十五.最後の紅白戦
ピーっと笛が鳴る。
秋の公式戦を翌週に控え、最後の紅白戦が終わった。
この紅白戦のカウント数によっては、俺はレギュラー落ちになるかもしれない。
「最後の紅白戦だから、特別にブリブアシステムのカウント数を発表するぞ」
今日は菜月に変わって、顧問の平田がブリブアシステムの操作を行っていた。
菜月は欠席だ。同じ時間にじいちゃんの告別式をやっているんだからしょうがない。
「十一番、真也。一万カウント」
ほとんどの部員が一万カウント前後の値を出している中で、このカウント数は目立つものではない。
――ふふふふ。思った通りだ……。
しかし今日の俺は余裕だった。
「十七番、亮。一万九百カウント。あれ? 今日は一万一千に届かなかったか」
亮のカウントは、いつも一万一千を越えている。そして、その数値は部員の中でもいつもトップ。しかし今日のカウント数は、一万一千に届かなかったのだ。
亮はカウント数を聞いて、驚いたように俺を見る。
――ほら、俺の言った通りだろ?
俺の予想が、見事に的中した瞬間だった。
カウント数の発表が終わると、平田が亮のところにやって来た。
「おい、亮。どうしたんだ、調子が悪いのか? まあ、一万九百カウントでも部内トップなのは変わりないんだが……」
平田にとって、亮のカウントが一万一千を割ったのが気になるようだ。
そりゃそうだろう、部内で一番運動量のある選手の体調が落ちれば、それは試合の結果に影響する可能性がある。
「先生、これには理由があるんです」
俺は平田に近づいた。
「なんだ、真也。お前には聞いてないぞ」
「いや、先生。関係大有りなんですよ。俺達のパンツの番号を見て下さい」
平田はまず俺のパンツの番号を見て、目を丸くした。
十七番。
これは亮のサッカーパンツだ。
次に亮を方を向き、そちらが俺の十一番であることを確認した。
「お前ら……」
そう、俺と亮はサッカーパンツを事前に交換していたのだ――
「おい、亮。ちょっと頼みたいことがあるんだが……」
練習試合の直前、俺は亮を呼び出した。
「なんですか? 真也先輩。急がないと練習試合が始まっちゃいますよ」
「一瞬で済むからさ、ちょっと来てくれよ」
他の部員に見つからないよう、俺は亮を連れてこっそりと部室に入る。
「お願いだから、パンツを脱いでくれ」
「えっ!?」
俺の依頼に亮は一瞬固まった。
「それって……」
ほんのり頬を赤くする亮。
その様子を見て、紛らわしい言い方をしたことを俺は反省する。
「勘違いすんじゃねえよ。サッカーパンツを俺のと交換するんだよ」
「あっ、そういうことですね……」
変な意味ではないことを理解した亮は、パンツを脱ぎながらその理由を尋ねる。
「どうして交換するんですか?」
「それはな、カウント数の正当性を確認するためだ」
俺は昨日、菜月のお父さんと話していて気がついた。
ブリブアシステムを作ったのは菜月のじいちゃんだ。それなら、俺のカウント数だけ低くすることは簡単なことじゃないかと。
もしそうであれば、どうやったら確認できるだろう?
一晩考えた俺は、ある作戦を思いついたのだ。
誰かとサッカーパンツを交換すればいい。
「俺の予想が正しければ、お前が俺のパンツをはくと一万一千カウントには達しないはずなんだ」
その言葉に亮は驚いた。
「えっ、なんでです?」
「それはな、菜月のじいちゃんが細工をしたんだよ、きっと」
細工の有無を確かめたわけではない。
しかし、カウント数に何か細工がされているとしか俺には思えないのだ。
俺は持久走は好きじゃない。でも本気で走れば、部内で五位以内には必ず入る。
うぬぼれかもしれないが、そんな俺のカウント数がいつも部内で下位だなんて信じられなかった。
「でも、真也先輩。このパンツには番号が書いてあるじゃないですか。交換したらバレちゃいますよ?」
「お前、プレイ中にパンツの番号なんて見てるか?」
ユニフォームの上着には背番号がついている。
プリントの大きさでは、背番号の方が圧倒的に大きい。
パンツについている番号なんて選手は誰も気にしていないし、洗濯の時の識別に過ぎないと思っていた。
「僕たちは見てないかもしれないですけど、先生にはバレちゃうかもしれませんよ?」
「だからお前なんだよ」
亮の番号は十七番で、俺は十一番。
アラビア数字書けば、その形はよく似ている。遠くから見ているだけならわからないだろう。
「それに今日の平田はブリブア係だ」
今日は菜月は居ない。
ブリブアシステムを操作するのは顧問の平田だ。
平田はブリブアの操作に慣れてはいない。きっと試合中は、パソコンにかかりきりになるだろう。それならバレる可能性はぐっと減る。
「だからいいだろ? パンツに何も細工がなければ、カウント数はいつも通りなんだし。練習試合が終わったらちゃんと平田に言うからさ」
「わかりましたよ、先輩。今回だけですよ」
「サンキュー!」
こうして俺と亮はサッカーパンツを交換した。
「オレに内緒で勝手なことをしやがって……」
事情を知った平田は、いらだちを露わにする。
しかし、カウント数が異常な値を示していることを目の当たりにして、その憤りを飲み込んだ。
なぜなら、俺がたたき出したカウント数が一万九百で部内トップ、そして亮のカウント数は一万で、部内の平均だったからだ。
「いつも部内トップの亮が俺のパンツをはいたとたん、こんなことになったんですよ。これは何か仕掛けがあるはずです」
すると亮も助け舟を出してくれる。
「先生、僕だって今日はいつもの通り頑張りました。一万カウントということはないはずです」
それを聞いて、平田もようやく納得してくれた。
「そうだな。ちょっとシステムを見てみよう」
そういえば、じいちゃんは俺の番号を知っていた。
ゴム紐の仕組みを聞きに行った時、じいちゃんは俺のことを背番号で呼んでだからな。それはきっと、システムに細工をしたというシグナルだったんだ。早くそのことに気付くべきだったよ。
平田はブリブアシステムの設定ウインドウを開き、カウント数の計算式を見ている。
「あっ、あった。これだ……」
平田が指差す箇所を見ると、そこには驚愕の事実が表示されていた。
俺のカウント数だけ、○・九○九という係数が掛けられていたのだ。他の部員の係数は皆、一・○○○というのに。
「なんだ、この○・九○九という数字は? 何でこんな中途半端な数字なんだ?」
平田の声で俺はある言葉に思い当たる。
――ひといち倍。
きっと、○・九○九に一・一を掛けると一・○○○になるのだろう。
死してもなお俺を苦しめるとは、あのジジイ、只者じゃない。
「これでわかったでしょ、先生。これはすべて菜月のジジイの仕業なんだ。今までのカウント数をすべて一・一倍して計算し直して下さいよ」
そうだ、今までのカウント数を再計算してもらえれば、俺のカウント数は部員の中でもトップクラスに入るはずだ。そうなればほぼ間違いなくレギュラーに残れるだろう。
平田はうなづきながらも、俺に鋭い視線を向ける。
「わかった。再計算してみよう。しかしだ、真也。今のお前の態度は気に入らない。仮にも今日は源蔵さんの告別式だっていうじゃないか。亡くなった人のことを悪く言うのはやめろ」
余計なお世話だよ、先生。
俺は今朝まで菜月の家に居て、あのジジイとはもう十分にお別れしたんだ。
しかし、平田の口から出て来たのは意外な言葉だった。
「実はな、真也。たとえお前のカウント数が少なくても、先生はお前を特別にレギュラーにするつもりだったんだ。なぜなら、この一ヶ月間でカウント数が一番伸びたのはお前だからな」
えっ、カウント数だけでレギュラーを決めるんじゃなかったのか?
そりゃ、俺もレギュラーを死守しようと必死だったから。カウント数が一番伸びたというのは純粋に嬉しい。
「それに、最近のお前は非常に良い動きをしている。今日もトップ下で何回も得点に絡む動きをした。しかしそれは誰のお陰だと思ってるんだ? 思い出してみろ。ブリブアシステムが導入された時のお前のカウント数はいくつだった?」
ブリブアシステムが導入された時、俺のカウントは確か九千くらいだった。
「そのカウント数を一・一倍してみろ。部員の平均にも達していないぞ」
九千を一・一倍しても、部員の平均の一万カウントには届かない。
「そのお前のカウント数が伸びたのは何故だ? 今日だって、お前が着けた十七番のカウントは部員の中でもトップだった」
カウント数が部で最下位だった俺は、悔しくて悔しくてしょうがなかった。だから朝のランニングを始めたんだ。普段の部活も練習の質を高めるように努力した。それは、あの悔しさがあったからだ。
「源蔵さんは考えたんだろう。一年くらい前にレギュラーを勝ち取ってからからお前は自分の才能に溺れ、努力を怠ってきた。レギュラーをもらえなかった時の悔しさを忘れたお前は、すぐにダメになると予想したんだ」
「…………」
返す言葉がなかった。
確かに一年前の俺は天狗になっていた。同学年の中で最初にレギュラーになれたことを鼻に掛けた。それではダメだと、菜月のじいちゃんは俺に教えてくれたのだ。
「源蔵さんのおかげで、お前は努力することを思い出した。でも、その人はもう居ないんだぞ。その人の恩を忘れるな」
平田の言葉で俺ははっとした。
じいちゃんはもう居ない。
それは頭ではわかっていたけど、まだ心には届いていなかった。
じいちゃんが倒れた時、俺は菜月の傍に居てやることで精一杯だった。ひといち倍の事実を知ってからは、カウント数の謎を解くことで夢中だった。ひといち倍の謎が解けた今、ようやくじいちゃんを失ったことを受け止める番がやってきたのだ。
平田の言葉は俺の心を丸裸にする。じいちゃんが死んだという事実は、ひたひたと俺の心を侵食し始めた。
――菜月のパンツで稼いだってもう意味がないじゃないか。
珍発明だってもう二度と見れなくなった。
それに、それに、ひといち倍の罠をかいくぐってレギュラーを死守したって、褒めてくれる人はもう居ないんだ。
目頭が熱くなった俺は、たまらず下を向く。
「わかりました先生。ランニングで頭を冷やしてきます!」
床に向かって思いっきり叫んだ俺は、部室を飛び出した。
――ありがとう、じいちゃん。こんな俺を、子供の頃からずっと気にかけてくれて。
今まで出ることのなかった涙がポロポロと溢れてくる。
――何で死んじゃったんだよ。菜月のパンツで稼ぐ予定だったんだろ。
走りながら見上げた空には、にじんだ雲が一つ浮かんでいた。
『真ちゃん、ひといち倍を乗り越えてよく頑張ったのう。レギュラー、おめでとうじゃ』
じいちゃんの優しい笑顔が空に浮かぶ。
その雲は、俺のことを褒めてくれているような気がした。
ちょうど今ごろ、じいちゃんは灰になったのだろう。空に還ったじいちゃんは、俺のことを見に来てくれたんだ……。
『これからも、ひといち倍頑張るんじゃよ』
人よりも頑張れ。
一番になりたければ、そんなことは当たり前だ。だから親や先生に言われるとカチンと来る。だって俺は、自分なりに頑張っているのだから。
でもこれからは、頭の中で『ひといち倍』に変換すればいい。
――じいちゃん、すてきな言葉をありがとう。
人に何を言われても、『ひといち倍』で頑張ればいいんだ。そうすれば、いつまでもやり続けられるような気がした。
――うん、じいちゃん。もう俺はレギュラーに慢心しない。さらなる高みを目指して努力を続けるよ。
俺はグラウンドを、涙が枯れるまで何周も、そして何周も走り続けた。