそこまで馴れ馴れしくはできそうもない。もしやったら、「時間かけてセットしたのにどうしてくれんのよ!」ってマジギレされそうだし。
そういえば、こうして菜月と学校に通うのはいつ以来だろう?
小学校のころは毎日一緒だった。中学校の頃は――部活の朝練とかあったからな。きっとその頃から、だんだんと別々になってしまったんだろう。
そんなことを考えていると、突然菜月がこちらを向く。
――な、な、なんだ!?
まさか、これからやろうとしている企みがバレた?
しかし、青ざめる俺にかけられた言葉は意外な内容だった。
「あんた最近、頑張ってるじゃない。朝も走ってんでしょ?」
えっ!?
驚いた。
――なんだ、菜月は知っていたのか。
誰にも知られないようにしていたのに、菜月にはバレていた。
それはちょっと嬉しかった。菜月はちゃんと俺のことを見てくれていた。でも、その喜びを素直に表に出すのはすごく気恥ずかしい。
だから、
『何かの見間違いじゃねえのか?』
そんな照れ隠しの言葉を吐こうと思った瞬間――俺のスマートフォンが鳴った。
設定の時間だ。
「ゴメン菜月、メールだ」
俺は立ち止まり、ポケットからスマートフォンを取り出す。そしてメールが届いたフリをした。
「わりぃ、昭彦からだ。ちょっと先に行っててくれ」
俺はそう言いながら、素早くじいちゃんの顔のアイコンを押す。
こうすればスマートフォンの画面を見ていても菜月に怪しまれることはない。もちろん、菜月からは画面が見えないようにしている。
「じゃあね、真也。教室で」
一旦立ち止まった菜月は、また前を向いて歩き始める。すると、腕の振りに合わせてパンツ図鑑アプリが反応し始めた。
ドキドキしながら画面を見ると、パンツリストの水色と白のストライプのパンツのところに丸印が浮き出てきた。
――すげえ、ちゃんと反応してるよ。
俺が驚いたのもつかの間、丸印は次第に消えていく。
――えっ、えっ、もう消えちゃうの……。
前を見ると、菜月はもう三メートルくらい先を歩いていた。
――まさか、三メールくらいで電波が届かなくなるとか……?
試しに俺は、速足で菜月を追いかける。そして菜月が角を曲がって姿が見えなくなった瞬間、気付かれないように足音を消してダッシュした。すると――ストライプのパンツのところに丸印が再び現れる。丸印はすぐに、すうっと消えていった。
――電波の受信限界は三メートルかよ。
これは意外と短い。
つまり、菜月にかなり近づかないとアプリは反応しないってことだ。しかも菜月が腕を振っている時にしか電波は発信されない。
――こんなアプリでも買う奴がいるんだろうか?
俺は不安に駆られながら、再び菜月の後を追いかけた。
「昭彦、ちょっと内緒の相談があるんだが……」
学校に着いた俺は、早速クラスメートの昭彦に打ち明けてみることにした。
「なんだよ、その内緒の話ってのはよ」
昭彦は面倒臭そうに俺の話に耳を傾ける。
まだ朝のホームルームには時間があるから、教室はかなりざわついている。ヤバい話をするなら今のうちだ。
「もしもよ、菜月のパンツの種類が分かるとしたら、お前ならいくら払う?」
俺が昭彦の耳元でそう言うと、昭彦は一瞬驚いたもののすぐに呆れた顔をした。
「なんだよ、そんなに金に困ってるなら貸してやるよ」
ほらみろ。やっぱりクラスメートだって興味は無さそうだぜ、菜月のじいちゃんよ。
「いや、今のところ金には困ってねえ。菜月ってそんなに人気無い? まあまあだって話、誰かから聞いたことがあるけど」
すると昭彦は目を丸くした。
「お前、そんなこと他の奴に言ったら殺されるぜ。菜月ちゃんはクラスの中でも結構人気があんだぞ。どうせお前は家が隣だから干してるパンツとか見放題なんだろ? 全くうらやましい奴だぜ。それともなんだ、パンツの種類が分かるって言うけど、小学生の時のようにお前が菜月ちゃんのスカートをめくってくれんのか?」
俺と菜月と昭彦の三人は小学校からずっと一緒だったりする。そして菜月のスカートをめくるのは、俺の専売特許だった。
しかし昭彦は、その直後に頭を抱える。
「いや、ダメだ。昔はそれで良かったが、今はそれじゃあダメなんだ」
「どうしてダメなんだ?」
何がダメなのかさっぱり分からない。
まあ、ダメじゃないと言われても、今さらスカートめくりをやる気はないけどな。
「お前は知らないのか? 家が隣でも意外と疎いんだな。菜月ちゃんはマニアの間から『重ねばきの菜月』って呼ばれてんだぜ」
重ねばきの菜月?
そんなの初めて聞いたぞ。
「たとえお前がスカートをめくったとしても、そこにはスパッツという固いガードが待ち受けている。菜月ちゃんの生パンを見たことがあるという奴は、小学校の頃の俺達を除くと校内には誰も居ないんだ」
そう言って、昭彦は机に顔を伏せる。
そ、そうなのか?
昭彦を横目に、俺はこっそりポケットからスマートフォンを出し、机の中に隠しながら菜月のパンツ図鑑を確かめる。
昭彦の話を聞きながら俺は思いついた。
彼の話が本当なら、パンツリストと一緒にスパッツのリストもあるはずだと。
今朝はパンツのところしか見ていなかったが、もしかしたらスパッツのリストもあるかもしれない。
俺が図鑑のパンツリストをスクロールすると――案の定、リストの下の方にスパッツのリストも載っていた。
どうやら昭彦の話は本当のようだ。
でも、待てよ。ここにスパッツのリストがあるということは――
「昭彦。もしもの話だけどよ、菜月がスパッツをはいているかどうかも分かるとしたらどうする?」
すると昭彦が勢いよく顔を上げた。
「分かるのか、それが。お前にはわかるのか!?」
げっ、昭彦の目が血走っている。
どうやら、昭彦にとってはものすごく重要な情報らしい。
その情報になら一万円くらいは払いそうな昭彦の勢いに気圧されて、俺はつい誤魔化した。
「い、いや、まだ分からねえ。研究中だ」
何が研究中だか分からないが、昭彦はがっかりと肩を落とす。
「おいおい、無駄に期待させんなよ。それじゃ興味ねえ。決して見れないパンツの種類を知ったって意味がねえからな……」
昭彦は眠たそうにまた机に伏した。
――ゴメン、昭彦。本当は分かるんだよ。スパッツをはいているかどうかが。今朝は余裕が無くて確かめられなかったけど。
俺は、今朝のミッションで、菜月が重ねばきをしているかどうか確かめられなかったことを後悔した。
一時間目の授業が始まると、俺はぼおっと菜月の後姿を眺めていた。
菜月は、通路を挟んで斜め二つ前に座っている。
ピンと背筋を正して授業に集中する姿。椅子の背もたれの下から見える制服のスカートは、綺麗にお尻のラインを描いていた。
――あの中はスパッツなのか……?
俺は机に肘をつきながら、昭彦の話を思い出していた。
『菜月ちゃんの生パンを見たことがあるという奴は、小学校の頃の俺達を除くと校内には誰も居ないんだ』
それを聞いた時はちょっと優越感だった。
小学校の頃は、菜月のパンツをいつでも見れたから。
そして、自分の幼馴染がクラスの中で結構人気があるというのも嬉しかった。
昔のように菜月の髪の毛をくしゃくしゃやれば、クラスの連中に幼馴染ぶりを披露できるんじゃないかとも思った。
しかしそこで、俺は自分の心にブレーキをかける。
――昔はスカートめくりも、髪の毛くしゃくしゃも、簡単にできたんだけどな。
それなのに、今はできなくなってしまった。何故なのかと自分に問いただすと、その答えは簡単だった。
――もう菜月は、昔のような幼馴染じゃなく、一人のクラスメートになっちまったんだ。
昔の菜月は、俺にとって特別な存在だった。
彼女に何をやっても許されるというような雰囲気があった。
しかし、今はただのクラスメートだ。スカートめくりをすればクラスの女子にひんしゅくを買うし、髪の毛をくしゃくしゃすれば本人からクレームを付けられることは間違いない。
――もう菜月は、俺の特別な存在じゃないんだな。
菜月はクラスでも結構人気があるという昭彦の話が、俺をさらに不安にさせる。
――なんだろう、この喪失感は……。
授業を受ける菜月の後姿を眺めていると、なんだか菜月が遠いところに行ってしまったような、そんな感覚がじわりじわりと俺の心の中に広がっていく。
でもよく考えると、それは中学校の頃から進行していた事だった。
ただ単に、俺が今までそれに気付かなかっただけ。
いや、気付いていたけど認めたくないだけだったのかもしれない。
――まだだ。まだ、クラスメートよりも俺が優位に立てるものがあるはずだ。
俺は、自分に残されている菜月に関する何か特別な物はないか、必死に探し始めた。
――スカートめくりも髪の毛くしゃくしゃもダメか。
幼馴染らしい行為がダメとなると、残るのは過去の逸話くらいしかない。
――なにか心温まるストーリーでもあればいいんだが……。
いじめっ子から菜月を守ったとか、公園の砂場でおままごとをしたとか、そんな話がなかったかと必死に思い出そうとする。しかし、真っ先に頭をよぎったのはウンチパンツ事件。菜月との思い出の中で最強最悪ナンバーワンだ。
――ダメだ、ダメだ、ダメだ。あんな話がクラスで広まったら、俺は生きていけなくなってしまう。
他に何かないものだろうか?
散々考えた挙句、俺はあるものに気が付いた。
――そうだ、これがあるじゃないか!
菜月のパンツ図鑑アプリ。
これを持っているのは、世界中でも菜月のじいちゃんと俺だけだ。
そう考えると急に、このアプリを誰にも見せたくなくなった。
――じいちゃん、やっぱりこのアプリは売れそうもないぜ。
幸い、昭彦にはこのアプリのことは知られていない。
それに彼が興味を示しているのは、菜月のパンツの種類が分かるアプリではなく、スパッツをはいているかどうかという情報だけだ。
――そうだ、それなら何もこのアプリをクラスメートに売ることはないじゃないか。
つまりは、俺がこのアプリで仕入れた情報を売ればいいだけの話なのだ。そしてその売り上げは、アプリの売り上げとして菜月のじいちゃんに渡せばよい。これくらいの嘘は許されるだろう。誰も困らないし、皆がハッピーだ。
とりあえず今後の方針が決まり、俺はほっとする。
ぼんやりと斜め前を見ると、菜月の後姿が目に入ってきた。
――それにしても、水色と白の縞々とはな。
俺の視線は、いつのまにか菜月のお尻に向けられていた。
――どうせスカートで隠れてんだから、スパッツの有無なんて関係ねえよな……。
しかし妄想は別だ。
俺はいつのまにか、そこに存在するはずのストライプ模様を頭の中でトレースし始めていた。
一番上が白色のライン、そして水色、白色、水、白――視線が下に降りるにつれて、その長さがだんだんと短くなっていく……。
――うわっ、俺は何を考えてるんだ。今まで菜月に対してそんなことを想像したこともなかったじゃねえか。
それは菜月を幼馴染ではなく、一人の女の子として見てしまった瞬間だった。
――べ、べつに、そんな気があるわけじゃねえよ。
俺は自分に弁明しながら、授業に集中しようとした。が、いつのまにか視線は菜月の後姿に戻っている。
結局俺は、その授業、いやその日はずっと悶々とした気持ちに包まれたまま過ごすことになった。